生きている意味はあるのか?
というお悩みはどんな世代でもある。
つい最近も目にした。
私自身も過去に何度も思ったことある。
ここまで生きてきて思うのは
意味などない!
ということ。
悪い趣旨ではない。
NO評価ということである。
普通に発生して普通に消滅するというだけで、他の植物や動物や惑星や物理法則とそんなに変わらないと思っている。
意味を持たせたいのは
単に人間という種族だから。
とりあえず発生したもんで
なんらかの寿命来たら消滅するだけ。
万物は流転する。
なんらかの意味や目的ややりがいや信じるものがなければこの浮世じゃやってらんねぇよ!
っていう人もいるだろうし
ただ他の動物と変わらずにただ生きて死んでくなんて下等生物のやることじゃん、そんなの耐えられない
みたいな高尚な人もいるだろうし
ただ生きてても良いけど色々意味や目的ややりがいや信じるものがあったほうが自分の人生が楽しいよね
という人もいるだろう。
そういうわけで
人の状況や能力なんかは不平等で当然なので、それらが違う人の意見を聞くのは大事かもしれないけど、
生きている意味があるのか?なんて考え出すときは大概体調や心の状態が良くない時だったりするから、そういうときに考えてもまず良い案は浮かばない。
美味しいものがあれば食べて
食べられない時は薬でも飲んで
とりあえず寝てしまいなさい!
と思う。
健康が第一。
(痛み止めが効かないとか麻酔うってもらえない病のときは眠れないから辛いよね…😢)
最近見た文で
根本の性格を変えるのは難しいが、
クサクサしているときに割と有効なのは
日常の小さな幸せを見つけること
と
意識的に周りの人のいいところを見つけること
であると読んだ。
小さな幸せはなんでも良いらしい。
これは行動として有効そうなので、頭においておこう。
あと、最近見たそろそろ死ぬかもしれないと思った人(ご存命です)の思ったことまとめをよんで〇〇しておけばよかった!って思うのはホントなんだな〜と感心した。
1人が良いか2人が良いか多くが良いか
誰と一緒に過ごすのか
どこに住むのか
何の仕事をするのかしないのか
どうしているのが自分の幸せか。
選べる自由が少しでもあるのなら選ぶべきだというのは私のモットーであり持論。
選ばなかったら選べば良かったになるのだろうが、選んで失敗したら失敗したけど自分で選んだんだし残念だけど後悔はない、になりそうだから。
いまのとこ、私自身は心のままに生きているので選べば良かった的後悔はなさそう。
ただ、その方のまとめを読んでて少し驚いたことは「私に何もしてくれなかった人間が私の死によって棚ぼた式に良い思いをするのが悔しい」と書いてあったこと。
人間だからこそ起こる感情なんだろうけど、ごめん、あんまりその悔しさの表出は今が幸せであるようには見えないや。
ぜんぜん潔白な身の上というわけではなくて、私は親の関係で怨嗟を撒き散らしたことは沢山あるしや撒き散らされたことも幾度もある。結果絶縁している。
結局のところ、周りの人間や自分自身を見ていると、ホモ・サピエンスで日本という領域のとある1コロニー内での心地よい資源や生物環境の争いに過ぎず、怨嗟が発生するのはもう仕方のないこと。
プチ生存競争ってやつ。発生したら必然的に起こるやつ。
うっかり1個体が死んだ時、周りにいる者に資源が渡るのも生物界ではある意味仕方のないこと。
ま、私は私でまーまー幸せだったよ、
あんた善人じゃないけどラッキーだったわね、グッドラック
くらいの感覚で死んでいきたい。
棚ぼたになって良かったね、ラッキーだったね、と思えるくらいには恨みが遠くなるように心がけよう。
遠ければ、その人が怨嗟を持ち続けるかどうかは記憶力が良いか、よっぽど怨嗟が好きで抱き続けたい場合だけだから。
自分自身が欠けないように、ほどほどな感じで生きていこう。