第五話 瞽女(ごぜ)(夏)
暑い朝だった。
棒手降りの勇治が店の裏にやってきたのを銀之助が迎えた。
「銀之助さん、うまいもん屋が料理競技会番付に載ってましたよ」と、言って懐から番付表を出して、銀之助に見せた。
「どこですか」
「ここです」
八百善が真ん中に大きな文字で書かれているのに対して、うまいもん屋は最下段の隅に小さい字で書かれていた。
銀之助があまり喜んでいない様子を見て、勇治が言った。
「これに載るなんて大したもんですよ」
「これ借りてもいいですか」
「あげます」
銀之助はさっそくおすみに勇治からもらった番付表を見せた。
「まあ、すごい」と、おすみは感激した様子であった。
暮れ七ツ時。
うまいもん屋は、多くの客でごった返していた。
常連の徳衛門長屋の大工の源一が、弟子二人に大声で、自慢話をしていた。
また、葉煙草刻問屋の番頭の弥助は、店の片隅の行灯近くの席で、いつものように、ちびちびやっていた。
他には、大声で煙管を加えてしゃべっている鳶職の三人や、数人の町人たちがいた。
いつの間にか、雨が降り始めていた。
「いらっしゃい」
お玉の声が、店中に響いた。
女二人が中に入らずに立っていた。その一人が、お玉に、門付(人家の門前に立って、音曲を奏するなどの芸をし、金品をもらい受けること)してもよいかと、いった。
手引きをしている女は、雪といい、二十前の娘で、綱で導かれている女は梅、三十路半ばくらいと思われた。
「雪さん、梅さん、お店の中で遠慮しないでやって行ってください」
お玉に導かれて、二人は店に入り、合羽を脱いだ。雪も梅も、黄八丈の着物を着ていた。雪は、背の大事に包まれていた三味線をおろした。
店の客たちの目が、二人に注がれた。
支度が整うと、何人かの客が、拍手をした。
雪と梅が三味線を弾き始め、梅がいった。
「‘忍寄恋曲者’唄います」
‘ぺペン、ペン、ペペペン’
♪嵯峨や御室の花盛り、浮気な蝶も色かせぐ、廓の者に連れられて、外珍しき嵐山・・♪
唄が終わった。
拍手が鳴り響いたと同時に、
「おーい、娘、こっち来て飲めや」
鳶職人から声がかかり、雪は、梅を引きながら席に行った。
雪が、その職人の一人の前に立った時、悲鳴を上げた。
「やめてください」
「銭出すからよ、少しぐらいいいじゃねえか」
と組と書かれた半纏を着た男が、また雪の尻を触ろうとした時、
「お前。何、やってんだ」
隣の席にいた源一が、立ち上がって、怒鳴った。
「なんで、てめえは」
「娘さん、嫌がっているじゃねえか。謝れ」
「うるせえ」
男は、雪の持っている箱の銭を掴んで源一めがけて、投げはなった。
「こいつ、やったな」
源一が、掴みかかった。男は、源一の腕を掴んだ。
「おい、大工。外へ出ろ」
おすみが飛んでやって来た。
「ちょっと、待ちなさいよ。鳶のだんな、ここは、あんたたちの来る店じゃないよ。女の尻を触りたきゃ吉原に行ってきな。とっとと、お帰り」
「このあま、生意気なことをいいやがる。この野郎」
男は、おすみの胸ぐらを掴んだ。
「お客さん、申し訳ありません。ここは、飯屋なんで、お客さんに迷惑かけられると困りますので、静かにしてもらえませんか」
銀之助が、割って入った。
「おめえ、店の主か。客をなんだと思っているんだ」
「先ほど、店の者がいいましたように、ここは吉原ではありませんので、うちの客だとは思っておりません」
「おめえ、火消をなめるのか」
もう一人の鳶がいった。
「皆さん、外で話しましょう」
銀之助が、三人を外へと促した。
外は、街路にある行燈が、霧雨を照らしていた。
急に、尻を触った男が、銀之助の胸ぐらを掴んできた。
「お客さん、乱暴はいけねえや」
「うるせえ」
銀之助は、男の手首を掴み捻り上げた。
「いてえ、畜生」
男が、銀之助の足を払おうとした時、
‘バターン’
男が仰向けになって倒れた。
それを、他の二人は、驚きのあまりただ茫然と見ていた。
「銀之助さん、いいぞ。銀之助さんにかないっこねえ、とっとと、消え失せろ」
源一が、叫んだ。
「覚えて いろ 」
倒れた男が、やっとの思いで言った。
「大丈夫か」
「おいうまいもん屋、また来るぜ」
兄貴分の男がいった。
そして、もう一人の男と倒れた男を抱きかかえて、帰って行った。
銀之助と源一は、店の中に戻った。
おすみが、心配そうに迎えた。
お玉は、二人に手拭いを渡した。
銀之助は、顔を拭いた。そして、客に頭を下げてからいった。
「皆さん、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。これからは、飲み代はただにさせていただきます。遠慮なく飲んで行ってください」
客たちから、拍手が起こり、また「うまいもん屋、日本一!」と掛け声がかかった。
銀之助は、深々と頭を下げ、勝手場に戻って行った。
おすみとお玉は、震えている雪と梅を源一の近くの席に座らせた。
「もう、心配いりませんよ。ご飯を食べて行ってくださいね」
おすみがいって、お玉と勝手場に戻った。
「さあ、忙しいわよ」
おすみは、余っている徳利に酒を入れ、お玉は、隠元煮びたしをいくつもの小皿に盛って、客たちの席に次々と運んだ。
勝手場に戻ってきたおすみに銀之助が言った。
「おすみさん、お雪さんたちに蛤の小鍋立てと山吹飯を出したいので、手伝ってもらえませんか」
「はい、じゃあたしは山吹飯をつくりますわ」
銀之助は先日おすみから教わった蛤の小鍋立てを帳面を見ながら作り始めた。
蛤、豆腐、油揚げ、千切りにした大根、三寸ほどの昆布そして、うどんを入れた鍋が煮立ったのを銀之助は見計らって、それに少々の三つ葉を入れ、蛤の小鍋立てを作った。
おすみは、飯に固ゆでして裏ごしした卵の黄身と、せりのみじん切りを載せ、吸い物加減のだしをかけ、手際よく山吹飯を作り終えた。
「お玉さん、お雪さんたちにこれを持って行ってください」と、銀之助は戻ってきたお玉に言った。
雪たちが食べ終わったのを見計らって、銀之助は雪の所に行った。
「今日は、迷惑を掛けました。これを」といって、二十文を出し箱に入れた。
「食事だけでなく、お金までいただいて、申し訳ありません。ありがとうございます」
梅がいって、二人は頭を下げた。
客たちも次々と、
「また来いよ」
「いい声また聞かせてくれ」と、声を掛けながら、銭を箱に入れに来た。
雪が、もう一曲、お礼に唄わせてもらってもいいかと銀之助にいった。
銀之助は、頷いた。
二人は、店の真ん中に立ち、深々と客たちに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。歌で、お詫びさせてくださいませ」
♪ぺペン・・・・・
