沢藤南湘

残り少ない人生を小説とエトセトラ

四文屋繁盛記(三)

2024-11-07 10:09:43 | 小説
第三話 だまされた番頭(早春)
 春になり、浮き浮きした江戸子たちがうまいもん屋に集まって賑やかに話をしている中、片隅で商人らしき男が何かを思い悩みながら一人でちょびちょび酒を飲んでいた。
男は、震える手でたばこ盆に煙管を近づけて火をつけた。
「お待たせしました」といって、おすみがその男の前の樽の上に二合入りの徳利と皿に二本盛った田楽豆腐を置いた。
 男はおすみの顔を見て、うつむいてしまった。
(この人、なにかへんだわ)
「ごゆっくり」といって、おすみは勝手場に戻った。
「銀之助さん、あの人大丈夫かしら。悲壮な顔をしながら、一升も飲んでいるわ」
「嫌なことでもあったのかもしれませんね。そっとしておいてやりましょう」
それから、一刻が過ぎ、客は潮が引くかのように家路にと急いでうまいもん屋を去って行ったが、商人らしき男は、六ツ半になっても、腰を上げようとはしなかった。
「お客さん、そろそろお店を閉めますが何か食べますか、納豆汁はいかがですか」
 おすみが聞いた。
 男は泣きそうな顔をして、おすみをまんじりと見ながら振り絞るような声でいった。
「いいです。もう少しいさせてくれませんか」
「なにかあったんですか」と、いつの間にか、おすみのそばに立っていた銀之助がいった。
「帰れないんです」
「どうしてですか」
(話は、長くなりそうだな)
 銀之助は、おすみにもう帰るように目配せして、近くの樽に腰を下ろした。
 おすみは首を横に小さく振り、勝手場に行って、二人に湯を運んできた。
「遅くまで申し訳ありません」
 男は我にかえり、自分は、神田旅籠町にある葉煙草問屋’国分屋’の番頭、弥助と名乗った。
「お恥ずかしい話なんですが、美人局に引っかかり、脅されたので、お得意様からいただいた煙草の代金すべてを渡してしまったんです。店の主に帰ってなんといえばいいのか」
「そうですか、もっと仔細を話してくれませんかい」
 おすみも頷いた。
 銀之助に促されて、茶碗に口をつけてから、弥助がぽつりぽつりと話し始めた。
弥助は、朝から代金徴収に客先回りをした。予定通り集めることができ、八ツ半頃、最後の一軒、刻み煙草屋‘貞家’に行った。
貞家は、’国分屋’にとって、初めての取引だった。
来訪を告げると、奥からなまめかしい二十代後半らしき女が出てきた。
「国分屋さん、店主がちょっと出かけているので上がって、待っていてくださいな」
 女は、弥助を客間に案内して、部屋を出て行った。
 しばらくすると、先ほどの女が酒を持ってきた。
「もうすぐ帰ってくると思いますが、その間、一杯いかがですか」
 名は、おとせといった。お歯黒をつけていないので、弥助はこの店の女中かと思った。
仕事中だからと散々断ったが、しつこいので、少しぐらいと思い弥助は、盃を口にした。一杯が二杯になり、そのうちに眠気が差してきて、寝入ってしまった。
「おとせ、今帰ったぞ」
 男が、戸を開けて入ってきた。
 弥助は、その声で目を覚ました。裸になっておとせの上に乗っていた。何が何だかわからなかった。
「おめえは誰だ。俺の女に何やってんだ」
弥助は、我に返った。女の着物が肌蹴ていたのに気づいた。
女がわめいた。
「あんた、このすけべ男が急にあたいを倒して襲いかかって来たんだよ」
「おとせさん、おいらは何もやっちゃあいない」
「何、寝ぼけたことをいっているんだ、弥助さんとやら、あんたの家族や国分屋さんにいいつけるぞ」
「あんた、そんな甘いことじゃ、あたいの気が済まないよ。太助親分にいってくるわ」
「ちょっと待て、おとせ。それじゃ、弥助さんとやらが可哀そうだ。ちょっと間が差しただけかもしれねえ、弥助さんどうする」
