ピアノは幼児期から習っていたが、音大ピアノ科への進学は断念し、高校時代は静大の受験生という事で「ピアノは二の次、学力重視」と静大の教授から言われ、甘いレッスンしか受けていなかった。
静大に入学するとピアノのレッスンは殆どサボり、藝大の大学院生になった時…。
坪田昭三先生の「ピアノ伴奏法」の授業を受講していて、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタのヴァイオリン・パートを後藤龍伸君に弾いてもらいながら自分もピアノの指導を受けた。
その授業後、教室から教官室まで坪田先生とご一緒に歩きながら、自分は静大出身だという事や、作曲の先生からピアノのレッスンを受けるよう言われている事などをお話し、先生のレッスンを受けさせて頂く事になった。
レッスンにはクレメンティの「グラドゥス・アド・パルナッスム」、バッハの「平均律第1巻 cis-moll」、バルトークの「ミクロコスモス」を持って行った。
「ミクロコスモス」については、さらっと「別の曲を弾いたら?」と言われただけだったが、先の2曲で先生から言われたことは「鍵盤を叩くな」。
気持ちが盛り上がってきたなと思うと、即座に「叩くな」「手首を揺らすな」。叩かずに弾けば「萎縮してしまった」と言われる。
「平均律」のフーガの一節を右手だけ弾いて下さった先生の指の柔軟で強いこと!ピアノを弾くことは、まるで競歩だと思った。
気持ちを込め、力をぶつけない…小学生の時にも覚えがある。
ある晩、両親に囲まれ、書道の特訓を受けた。
父は「もっと気持ちを強く込めろ」と再三言う。単に「強く」なら分かるが「気持ちを強く」というのが分からず、自棄になって力任せに乱暴な線を引いた。
「バカもん!」と雷が落ち、代償に特訓は「さあ、もう良いでしょう」と母が言ってくれる午前まで続いた。
ピアノは鍵盤を叩いて弾いてはいけない…ピアノを良いものに替えると、改めて実感する。
粗悪なピアノは響きが平板。叩いて弾いても叩かないで弾いても音に殆ど差は無い。しかし良質のピアノはわずかなタッチの違いも音色に出る。
その違いをいざ表現として活かすためには、必要としない時は封印しなければならない。意味も無くふらふら変ってしまったら、酔っぱらいと同じ。
シンプルな表現が最も難しい。指揮もそう、料理も。一切変化しない、極めて均質な弾き方が出来ることが、表現の豊かさの前提条件となる。
プロこそ、アマチュア芸術家がバカにするような地道な基礎練習を密かに続ける。
(写真:2006年春、池袋の教室の窓から)
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