♪この世の四季はうつろい易く 冴え返る春の寒さに降る雨も 暮れて何時しか雪となり ひとの気配も途絶えにけり 日は過ぎ 春風誘い 人の心も和みけり 夏の夕べに降る雨は 人を追い立て 光る空 秋の兆しは すすき なびく 野の小道 歩く二人を月が照らす 木枯らしが 木の葉を舞い上げ年の瀬に~
♪ペンぺペンペン
♪およそ千年の鶴は 万歳とうとうたり
♪ペペンペン・♪
店中に梅の声が朗々と響きわたり、客はうっとりと聞き惚れた。
「お二人さん、遠慮なくいつでも来てくださいな」
銀之助たちは、雪たちを外に出て見送った。
それから、四半刻(三十分)ほどで、客たちもすっかり酔って帰って行った。
片付けを済ましたおすみとお玉に、銀之助は今日の給金といっていつもより多い百文(九十六文を細い縄で通したもので、四文は数える手数料といわれて差し引かれていた)を渡した。
「こんなにもらっていいんですか」
「恐かったでしょう。良くやってくれました。明日もよろしく」
おすみとお玉は、先ほどの出来事を忘れたかのように、笑顔で帰って行った。
勝手場の行灯を消して、銀之助はいつものように徳利を持って、二階に上がった。
やりきれない気持ちが、銀之助の眠気を遠ざけた。
朝から靄っていた。
銀之助、お玉は、二八そばを打ち、おすみは、茄子の揚げ出しを作っていた。
今まで、屋台の連中に気遣って蕎麦とうどんは献立に入れていなかったが、多くの客が昼だけでも食べたいと言っているので、昼だけ蕎麦をお品書きに入れた。
準備ができた四ツ刻(十一時)、
「銀之助さん、いるかい」
橋本順之助が、裏口から入ってきた。
「橋本様、どうされたんですか。」
「おすみさんから、話を聞いて心配になって来たんだ。今日あたり、鳶たちが仕返しに来るかもしれん。今日は、うまいもん屋の用心棒だ」
「橋本様がいてくれたら、鬼に金棒ね、銀之助さん」
おすみが、銀之助に向かっていった。
「橋本様、ありがとうございます」
銀之助が、頭を下げた。
「はい、橋本様。召し上がれ」
お玉が、花巻蕎麦を橋本の前に置いた。
「浅草海苔か、うまそうだな。いただくか」
「さあ、お店を開きますよ」といって、おすみは、すぐに暖簾を掛けに行った。
お玉も店に入った。
すぐに、弥助がいつものように、こんちわといっていつもの席に腰をかけた。
「いらっしゃい」
「お玉さん、今日の献立はなんですか」
「花巻蕎麦と茄子の揚げ出しですよ」
「美味しそうですね」
お玉は、そんなやり取りもすぐに切り上げ、次々と入ってくる客の注文を取りに行った。
客が引いた八ツ刻、おすみが暖簾をしまいに外へ出た。
「おい、銀之助はいるかい」
この間の鳶職人三人と新手の三人が、鳶口を持って立っていた。
おすみは、慌てて店の中に入って行った。
「銀之助さん、あいつらが来たわ」
「来たか。何人だ」
「六人です。皆、鳶口を持っています。六尺ぐらいの大男もいます」
「事を荒げたくないので、何とか、話で済ませないと」
銀之助は、橋本に丸棒を取ってくるといって、二階に上がった。
橋本は、長刀を差した。
銀之助が戻ってきた。
「銀之助、臆病風に吹かれたか」
外で怒鳴っているのが、聞こえた。
「行くか」
橋本が、銀之助を促した。
「橋本様、ここは私一人で行きます」
「助太刀させてもらうよ、心配するな」
銀之助に続いて、橋本も外へ出た。
「なんだ、今日はちび浪人の助っ人か」
六尺の大男がいうと、鳶たちは大声で笑った。大男が、橋本の胸ぐらを掴んだ瞬間、
「あっ」と仰向けにひっくりかえっていた。
「いてえ、おめえら、こいつらをやっちめえ」
鳶たちは、鳶口を構えて、橋本と銀之助を取り囲んだ。
銀之助が、背の丸棒を掴んだ。
「御用だ、御用だ」
八丁堀の同心と手先たちが、いつの間にか走り出てきた。。
「皆、おとなしくしろ。鳶口を放せ」
「そこの浪人、刀を置け」
「銀之助さん、これはまいったな」
「橋本様、おとなしくしましょう」
銀之助は、入口で心配そうに見ていたおすみの傍に丸棒投げた。
「おすみさん、心配しないで。夜、よろしく頼みます」
銀之助と橋本そして、鳶たちは、縄を掛けら八丁堀に連れていかれた。
七ツ刻(午後四時)、おすみは、銀之助のいないうまいもん屋の暖簾を掛けた。
弥助が入ってきた。お玉は、いつもの席に案内した。
「お玉さん、どうした」
弥助は、元気のないお玉に声を掛けた。
お玉は、銀之助と橋本が、昨日の鳶たちともめていたことで、奉行所に連れて行かれたことを話した。
弥助は、言葉を失った。
「こんばんわ」
雪が、高障子戸を開けた。
「いらっしゃい。雪さん・・」
おすみは、驚いた。どうぞといった声にいつもの張りはなかったが、すぐに雪たちを入り口近くの席に案内した。
「おすみさん、元気がないみたいですね、どうかしたのですか」
雪が、心配そうな声でいった。
おすみは、銀之助たちが八丁堀に連れて行かれた話をした。
「皆様に、ご迷惑をおかけしてしまって」
梅が申し訳なさそうにいった。
「雪、豊島町の元締めに一肌脱いでもらおう」
といって、梅は、雪を追い立てるように店を出て行った。
お玉が、きょとんとした顔で、二人を見送った。
(豊島町からだとちょっと時間がかかるわ)おすみは、今日は無理かもしれないと思った時、客が来た。
「お玉さん、ご案内して」
我に返ったおすみは、茫然としているお玉に声を掛けた。
それからというもの、二人は目が回るほど働いた。
やっと客が帰り、暖簾をはずして、片付けをしていると、高障子戸の向こうから声がした。
「お雪さん?」
おすみが、小走りに入り口に行き、心張り棒をはずした。
雪と梅と年増の女が立っていた。
「雪さん、どうしたの」
「おすみさん、私たちの師匠を連れてきました」
「松野とよ、と申します。うちの雪と梅が大変お世話になって、そのために御主人とお侍さんが八丁堀に捕まった事とのこと、申し訳ありません」
松野は、銀之助と橋本順之助の名前をおすみから聞き、雪たちを残し、八丁堀に向かった。
南町奉行所では、半刻ほど銀之助と橋本が同心から詰問され、そして、二人は牢に入れられた。
「銀之助さん、参ったな。いつ出れるかな」
「橋本様、覚悟を決めてゆっくりしましょう。彼らが悪いとわかれば、すぐに出れますよ」
その頃、とよは、八丁堀に着いて、門番に声をかけていた。
「とよさん、今日は何の御用ですかい」
仕事柄、とよは、八丁堀でも顔が知られていた。
「与力の石原伸之介様に会いたい」といって、紙につつんだものを手渡した。
門番はそれを懐に入れて、ここで待っているように告げて、屋敷に向かった。
とよは、残った門番にも紙包みを渡した。
しばらくして、先ほどの門番が戻ってきて、とよを奉行所の中の面談所に案内した。
「とよ、如何した」
とよは、銀之助たちの諍いについて、詳しく話をした。
「そうか、それでは喧嘩両成敗にはならんな。分かった。おーい、だれか」
石原は、近習の者を呼んで、担当の同心を次の間に呼んでくるように伝えた。
