私は、“ウグイス”の囀りは 野鳥界 No,1 の美声だと思っています!



私の 小・中学校時代、学校給食 はありませんでした。 こんな事を言えば「お前は明治生まれか・大正生まれか」と、疑われます。 古い奴ですが、昭和26年・北海道(道南)生まれです。 本当に我々は、給食の思い出がないのです。 明治22年、日本各地で学校給食が始まったと言われています。(その頃のメニューは下の写真) なぜか、羨ましく思います。 北海道で給食が始まった時期は、正確に分かりませんが、我が町は相当遅かった様です。 そんな事で、“学校給食”に有り付けなかったのです! 給食が始まったのは、私が中学を卒業した年でした。(残念)
私が、学校給食に拘るのには理由があります。 「食べたいのに 食べられなかった」そんな恨みや嘆きではありません。 戦後の北海道は、全てにおいて貧しかった。 「衣・食・住」満たされていたのはごく一部、大多数の我々は貧困に喘いでいました。 その象徴は、弁当でした。 学校での楽しみ昼食も、弁当の蓋を開けると 侘しい(梅干し・漬物、良くて卵焼き)育ち盛りの学童には残酷です。 単に、空腹を満たすだけの粗末な弁当は、食欲も気分も落ち込むものです。 寒冷期は、ご飯も凍れカッチカチ。 不味いと言うより 情けない。 あの当時 学校給食 があれば、少しは明るい日々を送れたと思います!
その反面、予防接種は数多く受けました。 勿論、医者が打つ注射器(針)は使い回しです。 伝染病予防が、B型肝炎の恐怖です。 栄養不足の学童に、給食を与えるのではなく、クスリを与えて何のメリットがあったのでしょうか? 予防接種を受け、体調を崩す生徒が 大勢いたと記憶しています! “ワクチン”は、伝染病&感染症を医学的手法で、集団免疫を得る最善策と言われています。 一度 接種すると、生涯 抗体が病原菌を感受しても、免疫が感染&重症化を防いでくれる? そんな「ワクチン神話」が、世の中の常識に成っています!
「本当でしょうか」 半ば終息した伝染病(治療薬がある感染症)に対し、数々の“法定指定接種”は、今なお 強制的に施行されています。 それに反し、21世紀に出現した “SARS”・“MARS”・“エボラ出血熱”・“新型インフルエンザ”のワクチンは、いずれも研究段階で効果が認められず挫折(中断)しています。 要するに、新たな“ウイルス”に有効な“ワクチン”、それらの実績は皆無なのです。 それでも、“新型コロナウイルス”のワクチンを希望しますか? 天の邪鬼と言われても、私は 信念をもって拒否します。 命を守る貴重なワクチン?は、必要な方(希望者)に譲ります!
20年ほど前、テレビCM(ACジャパン)で「僅かの寄付金で アフリカの子供達が救われる」と、人気タレントが“献金”を 広く求めるキャンペーンがありました。 そのクスリは、“ポリオワクチン”でした。 日本で生産され大量に余ったワクチンを、発展途上国に善意で送ると言うものです。 「在庫処分が 善意でしょうか」 100円の献金で、20人が救われる。 ワクチン一人“5円”は、現実に不可能です。 誰が、巨額補填するのか? おそらく、不況を知らない“ワクチン業界”の自己アピール(パフォーマンス)でしょう。 「利益の分配」そんな思惑を、強く感じます。(暴言でした。 学校給食 を知らない*“アホロートル”の戯言だと思って下さい)
* “アホロートル”は、両生類“ウーパールーパー”の正式名でした。
北海道屈指のリゾートホテル ザ・ウィンザーホテル洞爺 を ご存知でしょうか? 洞爺湖町と豊浦町にまたがる、ポロモイ山(標高625メートル)の頂上に建つ高級ホテルです! 2008年、洞爺湖 G8サミット が開催されたので、覚えている方もいると思います。 しかし、このホテルの複雑な経緯を知る人は、案外 少ないと思います。
昭和38年、北海道で芸能人の興行をプロジュースする「本間 観光」が、当時 東洋一の景観を売りに、ゴルフ場とホテルを建設しました。 開業時は、大変な人気だったと記憶しています。 しかし、数年で経営が傾きました。 その原因は、当地独特の気候にあります。 雪の少ない道南であっても、ゴルフ場の営業期間は決して長くありません。 問題はゴルフシーズン中、最も集客が望める 6~7月に、ポロモイ山に濃い霧が発生するのです。 水温が高い“噴火湾”と 低い“洞爺湖”の水蒸気が、山頂で混じるのが原因と思います。 霧が発生する度にゴルフが出来ないのであれば、営業に支障が出るのは当然です!
