エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

駅逓所

2021-04-10 08:22:37 | “アイヌ文化”関連
駅逓所(えきていしょ)を、知っている人は少ないと思います。 何故なら、北海道開拓時代に建てられた役人専用の ‟謎めいた” 宿泊所だからです。 150年前 明治政府は、アイヌ民族の地:蝦夷(現・北海道)を植民地化したものの「広い土地を一括統治するのは難しい」 そこで 200軒ほど道内に拠点を設け、役人の宿泊や事務・会議に活用したのが “駅逓所” です。 当時 陸路の移動手段は、徒歩ないし馬(馬車)に限られていた為、人と馬の休憩場として “”・ 郵便物の取り扱い所として “” が、名称の由来の様です。 大時代の関所に似ています。 また、役場や警察署も兼ねていたのですから、行政機関の縮図と言えます。 そんな駅逓所は、昭和 21年に役目を終えて廃止されています。

◎道央・岩見沢市に保存されている「幌向駅逓所」


駅逓所は、50年ほど前まで我が町にもありました。 役目が終わっても建物は残り、そこに 高齢の元所長夫婦が住んでいました。 偶々 我が家と親しく、祖母のお供で良く遊びに行ったものです。 子供心に、不思議な建物と感じていました。 「エキテイの佐藤さん」と呼んでいたので「エキテイ」とは何か? 祖母に聞いても、訳の分からない説明しか返って来ませんでした。 当然です。 子供に “駅逓所” が、簡単に理解できる筈がありません。
 
駅逓所の離れには、書生(奉公人)の住居があって数名が業務の手伝いをしていたそうです。 また、大きな “馬屋” や “倉庫” もありました。 当地の駅逓所は、玄関を開けると広い土間と大きな下駄箱、すぐ横に事務所と壁側に大きな本棚、居間に向かう長い廊下の間に五室程の寝室、大きな 風呂 と トイレ も異様に見えたものです。 老夫婦が住むには大き過ぎる建物でしたが、子供の私が走り回る(遊ぶ)のには最適な建物でした。 現在はありません。 三階建ての公営住宅が建設され、昔の面影は “一切合切” 消えてなくなりました。

現在 残っている駅逓所は、道内に8か所(札幌近郊の “北海道開拓の村” に一軒)保存されています。

思うに 日本は 北海道開拓において、自然を愛し・自然と共存してきたアイヌ人から土地を奪い 都合のいい開拓を 続けて来たのです。 アイヌ民族が、快く思う道理がありません。(土地も尊厳も、明治政府に奪われてしまった) 昨今の 沖縄県の米軍基地問題で、県民と国が対立するケースと似ています。 しかし アイヌ問題は、沖縄県の数倍深刻です。 対立する “いとま” も与えず、軽視・無視され来たのが、アイヌ排除の紛れもない歴史です。 北海道に残ったアイヌ民族は、国勢調査によると僅か 1,3000人。 同化政策(土人保護法)により、アイヌ民族の誇りを 捨てざるを得なかったのです。
 
私は 批判する立場ではありませんが、侵略の歴史にモラルも正義もないと思います。 ただ言える事は、アメリカ合衆国における先住民、“インデアン”・“イヌイット”  オーストラリアの “アボリジニ” に対する人権政策を、日本は少しでも参考にし 実行する必要があったのです。 今更、道南の白老町に「国立アイヌ民族博物館・ウポポイを建てて挙げます」「些少ですが 補助金を考えています」では、何の謝罪にも和解にもなりません。 ウポポイが 北海道観光目的なら、なおさらアイヌ人の心を逆撫でします!

「シャクシャイン」の 檄(げき)

2021-04-08 08:14:05 | “アイヌ文化”関連
北海道に住む日本人として、アイヌ文化を多少なり理解しなければ、堂々と暮らして行けないと思う昨今です。 なぜ 明治政府は、易々とアイヌ民族の土地 蝦夷(えぞ)を、日本の領土に組み入れる事が出来たのか? 教科書 や 新聞 に載らない ‟日本近代史のタブー” として、目をつむる必要があるのか? 「知らない方がいい」 そんな 発想で、我が “北海道150年史” は 何一つ語れません!