「とよ、すぐに銀之助たちを釈放するから帰れ」
とよは、持ってきた菓子折りを石原の前に差し出した。
「おい、起きろ。二人とも出ろ」
同心の松木仁衛門が怒鳴った。
牢番が、鍵を開けた。
銀之助たちが、奉行所を出たのは、明け六ツ刻であった。
うまいもん屋に戻った時には、東の方には、陽が昇っていた。
裏口の戸を開けて、勝手場に入ると、おすみがいた。
「おすみさん」
おすみは、驚いた。
「おすみさん、店にずっといたんですか」
「うまいもん屋を贔屓にしてくれる人たちのために、お店を開かないといけませんから」
おすみは、茄子を切りながら言った。
「今日の献立は」
「茄子の鴫焼きと稲荷です」
「おはようございます」
お玉が勝手場に来た。
「銀之助さん、いつ戻って来たんですか。よかった」
「おすみさん、お玉さん、ありがとう」
銀之助は、嬉しかった。
おすみが言った。
「昨日の雪と梅が、豊島町から松野とよさんという方を連れてきたんです。 そして、とよさんは、すぐに八丁堀に行ったんですよ」
「そうですか。今度お礼に行かなければなりませんね」
「お礼はいりませんと、言ってました。先日のお礼だと」
銀之助も稲荷を作り始めた。
四ツ半、浅草寺の鐘が流れた。
「さあ、銀之助さん、開きますよ」
おすみが、暖簾を掛けに外へ出た。
「御免なすって、銀之助さんはいますか」
と組の法被を着た老年の男が、渋い声でいった。
「どちら様ですか」
「と組の頭取の伝次郎といいます」
中に入って下さいとおすみは、伝次郎にいい樽に座らせてから、銀之助を呼びに行った。
すぐに、銀之助は、おすみに連れられ、伝次郎の席に来た。
「何か御用で」
「あっしは、この界隈の火消と組の頭、伝次郎と申します。お見知りおきを」
男は、頭を下げた。
「先日は、うちの者が、皆さんにご迷惑をおかけしたようで、申し訳ねえ。この通りだ許しておくんなせえ」
伝次郎は、深々と頭を下げた。
改めて、詫びの席を設けるといって、話もせずに伝次郎は帰って行った。
三日後、銀之助と橋本たち長屋の連中が、大川端にある料理屋に呼ばれた。
料理屋の入り口には、伝次郎を先頭として、と組の半纏を着た連中が、銀之助たちを迎えた。
二階にはすでに、とよたちが上座に座っていた。
「おとよさん、先日はありがとうございました」銀之助は、とよに頭を下げた。
皆が席に着いたのを見て、伝次郎が銀之助たちの前にすり出た。
「この度は、うちの連中が皆様に大変ご迷惑おかけして、申し訳ございませんでした。」
一斉に、二十人ほどの火消の連中が、一斉に頭を下げた。
「大したおもてなしはできませんが、今日はごゆっくりしていっておくんなさいまし」
芝海老豆腐、鰺のきずし、茄子の鴫焼き、香の物と次々と運ばれてきて、銀之助たちは食べるのに勤しんだ。
しばらくすると、火消の連中が、とよたちや、銀之助たちの前に来て酌をし始めた。
座は入り乱れ、ざわめき盛り上がった。
半時ほど過ぎた時、伝次郎が木遣りを唄うといった。
おすみたちは、拍手をして始まるのを待った。
伝次郎が、どすの利いたかすれ声で、唄った。
♪えーえーえー。えーいーえー。ぎんーのー。かんざーしー。♪
続いて、火消の連中たちが、声を合わせて、
♪えーえー。はーれーわーな。やーっさい。やっさーやっせー。♪
唄い終わった伝次郎が、とよに歌を頼んだ。
とよは、雪と梅に唄わせてもらいなさいといった。
雪が「縁かいな、をやらせてもらいます」といって、三味線を弾き始め、梅が唄い始めた。
♪夏の涼みは両国の 出船入り船屋形船 上がる流星星下り 玉屋が取り持つ縁かいな
秋の眺めは石山で 出船入り船屋形船 上がる石場の艶姿 月が取り持つ縁かいな~♪
伝次郎が、今度は銀之助たちに歌をせがんだ。
「よし、拙者が、かっぽれを唄おう。おすみさん、三味を頼む。
♪かっぽれかっぽれ(ヨーイートナ ヨイヨイ)沖の暗いのに白帆が見ゆる(ヨイトコリャサ)
あれは紀の国(ヤレコノコレワイノサヨイトコリャサ)みかん舟じゃェ(サテみかん舟)みかん舟じゃ
さー見ゆる(ヨイトコリャサ)あれは紀の国ヤレコノコレワイノサ(ヨイトサツサツサ)
みかん舟じゃェ~♪
一刻ほど過ぎた頃、岡引きの常吉が、同心の松木仁衛門を伴って部屋に入ってきた。
「松木様、これはわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
伝次郎が席を立って、二人を迎えた。
とよ達は、二人のために席を譲った。
「悪いのう」と言って、松木が盃を持った。
とよが酌をした。
「とよさん、銀之助や橋本順之助とやらは、良く存じておるのかな。二人とも腕が立つそうだ」
「松木様、銀之助さんがやってるうまいもん屋の料理の味が、評判だとのうわさは聞いておりましたが、今回の雪と梅の件でお二人を知った次第でございます」
「そうか」
「何か」
「いや、なんでもない」
松木は、盃を空けて、とよに渡した。
おすみは、二人の会話を聞きながら、常吉の盃に酌をしていた。
「おすみさんは、相変わらず綺麗だね」
「親分さんは、冗談がお上手なこと」
松木の前に、銀之助が酌に行った。
「松木様、この度はお世話になりました」
「とよさんに、よく礼をいっておくがいいぞ」
銀之助は、多少言葉を交わしてから交わして、常吉の前に移った。
「親分、今後ともよろしくお願いします」
「時々、よって飯を食わして貰うぜ。おめえも一杯やんねえか」
常吉は、銀之助に酌をした。
橋本は、長屋の女たちから酌を何回も受け、顔が真っ赤に染まっていた。
中締めを終えた頃合を見計らって、松木、常吉そして、伝次郎たちに別れを告げ、銀之助やとよ達は料理屋を出た。
川面を伝わって、さわやかな風がほろ酔い気分の銀之助たちを、流れるように通り過ぎた。
大川橋で、銀之助たちは足を止め、川面に映っている夕陽の上を、とよた達を乗せた屋根船が滑るように上って行くのを見送った。
「もうすぐ、ほおずき市ですね」
おすみが、銀之助にいった。
「四万六千日のご縁日ですか。時が経つのは早いものです」
西の空には、夕陽に吸い込まれるように、数羽の雁が飛んで行った。
ほおずき市も終わり、八月を迎えると銀之助、おすみ、勇治夫婦、源一夫婦、銀太そして、お玉の七人が大山詣りに江戸を発った。
赤沢が店番だけでなく、お玉の息子安吉の面倒を見ることも快く受けてくれたので、銀之助たちは安心して大山街道をにぎやかに歩いた。
長津田宿で一泊して、翌日、御師の坊に入った。
御師が出迎えた。
「皆さん、お詣りご苦労様です。一休みしたら、近くの滝で心身を清めてください。それがすんだら、お祓いを受けてから夕餉にします。明日は早いです。八ツ(朝二時)にここを発って阿夫利神社本社にお詣りし、御来光を拝みます。明日は天気が良さそうなのできれいに見えるでしょう」
