お茶の水の明治大学10号館だか14号館だか(あるいはその両方だか)に隣接するスペースに設営された紅テントで、唐十郎(から じゅうろう)率いる劇団、唐組の2019年秋公演『ビニールの城』を見てきた。
この『ビニールの城』は1985年、石橋蓮司、緑魔子が主宰する劇団、第七病棟の浅草公演のために唐十郎が書き下ろしたもので、この時の舞台は「80年代小劇場の伝説」とされている。そのことを後になって知った私は、ずっとこの作品を見たいと思っていた。それが今回、(大ケガでもう唐が新作を書けなくなったことで)唐組が進めている80年代唐十郎作品の舞台化の一環として、本家本元である?唐組での初演となったのだ。
唐作品について短くまとめるのは至難の業だが、『ビニールの城』とは端的に言えば「関係性についての物語」だ。人と人との関係性、人と物との関係性──そういった諸々のものが歪み、捻れ、崩れ、溶解していく話。
そして、そうした関係性を攪乱させるものとして使われているのがビニールである。我々はビニールという皮膜を通して中のものを見ることができ、それに触れることもできる。けれども実は我々が触れているのは、その中のものではなくビニールという皮膜に過ぎない。触れ(ることができ)ているつもりで実は触れてはいない、というこの奇怪な関係性が、物語の中に通奏低音のように響いている。
加えて、唐作品ではお馴染みの、登場人物たちの特異な思考と行動が物語の異様さに拍車をかける。ちょっと以下に登場人物たちの関係性を図解を交えて示してみよう。
壊れたコンビ
朝顔(腹話術師)───────── 夕顔(腹話術人形で現在行方不明)
↑ ↑
|執着 |同一視
| |
モモ(朝顔の元隣人)─────── 夕一(名前が夕顔に似たモモの夫)
形だけの夫婦
腹話術師の朝顔は、自分自身の言葉と人形の言葉の区別がつかなくなり一度は捨てた(よそに預けた)夕顔を今も探し続けている。かつて朝顔とアパートで隣同士だったモモは、今は夕一という名前の男と結婚しているが、2人の間に夫婦の関係はない。なぜならモモが夕一と結婚したのは、朝顔にとって忘れられない人形と同じ名前の男と一緒になることで、朝顔の体の半分と暮らしていきたかったから。そして夕一はそんな妻、モモの告白を聞いてしまい、自分と消えた腹話術人形の夕顔を同一視し始める。
モモが朝顔にそこまで執着する理由や、そこにビニールがどう関わってくるのかについてはネタバレになるので述べないが、この3人と1体の関係だけ見ても、そこから立ち上がってくる物語が普通では済まないことは分かってもらえるだろう。
ところで、唐組で共同演出を務める久保井研は公演パンフレットの中で、今回のテント公演という形の『ビニールの城』は、
ビニールという可視的ではあるが中身に触れられない膜、そして現実世界から虚構空間を切り取る紅い膜
という2重の膜による舞台であると書いている。
2重膜で思い出すのは身体の膜系だ。身体の膜系は2重膜という構造を持っている。そういう意味ではテント公演で『ビニールの城』を見ることは、2重膜に包まれた我々が身体外部で2重膜を追体験する行為、とも言えるのかもしれない。
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