蝦夷地と日本の北端・津軽(現・青森県)は、海峡を隔てて 約 30kmと近い。 確かに、縄文時代 から小舟による行き来はありました。 道南の発掘で、アイヌの住居跡から 数十隻の丸太船が見付かっています。 昆布・サケ・マス と、米 や 酒 などの物々交換は、遥か昔から東北との間であった筈です。 その証として、日本犬がアイヌ民族に渡り、優秀な番犬(アイヌ犬)に育て今に至っています。 その時代は、友好な関係が続いていたと想像します。 しかし、ある時期から利害関係が生まれた。 商売上手な和人(日本人)が、一方的に富(儲け)を独占し始めた? それは、北前船 の出現です! 船主の商人は莫大な儲けを、アイヌ民族は細やかな潤いを、不平等な ‟物々交換” が横行した様です? 

江戸時代(1660年代)、“アイヌ人” と交易は 確かにありました。 「蠣崎」なる商人が 現・函館の周辺で、アイヌ人から仕入れた「昆布」「ニシン」(粕は肥料)「サケ・マス」「砂鉄」を「米」「酒」と交換する ‟物々交換” が行われて来ました。 徳川幕府は 「蠣崎」の実績を認め、函館近郊で独占して “商い” ができる権限として「松前藩」を名乗る事を許した様です。 しかし、商人が勝手に占領する 他人の土地です。 アイヌ民族が、簡単に「松前藩」を認める道理はありません。 1669年松前藩を追い払え」と、蝦夷南部(現・静内町)の勇敢な首長「シャクシャイン」が 反乱を起こしました。 それが「シャクシャイン の檄です。 記録では、19隻の交易船(北前船)が焼かれ、273名が殺された記録があります。 それを知った幕府は、東北諸藩を招集し蝦夷地に攻め入り、槍と弓矢で戦うアイヌ軍を火器(鉄砲・大砲)で撃破したのが、武力行使の始まりです!  

◎ 道南・静内町の “シャクシャイン像”


その頃 松前藩は、いずれ蝦夷地を統治できると考えた筈です。 しかし 徳川幕府は、松前藩のアイヌ人に対する悪行を 知っていたのです。 商人「蠣崎」の遣り方は、詐欺 や 盗み に等しいと! 例え話ですが「ヒグマの毛皮 3枚と、酒 3升を交換しましょう」と持ち掛け 毛皮を数えます。 「毛皮始め・1枚・2枚・3枚・毛皮終わり」 結果的に、毛皮 5枚と酒 3升の商談です。 実際は、50万円と 3千円相当の物々交換で、商売は “ぼろ儲け” と言う事です。 そんな 冗談(じょうだん)の様な 商談(しょうだん)が、アイヌ人の逆鱗に触れたと思います。 アイヌ人は、和人(日本人)を「ずるい人」と、信用していなかったのです。 その後 幕府の命令で、あくどい「蠣崎」の排除を行っています。 案外、アイヌ民族の心情を考慮した 徳川幕府の良心的な判断だと思います! 当時 ‟蝦夷地”(アイヌ民族)を、 ‟交易国” と認めていた?

徳川幕府は 松前藩を残しながらも、蝦夷地の侵略には消極的だった様です。 何故かと言うと、植民地支配はリスクがあると、長崎で国交があったヨーロッパ諸国(ドイツ・オランダ・スペイン等)の提言により、力尽くの奪還を躊躇していたのです。 蝦夷地を侵略しても、先住民の反発や不満で 思い通りに統治が出来ない事を! その為 “蝦夷地奪還” は焦らず、前もって布石を打っていたと思います。 いつでも “蝦夷地” は、軍力で収奪できる! 強い幕府 & 政府 のイメージを、アイヌ人に誇示した? 