夕食の豆腐料理に皆、舌鼓を打った。
「やはり、水がおいしいから豆腐がうまいはずだ」
まだ暗かった。
銀之助たちは、御師が準備してくれた行衣を着て外に出た。
ここからの星は、浅草からよりも、一段と輝きが勝っているように銀之助には見えた。
暗闇の中、御師に続いて銀之助たちは、道端の行燈をたよりにこま参道を登った。
御師が立ち止まり振り返って、銀之助たちに向かって言った。
「皆さんは初めてのようですから、これから女坂を通って、大山寺経由で阿夫利神社へ行きます」
「なんで男の俺が女坂で行かなきゃならねえのか」と、鳶の源一が不平を漏らした。
「男坂はかなりきつい坂ですし、この坂では大山寺を通りませんが、それでも男坂で行きたい方は、右手の道を登って行ってください」
「分かりました。仕方がないけど女坂で行きますよ」
銀之助たちは笑った。
おつたは恥ずかしがっていた。
大山寺に着き、御師が話始めた。
「大山は、別名あめふり山とも呼ばれ広く親しまれてきました。このあめふりの名は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれて参りました。この寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(七五五)に開山したと言われています。行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立し、その後、第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、大山七不思議と称される霊地信仰を確立されました。また、御本尊の不動明王は、参拝する人々に、わけ隔てなく現世の悩み、苦難を助けてくださる仏様ですので、本堂にて一心に願い事を祈ってください。では、ご住職に皆様の安全の祈願をしてもらいますので、本堂にあがってください」
お経が終わって、銀之助たちは阿夫利神社下社に行った。
御師が神社の説明を始めた。
「神社は、今から二千二百余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられています。奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となりました。そして、武家の政権始まった後も源頼朝公を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、そして武運長久を祈りました。これからお祓いを受けます。それが終わったら、拝殿近くに神水が湧き出ていますので、ぜひ飲んでください。これを飲むと殖産および延命長寿にご利益があると言われています」
お祓いがすむと真っ先に源一が神水を飲みに行った。
「おいしい」柄杓一杯を飲んで源一は、神水を竹筒に注いだ。
おみねは「ご利益がたくさんあるように」と言って、がぶがぶと飲んだ。
最後になった銀之助は多少口に含んで、御師の所に戻ろうとすると、
「銀之助さん、もっと飲まなければ長生きできないよ」と、おみねが言ったので、おすみたちが笑った。
「では、これから本社に行きます」と言って、御師は本社へと案内した。
階段の途中、おみねが前を歩いているおすみに訴えた。
「おすみさん、横腹が痛いよ」
「おみねさん、無理しないでゆっくり登ってください」と言って、おすみはおみねに手を貸した。
本社に着いた時、ちょうど東の空から陽が昇り始めた。
静けさの中に拍手が起こった。
そして、皆手を合わせた。
長くおすみが手を合わせていたので、銀之助が近づき声を落として聞いた。
「おすみさん、何を祈っているのですか」
「たくさんです」
「そろそろ下山します」と、御師の声がした。
銀之助たちは、こま参道の土産物店に入った。
「お玉さん、安坊にこのこまをお土産に買ってたらどう」と、おすみがお玉に向かって言った。
「そうね、買っていこう」
銀之助はおおやま菜漬をたくさん買った。
「銀之助さん、そんなたくさん買ってどうするの」おすみがそばに来ていった。
「お客さんに、出そうかと思ってね」
長屋の連中もたくさんの土産を買っていた。
銀之助たちは、御師の坊で昼食の弁当を食べて、下鶴間宿と溝口二子宿で宿を取って、江戸に戻った。
昼近く、うまいもん屋の障子戸を銀之助が開けて、楽しかったと皆が笑いながら店の中に入った。
突然、中にいた赤沢が真青な顔で、お玉を見つけて、近づき言った。
「安吉が昨日から帰っていないんだ」
「なんですって」
「赤沢さん、落ち着いて話してくれませんか」
銀之助の声も上ずっていた。
「分かった。昨日、昼飯を食べた安吉が浅草寺に遊びに行くといったんで、近場だから別に心配することもないので、気を付けて行って来いと。しかし、夜になっても帰ってこないもんだから、浅草寺界隈を探しまわったが見つからなかった。心配で仕方ないから八丁堀に行って、松木さんに頼んで常吉親分に探すのを手伝ってもらっているんだが、まだ見つからない。本当にすまない」
「人さらいにでもあったのかしら」と、おすみが泣きそうな顔で言った。
「そんなばかな」お玉が驚愕に震えた。
「お玉さん、安坊が行きそうなところどこか思い当たりませんか」と、落ち着いてきた銀之助がやさしく言った。
しばらく、お玉は思案していた。
「お玉さん、どこでもいいから早く言ってよ」と、おつたが言った。
「俺たちも探すから早く言ってくれ」と、勇治がせかした。
「浅草寺界隈を私と勇治さん、源一さん、銀太さんで、後は長屋周辺をおすみさん、おつたさん、おみねさんで探しましょう。店には赤沢さんとお玉さんが残ってください」と、銀之助が皆に向かって言った。
「皆さん、よろしくお願いいたします」と言って、お玉は頭を下げ続けた。
一刻ほど過ぎて、おすみたちが安吉を連れて店に戻ってきた。
お玉が、それに気づいた。
「安吉、どこにいたの」お玉が安吉を抱きしめながら言った。
赤沢もほっとした顔で安吉に言った。
「おまえ、なぜ長屋なんかにいたんだ」
「安坊は浅草寺あたりで遊んでいたんだけど、そこですりが役人に捕まったのを見て、長屋に泥棒が入らないか心配になり、それで、長屋に行って皆が大山から帰ってくるまで番をしていたんですって」と、おすみが安吉の代わりに答えた。
「おまえ、一体いくつになったんだ」
「八歳」
赤沢が、感心した時、銀之助たちが帰ってきた。
「銀之助さん、長屋で見つかったよ」と、赤沢が真っ先に言った。
そして、おすみが話を続けた。
終わると、銀之助は勝手場に行き、酒とおおやま菜漬を皿に盛って運んできた。
「大山詣りの話を聞かせてくれないか」と、赤沢が盃を手にもって言った。
それから、店の中は笑い声が絶えなかった。
つづく
暑い朝だった。