「酒に何か入れたな。おとせさん、正直にいってくれ」
「いい加減におし。あんた、このこと皆にいいふらすからね」
「弥助さん、じゃあ口止め料、十両で手を打たねえか。そうすれば、あんたは、国分屋の番頭で働き続けられるし、家族とも今まで通り仲良く生活できるんじゃねえか。おとせは気が済まねえかもしれねえが」
「あんた、なにいってんの。このあたいの身にもなってよ」
「うるせえ、弥助さんにもいろいろあるんだ。どうだね、弥助さん、今日は持っている金を全部置いときゃいいぜ。残りは、十日以内に払ってもらえばいい」
 そんなことで、結局、彼らの脅しに負けて、十両の口止め料を払うことになって、まずは、集めたお金、五両を渡してしまった、と弥助が悔しそうに涙ぐんだ。
「そうだったんですかい、きっと眠り薬を酒に入れていたんですね。いない人間が、弥助さんって呼ぶのもおかしいですね。最初から企んでいたんだな」
「あの店は、あたしもよく刻み煙草を買いに行くんですが、そんなことを」
 しばらくの沈黙の間に、’火の用心’の声とともに拍子木の打つ音が障子戸をゆすった。
既に、五ツの鐘も先ほどなっていた。
 三人の心に、冬の夜の静けさが重くのしかかっていた。
「私は、本当に馬鹿だ」
 銀之助は、手燭を取って二階に上がって行った。
 おすみと弥助は話すこともなく、ただ銀之助が戻ってくるのを待っていた。
 銀之助が、戻ってきた。
「弥助さん、これ店に持っていきなさい」
 銀之助が酒樽の上に五両を置いた。
「銀之助さん、見ず知らずの私に・・・・・」
 しばらく嗚咽していた弥助は、二人に深々と頭を下げた。
「後はおいら達に任せてくんなさい」
 銀之助の癖で、何も策があるわけでないのにいい切った。
銀之助を見て、おすみは笑みをこぼした。
「銀之助さん、早いうちに必ず返します」といって、弥助は、五両を大切そうに懐にしまった。
 出口に向かいながらも、銀之助に何度も頭を下げ続けた。
 そして、弥助はうまいもん屋を後にして、暗闇に消え去って行った
 物騒なので銀之助はすぐにおすみを返して、一人で片付けをした。
 銀之助は、弥助のことで床についても、一睡もできず初午の前日の朝を迎えた。
 まだ、店の準備に間があったので、一人浅草寺付近へ散歩に出た。
 どこの店も、初午の準備は終わっているようだった。
木戸の軒下には、武者を描いた大行燈が吊るされ、露地の長屋から表通りの地所の内で家々の戸々に競い合うように、地口画が描かれた田楽燈籠をかかげてあった。(地口というのは、ことわざや成句などに発音の似通った語句を当てて作りかえる言葉の遊び。例えば、(猫に小判)を‘ に御飯’)
裏長屋の入口には、が左右に立てられて、その奥の路地では、太鼓を打ち鳴らしたり、笛を吹いたり、踊ったりして子供らの遊んでいる姿を銀之助は、しばらくの間立ち止まって眺めていた。
 帰りの仲見世通りでは、道の両側にひしきめあった屋台は準備で皆忙しそうに動き回っていた。
(おいらも、早く帰って店の支度をしなきゃ)
 おすみが店で待っていた。
「銀之助さん、今日の献立は干鱈飯とくわいの蒲焼でどうですか」
「くわいの蒲焼って?」
「よくお寺さんで食べられているんですが、精進鰻の蒲焼で、材料は、 豆腐、山芋、くわい、蓮根です。そして、海苔を皮に見立て、鰻のように形作り、一旦 揚げてから、蒲焼のように、たれをつけて焼くのですよ」
「美味しそうですね。おすみさんはその蒲焼を作ってもらえませんか」
「はい」といって、おすみは、くわいの皮を剥き始めた。
銀之助は、米をといで飯を炊き始めた。
弥助のことをあれこれ考えた。
(なんとか、貞家から五両を取り返して、二度と奴らに美人局をやらせないようにしなければ)
その間に手際よく、干鱈を湯で戻して、それを焼き始めた。
 昨夜から考え続けているのだが、頭の中は空回りするだけで名案が浮かばない。
