第四話 三文役者(春)
浅草寺の桜の蕾がほころんでいた。
うまいもん屋にも花見の客が、訪れるようになった三月の末の暮れ七ツ刻、いつものように、おすみは、外に暖簾をかけた。
しばらくすると、店の中は客たちの話し声や笑い声で賑やかになった。
おすみとお玉が、客の注文を聞きにいったり、酒や肴を運んだりして、忙しく動き回った。
お玉は、五日前、徳衛門長屋の以前おさとが住んでいた家に、安吉という六歳の息子を連れて引っ越してきた。
その日、おすみは、お玉が挨拶に来たときに、何か仕事がないかと相談を受けたので、おすみは、翌日、銀之助に相談したところ、うまいもん屋でどうかということになって、お玉はここで働くようになったのだ。
お玉が昼働いている間、長屋の女たちが息子の安吉の面倒を見ていた。
六ツ刻の鐘の音が聞こえてからしばらくして、役者とわかる派手な姿の男三人が、店に入ってきた。
「いらっしゃい」
お玉は、明るい声で男たちを空いている席に案内し、注文を聞いた。
勝手場に戻って、お玉は、銀之助に注文の田楽豆腐六本、つい最近お品書きに入れたまぐろきじ焼きそして、利休飯を三人前と伝えてから、徳利で温めた酒を徳利に移した。
「銀之助さん、あのお客さんたち、奥山の芝居小屋にでている歌舞伎役者ですって」
「ほう、見慣れない客だから、最近来た人たちでしょうね」
この時代は、四代目鶴屋南北が多くの作品を創作し、江戸三座を中心に江戸歌舞伎が全盛期であった。
歌舞伎役者は‘河原者‘と区分され身分上差別されていたが、反面各地への通行に便宜を与えられていた。
お玉は、役者たちのところへ、酒と田楽豆腐を運んで行った。
「すぐに、まぐろきじ焼きを持ってきます」
「そんなに、急がなくていいですよ」
細面で目が切れ長のとした男が、低く響きを持った声でいった。
その男は三人の中で一番若く、そして、男前にお玉の目に映った。
「利休飯は、まだいいですか」
「まだいいですよ」
一番年上と思われる男は、いった。
「娘さんは、ここでは長いのですか」
女形にはうってつけな顔立ちの男が、盃を置いていった。
娘といわれ、お玉は、顔を赤らめながらつい最近と答えた。
「今、‘りきゅうめし’をやってますので、ぜひ見に来てください。良い席にご案内しますよ」と、一番年上の男がいってから、自分は大阪からやって来た市村座の八之助と名乗って、女形を市之丞、そして若いのを梅の助と紹介した。
紹介された梅の助が、田楽豆腐を飲み込んで行った。
「名前を教えてください。下足番に伝えておきますから」
「玉、といいます」
「お玉さん、江戸っ子ではないでしょう。越後ですかい」
お玉は当たっていたので、驚いた。
男たちは、大阪から来た旅芸人で、全国旅をしているので、しゃべり方でどこの生まれか、大体分かるといった。
そんなやり取りをお玉が、梅の助としていていると、市之丞が盃をお玉に渡して酒を飲まそうとした。
二度断ったが、お玉も嫌いな方ではないので、一杯だけといって飲んだ。
勝手場に戻ると、それを見ていたおすみがお玉に注意した。
「お玉さん、お客さんから盃を受けたらきりがないから、受けてはいけないといったじゃないの。また、混んでいる時は、お話は手短にして下さいね」
「あの方たちが、何度も勧めるので断れなくって。すみません」
お玉は、おすみと銀之助に向かって頭を下げた。
銀之助は、竈にかけた鍋を見ていた。
「お玉さん、まぐろきじ焼き出来上がりです」
「はい」
お玉は、役者たちのところに持って行った。
おすみは、他の客に酒を運んで行った。
戻って来たお玉が、銀之助にいった。
「利休飯三つお願いします」
「はいよ」
