今朝のNHK『あさイチ』の特集は「女らしさを押しつけないで!」だった。
近年は「女らしく」とか「男らしく」とか、あるいは「○○家の人間らしく」とかetc.、とにかく「○○らしさ」が忌み嫌われる時代である。で、そんな「○○らしさ」を忌み嫌う人たちが向かうのは、「自分らしく生きようよ」というところである。
どうにもよくわからない。「女らしさ」とか「男らしさ」とか「○○家の人間らしさ」とかは全て周りから押しつけられた実体のない幻想で、「自分らしさ」とは誇るべきリアルだという考え方が。
私は子供がいないので今の教育現場のことはマスコミ報道などを通じてしか知らないが、今の学校はかつての画一的な教育を否定して、生徒の個性を最大限に伸ばすことを大きな柱としているようだ。もし私が今、中高生なら、そうした方針には諸手を挙げて賛成だったかもしれない。けれど、もう半世紀を越えて生きてきた身としては、むしろそうした方針は全面的に否定したいと思う。教師は生徒の個性など無視し圧殺しようとする側でいい。
そもそも周りが気遣って伸ばしてやらなければ伸びてこないような個性とは何だろう? 個性とはどんな状況にあっても滲み出てきてしまうものなのだ。周りがどんなに否定し押し潰そうとしても、いや、それこそ本人の好むと好まざるとに関わらず、勝手に発現し、生き方を左右してしまうものが、個性あるいは「その人らしさ」というものだろう。だから個性とは、「自分らしさ」とは、ほとんどの場合「これが俺だ。俺の個性だヽ( ´¬`)ノ ワ~イ !!」などというものではなくて、自分自身がそれを無視しようとし、否定し、拒絶し、を繰り返しながら、時間をかけて受け入れられるようになっていくものだ。
場合によっては、それを受け入れることで(一時的にせよ)周りを不幸にし、自分も窮地に追い込むかもしれない。しかし、たとえ周囲を不幸のどん底にたたき落としても、あるいは自分を破滅させるかもしれないとしても、それを受け入れることを選ぶことしかできないからそれを選ぶ──それが「自分らしく生きる」ということであって、「自分らしく生きる私は幸せいっぱ~い♫」ということではないように私は思うのだ。
もちろん「自分らしく生きることで私は解放された」、「私は自分らしく幸せに生きている」ということを表明している人はたくさんいる。が、「自分らしく生きることで周りを不幸にした」、「私は破滅した」という話は、たとえあったとしてもほとんど表には出ないだろうとを考えると、自分らしく生きることを選んだ人たちが皆、解放されて幸せに暮らしているかはわからない。また本人は幸せだと感じていても、本人の評価と周りの評価が大きくズレているかもしれない(本人がどう感じているかが重要で、周りの評価などどうでもいい、という考え方もあるが)。
また原点に戻って言えば、「自分らしさ」以外の「○○らしさ」とは全て押しつけであり枷なのだろうか。そして仮に押しつけであり枷だとしても、それは振り払わなければならないものなのか。
狂言師の野村萬斎がかつて新聞のコラムにだったと思うが、「自分は(狂言師として)型にはめられたがゆえに自由になれた」という趣旨のことを書いていた。野村萬斎の家は代々続く狂言師の家系で、彼もまだ幼い頃から祖父を師匠として狂言を叩き込まれた。有無も言わさず狂言の型を叩き込まれた当時のことを、彼は「僕は狂言サイボーグ」と語っているが、そうやって型にはめられた彼は今、狂言のみならず現代劇まで含めたあらゆるジャンルの芝居を自由に演じることができる。「型にはめられたがゆえに自由だ」というのは禅の公案のようだが、紛れもない事実なのだ。
結局、「○○らしさ」をひたすら捨てて、その行き着く先が「自分らしさ」という「○○らしさ」であるなら、人はどこまで行っても不自由でしかなくて、その不自由さを脱ぎ捨てた果てに自由があるのではなく、覚悟を持って不自由であることを受け入れた先にしか自由はないのだろう。
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