その後 約 200年(明治2年)、“徳川幕府” から “明治政府” に変わって、軍国主義が急激に蔓延った。 武力行使を躊躇っていた徳川幕府が、明治政府に変わって豹変したのです。 1869年、蝦夷地を奪還(北海道と改名)。 1879年、琉球王国を奪還(沖縄県と改名)。 その後、ロシア・中国・韓国・東南アジア・・・ 挙句の果て、アメリカ合衆国に対して宣戦布告。 明治維新から 第二次世界大戦の敗戦 まで、日本政府は狂った様に侵略を繰り返して来たのです! 最終的に、大戦に負け 戦争責任を負う事になりましたが、“蝦夷地” と “琉球王国” は「武力衝突が無かったから 侵略ではない」と苦しい弁解をしています。 その主張は 正しくありません。 正規の手続きで買い取った土地は、買い手に権利があります。 しかし、無条件・無償 で奪った土地は、いずれ元の持ち主に返す必要があります。 どの国の植民地も、軍力で奪い取った 土地 や 資源 は、頭を下げて「お返しする」のが 世界の常識です!  

 これは、私が言うのではありません。 国連の決議「先住民族が収奪された土地や資源の原状回復と補償」が、暗に日本を非難しているのです。 どうして日本政府は、国連の 指示 や 提言 を 無視・軽視 するのでしょうか?  都合よく 国連を利用したり 無視したり、常に国益を優先するのですから 呆れます。 “アイヌ民族” の人権・権利を、世界に恥じぬ様 誠意をもって賠償(補償)する必要があります。 それは、国立アイヌ民族博物館「ウポポイ」を建設し、帳消し(無かった事)に出来る 単純な問題ではありません!

600年を越える 昆布による「関西の出汁文化」。 北海道に無かった「(身欠き)ニシン蕎麦」。 正月の縁起食「(ニシン入り)昆布巻き」。 朝食の定番「新巻鮭」。 良質な砂鉄を使った「武士の魂:日本刀」。等々 忘れたのしょうか? 
日本の歴史を、‟アイヌ民族” を無視し 愛国心 だけで都合よく語るのは、如何なものでしょうか? 

「返せ 北方領土」の真相

2021-01-16 08:11:00 | “アイヌ文化”関連

どうか「北方領土問題」を、“聞いて下さい”・“知って下さい”  そして、感じて下さい。 ロシアの「プーチン大統領」の言い分が正しいのか? 日本政府の言い分が正しいのか? 解決できない政治問題は、どちらかの主張に非があると思います! この書き込みは、我が独断(アドリブ)です。   

「北方四島は 日本の領土」真実であれば、ロシア政府に「北方四島」の返還を求め、 何十年に渡り不毛な交渉する必要はありません。 国連&世界に向け、不当占拠の実態を訴えるだけでいい筈です。 しかし、日本政府が言う「返せ 北方領土」に、正当性が見い出せないから、交渉の主導権を全てロシア政府に握られているのではないでしょうか? 「北方領土問題」の真相を、中立な立場で 紐解く必要があると考えます!

「北方領土問題」は、元をただせば「日露戦争」(1904年)に遡ります。 日本帝国とロシア帝国が、中国東北部(満洲)を主戦場に戦った “領土獲得戦争” から始まります。 日本が勝利し、ロシア領の多くを占領したのが、そもそもの原因です。 ポーツマス条約(アメリカ合衆国が主導した講和条約)により、日本は朝鮮半島の権益を全面的に承認され、ロシア領だった清国(現・中国)の「大連」と「旅順」の租借権を移譲され、またサハリン(樺太)の南半分を受領したのです。 しかし、戦争で奪い取った土地や資源は、何時までも権利(地権)が及ぶ道理はありません。 案の定、世界制覇を目論んだ日本は、第二次世界大戦に負け全てを失った。 終戦のどさくさ紛れ、ロシア軍が「サハリン」と「北方四島」を、強引に収奪した様です。

