その人は、左の殿部から大腿後面の痛みを訴えてウチに来た。それ自体は、よくある坐骨神経痛様症状。しかし、患者からこれまでの経緯を聴くと、同じような部分に痛みが現れたのはこれで3度目で、今回が最も重いのだという。ウチは保険の効かない自由診療の治療院だから、もとよりそんなに簡単に治ってしまう人などまず来ないのだが、こういうケースはひときわ難しい。簡単には治らない、と言うより、「体が治ることを拒否している」ように感じられるからだ。
その人が言うには、「同じような部分に最初に痛みを感じたのは1年くらい前で、その時は痛み止めを飲んで1日安静にしていたら治ってしまった。それからしばらくして、同じところに1回目より強い痛みが現れた。この時は安静にしていても治らなかったので、近くの接骨院に行って、2、3回もんでもらって治した。それが1カ月ほど前から、今度は真っ直ぐ立てないほど強い痛みが現れ、今度は痛み止めを飲んで安静にしても、もんでもらっても、全く効かない。鍼のパルス通電を受けたら、余計痛みがひどくなってしまった」と。
病気や何らかの症状は、体がその人に向けて発している何らかのメッセージあるいは警告である…という考え方がある。そして、どうもその警告は3度発信されるようなのだ。1度目の警告は、さりげなくやや遠慮がちに発信される。だが、それを受け取った人がその警告の意味を理解しなかったり適切に対応しないと、今度はやや強い2度目の警告が出される。それでも、その警告が無視されたと見なされると、体はその人に対して3度目の警告を発するのだが、この3度目の警告は前の2回に比べて、かなり激烈なものになることが多い。
そしてこの3度目に現れた病気や症状は、簡単には治らない。それは、体としては当然のこと。もし、この3度目の警告を簡単に取り下げてしまっては、その人にとって警告の意味を成さなくなってしまうからだ。この先、何度警告を発しても、「あぁ、またいつものアレか。どうせすぐ治るさ」と、軽く受け流されてしまうだろう。その先に待っている決定的な破局を回避するために、体も必死なのだ。
こういうケースでは、「その警告(症状)を通じて体が本当に訴えたかったこと」は何なのかを見抜くことが、何より重要になる。この人の場合、それは少なくとも、痛み止めを飲んで寝ていることや、接骨院でもんでもらうことではなかったのは明らかだ。こんな時、本当に優れた治療家なら、そんな「体が本当の訴えたかったこと」を素早く見抜き、適切な治療とアドバイスができるのだろうが、到底その域には達していない私は、ない知恵を絞り、試行錯誤するしかない。
この人に対する治療では、内臓では副腎の弱化、経絡では腎経上のツボの反応があり、強いストレスなどで体の基本的なエネルギー・レベルが低下していることがわかり、それを治療するとともに、それだけでは症状そのものに大きな変化が見られないため、あまり本意ではなかったが、暫定的な措置として、症状の出ている部位への傍神経刺(注)などによる局所治療のウェートを増やした。
(注)1寸8分から2寸(1寸=約3cm)の鍼を神経の傍らにまで刺入し、神経に対する働きかけを行う、鍼の治療テクニックの1つ。
そ結果、治療後は痛みはあるものの真っ直ぐ立てるようになり、一時は本人も「峠は越えたようだ」と話していたが、決定的な症状の改善には至らず、3回目の治療の後、少し様子を見たいということで、ウチの治療は打ち切りとなった。
多分、私はまだ「その人の体が本当に望んでいたこと」を探り出すには至らなかったのだろう。もう少し時間があれば、それができたのかどうか…本当のところはわからない。ただ、(負け惜しみとも開き直りとも受け取られることを覚悟で、あえて書けば)私はその人を治せなかったことで、治療家としての責任を果たしたのだとも思う。
世の中には、症状を取るのが抜群にうまい治療家もいるらしい。「どんな痛みでも一発で取る」という治療の話も、あれこれ耳に入ってくる。しかし、その治療が単に「体が発した警報ランプの電源を強制的に切って、それを鳴らなくさせる」ことだとしたら、それは症状そのものには何の変化もない「効果のない治療」よりずっと危険なことだと、私は思うのだ。なぜなら、その治療を受けて「症状が消えた」患者は、その症状が警告であったこと、体が何かを必死で訴えていたことに気づく機会が奪われてしまったのだから。そして、その先に待っているのは、「仕事に行くにも支障をきたすほどの、つらい腰下肢痛」程度ではすまない何かだ。
くれぐれも、体からの3度目の警告を受けないように、ご注意いただきたい。もし不幸にも、既に3度目の警告を受け取ってしまったなら、痛み止めやマッサージに逃げる前に、一度自分の体と真剣に向き合うことを考えるべきだろう。そのことを、体も望んでいる
その人が言うには、「同じような部分に最初に痛みを感じたのは1年くらい前で、その時は痛み止めを飲んで1日安静にしていたら治ってしまった。それからしばらくして、同じところに1回目より強い痛みが現れた。この時は安静にしていても治らなかったので、近くの接骨院に行って、2、3回もんでもらって治した。それが1カ月ほど前から、今度は真っ直ぐ立てないほど強い痛みが現れ、今度は痛み止めを飲んで安静にしても、もんでもらっても、全く効かない。鍼のパルス通電を受けたら、余計痛みがひどくなってしまった」と。
