2018年1月2日
「別れの歌」
わたしが死んだなら
バルコンをあけておいて欲しい
(バルコンから、わたしはそれを眺めていよう)
刈り入れびとが小麦を刈っている。
(バルコンから、わたしはそれを感じていよう)
わたしが死んだなら
バルコンをあけておいて欲しい!
(ロルカ「歌集・1927年」より)
スペイン内戦初期1936年に38歳でフランコ将軍が率いるファランヘ党に銃殺されたアンダルシアの詩人フェデリーコ・ガルシア・ロルカの詩の一編だ。
ロルカの代表作はアンダルシアのジプシーを詠った「ジプシー歌集」が代表作だと言われる。ロルカはグラナダの出身であった。
アンダルシア地方のグラナダは、レコンキスタ運動と称するキリスト教徒がイスラム支配からイベリア半島国土を奪回する戦いで、15世紀にフェルナンド王とイザベル女王(コロンブスのパトロンでもある)がレコンキスタ運動の仕上げとして最後に陥落させた800年及ぶイスラム文化支配の首都である。
アンダルシアの語源は、5世紀にこの地を征服した「ヴァンダル人」でイスラム人に「アル・アンダルス」と呼ばれていたことから来る。グラナダはアラビア文化の香りを今に伝えていると言われる。
さて、上述のガルシア・ロルカなのだが、わたしは大阪にいた20代の頃へミングウエイがスペイン内戦に義勇軍として加わった当時の体験を元にした「誰がために鐘は鳴る」の延線上で偶然彼の名前を知り、しばらくは興味を持ってロルカについての本を読み漁ったことがある。
下の本は当時わたしが読んだ本の一冊。1973年出版のものだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/05/c1a2f5e1f3dd178a5f5fd38ca530a18e.jpg)
ロルカは劇作家でもあり、彼の「血の婚礼」「イェルマ」「ベルナルダ・アルバの家」は映画化もされ彼の三大悲劇作品と言われる。ピカソや詩人のジャン・コクトーたちとも交友があり、銃殺のニュースは当時のフランス文壇にショックを与え、コクトーはロルカに捧げる詩を書いている。
歌え フェデリーコ
君の大きく開いた傷口
その傷口の廃墟の上に
真赤な星
傷口の最後の詩の赤いインクで
歌え フェデリーコ
グラナダ郊外でレジスタンスと共に銃殺されたロルカがどこに埋められたかは不明である。彼の逮捕銃殺の原因にはいくつかの説があるが、今回はそれを置くとして、これらの本を読んで20代だった当事のわたしが感じたことは単純に、独裁主義、ファシストは人間性を無視して怖いという思いだ。以来わたしは右も左も行き過ぎた思想には組したくないと思っている。どちらも行き過ぎると似たような状況を招くと想像するからだ。
こんな昔のことを思い出しながら、書棚から「ロルカ・スペインの死」を取りだした本をパラパラめくっていると、一枚の古い新聞記事の切抜きがページの間からハラリと落ちた。
広げてみると、故国スペインを捨ててフランスへ亡命し後、プエルトリコに住んで、1973年に亡くなったカタルニア出身の世界的なチェロ奏者「パブロ・カザルス」の死亡記事だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/61/2b0a6d9ec0e05561afd1cb54dcb0431c.jpg)
今再びスペインからの独立が持ち上がってきバルセロナを州都にするカタルニア地方だが、ここもまた、スペインの中では独特の文化を持ち、フランコの独裁政権下で抵抗してきた州である。カタルニアではスペイン語と異なる「カタルニア語」が公用語だ。
子どもたちが小学生のころ、わたしたちは家族旅行で車でバルセロナからピレネーを超え、南フランス地方を少し回ったことがあるが、宿泊したカタルニア地方のホテルや観光案内所には、カタルニア語のカードがあちこちに置かれていたものだ。
カタルニア出身には、建築家アントニオ・ガウディ、サルバドール・ダリがいるが、パブロ・カザルスもカタルニア出身だ。彼はスペイン内戦時に亡命し、フランコ将軍の政権をヨーロッパが認めたことに抗議して演奏活動停止を宣言する。
後、彼が94歳で故郷に思いを託して「鳥の歌」を弾いたときに、「わたしの故郷カタルニアの鳥は、ピースピースと鳴くのです」と語り「鳥の歌」のエピソードは伝説的となる。
イギリス人のジョージ・オーエルは、ヘミングウェイ同様、内戦時に人民戦線派に組し、その体験談を「カタルニア賛歌」として本を書いている。この本も持っていたのだが、どこかへしまった。そうそう、ついでに画家のパブロ・ピカソはロルカと同じアンダルシアの出身だ。
さて、少しお堅い話で始まりましたが、この20代の頃からわたしはスペイン首都のマドリッドよりもコルドバやグラナダをいつの日か訪れてみたいとずっと夢見ていたのです。
それが、今日こうして隣の国ポルトガルに住むことになろうとは、当時は思いもしなかったのだが、縁とは不思議なものです。
で、すぐ隣に住んでいながら、1979年にポルトに住み着いたわたしがやっとロルカのアンダルシアを旅したのは2010年になってからです。それまでずっと足を向けなかったのには事情があったのでして。
気を持たせるようですが、その事情とやらについては明日への続きということで。
「別れの歌」
わたしが死んだなら
バルコンをあけておいて欲しい
(バルコンから、わたしはそれを眺めていよう)
刈り入れびとが小麦を刈っている。
(バルコンから、わたしはそれを感じていよう)
わたしが死んだなら
バルコンをあけておいて欲しい!
