もう例のごとくですが半年くらいぶりの投稿になります、2年目の中川です。
台風の後はお隣の南相馬で大変お世話になったりといろいろありましたが、とうとう私の初期臨床研修は残り約1か月となりました。研修医にはレポートという義務があり、それに追われること6週間ほど・・・どうにか終わる見通しが立ってきました。何といっても2020年1月の段階でのこり20枚以上(全体で32枚)という状態だったので・・・私の1つ下の学年まではレポートが義務ですので、ぜひとも後輩たちは計画的に・・・とはいってもみんなどちらかというと最後に慌てるタイプに見えますので、私と同じ道を歩む気がしますね、あらかじめドンマイとでも声をかけておきましょう(*´Д`)
まぁ2年下の後輩たちからはレポートの義務がなくなるようですので、やっと無理に学生の延長のようにレポートを求めてもしょうがないということにどこかの誰かさんが気づいたのですかね。良いことです。
ということでレポートの終わりも見えてきたので、もうそろそろ私もこの2年間を振り返る時期が近付いてきたのだと感じます。この2年間は当初から思っていた通り、医者としての基礎を身に着けるための期間だったと思います。私の同級生でもブランド病院に行った人たち、周囲から見たら少し変わった選択をした人たち、大学に残った人たち含め色々な選択をした人たちがいましたが、では良い研修とは何だったのでしょうか。結論から言うと私が研修医として過ごした公立相馬、南相馬市立、福島医大以外の情報は結局のところ入ってこない(他の病院の研修医と交流しても内情はよくわからない)ので他院との比較はあまり意味はなさない(どちらかというとできない)と思います。結局終着点で自分次第が納得できるかどうかじゃないかと改めて思います。私も自分にできたこと、できなかったこと、思った通りだったこと、そうでなかったこと数え上げればきりがありません。けれどもどこに行こうと最後に納得できるなら良い研修だったんじゃないでしょうか。終わってみればそうとしか言いようがありません。
私には同級生がおりませんでした。つまり同級生と切磋琢磨ということは物理的に不可能でした。結局のところ自分が今どのような立ち位置で、何が明らかに足りないのかを考えるための客観的な対象がおらず、手探りで足りないものを外に求めに行くしかありませんでした。10回ほど学会や講習会等に参加させていただき外の空気も吸わせていただきました。これからもこの制度は続いていきますので、どこかに必ず1人研修医が誕生することもあると思います。ですが同級生がいないところに行くならばそれ相応の覚悟を持つ必要があります。果たしてライバルがいない環境下で自分に厳しく、易きに流れずにいられるか、その覚悟が自分にあるのか自問自答した上で進まなければなりません。こればかりは本当に自分次第だと思います。自分がどこまでできるのか自分に問いただしながら過ごすことは結構大変です。
・・・なんだか堅苦しい文章になりましたね。反省です。
けど本当に色んな人と接することは、そこで「縁」を持つことは、すごく大事だと思います。同級生はもちろん大事だと思いますが、この土地の諸先輩方、他の土地で研鑽を積んでいる方々、自分の信念で突き進んでいる方々、地に根を生やし歩んでいる方々・・・いろいろな方々にこの2年間で出会いました。これは私が生まれ育った土地とは違う環境に行くと決めた結果得た、最大の成果です。決して色褪せない大きな財産です。
まだ最後の投稿にはしないつもりですので、今回はこの辺で。
後輩のKが写真のネタは私以上に持ってきてくれるはずですので、私の今回の1枚は軽めに鹿狼山からの1枚にしておきます。私の今年の初詣は鹿狼山でした。「日本一早い山開き」がキャッチコピーです。皆様ぜひお立ち寄りください(^^♪