2では呪法セラピーにおける、言葉の持つ「意味」の問題の中の「言葉の持つ力」について書いた。3では同じ問題を、言葉の持つ「意味のありか」という視点から考えてみたい。
で、今回使う曲はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のOP『残酷な天使のテーゼ』だ。なぜ『残テ』なのかについては後ほど。
よく「引き寄せの法則」ということが言われる。非常に表層的なレベルでそれを説明すると、
「世の中のありようは、それを見る人の心のありようを反映している。思考は現実化する。だからポジティヴな思いをもって世の中を見ればポジティヴな現実が引き寄せられ、ネガティヴな思いをもって世の中を見ればネガティヴな現実が引き寄せられる。だからネガティヴな考え方をもってはいけない。ネガティヴな言葉を使ってはいけない。常にポジティヴに考え、ポジティヴな言葉を使いなさい」
というものだ。
確かに2で紹介した「ありがとう」やホ・オポノポノの四つの言葉、あるいは(私は使っていないが)「治る」「回復」も、いずれもポジティヴなニュアンスを持つ言葉であり、だから効くのだと解釈することもできる。だが、それでは呪法セラピーには、少なくとも使い手が意味を知っている言葉でなければならないのだろうか? ここが呪法セラピーの最も不可解な(だから私がとても気に入っている)部分でもある。
『残テ』の1番と2番の間の間奏部分に短いコーラスが入っているのに気づかれただろうか? そこで歌われているのが「ファリア セタメッソ ファリア トゥーセェ」という言葉である。これは私が呪法セラピー用に採集した言葉のリストの中に入っているものの一つだ。この「ファリア…」はヨーロッパの古代言語から採られたらしいが意味は不明(私はケルト民族の祈祷の言葉ではないかと推測する)。それが『残テ』に使われた経緯もわからないが、別のアレンジには出てこないことからすると、レコーディングの最中に誰かがどこかから、こんな言葉を見つけて、「意味はわかんないけど、間奏部分に入れると何かカッコイイぞ」というような理由で使われたのではないかと思われる。
かつては何らかの意味を持って使われていた言葉、しかし今ではその意味が失われてしまった言葉──呪法セラピーでは、そんな言葉をしばしば用いる。もし言葉の持つ「音(おん)」と「意味」の両方が作用しているのだとしたら、使っている私にもわからない「意味」とはどこにあるのだろうか、と考えると、これはもう
「意味」は言葉そのものの中に内包されている
としか言いようがない。そもそも言葉とそれ以外の単なる音(おと)の違いとは、そこに「意味」が含まれているかどうか、なのではないのだろうか。意味を内包した音──それが言葉であり言霊なのだと思う。
「意味」は言葉そのものの中に内包されている──だからこそ1でも述べたことだが、私が般若心経の本質を深いレベルで理解していなくても、その一節を呪法セラピーに使って効果が得られるのはそのためだ、と考えられる。
つまり、呪法セラピーには、少なくとも使い手が意味を知っている言葉でなければならないのだろうか?という問いに対する答はこうなる。
「意味」は言葉そのものの中に内包されているから、呪法セラピーでは使う言葉の「意味」を、受け手はもちろん、使い手も知っている必要はないのである。
今回もありがとうございます。
さて、私としては
>「意味」は言葉そのものの中に内包されている
にも
>呪法セラピーでは使う言葉の「意味」を、受け手はもちろん、使い手も知っている必要はないのである。
にも全く同感なのですが、、、あえてこういうふうにも考えられませんか?というのをいくつか出して、それに対する先生の意見を聞いてみたくなりました。
仮説1.言葉の意味は「この言葉はこういう意味です」と設定した人の魂の中にある。
言葉の意味が失われると言われたのは、その言葉の意味を知っていた人が現時点の地上からいなくなるということですよね?
であれば、もし魂というものがあって死後も魂は存在するならば、その魂がある限りは(今この地上になくても)意味は失われない。
ゆえに今、意味を知らない誰かがその言葉を使っても効果がある。
仮説2.言葉の意味は、その言葉が使われていた空間に記録保持される。
例えば心霊スポットというものがあります。
これなんかは、そういう場所ではこういうことが起きるはずという心霊スポットを訪れた人の感情のセッティングによって、それまで心霊スポットでもなんでもなかった場所(空間)に、「心霊スポット」という言葉の意味づけが記録された例だと思うんですが。
ゆえに、記録された空間がなくならない限り、言葉の意味は失われない。
なので例えば般若心経を唱えていた人がいた土地がまるごと海中に沈んで人が住めなくならない限りは般若心経を判ってない人が唱えても効果は続くと。
仮定に仮定を重ねたような話なので、議論に値せず!と言われてしまえばそれまでのヨタ話かもしれませんが、いかがでしょう?
面白い仮説を提示していただき、ありがとうございます。
仮説1については輪廻転生との関係、仮説2については、その空間はどの範囲までが有効なのか、が問題になりそうです。
呪法セラピーに関しては、脳の言語中枢などとの関係、集合的無意識との関係、いわゆる「祈り」の治療効果との関係、プラシーボの切り分けなど、まだまだ考えなければならないテーマがたくさんありますね。
問題になりそうと言われたあたりを突っ込まれると私の知識と経験ではまだまだ全然証拠がためはできなさそうです。
先生の提示されたテーマについても、どれも難問そうですし、このシリーズも長くなりそうですね!
続きを楽しみにしています。
この話はもちろん、これで終わりではありません。そのうちまた続きを書きます。
意味は解らなくても
使おうとする目的が同じなので
作用するのでは?と
感じました。
ついでに思い出した記憶を
祖母は、孫達がタンコブを作ると
包丁を持ち出し
「アブラウンケン!アブラウンケン!」と
唱え「フー!フー!」と息を強く吹きかけ
包丁の面を当て冷やします。
これを数回繰り返すのですが
日頃、温和な祖母が凄い形相で行う
呪いは、効果覿面で
痛みは吹っ飛んでしまいます。 笑
九州は、結構、呪いが残っていて
干した洗濯物をそのまま着る時は
一折りでもして「畳んだ!」と唱えてから
着たり
服を着せたまま、裁縫をする場合には
これもまた、
一折りでもして「脱いだ!」と唱えます。
腑に落ちないのが1つ
嫁の実家では、寝る前にトイレに行って
「トイレの神様、もう来ません!」と
言わせるのですが・・・・
これが私にはゆるせないのです!
まあ、鈍い嫁には何も感じないのでしょうが
「また来ます!」なら露知らず
「もう来ません!」とはど~ゆ~こっちゃ~!
ってな感じです。
話がそれましたが、何となく。
呪法セラピーについては(というか、呪法セラピーについて「も」)まだわからないことが山積みなので、これからまたいろいろ調べていきます。
ただ、その人のボディマインドのどこかが必要としている(何かの呪文のような)言葉、というのは確かにあるようです。
九州は面白いですねー。私は群馬の片田舎の出身ですが、あまりそういったことは聞いたことがありません(「チチンプイプイ」みたいなものはありましたが)。
夢野久作の『ドグラ・マグラ』という小説のタイトルも、もしかしたらそういった風土と関係があるのかも。ちなみに久作は福岡の生まれで本名は杉山直樹。父の茂丸は頭山満とも親交があった、西日本の右翼の巨頭です。