棒手降りの勇治が店の裏にやってきたのを銀之助が迎えた。
「銀之助さん、うまいもん屋が料理競技会番付に載ってましたよ」と、言って懐から番付表を出して、銀之助に見せた。
「どこですか」
「ここです」
八百善が真ん中に大きな文字で書かれているのに対して、うまいもん屋は最下段の隅に小さい字で書かれていた。
銀之助があまり喜んでいない様子を見て、勇治が言った。
「これに載るなんて大したもんですよ」
「これ借りてもいいですか」
「あげます」
銀之助はさっそくおすみに勇治からもらった番付表を見せた。
「まあ、すごい」と、おすみは感激した様子であった。
暮れ七ツ時。
うまいもん屋は、多くの客でごった返していた。
常連の徳衛門長屋の大工の源一が、弟子二人に大声で、自慢話をしていた。
また、葉煙草刻問屋の番頭の弥助は、店の片隅の行灯近くの席で、いつものように、ちびちびやっていた。
他には、大声で煙管を加えてしゃべっている鳶職の三人や、数人の町人たちがいた。
いつの間にか、雨が降り始めていた。
「いらっしゃい」
お玉の声が、店中に響いた。
女二人が中に入らずに立っていた。その一人が、お玉に、門付(人家の門前に立って、音曲を奏するなどの芸をし、金品をもらい受けること)してもよいかと、いった。
手引きをしている女は、雪といい、二十前の娘で、綱で導かれている女は梅、三十路半ばくらいと思われた。
「雪さん、梅さん、お店の中で遠慮しないでやって行ってください」
お玉に導かれて、二人は店に入り、合羽を脱いだ。雪も梅も、黄八丈の着物を着ていた。雪は、背の大事に包まれていた三味線をおろした。
店の客たちの目が、二人に注がれた。
支度が整うと、何人かの客が、拍手をした。
雪と梅が三味線を弾き始め、梅がいった。
「‘忍寄恋曲者’唄います」
‘ぺペン、ペン、ペペペン’
♪嵯峨や御室の花盛り、浮気な蝶も色かせぐ、廓の者に連れられて、外珍しき嵐山・・♪
唄が終わった。
拍手が鳴り響いたと同時に、
「おーい、娘、こっち来て飲めや」
鳶職人から声がかかり、雪は、梅を引きながら席に行った。
雪が、その職人の一人の前に立った時、悲鳴を上げた。
「やめてください」
「銭出すからよ、少しぐらいいいじゃねえか」
と組と書かれた半纏を着た男が、また雪の尻を触ろうとした時、
「お前。何、やってんだ」
隣の席にいた源一が、立ち上がって、怒鳴った。
「なんで、てめえは」
「娘さん、嫌がっているじゃねえか。謝れ」
「うるせえ」
男は、雪の持っている箱の銭を掴んで源一めがけて、投げはなった。
「こいつ、やったな」
源一が、掴みかかった。男は、源一の腕を掴んだ。
「おい、大工。外へ出ろ」
おすみが飛んでやって来た。
「ちょっと、待ちなさいよ。鳶のだんな、ここは、あんたたちの来る店じゃないよ。女の尻を触りたきゃ吉原に行ってきな。とっとと、お帰り」
「このあま、生意気なことをいいやがる。この野郎」
男は、おすみの胸ぐらを掴んだ。
「お客さん、申し訳ありません。ここは、飯屋なんで、お客さんに迷惑かけられると困りますので、静かにしてもらえませんか」
銀之助が、割って入った。
「おめえ、店の主か。客をなんだと思っているんだ」
「先ほど、店の者がいいましたように、ここは吉原ではありませんので、うちの客だとは思っておりません」
「おめえ、火消をなめるのか」
もう一人の鳶がいった。
「皆さん、外で話しましょう」
銀之助が、三人を外へと促した。
外は、街路にある行燈が、霧雨を照らしていた。
急に、尻を触った男が、銀之助の胸ぐらを掴んできた。
「お客さん、乱暴はいけねえや」
「うるせえ」
銀之助は、男の手首を掴み捻り上げた。
「いてえ、畜生」
男が、銀之助の足を払おうとした時、
‘バターン’
男が仰向けになって倒れた。
それを、他の二人は、驚きのあまりただ茫然と見ていた。
「銀之助さん、いいぞ。銀之助さんにかないっこねえ、とっとと、消え失せろ」
源一が、叫んだ。
「覚えて いろ 」
倒れた男が、やっとの思いで言った。
「大丈夫か」
「おいうまいもん屋、また来るぜ」
兄貴分の男がいった。
そして、もう一人の男と倒れた男を抱きかかえて、帰って行った。
銀之助と源一は、店の中に戻った。
おすみが、心配そうに迎えた。
お玉は、二人に手拭いを渡した。
銀之助は、顔を拭いた。そして、客に頭を下げてからいった。
「皆さん、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。これからは、飲み代はただにさせていただきます。遠慮なく飲んで行ってください」
客たちから、拍手が起こり、また「うまいもん屋、日本一!」と掛け声がかかった。
銀之助は、深々と頭を下げ、勝手場に戻って行った。
おすみとお玉は、震えている雪と梅を源一の近くの席に座らせた。
「もう、心配いりませんよ。ご飯を食べて行ってくださいね」
おすみがいって、お玉と勝手場に戻った。
「さあ、忙しいわよ」
おすみは、余っている徳利に酒を入れ、お玉は、隠元煮びたしをいくつもの小皿に盛って、客たちの席に次々と運んだ。
勝手場に戻ってきたおすみに銀之助が言った。
「おすみさん、お雪さんたちに蛤の小鍋立てと山吹飯を出したいので、手伝ってもらえませんか」
「はい、じゃあたしは山吹飯をつくりますわ」
銀之助は先日おすみから教わった蛤の小鍋立てを帳面を見ながら作り始めた。
蛤、豆腐、油揚げ、千切りにした大根、三寸ほどの昆布そして、うどんを入れた鍋が煮立ったのを銀之助は見計らって、それに少々の三つ葉を入れ、蛤の小鍋立てを作った。
おすみは、飯に固ゆでして裏ごしした卵の黄身と、せりのみじん切りを載せ、吸い物加減のだしをかけ、手際よく山吹飯を作り終えた。
「お玉さん、お雪さんたちにこれを持って行ってください」と、銀之助は戻ってきたお玉に言った。
雪たちが食べ終わったのを見計らって、銀之助は雪の所に行った。
「今日は、迷惑を掛けました。これを」といって、二十文を出し箱に入れた。
「食事だけでなく、お金までいただいて、申し訳ありません。ありがとうございます」
梅がいって、二人は頭を下げた。
客たちも次々と、
「また来いよ」
「いい声また聞かせてくれ」と、声を掛けながら、銭を箱に入れに来た。
雪が、もう一曲、お礼に唄わせてもらってもいいかと銀之助にいった。
銀之助は、頷いた。
二人は、店の真ん中に立ち、深々と客たちに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。歌で、お詫びさせてくださいませ」
♪ぺペン・・・・・
♪この世の四季はうつろい易く 冴え返る春の寒さに降る雨も 暮れて何時しか雪となり ひとの気配も途絶えにけり 日は過ぎ 春風誘い 人の心も和みけり 夏の夕べに降る雨は 人を追い立て 光る空 秋の兆しは すすき なびく 野の小道 歩く二人を月が照らす 木枯らしが 木の葉を舞い上げ年の瀬に~