「銀之助さん、眠そうですね。弥助さんのことですか?銀之助さんも人が良すぎますよ」
「おすみさん。貞家のことどう思いますか?」
「ひどい人たちですね。たしか、おとせと貞七という名前でしたっけ」
「確か、そんな名前でしたね。貞家のこと、ちょっと知りたいですが・・・」
「銀之助さんがそんなに気になるのなら、皆に聞いてみます」
「お願いします。善は急げです。今日は、昼の準備が出来たら帰って下さい」
「まあ、銀之助さんたら、しょうがないわね」
「ちょっと待ってください。干鱈飯を食べていってください」
「銀之助さん、一人でお店大丈夫かしら」
 おすみはよそった飯にだしをかけながらいった。
「大丈夫です」
 おすみは飯を食べ終えて、九ツ刻頃(十二時)帰って行った。
それからの銀之助は昼飯を食べにやってきた客の応対にてんてこ舞いであった。。
銀之助は、八ツ刻(二時)に店を閉めた。
しばらくの間一服してから、片付けをした。
そして、間もなく、夜の支度に取り掛かった。
七ツ(四時)前までに、田楽豆腐、煮しめ、豆腐汁の下拵えをして、それから番茶で飯を炊いた。
その出来上がった飯にすまし汁と茗荷そして、もみ海苔をかければ、利休飯の出来上がる。
この利休飯もおすみから教わり、最近、お品書きに追加した。
酒を飲んだ後に食べる利休飯は、最高にうまいと呑み助たちには評判がよかった。
七ツの鐘が鳴ったので、暖簾をかけに銀之助が外に出たところ、おすみがこちらに小走りでやって来た。
「おすみさん、今日はもういいのに」
 息切れぎれのおすみは、長屋の住人に聞いたが誰も貞家のことは知らなかったと伝えた。
「そうですか」
 銀之助は、ため息をついた。
「お客さんだわ」
鳶職人が三人やって来た。
「もうやってる?」
「はい、いらっしゃいませ」
 銀之助とおすみが、一緒に頭を下げた。
 そして、おすみは、三人を席に案内し、注文を聞いてきた。
「田楽豆腐六本、煮しめ三人前、お酒三合でお願いします」とおすみは、銀之助にいってから、徳利に酒を注いだ。
「おすみさん、できました」
 しばらくして、銀之助がいった。
 それから客の出入りは多少あったが、六ツ刻前なのに客足はいつもより早く途絶えた。
「おすみさん、今日はもう帰って下さい。後はあっしがやりますから」
「そうだ。さっきは、橋本様が留守だったんだ。もし、帰っていたら貞家のこと聞いてみます」
「橋本様は、顔が広いから是非お願いします」

 今日は、初午。
朝早く、銀之助は、近くの稲荷に詣でた。
いつの間にか、境内の梅が咲きほころんでいた。
 これから働きに出る人たちが、お参りに来ていた。
(みんな、何をお願いしているのだろうか)
 お参りを済まして、店に戻って、勝手場で準備を始めた。
五ツ刻、おすみと長屋から大工の源一の女房おつたと棒手振の勇治の女房おみねがやって来た。
すぐに、銀之助の指図でおすみたちは、稲荷すし、豆腐汁、田楽豆腐の下ごしらいに大忙しだ。
おすみは、飯に入れる酢の具合を味見しながら、昨日、橋本順之助に貞家と弥助の話をしたと銀之助にいった。
「貞家って、本当に悪党ね」と、おみねが、野菜を切りながら口をはさんだ。
「でも男って、助平だからちょっと艶めかしい女だとすぐに引っかかるんじゃないの。うちの奴だったら、絶対に引っ掛かるね」と、おつたがいったので、皆大笑いした。
 笑いが収まると、おすみが銀之助にいった。
「橋本様がいろいろ調べておくから、今日、店が終わったら、長屋に来てくれないかといってました」
「そうですか、わかりました」
店を開く時になった。
 稲荷の行き帰りの人々が、うまいもん屋に昼食を取ろうと入って来た。
あっという間に、席はうまった。
銀之助たちは、目まぐるしく動き回った。