病気や何らかの症状は、体がその人に向けて発している何らかのメッセージあるいは警告である…という考え方がある。そして、どうもその警告は3度発信されるようなのだ。1度目の警告は、さりげなくやや遠慮がちに発信される。だが、それを受け取った人がその警告の意味を理解しなかったり適切に対応しないと、今度はやや強い2度目の警告が出される。それでも、その警告が無視されたと見なされると、体はその人に対して3度目の警告を発するのだが、この3度目の警告は前の2回に比べて、かなり激烈なものになることが多い。
そしてこの3度目に現れた病気や症状は、簡単には治らない。それは、体としては当然のこと。もし、この3度目の警告を簡単に取り下げてしまっては、その人にとって警告の意味を成さなくなってしまうからだ。この先、何度警告を発しても、「あぁ、またいつものアレか。どうせすぐ治るさ」と、軽く受け流されてしまうだろう。その先に待っている決定的な破局を回避するために、体も必死なのだ。
こういうケースでは、「その警告(症状)を通じて体が本当に訴えたかったこと」は何なのかを見抜くことが、何より重要になる。この人の場合、それは少なくとも、痛み止めを飲んで寝ていることや、接骨院でもんでもらうことではなかったのは明らかだ。こんな時、本当に優れた治療家なら、そんな「体が本当の訴えたかったこと」を素早く見抜き、適切な治療とアドバイスができるのだろうが、到底その域には達していない私は、ない知恵を絞り、試行錯誤するしかない。
この人に対する治療では、内臓では副腎の弱化、経絡では腎経上のツボの反応があり、強いストレスなどで体の基本的なエネルギー・レベルが低下していることがわかり、それを治療するとともに、それだけでは症状そのものに大きな変化が見られないため、あまり本意ではなかったが、暫定的な措置として、症状の出ている部位への傍神経刺(注)などによる局所治療のウェートを増やした。
(注)1寸8分から2寸(1寸=約3cm)の鍼を神経の傍らにまで刺入し、神経に対する働きかけを行う、鍼の治療テクニックの1つ。
そ結果、治療後は痛みはあるものの真っ直ぐ立てるようになり、一時は本人も「峠は越えたようだ」と話していたが、決定的な症状の改善には至らず、3回目の治療の後、少し様子を見たいということで、ウチの治療は打ち切りとなった。
多分、私はまだ「その人の体が本当に望んでいたこと」を探り出すには至らなかったのだろう。もう少し時間があれば、それができたのかどうか…本当のところはわからない。ただ、(負け惜しみとも開き直りとも受け取られることを覚悟で、あえて書けば)私はその人を治せなかったことで、治療家としての責任を果たしたのだとも思う。
世の中には、症状を取るのが抜群にうまい治療家もいるらしい。「どんな痛みでも一発で取る」という治療の話も、あれこれ耳に入ってくる。しかし、その治療が単に「体が発した警報ランプの電源を強制的に切って、それを鳴らなくさせる」ことだとしたら、それは症状そのものには何の変化もない「効果のない治療」よりずっと危険なことだと、私は思うのだ。なぜなら、その治療を受けて「症状が消えた」患者は、その症状が警告であったこと、体が何かを必死で訴えていたことに気づく機会が奪われてしまったのだから。そして、その先に待っているのは、「仕事に行くにも支障をきたすほどの、つらい腰下肢痛」程度ではすまない何かだ。
くれぐれも、体からの3度目の警告を受けないように、ご注意いただきたい。もし不幸にも、既に3度目の警告を受け取ってしまったなら、痛み止めやマッサージに逃げる前に、一度自分の体と真剣に向き合うことを考えるべきだろう。そのことを、体も望んでいる
今通っているトコロで、正に今回書かれているコトと同じコトを言われているので、思わず書き込んでしまいました。
自分が気付くべき『身体が伝えたい訴え』とはいったいなんなのだろう。。。そういった中でコチラを訪問するようになり、以前書かれていた一連のお話を興味深く読ませて戴いていたのでした。
フォーカシングなどの方法で内観するコトにより、自分と向き合うというコトが(体の方で『何か』を発してくれるというコトが)本当に可能なのだろうか、と知りたくもありちょっと怖くもありました。
その方のようにちっとも上手くいかないで、それだけにたまに思い出したようにやるくらいでしかないのですが、痛みがあるコトを認めてあげるだけで、そこにある『感じ』がふっと息をついたように変化するのは少し感じられます、面白いですよね。
やはり『声』に変わるものとして発しているのですね(*^ー^*)
何とか体からの声に耳を傾けようと苦闘しています。症状とその原因との関係というのは本当に不可解で、治療というのは一種の「謎解き」だと、いつも感じます。
フォーカシングも、体と対話する方法として「使える」ものの一つだと思います(私はスキルが低いままですが(-_-;;)。