♪ペンぺペンペン
♪およそ千年の鶴は 万歳とうとうたり
♪ペペンペン・♪
店中に梅の声が朗々と響きわたり、客はうっとりと聞き惚れた。
「お二人さん、遠慮なくいつでも来てくださいな」
銀之助たちは、雪たちを外に出て見送った。
それから、四半刻(三十分)ほどで、客たちもすっかり酔って帰って行った。
片付けを済ましたおすみとお玉に、銀之助は今日の給金といっていつもより多い百文(九十六文を細い縄で通したもので、四文は数える手数料といわれて差し引かれていた)を渡した。
「こんなにもらっていいんですか」
「恐かったでしょう。良くやってくれました。明日もよろしく」
おすみとお玉は、先ほどの出来事を忘れたかのように、笑顔で帰って行った。
勝手場の行灯を消して、銀之助はいつものように徳利を持って、二階に上がった。
やりきれない気持ちが、銀之助の眠気を遠ざけた。
朝から靄っていた。
銀之助、お玉は、二八そばを打ち、おすみは、茄子の揚げ出しを作っていた。
今まで、屋台の連中に気遣って蕎麦とうどんは献立に入れていなかったが、多くの客が昼だけでも食べたいと言っているので、昼だけ蕎麦をお品書きに入れた。
準備ができた四ツ刻(十一時)、
「銀之助さん、いるかい」
橋本順之助が、裏口から入ってきた。
「橋本様、どうされたんですか。」
「おすみさんから、話を聞いて心配になって来たんだ。今日あたり、鳶たちが仕返しに来るかもしれん。今日は、うまいもん屋の用心棒だ」
「橋本様がいてくれたら、鬼に金棒ね、銀之助さん」
おすみが、銀之助に向かっていった。
「橋本様、ありがとうございます」
銀之助が、頭を下げた。
「はい、橋本様。召し上がれ」
お玉が、花巻蕎麦を橋本の前に置いた。
「浅草海苔か、うまそうだな。いただくか」
「さあ、お店を開きますよ」といって、おすみは、すぐに暖簾を掛けに行った。
お玉も店に入った。
すぐに、弥助がいつものように、こんちわといっていつもの席に腰をかけた。
「いらっしゃい」
「お玉さん、今日の献立はなんですか」
「花巻蕎麦と茄子の揚げ出しですよ」
「美味しそうですね」
お玉は、そんなやり取りもすぐに切り上げ、次々と入ってくる客の注文を取りに行った。
客が引いた八ツ刻、おすみが暖簾をしまいに外へ出た。
「おい、銀之助はいるかい」
この間の鳶職人三人と新手の三人が、鳶口を持って立っていた。
おすみは、慌てて店の中に入って行った。
「銀之助さん、あいつらが来たわ」
「来たか。何人だ」
「六人です。皆、鳶口を持っています。六尺ぐらいの大男もいます」
「事を荒げたくないので、何とか、話で済ませないと」
銀之助は、橋本に丸棒を取ってくるといって、二階に上がった。
橋本は、長刀を差した。
銀之助が戻ってきた。
「銀之助、臆病風に吹かれたか」
外で怒鳴っているのが、聞こえた。
「行くか」
橋本が、銀之助を促した。
「橋本様、ここは私一人で行きます」
「助太刀させてもらうよ、心配するな」
銀之助に続いて、橋本も外へ出た。
「なんだ、今日はちび浪人の助っ人か」
六尺の大男がいうと、鳶たちは大声で笑った。大男が、橋本の胸ぐらを掴んだ瞬間、
「あっ」と仰向けにひっくりかえっていた。
「いてえ、おめえら、こいつらをやっちめえ」
鳶たちは、鳶口を構えて、橋本と銀之助を取り囲んだ。
銀之助が、背の丸棒を掴んだ。
「御用だ、御用だ」
八丁堀の同心と手先たちが、いつの間にか走り出てきた。。
「皆、おとなしくしろ。鳶口を放せ」
「そこの浪人、刀を置け」
「銀之助さん、これはまいったな」
「橋本様、おとなしくしましょう」
銀之助は、入口で心配そうに見ていたおすみの傍に丸棒投げた。
「おすみさん、心配しないで。夜、よろしく頼みます」
銀之助と橋本そして、鳶たちは、縄を掛けら八丁堀に連れていかれた。
七ツ刻(午後四時)、おすみは、銀之助のいないうまいもん屋の暖簾を掛けた。
弥助が入ってきた。お玉は、いつもの席に案内した。
「お玉さん、どうした」
弥助は、元気のないお玉に声を掛けた。
お玉は、銀之助と橋本が、昨日の鳶たちともめていたことで、奉行所に連れて行かれたことを話した。
弥助は、言葉を失った。
「こんばんわ」
雪が、高障子戸を開けた。
「いらっしゃい。雪さん・・」
おすみは、驚いた。どうぞといった声にいつもの張りはなかったが、すぐに雪たちを入り口近くの席に案内した。
「おすみさん、元気がないみたいですね、どうかしたのですか」
雪が、心配そうな声でいった。
おすみは、銀之助たちが八丁堀に連れて行かれた話をした。
「皆様に、ご迷惑をおかけしてしまって」
梅が申し訳なさそうにいった。
「雪、豊島町の元締めに一肌脱いでもらおう」
といって、梅は、雪を追い立てるように店を出て行った。
お玉が、きょとんとした顔で、二人を見送った。
(豊島町からだとちょっと時間がかかるわ)おすみは、今日は無理かもしれないと思った時、客が来た。
「お玉さん、ご案内して」
我に返ったおすみは、茫然としているお玉に声を掛けた。
それからというもの、二人は目が回るほど働いた。
やっと客が帰り、暖簾をはずして、片付けをしていると、高障子戸の向こうから声がした。
「お雪さん?」
おすみが、小走りに入り口に行き、心張り棒をはずした。
雪と梅と年増の女が立っていた。
「雪さん、どうしたの」
「おすみさん、私たちの師匠を連れてきました」
「松野とよ、と申します。うちの雪と梅が大変お世話になって、そのために御主人とお侍さんが八丁堀に捕まった事とのこと、申し訳ありません」
松野は、銀之助と橋本順之助の名前をおすみから聞き、雪たちを残し、八丁堀に向かった。
南町奉行所では、半刻ほど銀之助と橋本が同心から詰問され、そして、二人は牢に入れられた。
「銀之助さん、参ったな。いつ出れるかな」
「橋本様、覚悟を決めてゆっくりしましょう。彼らが悪いとわかれば、すぐに出れますよ」
その頃、とよは、八丁堀に着いて、門番に声をかけていた。
「とよさん、今日は何の御用ですかい」
仕事柄、とよは、八丁堀でも顔が知られていた。
「与力の石原伸之介様に会いたい」といって、紙につつんだものを手渡した。
門番はそれを懐に入れて、ここで待っているように告げて、屋敷に向かった。
とよは、残った門番にも紙包みを渡した。
しばらくして、先ほどの門番が戻ってきて、とよを奉行所の中の面談所に案内した。
「とよ、如何した」
とよは、銀之助たちの諍いについて、詳しく話をした。
「そうか、それでは喧嘩両成敗にはならんな。分かった。おーい、だれか」
石原は、近習の者を呼んで、担当の同心を次の間に呼んでくるように伝えた。
「とよ、すぐに銀之助たちを釈放するから帰れ」
