治療家でありながら基礎医学の勉強も治療法の勉強もせず、数学ばかりやっている(そうでない時はミステリを読んでいる)。どう考えても正常な判断能力をもってやっているとは思えない。
なぜこんなことをやっているのか?──それについては、これまでも考えてきて、いくつかの答も得た。
いわく、非理のところへ思い切りウィングを伸ばすためには、一方でバランスを取るために理の方向にも徹底してウィングを伸ばさなければならない。太極を取り込むためには対極を捉えられなければならない。数学はそのための手段である。
いわく、生物の解剖(=構造)、生理(=機能)は物理と化学という基板の上にあり、その物理と化学は数学という基板の上に載っている。数学を学ぶことで解剖学、生理学では決して届かない、もっと深いところまで手を伸ばすことができるようになるはずだ。
──それらはもっともだと思うし、その立場に今も変わりはない。
しかし、何か違うのだ。そういう論理的根拠のようなものとは違う、もっとドロドロとした根源的な理由があるはずだ、ということをずっと思っていた。
例えば、他人にはない圧倒的な何かを持っていないと人とは向き合えない、という他人に対する恐怖があり、その「圧倒的な何か」を数学に求めたのではないか?
例えば、「お前らは気づいてないだろうが、俺だけは知っている」というような、ある種の優越感がほしい、他人を見下したいという気持ちの発露として、無理矢理数学をやっているのではないか?(これは単に形を変えた前者に過ぎないのだが)
治療院はヒマだし、かといってマーケティングなどをやろうという意欲もないので、せめてもの時間つぶしにと数学をやっているだけなのか?
まあ時間もあるので、それについてフォーカシング的なこと(要するに「なんちゃってフォーカシング」)を試みてみた。そこでわかったことは、
他の誰でもない自分自身に、「お前は(まだ)生きていていい」ということを言ってほしかった
ということだった。数学書を読んで、わからなかった概念がわかるようになる、ページがまた1つ進む、ということが私にとっての存在承認、というか生存承認=「自分が(まだ)生きていていいという許可」になっているようだ。
他人に対する歪んだ優越感と、それと背中合わせの劣等感から数学をやって来たと思ってたけど、それだけがモチベーションだとするのは腑に落ちなかったのだが、あ~なるほどねー。時に気が狂いそうになりながらも数学を続けているのは、自分自身からの生存承認がほしかったからなのか。こりゃあ数学から離れられないわけだ。
それにしても、別の誰か(例えば両親)から「お前はそのままでいていいよ」と言ってほしかった、といった例は昔出たセミナーなどで知っているが、他の誰でもない自分自身からの生存承認がほしかった、というのはいかにも俺らしくて笑える。
この記事は自分のために書いたもので、それにつき合ってくれてありがとう。せっかくなので、アニメ『亜人』第2クールのOP、angela×flipSideの「僕は僕であって」でも聴いてってよ(50秒ほどの短いMusic Clipだから)。
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