池田 悟≪作曲家≫のArabesque

・・・深くしなやかに・・・(音源リンクしてます)

カルテットは軽くない

2006-10-27 | 作曲/小編成

これだ!と直感したオリジナルな原理に出会った時、人は色んな条件で立証してみたくなるものだ。
右手のピアノ曲「Planetarium」が、自分にとってその原理であるのなら―思い違いかも知れない、などと躊躇していては何一つ前に進まぬ―ウィンド・オーケストラとして大編成の形で発表させて頂ける事になったものの、それだけで大人しく収まるはずは無い。
元々「Planetarium」の冒頭は、ヴァイオリンのハーモニックスで着想したのではなかったか。であるなら、その純正な姿で定着させておきたい。万一、自分が明日死んでしまったら、その楽想は永久に残らない。誰にも伝わらない。また、この2年ほど未発表の曲も含め、ピアノやウィンド・オケに時間を割いた。そろそろ弦の曲を書きたい…などの思いから、この曲は、さらに弦楽四重奏曲へ変容することとなった。

毎日、作曲の傍ら1日1枚くらいのペースでカルテットのCDを新たに聴いている。とても買ってはいられないので、図書館で借りてっと。
モーツァルト、ベートーヴェン、ショスタコーヴィチ、バルトーク、ヤナーチェク、バーバー、アイヴス、リーム、シュニトケ、コリリャーノ、ハイドン、ブルックナー(五重奏)、ドビュッシー、ラヴェル、シベリウス、ヴェルディ、シェーンベルク…。

もっとも、右手だけとは言え、ピアノの音域の端から端まで駆使した曲の特性は、ウィンド・オーケストラでこそ全楽器の音域を合わせてもピアノの音域には満たない、という弱点をカバー出来るであろうものの、弦楽四重奏ではさすがに不可能な部分が残る。そこは新たに「弦楽四重奏バージョン」として書き下ろすことになるが、それがまた楽しい。
焼き直しばかりでは創作の喜びが失われ、他方常にゼロから作曲し直すのでは「様々な編成における同一原理の立証」とはならない。

「和声」の勉強も、藝大の受験生を指導して以来7年振りくらいに再開した。同じ4声体だから、という訳ではなく、藝大の院を目指す学生の指導に備えてのこと。
ピアノを練習する前に、ピアノの前で課題を解き、2、3日かけて「なかなかの出来になった」と思えるようになったら、出題者による実施を見る。
打ちのめされる。もちろん、そのショックがあるからこそ勉強するのだが。
「和声」と言っても、響きだけではなく、リズムが大事なんだな―柔らかく呼応する繋留―。
和声にせよ、弦楽四重奏にせよ、4声体は本当に奥が深い。アンサンブルの基本であり、到達点。

…今、和声で絞られていた学生の頃のパワーで日々精進しているだろうか。毎晩飲むようになったのは、いつからだろう。
自分より遥かに優秀な人が世界中、星の数ほどいるのに、自分も同じように飲んでいたら、その差はますます開いていくばかりだ。
死ぬ時、毎日飲んだことを幸せに思うか、それとも飲むのを我慢し、作曲に頑張ったことを幸せに思うか?
こんな気になるのも、虚飾の余地の無いギリギリのアンサンブルの、カルテットを作曲しているからかも知れない。
いい機会だ。先週から飲む日を減らした…と言うか、飲める日を決めた―そう考える方が辛くない。すると朝の空気が旨い。体が軽い。カルテットは、軽くない。

右手のピアノ曲が絢爛たるウィンド・オケになり、対照的に墨絵のような弦楽四重奏になったら、この先、弦楽オーケストラや、管弦楽になる可能性も広がってくる。
「右手のピアノ・コンチェルト」なんかも、将来あるかな?
(写真:池袋の行き付けの店)



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