 そして、一時の休憩をとったのもつかの間、午後の開店の時間になった。
多少人数は減ってきたが、それでも普段より多い客が、店にやって来た。
 すべてが売り切れたので、いつもより半刻ほど早く、銀之助は店を閉めた。
「皆さん、お疲れ様。これ少ないですが受け取って下さい」と言って、銀之助は、’大入り’と書かれた袋を一人ひとりに手渡した。
 女房たちは喜んだ。
「銀之助さん、いつでも手助けに来るから遠慮なくいってね」
 おみねが、嬉しそうにいった。
「申し訳ないが、ちょっと片付けを手伝ってくれませんか。終わったらあっしも、皆さんと長屋に行きますので」

銀之助は、提灯に灯を入れ、皆の先頭に立って、徳衛門長屋に向かった。
後から付いてくるおつたとおみねは、絶え間なく話しては笑っている。
 提灯の灯りを遮るかのように、雪が舞い始めてきた。
「おすみさん、降り始めましたね」
「積もるかもしれませんね」
 火消用に水を入れて積んである樽が、少しずつ真綿に包まれかのように白くなり始めた。
 初午の雑踏も嘘のように、雪のしんしんと降るかすかな音だけが聞こえると錯覚しそうな夜道を、四人は歩いて長屋についた。
銀之助とおすみは、おつたとおみねに別れを告げ、橋本の家の前に立った。
「橋本様、銀之助です。おすみさんと一緒です」
腰高障子戸が開いた。
「おう、雪か。寒いから早く入れ」
 さすが長い浪人生活をおくっているだけに、いや、橋本順之助の性格かもしれない。
座る場所もないほどに散らかっていた。
 おすみは、橋本の家の勝手を知っているようで、竈に火をつけ、棚から徳利を出し、酒を温め始めた。
「おすみさん、いつもわるいな」
 橋本は、照れながらいった。
 銀之助が、弥助の事の顛末を話し終えたとき、おすみが、酒と茶碗を運んできた。。
「銀之助さん、おすみさん。早く飲んで暖まってくれ。」
 橋本が、二人の茶碗に酒を注いだ。
「国分屋の弥助が、美人局に騙されたとな」
「橋本様は、弥助さんを御存知なんですか」
「それがしは、いつも刻み煙草はあの店で買っているんだ。主もよく知っている」
「貞家は、御存知ですか」
「知らんのだ。あの辺は、人の入れ代わりが早いので」
 橋本が続けて言った。
「そいつは手ごわいぞ。奴らの口を割らせるのは、その場を押さえなければならねえからな」
 そして、橋本は昔藩にいた頃の友人がやはり美人局に騙された件の話をし始めた。
その男は脅され続けた挙句に、刃傷沙汰になり、家族を置いて出奔してしまったと。
「奴らは、禿鷹だ。弱みを見せると、骨までしゃぶりついてくる」
「橋本様、その場を押さえましょう」
「銀之助さん、どうするかね」
 しばらく銀之助は、思案していった。
「おいらが、カモになってやってみましょう」
「ちょっと待て、相手はしたたかじゃ。先ほど、源一と銀太に貞家のことについて調べるよう頼んでおいた。それがしも調べてみるので、策はそれから立てることにしよう」
 
今日のうまいもん屋の昼の献立は、揚げ出し大根、みそ漬け豆腐そして菜飯と決まった。
銀之助とおすみはその支度に取り掛かった。
銀之助は竈に火をつけた。
それから、大根の葉を刻み、米と一緒に釜に入れた。それが終わると、味噌に漬け込んだ美濃紙に包まれた水分を抜いた木綿豆腐を取り出し、さいころ状に切って、皿に盛りつけていった。
おすみは、大根の皮をむき、形よく切ってから、それをごま油が煮立った鍋で揚げた。
揚がった大根を器に入れておろししょうゆをかけ、そして、千切りにしたねぎをおいて蓋をした。それをいくつも作っていった。
「これで準備万端だ。おすみさんのおかげで毎日お客が楽しみにやってきます」
「喜んでくれると嬉しいですね」
 昼は、いつもぐらいの客数で終わった。
 二人は休憩をとった。
 そして、いつもの通りに七ツ刻に店を開けた。