とよは、持ってきた菓子折りを石原の前に差し出した。
「おい、起きろ。二人とも出ろ」
同心の松木仁衛門が怒鳴った。
牢番が、鍵を開けた。
銀之助たちが、奉行所を出たのは、明け六ツ刻であった。
うまいもん屋に戻った時には、東の方には、陽が昇っていた。
裏口の戸を開けて、勝手場に入ると、おすみがいた。
「おすみさん」
おすみは、驚いた。
「おすみさん、店にずっといたんですか」
「うまいもん屋を贔屓にしてくれる人たちのために、お店を開かないといけませんから」
おすみは、茄子を切りながら言った。
「今日の献立は」
「茄子の鴫焼きと稲荷です」
「おはようございます」
お玉が勝手場に来た。
「銀之助さん、いつ戻って来たんですか。よかった」
「おすみさん、お玉さん、ありがとう」
銀之助は、嬉しかった。
おすみが言った。
「昨日の雪と梅が、豊島町から松野とよさんという方を連れてきたんです。 そして、とよさんは、すぐに八丁堀に行ったんですよ」
「そうですか。今度お礼に行かなければなりませんね」
「お礼はいりませんと、言ってました。先日のお礼だと」
銀之助も稲荷を作り始めた。
四ツ半、浅草寺の鐘が流れた。
「さあ、銀之助さん、開きますよ」
おすみが、暖簾を掛けに外へ出た。
「御免なすって、銀之助さんはいますか」
と組の法被を着た老年の男が、渋い声でいった。
「どちら様ですか」
「と組の頭取の伝次郎といいます」
中に入って下さいとおすみは、伝次郎にいい樽に座らせてから、銀之助を呼びに行った。
すぐに、銀之助は、おすみに連れられ、伝次郎の席に来た。
「何か御用で」
「あっしは、この界隈の火消と組の頭、伝次郎と申します。お見知りおきを」
男は、頭を下げた。
「先日は、うちの者が、皆さんにご迷惑をおかけしたようで、申し訳ねえ。この通りだ許しておくんなせえ」
伝次郎は、深々と頭を下げた。
改めて、詫びの席を設けるといって、話もせずに伝次郎は帰って行った。
三日後、銀之助と橋本たち長屋の連中が、大川端にある料理屋に呼ばれた。
料理屋の入り口には、伝次郎を先頭として、と組の半纏を着た連中が、銀之助たちを迎えた。
二階にはすでに、とよたちが上座に座っていた。
「おとよさん、先日はありがとうございました」銀之助は、とよに頭を下げた。
皆が席に着いたのを見て、伝次郎が銀之助たちの前にすり出た。
「この度は、うちの連中が皆様に大変ご迷惑おかけして、申し訳ございませんでした。」
一斉に、二十人ほどの火消の連中が、一斉に頭を下げた。
「大したおもてなしはできませんが、今日はごゆっくりしていっておくんなさいまし」
芝海老豆腐、鰺のきずし、茄子の鴫焼き、香の物と次々と運ばれてきて、銀之助たちは食べるのに勤しんだ。
しばらくすると、火消の連中が、とよたちや、銀之助たちの前に来て酌をし始めた。
座は入り乱れ、ざわめき盛り上がった。
半時ほど過ぎた時、伝次郎が木遣りを唄うといった。
おすみたちは、拍手をして始まるのを待った。
伝次郎が、どすの利いたかすれ声で、唄った。
♪えーえーえー。えーいーえー。ぎんーのー。かんざーしー。♪
続いて、火消の連中たちが、声を合わせて、
♪えーえー。はーれーわーな。やーっさい。やっさーやっせー。♪
唄い終わった伝次郎が、とよに歌を頼んだ。
とよは、雪と梅に唄わせてもらいなさいといった。
雪が「縁かいな、をやらせてもらいます」といって、三味線を弾き始め、梅が唄い始めた。
♪夏の涼みは両国の 出船入り船屋形船 上がる流星星下り 玉屋が取り持つ縁かいな
秋の眺めは石山で 出船入り船屋形船 上がる石場の艶姿 月が取り持つ縁かいな~♪
伝次郎が、今度は銀之助たちに歌をせがんだ。
「よし、拙者が、かっぽれを唄おう。おすみさん、三味を頼む。
♪かっぽれかっぽれ(ヨーイートナ ヨイヨイ)沖の暗いのに白帆が見ゆる(ヨイトコリャサ)
あれは紀の国(ヤレコノコレワイノサヨイトコリャサ)みかん舟じゃェ(サテみかん舟)みかん舟じゃ
さー見ゆる(ヨイトコリャサ)あれは紀の国ヤレコノコレワイノサ(ヨイトサツサツサ)
みかん舟じゃェ~♪
一刻ほど過ぎた頃、岡引きの常吉が、同心の松木仁衛門を伴って部屋に入ってきた。
「松木様、これはわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
伝次郎が席を立って、二人を迎えた。
とよ達は、二人のために席を譲った。
「悪いのう」と言って、松木が盃を持った。
とよが酌をした。
「とよさん、銀之助や橋本順之助とやらは、良く存じておるのかな。二人とも腕が立つそうだ」
「松木様、銀之助さんがやってるうまいもん屋の料理の味が、評判だとのうわさは聞いておりましたが、今回の雪と梅の件でお二人を知った次第でございます」
「そうか」
「何か」
「いや、なんでもない」
松木は、盃を空けて、とよに渡した。
おすみは、二人の会話を聞きながら、常吉の盃に酌をしていた。
「おすみさんは、相変わらず綺麗だね」
「親分さんは、冗談がお上手なこと」
松木の前に、銀之助が酌に行った。
「松木様、この度はお世話になりました」
「とよさんに、よく礼をいっておくがいいぞ」
銀之助は、多少言葉を交わしてから交わして、常吉の前に移った。
「親分、今後ともよろしくお願いします」
「時々、よって飯を食わして貰うぜ。おめえも一杯やんねえか」
常吉は、銀之助に酌をした。
橋本は、長屋の女たちから酌を何回も受け、顔が真っ赤に染まっていた。
中締めを終えた頃合を見計らって、松木、常吉そして、伝次郎たちに別れを告げ、銀之助やとよ達は料理屋を出た。
川面を伝わって、さわやかな風がほろ酔い気分の銀之助たちを、流れるように通り過ぎた。
大川橋で、銀之助たちは足を止め、川面に映っている夕陽の上を、とよた達を乗せた屋根船が滑るように上って行くのを見送った。
「もうすぐ、ほおずき市ですね」
おすみが、銀之助にいった。
「四万六千日のご縁日ですか。時が経つのは早いものです」
西の空には、夕陽に吸い込まれるように、数羽の雁が飛んで行った。
ほおずき市も終わり、八月を迎えると銀之助、おすみ、勇治夫婦、源一夫婦、銀太そして、お玉の七人が大山詣りに江戸を発った。
赤沢が店番だけでなく、お玉の息子安吉の面倒を見ることも快く受けてくれたので、銀之助たちは安心して大山街道をにぎやかに歩いた。
長津田宿で一泊して、翌日、御師の坊に入った。
御師が出迎えた。
「皆さん、お詣りご苦労様です。一休みしたら、近くの滝で心身を清めてください。それがすんだら、お祓いを受けてから夕餉にします。明日は早いです。八ツ(朝二時)にここを発って阿夫利神社本社にお詣りし、御来光を拝みます。明日は天気が良さそうなのできれいに見えるでしょう」
夕食の豆腐料理に皆、舌鼓を打った。
「やはり、水がおいしいから豆腐がうまいはずだ」
