量子論から導かれるミクロの世界の現象に「状態の重ね合わせ」というものがある。量子レベルの物質は複数の状態が重なり合っていて、それが「観測(あるいは観察)」という行為によって1つに定まる、というものだ。
この「状態の重ね合わせ」を物理学的に示すものに、量子が「観測」次第で粒子としても波としても存在する、という2重スリット実験がある(粒子と波とでは物理学的な性質が全く異なるので、1つの物質がその2つの性質を兼ね備えて存在することはできない)。
また「シュレーディンガーの猫」として知られる有名な思考実験がある。箱の中に1匹の猫を入れ、その中に猫がちょうど50%の確率で死ぬ仕掛けを施すと、量子論的には箱を開けて中の猫の様子を「観測」しない限り、箱の中の猫は生きている状態と死んでいる状態が50%ずつ重なり合って存在しているのだ(ちなみにエルヴィン・シュレーディンガーがこの思考実験を作ったのは「状態の重ね合わせ」という量子論の考え方を否定するためであったのだが、皮肉なことに現在は「状態の重ね合わせ」を分かりやすく説明するための例として使われている)。
「シュレーディンガーの猫」の話はともかく2重スリット実験などによって、量子レベルでは複数の状態が重なり合っていて、それが「観測」によって1つに確定するというのは物理学的に確認されたことであり、既にその原理を応用した量子コンピュータのプロトタイプも作られている。
だが、物理学的にいまだ解決できていない問題がある。「観測(観察)」するとは何か、が物理学的に定義できてないことである。
そもそも「観測」するとは何だろう? 何をすれば「観測」したと言えるのか? そして、それは人間だけが可能なのか? 人間以外でも「観測」することが可能だとすると、どこまでが「観測」可能な主体として認められるのか? 猿は? 犬は? カエルは? ミドリムシやアメーバでも「観測」することができるのか?(彼らも外部環境を認識しながら生きている。)「観測」することができるのは人間だけだ、とした場合、では人間なら誰でも「観測」者として認められるのか? 赤ん坊は? 認知症なら? ただその場にいるだけで全く「観測」する気のない人は?──「観測」ということを明確にしようとすると、途端にこういった問題にぶち当たることになる。
そんなことを考えていたら、ふと解決策が閃いた。数学ではよく使われる定義の仕方のテクニックだが、それをそのまま量子論に応用すればいいのだ。そこで私が思いついた「観測(観察)」の定義は以下のようなものだった。
「状態の重ね合わせ」を起こしているものに対し、その状態を1つに確定させる行為を「観測(観察)」と呼ぶ。
人によってはこの定義を見て「肩すかしを食らった」と思うかもしれない。だが、この定義は強力だ。なぜなら上に挙げた問いがこれ1つで全て解決してしまうのだから。
この定義では、それが「観測(観察)」かどうかは行為の結果だけで決まり、誰が(何が)それを行うか、どう行うかは問題にされない。「状態を1つに確定させる」という条件を満たしさえすれば、それは「観測(観察)」になる。そして状態が重なり合ったままか1つに確定したかは物理学的に判定可能だから、その行為が「観測(観察)」だったかどうかは物理学的に一意に定まるのである。
量子論的(あるいは物理学的)に「観測(観察)」を定義するとしたら、こういう形にせざるを得ないのではないだろうか。
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