開店直後には三々五々と客がやって来たが、しばらくすると客足が途絶えた。
そんな時に、橋本順之助が店に入ってきた。
「いらっしゃい、橋本様」
 おすみが、明るい声で迎え、二階に案内した。
 そして、勝手場に戻って、銀之助に二階に橋本を通したことを伝えた。
銀之助は、おすみに店のことを頼み、手燭に火をつけて、二階に上がった。
「銀之助さん、いろいろ分かったよ」
 橋本が、一服吸いながら続けた。
今日、橋本は薬種問屋に行って来たといった。
「田辺屋の番頭が、時々貞家のおとせが眠り薬を買いにやって来るというんだ」
「橋本様、これで弥助さんが眠り薬を飲まされたこと、間違いありませんね。」
「十中八九まちげぇねえだろうよ。後は、源一と銀太の連絡を待って策を立てよう」
 四半刻(三十分)ほど話をして、橋本順之助は帰って行った。
 それから、二日後。
 四ツ半(十一時)、おすみは暖簾をかけて、店の中に戻るや否や、古着問屋の白木屋の番頭が、高障子戸を開けて入って来た。
「いらっしゃい。お久しぶりですね」おすみがいって、番頭が座るのを待った。
 番頭が奥の樽に腰かけた。
「何にしますか」
「菜飯と豆腐汁を下さい」
 おすみは、勝手場に戻って、注文を銀之助に伝えた。
そして、客が白木屋の番頭であることを聞いて、銀之助は、番頭の吉二郎のところに行った。
ちょっとの間、話をして勝手場に戻った。
「おすみさん、昼の休みに白木屋さんに行ってきますので留守頼みます」
「はい、夜は、お店お休みですね」
「橋本様たちが、七ツ頃に来られますが、おすみさんはどうしますか」
「皆さんのお話、聞かせてください。いいですか」
「もちろん、いいですよ」
 
八ツ半(三時)、銀之助は、何か荷物を持って帰ってきて、おすみに一こと二こと話をして、二階に上がって行った。
しばらくすると、一階からおすみの声がした。
「銀之助さん、橋本様たちが来ましたよ」
「橋本様、源一さんも銀太さんも二階に上がって下さい。銀之助さんが待っています」
橋本たちは、二階に上がった。
 その後から、おすみが火のついた手燭を持ってきて、二つの行灯に灯をつけていった。
「お酒お持ちしましょうか」
「すまん」
橋本は手を挙げた。
おすみは、銀之助の頷くのを見て、下に降りて行った。
「肴を持ってきます」といって、銀之助も階段を下りた。
二人は、間もなく大徳利と田楽豆腐を運んできた。
 行燈の光が、皆の影を揺らした。
「銀之助さん、源一が貞家の絵図面を手に入れてくれた」
 源一は、懐から図面を出し、広げて説明した。
「たぶん、話から、弥助さんが引っ張り込まれた部屋はここだと思います」
「この居間の前に庭があるとは、好都合だ」
 橋本は、扇子で絵図面を指した。
 銀之助は、間取りを頭の中に叩きこんだ。
「銀太、貞家のこと何か分かったか。」
 橋本が、銀太を促した。
「へい、貞家には、用心棒が二人いますぜ。一人は、六尺もあるような大男なんで。もう一人は、橋本様ぐらいです。大男は、 時々道場あらしをやって金を稼いでます。強いようです」
「そうですか」
 銀之助は、腕を組んだ。
「それがしもついて行こう」
 橋本が、盃を口づけた。
 すぐに、おすみが、酌をした。
「おいらも行きますぜ」
 銀太がいった。
「お前たちはやめたほうが良い。それがしと銀之助さんでやる」
 一刻ほどして、おすみと橋本そして銀太は長屋へ帰って行った。

 江戸の空は、雲がなく青く途切れることなく澄みわたっていた。
 初午の日が過ぎ、浅草寺界隈は、静けさを取り戻しつつあった。
「おすみさん、午後からおつたさんとおみねさんが、手伝いに来てくれますので、よろしくお願いします」
「はい。銀之助さん、気を付けてくださいね」
「橋本様も一緒ですから、大丈夫ですよ」
 銀之助は、にんじんを切りながらいった。
おすみは、竈に火をくべた。
