以前「量子論と『観測』の問題を巡って」という記事で、まだ物理学的に定義できていない「観測」ということについて自分なりの案を述べたが、それとは別に量子論と「観測」については、ずっと前から疑問に思って考えていることがある。ただ量子論関係の教養書(専門書ではない。物理の専門書は読めないので)には私の知る限り、そうしたことに言及したものはなく、だから私が知らないいだけで量子論的には解決済みなんだろうと勝手に思っていた。
ところが少し前、この問題について量子論学者(だったと思う)が面白い仮説を述べているというネット記事を見つけて、やっぱりまだ分かってなかったんだ∑(゚ロ゚〃)ということを知った。
それはどういう問題かというと…
まずは「シュレーディンガーの猫」の思考実験を思い出してほしい(この「猫」の思考実験の内容については、例えば過去記事「量子論が語るもの 第1部」を参照されたい)。この思考実験では、箱を開ける前の猫は50%生きている状態と50%死んでいる状態が重なり合っている。
さて、箱に猫を入れて十分な時間がたった頃、私は誰か(ここではX氏と呼ぼう)が箱を開けて中を見ている=「観測」しているのを目撃したとする(ただし、私自身は箱の中がどうなっているかまでは見えなかった)。
量子論的にはX氏が中の様子を「観測」したことで状態の重ね合わせが消え、猫の状態は1つに確定したことになる。この時、中を見ていない=「観測」していない私にとっても猫の状態は1つに確定した、と言えるのか?
…というものである。
もし誰かが「観測」すれば、客観的な意味で(つまり、直接「観測」していない全ての人にとっても)状態が確定するとしてみる。ところが、それでも自分では「観測」していない私は、箱の中の猫がどうなっているかを100%の正しさで語ることができない。状態は1つに確定しているのに、それはなぜだろう?
逆に、もし「観測」によって状態が確定するのが「観測」した当人に限られるとするならば、その事象の状態の重ね合わせが消えて状態が確定したかどうかは人によって異なることになる。それは本人が直接知覚した=「観測」したもの以外に世界には確定的なものは何もない、つまり世界には客観的と言えるものは何もない、ということを意味するが、それは本当なのか?(ちなみにネット記事で見た量子論学者(?)の仮説というのは、こういうものだ。)
このうち前者に対しては、「確定したはずの猫の状態を100%の正しさで語れないのは、単に私がそれを知らないからであって、それと量子論の『状態の重ね合わせ』云々を混同して語るな」という意見もあるだろう。ならば、最初のシチュエーションでは私はX氏が箱の中を覗いていたのを直接見て知っていたが、次は私を含めて誰も知らないところでX氏がこっそり箱の中を見ていた場合を考えてみよう。
この場合も量子論的には猫の状態は確定している。しかし今度は、X氏を除いて誰も箱の中の猫の状態を知らないだけでなく、「X氏によって猫の状態が確定した」ことも知らない。だとしたら「今、猫は箱の中で50%生きている状態と50%死んでいる状態が重なり合っているんだから、私が猫の状態を100%の正しさで語れないのは当然」と言えるのだろうか?
そもそも「観測」とは「知る」ための行為であり、「知る」ことと「観測」とは切り離せない関係にある。けれどもまた「知る」ことと「観測」することは同じではない。例えば、まだ箱の中の状態を見ていない私にX氏が話しかけてきて、「俺、実は箱の中を見ちまったんだ。猫は死んでたぜ」と言ったとしたら?
ここで注意しなければならないのは、私にとっての事実は「X氏がそのように言った」ということだけで、X氏が私に本当のことを話したという保証はどこにもない(箱の中を見たというのも、猫が死んでいたというのも)。
しかし私は早とちりして「X氏に聞いて自分は猫の状態を知った」と思い込むこともあるだろう(この記事のテーマとは違うので深くは追求しないが、量子論では観測者の意識が観測結果に影響する、ということも述べている)。その場合、私は何を「知っている」と言えるのだろう?
結局、誰かが「観測」すれば客観的な意味で状態は1つに確定する、としたところで、その状態を私が100%の確かさで語ることができるのは、私自身が直接「観測」した時だけだ、ということになる。とするとそれは、「観測」で状態が確定するのは「観測」した当人にとってだけだ、というのと何が違うのか?ということになる。
──と明確な結論の出ない話を長々と書いてきてしまったが、なぜ私がこんなことにこだわっているのかというと、キネシオロジーで過去のことをどれだけ正しく調べられるのか、ということにつながってくるからだ。
キネシオロジーのある流派では「キネシオロジーで未来のことを調べてはいけない(調べても意味がない、だったかな?)」と言っている。その理由は「未来のことは不確定だから」。それに対して私の知る限り、キネシオロジーで過去のことを調べるのを禁じたり制限しているという話は聞いたことがない。それは多分「過去のことは既に確定しているから」だと思われる。しかし上で考察したように、
事象が何らかの形で確定していようがいまいが、過去のことも本人が直接確認=観測していなければ確率的にしか分からない。
そして「確率的にしか分からない」というのは未来の事象も同じであり、「未来のことは不確定だからキネシオロジーでは分からない」とするなら、過去のこともほとんどは「確率的にしか分からない」のだから未来の場合と同じ、ということになりはしないか? そこが私にはどうにも分からないのだ。
で結局のところ、現時点での私の結論はこうなっている(もちろんキネシオロジーとしてオーソライズされたものではない)。
キネシオロジーは過去、現在、未来いずれの事象に対しても制限なく使うことができる。ただし、そこで得られた結果には必ず不確実な部分がついてまわる(つまり100%の正しさは保証されない)。不確実な部分がないのは本人が直接体験=「観測」したものだけであり、それについてはそもそもキネシオロジーを使う必要がないからだ。
なお、今回は過去のことを調べる話を書いたが、未来の方の話は過去記事「キネシオロジーで未来のことを聞く 1」などを参照されたい(今のところ「5」まである(≧ω≦)b)。
キネシオロジーとは施術者個人の知の範囲を検索するものではなく、もっと大きな集合知から検索を行うシステムだった(本文ではこの点が根本的に誤っていた)。別の言葉で言えば、キネシオロジーが扱う範囲は「私」が知っていることではなく、「私たち」が知っていることである(インターネットをイメージすると理解しやすいと思う)。
そして過去の事象は、それが完全なフェイクでない限り「私たち」の誰かが直接体験=「観測」したものだ。それに対して未来の事象は、「私たち」の誰もまだ直接体験=「観測」していないものだと言える(これを少し数学的に言い直すと、「私たち」の誰かが直接体験=「観測」した事象のことを過去、「私たち」の誰もまだ直接体験=「観測」していない事象のことを未来と定義する、ということになるだろうか)。
この過去と未来における事象の非対称性によって、キネシオロジーで過去の出来事を調べる場合と未来の出来事を調べる場合では、その結果が(正確さにおいて)大きく異なることになるのだ。
ついでなのでもう一言述べると、相対論も含めて物理学的には過去と未来は現在を起点に対称で、両者に差はないはずだが、それは我々の時間についての実感と合わない。この矛盾を解く鍵が、私は上に述べた過去と未来の定義の中にあるように思う。