その後、ゴルフ場は10年単位で経営者が、次から次と変わりました。 ゴルフコースやクラブハウスを幾らリニューアルしても、霧が発生する状況に変わりはありません。 そんな中、金(ゴールド)の“先物取引詐欺”で名を馳せた「豊田商事」が、ゴルフ場を経営していた時期がありました。 要するに、堅実な経営など望めない(ブラックマネーが行脚する疑惑の)ホテル&ゴルフ場と言う事です。
その最たるものは、バブルの末期 ゼネコン「カブトデコム」が、無謀な改修工事で巨額の負債を招き、護送船団で守られて来たシティーバンク「北海道拓殖銀行」を破綻に追い込んだのが、ここ(当時・ホテルエイペック洞爺)です! このホテルは「霧によって負債を生み 負債によって黒い霧を生んだ」バブルの象徴になった“巨大建造物”です。
G8 サミットの会場を、洞爺湖町の「ザ・ウインザーホテル洞爺」に指名したのは、現・総理大臣「 安倍 晋三 」です。 ただし、2008年のサミットのホストは次期総理 「 福田 康夫 」でした。 その理由は「安倍」が、突然 総理を辞めてしまったからです。 この出来事は、政界のミステリーです。 現に、肉体的にも精神的にも、何ら異常がなかった? ただ、政治が嫌になった!(そんな詭弁はありません) しかし、再び総理大臣に返り咲く強運があったのです。 期せずし、自民党の顔(看板)となった。 その後、安保法制・モリカケ問題・桜を観る会・検察庁法改正(三権分立の危機)・・・ 憲法を歪める“強権”が目立ちます。 怖いのは、“安倍一強”による「平和憲法」と「民主主義」の崩壊です!
果たして「安倍総理」は “清廉潔白”か?
◍ 1998年、 「ホテルエイペックス洞爺」 約 5000億円で再建。 同年、破産。
◍ 2000年、セコムの子会社が破産管財人となる。 約 60億円で「ザ・ウインザーホテル洞爺」に売却。
◍ 2007年、疑惑のホテルが、安倍総理の独断で“サミット”のメイン会場に選ばれる。 同年、総理を辞任。
どうして、巨額債権処理に“セコム(警備保障会社)の子会社”が任命されたのか? なぜ、サミットを目前に「ザ・ウインザーホテル洞爺」を指名した「安倍総理」が、突然 辞任したのか? 答えは、“ザ・ウインザーホテル洞爺” < “カブトデコム” < “セコム” < “ウシオ電機”(安倍総理の親戚筋)の中にある。 「火のない所に煙は立たぬ」当時から、良からぬ噂はありました。 「政府(与党)が絡む、“マネーゲーム”ではないか」と !
確たる証拠はありません。 しかし「コロナ禍」の中、どこの観光地も不況の嵐です。 特に、北海道の片田舎に建つ「ザ・ウインザーホテル洞爺」は、高級リゾートゆえに裕福な外国人(中国人)が頼りです。 インバウンド客が数年望めなければ、経営は成り立ちません。 そこで必要になるのは、政府からの“特別支援”(大型融資)です。 今後の経緯は、数字(金額)で見えて来ます!