(ロルカ「歌集・1927年」より)
スペイン内戦初期1936年に38歳でフランコ将軍が率いるファランヘ党に銃殺されたアンダルシアの詩人フェデリーコ・ガルシア・ロルカの詩の一編だ。
ロルカの代表作はアンダルシアのジプシーを詠った「ジプシー歌集」が代表作だと言われる。ロルカはグラナダの出身であった。
アンダルシア地方のグラナダは、レコンキスタ運動と称するキリスト教徒がイスラム支配からイベリア半島国土を奪回する戦いで、15世紀にフェルナンド王とイザベル女王(コロンブスのパトロンでもある)がレコンキスタ運動の仕上げとして最後に陥落させた800年及ぶイスラム文化支配の首都である。
アンダルシアの語源は、5世紀にこの地を征服した「ヴァンダル人」でイスラム人に「アル・アンダルス」と呼ばれていたことから来る。グラナダはアラビア文化の香りを今に伝えていると言われる。
さて、上述のガルシア・ロルカなのだが、わたしは大阪にいた20代の頃へミングウエイがスペイン内戦に義勇軍として加わった当時の体験を元にした「誰がために鐘は鳴る」の延線上で偶然彼の名前を知り、しばらくは興味を持ってロルカについての本を読み漁ったことがある。
下の本は当時わたしが読んだ本の一冊。1973年出版のものだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/05/c1a2f5e1f3dd178a5f5fd38ca530a18e.jpg)
ロルカは劇作家でもあり、彼の「血の婚礼」「イェルマ」「ベルナルダ・アルバの家」は映画化もされ彼の三大悲劇作品と言われる。ピカソや詩人のジャン・コクトーたちとも交友があり、銃殺のニュースは当時のフランス文壇にショックを与え、コクトーはロルカに捧げる詩を書いている。
歌え フェデリーコ
君の大きく開いた傷口
その傷口の廃墟の上に
真赤な星
傷口の最後の詩の赤いインクで
歌え フェデリーコ
グラナダ郊外でレジスタンスと共に銃殺されたロルカがどこに埋められたかは不明である。彼の逮捕銃殺の原因にはいくつかの説があるが、今回はそれを置くとして、これらの本を読んで20代だった当事のわたしが感じたことは単純に、独裁主義、ファシストは人間性を無視して怖いという思いだ。以来わたしは右も左も行き過ぎた思想には組したくないと思っている。どちらも行き過ぎると似たような状況を招くと想像するからだ。
こんな昔のことを思い出しながら、書棚から「ロルカ・スペインの死」を取りだした本をパラパラめくっていると、一枚の古い新聞記事の切抜きがページの間からハラリと落ちた。
広げてみると、故国スペインを捨ててフランスへ亡命し後、プエルトリコに住んで、1973年に亡くなったカタルニア出身の世界的なチェロ奏者「パブロ・カザルス」の死亡記事だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/61/2b0a6d9ec0e05561afd1cb54dcb0431c.jpg)
今再びスペインからの独立が持ち上がってきバルセロナを州都にするカタルニア地方だが、ここもまた、スペインの中では独特の文化を持ち、フランコの独裁政権下で抵抗してきた州である。カタルニアではスペイン語と異なる「カタルニア語」が公用語だ。
子どもたちが小学生のころ、わたしたちは家族旅行で車でバルセロナからピレネーを超え、南フランス地方を少し回ったことがあるが、宿泊したカタルニア地方のホテルや観光案内所には、カタルニア語のカードがあちこちに置かれていたものだ。
カタルニア出身には、建築家アントニオ・ガウディ、サルバドール・ダリがいるが、パブロ・カザルスもカタルニア出身だ。彼はスペイン内戦時に亡命し、フランコ将軍の政権をヨーロッパが認めたことに抗議して演奏活動停止を宣言する。
後、彼が94歳で故郷に思いを託して「鳥の歌」を弾いたときに、「わたしの故郷カタルニアの鳥は、ピースピースと鳴くのです」と語り「鳥の歌」のエピソードは伝説的となる。
イギリス人のジョージ・オーエルは、ヘミングウェイ同様、内戦時に人民戦線派に組し、その体験談を「カタルニア賛歌」として本を書いている。この本も持っていたのだが、どこかへしまった。そうそう、ついでに画家のパブロ・ピカソはロルカと同じアンダルシアの出身だ。
さて、少しお堅い話で始まりましたが、この20代の頃からわたしはスペイン首都のマドリッドよりもコルドバやグラナダをいつの日か訪れてみたいとずっと夢見ていたのです。
それが、今日こうして隣の国ポルトガルに住むことになろうとは、当時は思いもしなかったのだが、縁とは不思議なものです。
で、すぐ隣に住んでいながら、1979年にポルトに住み着いたわたしがやっとロルカのアンダルシアを旅したのは2010年になってからです。それまでずっと足を向けなかったのには事情があったのでして。
気を持たせるようですが、その事情とやらについては明日への続きということで。