1951年、“サンフランシスコ平和条約” で日本は「奪い釣った土地や資源は返す」それを約束したのです。 ただし、ロシア政府は会議に参加していなかった。 1875年、日露で協定した「“千島列島”(北方四島)と “サハリン” の交換」の公約を、日本政府が把握していなかった “ミス” です。 政府は「北方四島」に 日本人が暮らしている実態を、知らなかったのかも知れません。  

日本政府は、アメリカと平和条約締結の後 北方四島(択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島)を “日本固有の領土” と主張し、ロシア政府に返還を求めています。 日本の主張が正しければ「北方四島」は返して貰う権利はあります。 しかし、日露協定「日本に外国の軍事基地がある限り、島は返さない」との公約を主張し、ロシア政府は「北方四島」の返還を拒むのです。 

拒む理由は、他にもあると思います。 日本政府による「アイヌ民族」への処遇(冷遇)です。 「北方四島」の返還要求に、アイヌ民族の居住権が 全く記されていないのです。 ロシアがサハリンで統治する “樺太アイヌ” と、北方四島の “千島アイヌ” は、同一民族と言う事を忘れています。 現在、北方四島を統治するロシア政府は「アイヌ民族の希望があれば、いつでも帰島を歓迎する」と、人道的な考えを示しています。 それに反して 日本政府は、元島民をアイヌ民族抜き(日本人限定)で、地権や漁業権の返還を要求しています。 こんな政治判断は、北海道民としても納得できません。 アイヌ民族抜きで「北方領土問題」は、永久に解決しません。 千年前から暮らす “アイヌ民族” を無視し、30年ほど居住した “元島民” に「返還します」は、人道的に納得できないのです!

日本政府が言う「返せ 北方領土」の根拠は何でしょうか? 確かに、室町時代から 蝦夷地・アイヌ の間で、“北前船” による交易はありました。 江戸時代になって「松前藩」を交易の窓口として、港町の一部を借りていた事実はあります。 しかし 徳川幕府が、蝦夷地を統治した事実はありません。 “蝦夷地” を “北海道” と命名したのは、150年前の “明治時代” の事です!

1644年(寛永21年)に調査したとされる「正保御国絵図」は存在します。 その時の調査で、北方四島に幕府役人が渡った記録があります。 史料によると、色丹島に住んでいたのは「アイヌ人と 3人のロシア人」 と記されています。 また 1786年の調査では、17人のロシア人が住んで(中に宣教師)いて、アイヌ人の中に “ロシア正教” の信者が、大勢いたと記されています。 それが事実であれば、日本政府が「北方四島」の統治権を主張する根拠は 薄れます。 1875年の「日露協定」がある限り、ロシアに統治権がある事は否定できません。

日本には、解決できない “領土問題” が数々あります。 「尖閣諸島」「竹島(独島)」等。 全てにおいて、侵略戦争の “贖罪” です。 戦後、問題解決の努力を怠ったのが、近隣国から批判される原因です。 「誠意がない」 只、それだけだと思います!

◎ 蝦夷地の主「アイヌ民族」


土人保護法

2020-11-25 08:18:27 | “アイヌ文化”関連

北方四島は日本固有の領土だ!」 果たして、そんな主張は 国際的に承認されるでしょうか?  確かに 1869年、アイヌ人の聖地 “蝦夷”(エゾ)を、明治政府は日本に統合し “北海道” と命名しました。 しかし 昔(151年前)だからと言って 統合という名の “収奪” が、人道的に許されるでしょうか? 明治政府は、1899年に “土人保護法” を制定しアイヌ人を日本人と同化させる奇策に出ました。 要するに、“アイヌ民族” は 元々存在しない「日本人が縄文時代から蝦夷の地を守って来た」と、世界にアピールする愚策です。 その為に、アイヌ人の墓を掘りおこし “DNA 鑑定” する悪事(国が関わる犯罪)に手を染めています。 日本人とアイヌ人の血の繋がりを 立証したかったのか? 結果、一切 血筋は無し!(お粗末) 