「今日は、でどうでしょうか」
「どのように作るのですか」
「大根を切り、桂剥きにし、酒を振って巻きなおします。それを楊枝でとめ、それを釜に入れて蒸します。その間に、合わせ味噌、みりん、酒に胡麻を混ぜて作ったたれを蒸した大根につけます。以上で出来上がりです」
「なるほど、おいしそうですね。よろしく頼みます」
 おすみは、といだ米が入った釜を竈に乗せてから、林巻大根を作り始めた。
銀之助は、切ったにんじんを白味噌で和え、小皿に移して胡麻をかけ、‘にんじんの黒和え’を二十人分作った。
準備が終わり、銀之助たちが賄飯を食べていた時に、おつたとおみねがやって来た。
「お二人さん、いつもすみませんね」
 おすみが、二人に膳を運んできた。
「何いってんの、それより気を付けてね」
おつたがいいながら、おすみは、賄飯を食べた。
「林巻大根、おいしいわね」
 おみねが、いった。
「店、よろしく頼みます」といって、銀之助は二階に上がり、それからしばらくして、銀之助は風呂敷包み背負って、裏口から出て行った。
浅草聖天町を抜ける前に、待乳山聖天宮に詣でた。
大川の水面が、春の色合いを映し始めていた。
 丘を下って、谷中へと出て天王寺近くに来た。
(このあたりかな)
銀之助は、天王寺に寄ってから貞家を探すことにした。
天王寺は、日蓮が鎌倉と安房を往復する際、関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来、そして日蓮の弟子の日源が法華曼荼羅を勧請して開山したと立札に書いてあった。
 やっと、貞家を見つけた。水樽の陰に隠れていた橋本順之助を見て、銀之助は、貞家の腰高障子戸に向かった。
 そして、息を整え、やや緊張しながらいった。
「古着屋の白木屋でございます。おかみさん、良い着物がありますので、見ていただけませんか」
「はい、はい」と声がして、障子戸が開いた。
(なんと、艶めかしい女なんだ、弥助さんから聞いた通りの女だ。この女がおとせっていうんだな)
 銀之助は、しばし見惚れていた。
「あんた、初顔だね」
「へい、つい最近この辺りを回り始めた者で、白木屋の長助といいます。お見知り置き下さい」
「挨拶はその辺でいいから、早く着物を見せておくれよ」
 銀之助は上がり框に腰を下ろして、風呂敷包みを床に置き、広げた。
「いかがですか」
「古着とは思えない綺麗なものばかりね」
 おとせは、その中から淡い桃色に紅梅の花が散りばめられた小袖を手にとって、身体に当てた。
「どう、似合うかしら」
「よくお似合いですよ」
 銀之助は、手鏡を取り出し、おとせに向けた。
「これ、いただくわ。お勘定は今日でないとだめかしら」
「いえ、いつでも結構ですよ」
「明日、払うわ。その時、男物を持ってきてくれない」

 八ツ半(三時)に、銀之助は店に戻った。
 おすみたちに留守中の礼をいって二階に上がり、着替えてから下に降りた。
橋本が、来ていた。
「どうであった。」
「明日、男物を持ってきてくれといわれました」
「危ないな」と橋本はいい、明日の策を確認をして帰って行った。
 
 昼の開店前の準備に、昨日と同様、おすみ、おつた、おみねたちと銀之助は、忙しかった。 
 準備が終わったのは、四ツ刻半頃であった。
「では出かけてきます、後はよろしくお願いします」
「銀之助さん、気を付けてね」
おすみたちに、店を任せて銀之助は、貞家に行った。
「長助さん、主がまだ帰ってこないんで、上がって待っていてください」
(きたか)
銀之助は、居間に案内された。
「長助さん、しばらくお待ちくださいね」
 おとせが、部屋を出て行った。
 銀之助は、障子を開け、庭を見た。橋本順之助は、すでに木の陰に隠れていた。
 しばらくして、おとせが、酒と肴を箱膳に乗せて持ってきた。