まだ暗かった。
銀之助たちは、御師が準備してくれた行衣を着て外に出た。
ここからの星は、浅草からよりも、一段と輝きが勝っているように銀之助には見えた。
暗闇の中、御師に続いて銀之助たちは、道端の行燈をたよりにこま参道を登った。
御師が立ち止まり振り返って、銀之助たちに向かって言った。
「皆さんは初めてのようですから、これから女坂を通って、大山寺経由で阿夫利神社へ行きます」
「なんで男の俺が女坂で行かなきゃならねえのか」と、鳶の源一が不平を漏らした。
「男坂はかなりきつい坂ですし、この坂では大山寺を通りませんが、それでも男坂で行きたい方は、右手の道を登って行ってください」
「分かりました。仕方がないけど女坂で行きますよ」
銀之助たちは笑った。
おつたは恥ずかしがっていた。
大山寺に着き、御師が話始めた。
「大山は、別名あめふり山とも呼ばれ広く親しまれてきました。このあめふりの名は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれて参りました。この寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(七五五)に開山したと言われています。行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立し、その後、第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、大山七不思議と称される霊地信仰を確立されました。また、御本尊の不動明王は、参拝する人々に、わけ隔てなく現世の悩み、苦難を助けてくださる仏様ですので、本堂にて一心に願い事を祈ってください。では、ご住職に皆様の安全の祈願をしてもらいますので、本堂にあがってください」
お経が終わって、銀之助たちは阿夫利神社下社に行った。
御師が神社の説明を始めた。
「神社は、今から二千二百余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられています。奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となりました。そして、武家の政権始まった後も源頼朝公を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、そして武運長久を祈りました。これからお祓いを受けます。それが終わったら、拝殿近くに神水が湧き出ていますので、ぜひ飲んでください。これを飲むと殖産および延命長寿にご利益があると言われています」
お祓いがすむと真っ先に源一が神水を飲みに行った。
「おいしい」柄杓一杯を飲んで源一は、神水を竹筒に注いだ。
おみねは「ご利益がたくさんあるように」と言って、がぶがぶと飲んだ。
最後になった銀之助は多少口に含んで、御師の所に戻ろうとすると、
「銀之助さん、もっと飲まなければ長生きできないよ」と、おみねが言ったので、おすみたちが笑った。
「では、これから本社に行きます」と言って、御師は本社へと案内した。
階段の途中、おみねが前を歩いているおすみに訴えた。
「おすみさん、横腹が痛いよ」
「おみねさん、無理しないでゆっくり登ってください」と言って、おすみはおみねに手を貸した。
本社に着いた時、ちょうど東の空から陽が昇り始めた。
静けさの中に拍手が起こった。
そして、皆手を合わせた。
長くおすみが手を合わせていたので、銀之助が近づき声を落として聞いた。
「おすみさん、何を祈っているのですか」
「たくさんです」
「そろそろ下山します」と、御師の声がした。
銀之助たちは、こま参道の土産物店に入った。
「お玉さん、安坊にこのこまをお土産に買ってたらどう」と、おすみがお玉に向かって言った。
「そうね、買っていこう」
銀之助はおおやま菜漬をたくさん買った。
「銀之助さん、そんなたくさん買ってどうするの」おすみがそばに来ていった。
「お客さんに、出そうかと思ってね」
長屋の連中もたくさんの土産を買っていた。
銀之助たちは、御師の坊で昼食の弁当を食べて、下鶴間宿と溝口二子宿で宿を取って、江戸に戻った。
昼近く、うまいもん屋の障子戸を銀之助が開けて、楽しかったと皆が笑いながら店の中に入った。
突然、中にいた赤沢が真青な顔で、お玉を見つけて、近づき言った。
「安吉が昨日から帰っていないんだ」
「なんですって」
「赤沢さん、落ち着いて話してくれませんか」
銀之助の声も上ずっていた。
「分かった。昨日、昼飯を食べた安吉が浅草寺に遊びに行くといったんで、近場だから別に心配することもないので、気を付けて行って来いと。しかし、夜になっても帰ってこないもんだから、浅草寺界隈を探しまわったが見つからなかった。心配で仕方ないから八丁堀に行って、松木さんに頼んで常吉親分に探すのを手伝ってもらっているんだが、まだ見つからない。本当にすまない」
「人さらいにでもあったのかしら」と、おすみが泣きそうな顔で言った。
「そんなばかな」お玉が驚愕に震えた。
「お玉さん、安坊が行きそうなところどこか思い当たりませんか」と、落ち着いてきた銀之助がやさしく言った。
しばらく、お玉は思案していた。
「お玉さん、どこでもいいから早く言ってよ」と、おつたが言った。
「俺たちも探すから早く言ってくれ」と、勇治がせかした。
「浅草寺界隈を私と勇治さん、源一さん、銀太さんで、後は長屋周辺をおすみさん、おつたさん、おみねさんで探しましょう。店には赤沢さんとお玉さんが残ってください」と、銀之助が皆に向かって言った。
「皆さん、よろしくお願いいたします」と言って、お玉は頭を下げ続けた。
一刻ほど過ぎて、おすみたちが安吉を連れて店に戻ってきた。
お玉が、それに気づいた。
「安吉、どこにいたの」お玉が安吉を抱きしめながら言った。
赤沢もほっとした顔で安吉に言った。
「おまえ、なぜ長屋なんかにいたんだ」
「安坊は浅草寺あたりで遊んでいたんだけど、そこですりが役人に捕まったのを見て、長屋に泥棒が入らないか心配になり、それで、長屋に行って皆が大山から帰ってくるまで番をしていたんですって」と、おすみが安吉の代わりに答えた。
「おまえ、一体いくつになったんだ」
「八歳」
赤沢が、感心した時、銀之助たちが帰ってきた。
「銀之助さん、長屋で見つかったよ」と、赤沢が真っ先に言った。
そして、おすみが話を続けた。
終わると、銀之助は勝手場に行き、酒とおおやま菜漬を皿に盛って運んできた。
「大山詣りの話を聞かせてくれないか」と、赤沢が盃を手にもって言った。
それから、店の中は笑い声が絶えなかった。
つづく
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