小さい頃から天才になりたかった。しかし、なれなかった。
さすがにこの年になると、もう自分は天才にはなれないことは十分理解できているが、それでも心の中には、天才になれなかったことの痛みがずっとあり続けている。
そんな中、アニメ『Fate Extra Last Encore』のこのシーンで、ちょっとだけ救われたような気がした。
一応この作品について簡単に述べると、これは〈Fate〉シリーズの1つで、「月の聖杯戦争」を描いたものだ。〈Fate〉とは、那須きのこのシナリオで作られたPCゲーム『Fate/stay night』を原典とする一連のシリーズで、基本設定は魔術師(マスター)と彼/彼女が召喚した英霊(サーヴァント)がいくつかの陣営に分かれて、万能の願望機〈聖杯〉を奪い合う戦いを行うというもの。
最近、公式がこれまでアニメ化されたものを中心に〈Fate〉シリーズをまとめた動画をYouTubeにアップしたので、〈Fate〉を知らない人はまずそれを見てもらおう。
で、話を『Fate Extra Last Encore』に戻す。私は詳しいことは知らないが、どうやら奈須きのこの暴走によってアニメ化されたらしいのだが、元々構想していた話のボリュームに比べて尺が短すぎて(それに予算も足りなすぎて、という話もある)、よく分からない作品になってしまった(ゲームをやっていて設定資料を読み込んでいる人には分かるらしいが、それではもはや独立したアニメ作品とは言えない)。ゆえに〈Fate〉シリーズのファンからの評価はメッチャ低い。
とはいえ腐っても奈須きのこ(かどうかは分からないが)、所々セリフには光るものがあって、今回紹介するのもその1つ。主人公でマスターの岸浪ハクノが自分の正体に気づいて絶望する中、サーヴァントであるネロ・クラウディウス(歴代のローマ皇帝の中でも暴君で知られたあのネロだ。歴史上は男だが、物語では女の姿で登場する)が語りかけるシーンだ。
ここのネロの語りは上の公式の動画の中にもちょっとだけ出てくるが、彼女は思っても見ない形で「天才」を定義する。奈須きのこが暴走(?)してまで『Fate Extra』を作ろうとした、その動機の1つがこのセリフに込められている、と私は思う。
公式の作った動画と違っていつ消されるか分からないので、以下にセリフの再録もつけておこう。
天才とは優れた才能、能力を持つ者を言うのではない。──いや、当然その辺りは欲しいが、才能があるだけではただの才人だ。敵を斬ることに特化したこれ(=剣)と変わらない。
では天才とは何か? それは自分と他人の違いを、明確に知る者だ。
人間は互いの能力を比べながら、根底では「自分たちは同じ」と依存してしまう。だが、残念ながらそれはない。人間は誰であれ違うのだ。
自分にできることは決して他人には叶えてもらえぬこと、そして他人にできることは決して自分には届かぬこと──天才とは、そこを残酷に分かつ者を言う。
余は万能の天才だが、余の仕事と同じものを他人に期待することはなかった。同時に、どれほどの才に欠けた者であろうと、その者を真似ることはできないと知っていた。
人間は皆、最終的に自分と他人は同じものだと考えたがる。なぜなら、それはとても素晴らしいことだからだ。満ち足りた暖かなものだからだ。皆がわかり合い、価値観を共有し、手を取り合えるのなら、それが最良の営みだと夢に描くからだ。
だが、現実はそうではない。それぞれに役割があり、それぞれに欠点がある。他人を信じるのはよいことだ。だがその前に、自分と他人は違うものであることを覚えてほしい。
無理に大きなことをせずともよい。そなたはそなたのできることを、余は余のできることを。それはこの世界で、おのおのにしかできぬことなのだ。
さあ諸君、天才になろう。
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