「長助さん、主が来るまで一杯いかがですか」
銀之助の隣に座って、徳利を持って酌をしようとした。
「まだ仕事中なので、ご勘弁を」
 そんなやり取りを何回かしているうちに、銀之助は、何杯か呑んでしまった。
「おとせさん、眠くなってきたんで、ちょっと横にならせてもらっていいですかい・・・」
「どうぞ、楽にしてください」
銀之助が、横になって鼾をかき始めた時、襖戸が開いた。
貞家の主の貞七が二人の浪人を伴って、入ってきた。
「こいつは、効き目がはえや」
 おとせは、髪を乱し、着物を肌蹴だして仰向けに寝た。
「おい、やっこさんをおとせの上に乗せてくだせえ」
 貞七は、二人に命じた。
 二人は銀之助の着物を肌蹴させてから、六尺ほどの背丈のある大男が脇の下を、背の低い男は、足を持っておとせの身体にうつ伏せに乗せた。
 おとせの色香が漂い、おとせの顔、切れ長の目そして、おちょぼ口が目の前にあった。
(このあたりで、始末をつけるか)
銀之助は、目を見開いた。
「げえぇ」
 おちょぼ口が動き、おとせは震える手で銀之助を押しのけた。
 銀之助は、それを反動として、立ち上がり障子戸を背にした。そして、戸を引き開けた。
「お前たち、いつもこの手で人から金をむしり取っているんだな、許せねえ」
 貞七は、我に返った。
「てめえ、いったい何者だ」
懐から匕首を出した。
「先生、こいつをやっつけてくだせぇ」
 大男の浪人が、抜刀するや否や、上段から銀之助を斬りつけてきた。 
そこを銀之助は、左にかわしながら、庭に飛び降りた。
「銀之助さん、ほれ」
 木陰から出ていた橋本順之助が、丸棒を銀之助めがけて投げた。 
「ありがたい」と、銀之助が丸棒を受け取った。
振りかぶって来た大男が切り下げるのと同時に、銀之助は丸棒で胴を撃った。
「うっ」
大男が倒れると同時に、銀之助の右肩口からは、血が流れた。
一方、橋本はなんなく小柄な浪人を峰で撃って、居間に上がっていた。
銀之助も居間に上がった。
「あんた、早くやっちまいなよ」
 おとせは、匕首を握りしめ、貞七の後ろに退きながらいった。
 貞七が形相を変えて、匕首を振り上げ銀之助に向かってきた。
「ギャー」
 貞七は匕首を畳に落とし、左手で手首を押さえて座り込んでしまった。
 橋本はおとせに近づいた。
「やめて、お金は全部渡すから」
橋本は目にもとまらぬ早さの居合で、おとせの島田髷をあっという間に残ばらにさせた。
「おい、貞七。いままで脅して金を取って来た人間の名前と金額を教えろ」
 銀之助が丸棒を貞七の首にあてた。
「隣の部屋の奥の箪笥だ」
 橋本が、戸襖を開けて、箪笥のそばに行った。
「どこにあるんだ」
「上の戸袋だ」
 橋本が、帳面と金の入った箱を引き出した。
「あまり入ってねえじゃねえか」
「使っちまった」
「どうして返す」
 おとせが、いった。
「あたしの着物を持ってお行き」
「銀之助さん、弥助の五両だけでいいだろう」
 といいながら、橋本は、火鉢の中の火を帳面つけ、庭に放り投げた。
うまいもん屋に銀之助と橋本が戻ったのは、西の空に陽が落ちてしまった暮れの六ツ刻だった。
 裏戸から入って、勝手場に顔を出した。
「お二人とも御無事でよかった」
いち早く二人に気づいたおすみが、嬉しそうにいった。
「ほらごらん、おすみさん。橋本様と銀之助さんならうまくやって来るといったじゃないか」
 おみねが、徳利に酒を入れながらいった。
「橋本様、長屋の連中が来るまで、店で一杯飲んでいてください」
 銀之助にいわれて橋本は、勝手場から店に入って行った。
「いらっしゃいませ」
店からおつたの声が、聞こえてきた。
 しばらくして、勝手場に戻って来たおつたが、弥助が来たことを銀之助に伝えた。