そんな愚策は、日本人よりロシア人の方が良く知っています。 “日露戦争” で奪い取られた領土が「第二次世界大戦後 “サンフランシスコ条約” によって返還された」その事実は、揺るがないのです。 条約の署名捺印で、政府が日本の領土を間違えたのか? それは、条約を覆す為の方便です! 

2007年「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択されました。「先住民族が収奪された土地や資源の原状回復と補償を受ける権利」を、国連が決めたのです。 そんな国際社会の流れを、日本政府は受け入れたのでしょうか? 全く、国連の採択を無視しています! 実行したのは「旧土人保護法」を廃止して「アイヌ文化振興法」を、形式的に設けただけです。 一体それが、アイヌ人に対する “補償”・“賠償” になるのか理解できません。 政府は、国益の為に国連を最大限に利用します。 しかし、国益に叶わない案件は聞く耳を持ちません。 それは、二枚舌外交です。 日本の良識が問われます!

◎ 蝦夷地の先住民族「アイヌ」


【 旧土人保護法 】

◍ アイヌの共有財産は、北海道庁長官が管理する。
◍ 自由な土地の売買や小作権設定の禁止。
(アイヌの土地没収)(収入源の漁業・狩猟の禁止)(日本語使用の義務)
(日本名へ改名)(戸籍の編入)
◍ その上で、土地・医療品・埋葬料・授業料の供与。
◍ 供与に関する費用は、アイヌの共有財産から徴収。

明治政府は、“土人保護法” でアイヌの “地位” も “財産” も “人権” も、全て奪い取ったのです。 

私は、“日本人” である前に “北海道人” と 自負しているから言うのです。 どこに、アイヌに対する “誠意” があるのでしょうか? “アイヌ人” を “日本人” に “同化” させる為、全てを奪って “日本名” だけ与えた。 それを “侵略”・“奪略” と言わずして、何と言うのでしょうか?

◎ 民族共生象徴空間「ウポポイ」

2020年、国は「道南・白老町に、アイヌの為に “民族博物館” を 建てて遣った。 “ウポポイ” で、過去の無礼(奪略)を清算したい」 ご立派な “政策” です。 それで “アイヌ民族” は、喜ぶでしょうか? 寧ろ、彼等の心情を “逆撫で” するだけです! “国連” は兎も角、良識ある世界の人々に軽蔑されます。 「民主主義国・日本は、基本中の基本 “人権問題” &  “民族問題” を、21世紀になっても 解決できないのか」と! 

沖縄県民(琉球人)も、アイヌ人と同じ “冷遇” を受けていると思います。 数年前、ヘリパットの建設に反対する沖縄県民に対し、若い機動隊員がフェンス越しに「土人が・・・」と罵ったのは 記憶に新しい。 機動隊(警察)の中に、“偏見” “差別” を 啓蒙する指導者が存在する証です。 そもそも「土人保護法」をつくったのは、“明治政府” であり 我々 “日本人” なのです! 


KY(空気が読めない)

2020-11-07 08:23:40 | “アイヌ文化”関連

世界中に、領土や植民地の問題があります。 特に 島国・日本は、尖閣諸島(沖縄県)竹島(島根県)北方四島(北海道)が、長年 政治問題になっています。 そこには、歴史的に「日本人が住んでいた」「日本が統治していた」など、何らかの関わりが必要になります。 勿論 固有の領土と証明されると、島の所有権と同時に 漁業権・地下資源 の独占が認められます。 ですから、近隣諸国が島の争奪戦になるのは当然です。 問題は 尖閣や北方領土を、日本政府が領土と主張するから、厄介な衝突が起きるのです。 
尖閣諸島 琉球人 が統治し、北方四島(択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島)は アイヌ人 が統治していた事実を、証明する冪です。 先住民族の了解の上で、日本の領土と主張する必要があります。 
果たして “琉球王国” や “蝦夷地” は、何百年前から “日本” が統治して来たのか? 日本国の地権を強調すれば、些か矛盾が生じます。 何故なら、明治政府が “アイヌ民族” や “琉球民族” を日本に帰属したのは、今から150年ほど前です。 1000年前から日本の領土と主張しても、“歴史” が否定します!