感染症専門家会議“クラスター班”・北海道大学「西浦教授」(通称:8割オジサン)は、“外出自粛” 80%を実行すると、感染拡大を短期間でくい止める事が出来ると宣言しました。 確かに「西浦教授」の人と人の“接触防止策”は、的を射た提言だったと思います。 しかし、論拠が正しいのか間違っているのか、簡単には理解出来ません。 原因不明のウイルスに、医学的・科学的な確たる指針があるのか? そんな時、数学の“積分方程式”・“微分方程式”が浮かんで来ました! 感染者数は、積分で“上昇”し 微分で“降下”する計算式です。 “新型コロナ感染拡大”は一つの物理現象ですから、何らかの方程式が存在すると思います。
“ W ":感染者数 “ I ”:感染力 “ R ”:免疫力 “ S ”:治療薬 “ d t ”:時定数
電気理論における「過渡現象」の数式です。 関数は、意図的に変えました。
「感染者数 “d t ”(速度)は、何の対策もしないと“ ∞ ”(無限大)で拡大します。 それが、“新型コロナ”の感染拡大です。 逆に終息は“ 0 ”ですから、“ I ”(感染力)より“ R ”と“ S ”(免疫力と治療薬)の効果で、ウイルスを抑制する事が出来ます」 簡単な“方程式”です。 しかし、免疫力や治療薬が勝る(強い)場合は、クスリに対する拒絶反応により、免疫の過剰暴走が始まります。 いわゆる、身体上・精神上の“過渡現象”です。 場合によっては、重病化したり死に至る事もあります。 現実に、ワクチンや治療薬やが無い中で、免疫を必要以上に刺激する“目的外治療薬”を 場当たり的に使うのは、危険以外の何物でもないと思います。
これは、何の根拠もない“方程式”ではありません。 誰にも否定できない“現象”です。 そんな中、勝手な持論を振り翳し マスメディアに顔を出す“大学教授”・“評論家”・“コメンテーター”は、少なくありません。 勝手に何を主張し、何を教えるつもりか? 彼等に警告します。 「伝染病を、人の知恵で克服した事実はない」 “ペスト”も“コレラ”も“天然痘”も、医学や科学の力で勝利したのではなく「自然消滅した」と!
密漁は、犯罪です! しかし、50年以上前の話ですから“時効”と思って下さい。
中学生の頃、友達が 「鮑(あわび)を獲って売らないか」 と、話を持ち掛けて来ました。 漁師の息子で、鮑獲りには自信があるものの、何処で売りさばいて良いのか分からないので、老け顔の私を相棒として頼ったのです。 正直、密漁と言うスリルに興味を持つたのは事実です。 (友達)「土曜日の午後に獲りに行って、伊達紋別市の寿司屋で売ろう」 とんとん拍子に話は進み、密漁計画 その日を迎えました。 港に停泊している友達の親の小型船を使い、500メートルほど離れた磯場で鮑を獲りました。 都合よく午後に満潮を迎え、鮑は取り放題でした。(岩場を移動する鮑は 素手で簡単に獲れる) 取り敢えず、30個ほどで漁を止めて港に帰還しました。(全て、隠密行動でした)
「果たして、売れるのだろうか」 自信のないまま、列車で伊達紋別市に鮑を持って向かいました。 駅前に 3軒ほど寿司屋があり、取り敢えず 一番流行っていそうな店の裏玄関に回り声をかけました。 夕方の5時ごろ、厨房で準備していた店主が現れました。 (私)「鮑を買って下さい」 勿論 密漁と分かっている店主は、一言 「見せて貰おうか」で簡単に商談成立です。 おそらく、鮑代は千円だったと記憶しています。(当時は大金です) 帰りは、友達と100円札5枚づつ山分けし、駅前食堂でラーメンとカレーを食べ、その日は スリル と 晩飯 を味わいました。 密漁は、その後 遣っていません。
昭和40年代の“物価”は、現在の10分の1 程度だと思います。(ラーメン・カレーは、50~60円) 不思議な事に「トランジスタ・ラジオ」や「フィルム・カメラ」は、今より 数倍 高かったと思います。 ブラウン管式「白黒テレビ」は 品質で差がありますが、一般家庭の年収に匹敵する程 高額でした。