「おつたさん、すまないが、弥助さんを二階に案内してもらえませんか」と、いってから、今度はおすみに向かって、銀之助は、今いる客がいなくなったら、すぐ店を閉めるよう頼んで、風呂敷包みを背負って二階に上がった。
 橋本は、店の樽に腰かけて、田楽豆腐を肴に酒を飲み始めていた。
二階の部屋には、すでに行灯に灯がともっていた。
 弥助が、心配そうな顔つきで座っていた。
 銀之助は、貞家での今日の出来事について、手短に話して、懐から若草色の丹後縮緬のを出して開いた。
「弥助さん、貞家から五両、取り返してきました。もうあいつらは、あんたを脅すことはしないと思いますよ」
 やっと弥助は納得し、畳に頭を擦り付けるほどに頭を下げた。
頭を下げ続けた弥助がいうには、ちょっと前まで、貞家に乗り込んで、おとせ立ちを亡き者にしようか、それとも自害しようか悩み続けていたと打ち明けた。
 また、弥助の母親は、昨年から病で床に臥せっており、母一人を残すことに未練が残っていたともいった。
 思い出したように、弥助は懐から一両を出し、銀之助に差し出した。
「このお金を受け取ってください」
「これは、貞家に渡すつもりで持ってきたものです。受け取っていただかないと気持ちがすみません」
 銀之助は、頑として受け取らなかった。
「銀之助さん、源一さんたちが来ましたよ」
 戸襖の向こうから、おすみの声がした。
銀之助は、この度の件で源一たちの手伝いについて、弥助に話をしてから、ふたりは一階に降りて店へ入った。
「銀之助さん、御無事で何よりです。肩に血のようなものが」
 大工の源一が、心配そうにいった。
「銀之助さん、大丈夫かな。それがしは全く気付かずお恥ずかしい限りだ」
「橋本様、かすり傷です。六尺の大男は、銀太さんがいっていたように、手ごわかったですね。」
「その浪人に勝つなんぞ、銀之助さんは、大したもんだ」
 簪職人の銀太がいった。
 そばで聞いていた弥助は、驚き頭をまた下げた。
「銀之助さん、申し訳ございませんでした」
 銀之助は、皆に弥助を紹介し、弥助に樽に腰かけるよう勧めた。
 弥助は、皆に礼をいって、頭を深々と下げてから腰かけた。
 おすみたちが、酒と肴を次々と運んできた。
「はい、勇治さんからの差し入れのめざしいわしを焼いてきました」
「勇治、味なことをやるじゃないか」
 橋本順之助が、めざしを手に取りながらいった。
「しかし、どうして貞家で酒を飲んでも眠らないで済んだんですか」
 いつの間にか、銀之助の隣に腰かけていたおすみがいった。
「橋本様が、薬種問屋の田辺屋から、眠り薬を飲まされても眠らずに済む薬を、手に入れてきて下さったのを飲んだんですよ」
「あの薬な、田辺屋が唐辛子や黄辛子など辛いものを煎じて作ってくれたんだ」
「だから、噛み潰したとき、涙が止まらなくなったんですね。おとせの顔に涙が垂れたので、おとせの驚きは、尋常ではありませんでしたよ」
 皆、笑ったが、弥助は咽び泣いていた。
しばらくして、
「皆さん、御粥が出来ました」
おすみたちが、盆に乗せて持ってきた。
 真っ先に、橋本が箸を取った。
「こりゃうまい」
「若狭の白がゆです。これも八百膳で覚えたんです。まだ、お品書きに入れてませんけど」
 おすみは嬉しそうに、橋本に向かっていった。
 一刻ほどして、おすみたち女が片付けをするのを待って、橋本たちは、長屋へ帰って行った。
弥助は、外で橋本たちが見えなくなるまで、頭を下げていた。
「銀之助さん、いろいろありがとうございました」
 中に入って改めて頭を下げ、弥助も店を後にした。
 銀之助は、静かになった店の中の行灯を消そうとした時、弥助が座っていた樽の上に袱紗が置いてあるのに気づいた。
(弥助さん、気を使って)
 勝手場に戻り、明日の段取りを終えてから、徳利を片手に二階に上がった。
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