◎ 緑「サンフランシスコ条約」で 日本統治を放棄した島々


私は、日本人として北海道人として、領土問題に疑問があります。 アイヌ人を 150年以上 虐げてきながら、どうして北方領土は日本固有の領土と主張できるのか? 先住民族アイヌ を日本人と認めず、北方四島は日本の領土と言い張る論拠が分かりません? 縄文時代の遥か昔から、北方四島で暮らしていたアイヌ人を無視し、戦前 20~30年ほど 島を支配した日本人だけが 地権者と言う考え方が、どうしても理解できません! 「お前は日本人だから、都合のいい政策に賛成すれば利口だ」 そして「返せ北方領土」を “唱えていろ” と言われても、合点がいきません!

私は 領土問題に対し、 KY(空気が読めない) 愚か者です。 しかし 北海道人として、政治に翻弄されたくないので、敢えて言うのです。 北海道には、北方領土問題に詳しく 利権に長けた “政治屋” がいます。 北方四島の内、二島でも返還が叶えば 己の 地位 も 名 誉も、同時に金も稼げると躍起になる時代錯誤の政治家が居るのです。 贈収賄で懲役を受けてながら、現在 国会議員として返り咲いています。 そんな輩(犯罪者)の口車に乗る位なら、北方四島 の返還は望みません。 この考えは、私の独断ではありません。 アイヌ人の総意と、合致しています! 

1951年、サンフランシスコ平和条約で日本は、南樺太(現・サハリン)と北方四島(択捉・国後・色丹・歯舞)の所有権を放棄しています。 その結果、南樺太 の 40万人 と 北方四島 の 1万3千人の日本人は、やむなく本土に帰還しました。 しかし、先住民族であるアイヌ人の記録は、全くないそうです。(そんな馬鹿な) 日本政府は 北方領土を主張しながら、先住民族の存在など無視しているのです。 ロシア政府は、日本人に対し “北方四島” の帰還は認めていません。 しかし “アイヌ民族” の帰還に対し、寧ろ歓迎の意向を示しています。 ロシア人の誠意が、日本人に通用しないのが 不思議です。

◎「ウポポイ」は 何を目指すのか?

2020年、道南の白老町に “民族共生象徴空間”「ウポポイ」が、政府の肝いりで建設されました。 近代的で、立派な建物です。 しかし 政府の目的は、延期になった “東京オリンピック” に関わる “観光誘致” が全てです。 そこには、“アイヌ民族” に対する長年の謝罪などありません。 「お前達の悲願だった、博物館 を建てて遣った」と、アイヌ人を卑下する “箱物” です。 
観光客の中に「アイヌ人の “小遣い稼ぎ” が 目的の施設か」と、批判する声があるそうです。 白老町には、百人足らずのアイヌ民族しか居りません。 「ウポポイを建てて遣った。後の運営はお前達に任す」では、彼等には大きな “重荷” です!(北海道在住のアイヌ民族は、国勢調査で僅か 1万3千人) 150年余 日陰の生活を強いられ、急に「ウポポイ」で  “スポットライト” を当てられ、彼等に何が出来ますか? 「お前達は、アイヌ語も喋られないのか」と言われ、何と答えたら良いのでしょうか? 
アイヌ人は「生きる為に、言葉を捨てた」とは言いません! KY 黙して語らない彼等を 察して下さい。