銀之助は手際よく利休飯を作り終え、お玉に持って行かせた。
おすみは、帰った客の使った徳利や茶碗を持ってきて流しで洗っていた時、銀之助が声をかけた。
「おすみさん、両国の尾上町の回向院前の華屋の‘与兵衛寿司’にいったことありますか」
「話には聞いたことがあるくらいで」
「じゃあ明日行ってみませんか」
「いいですね、華屋与兵衛さんという方が考えた鮨、どんなものか食べてみたいです」
「決まった、明日の午後、店を休みにして与兵衛寿司に行きましょう」
翌日、店を閉めた銀之助とおすみは、浅草橋から屋根船に乗った。
大川の堤は、連なる桜花が屏風に描かれたように青い空と川に映えていた。
その中を船は、すがすがしい風を受けて、大川をゆっくりと下って行った。
「おすみさん、長屋の皆さんを誘って、皆で花見をしませんか」
銀之助は、声をかけた。
「いいですね。長屋の人に声をかけてみます」
「では明後日あたり、昼店を閉めてから大川の堤でどうですか。酒と肴はうまいもん屋が用意しましょう」
「おつたさんとおみねさんに手伝いに来てもらいますね」
二人は両国橋で降りて、しばらく大通りを歩き右角を曲がって裏門から回向院に入った。
そして、万人塚に向かい手を合わせた。
華屋は、回向院の表門の斜め前にあった。
入口は二間で、紺地に白抜きで‘寿し’と書かれた大きな暖簾が掛かっており、腰高障子戸が開け放たれていた。
右側の屋根の下には、‘華屋’と書かれた行燈が据え置かれていた。
寿しの包みを持った町人風の男が出てきた後に、二人は、店に入った。
もう八ツ半刻になるのに、一尺半ほどの上り座敷には、客でほとんど埋め尽くされていた。
二人は、奥の片隅の席に案内された。
銀之助は華屋で一番、二番の人気の小鰭(コハダ)・鯵(アジ)を二人前注文した。
すぐに先ほどの女中が、寿しを桶に載せて運んできた。
「はやいな」
「早ずし、といわれているようです。大きいですね、握りこぶしくらいあるかしら」
「魚は、酢でよくしめてます」
「お待たせしました」
女が、浅利汁と生姜を盛った小皿を二人の前に置いた。
「この生姜は何のためにつけているんですか」
銀之助が、女に聞いた。
「薄切りの生姜を甘酢に漬けたものです。 生姜は、ばい菌の繁殖を抑える効果があるんですよ」
銀之助は、浅利汁を口に含んでいった。
「これは、仙台味噌ですね」
仙台味噌は、濃厚な旨みと、深い香りを持つ赤褐色の辛口味噌として、江戸では人気があった。
二人は、しっかりと味を舌に覚え込ませるように、半刻ほどかけて注文したものを食した。
銀之助は、一分を支払っておすみと店を出た。
「美味しかったけれど、いくらなんでも、一貫、二百五十文とは高いですね」
おすみは、銀之助にいった。
「大工さんの日当が、三百五十文ぐらいですから、みなさん、いつもというわけにはいきませんね」
二人は、歩いて帰ることにした。
半刻ほど歩いて、浅草橋を渡った時、
「銀之助さん。あの人、お玉さんじゃない?」
おすみの顔の方向を銀之助は見た。
「男は、先日店に来た役者の一人じゃないか」
二人が、近くの小料理屋に入って行ったのを見て、
「お玉さん、なにしてんのかな」とおすみは不審そうに思いながらも、銀之助の後に続いて長屋に向かった。
銀之助がうまいもん屋に戻ったのは、七ツ半刻頃であった。
勝手場で一人明日の準備をし終わった後、酒を飲み始めた。
(華屋の寿しは美味かったが、高すぎるな。酢飯に酢でしめた魚とわさびを乗せるだけだ。もっと安くして、うちでもだしてみよう。明日、勇治さんから鰺を買って試して作ってみるか。そうだ、花見の時作って持って行こう)
(しかし、お玉さん、息子をほっぽらかして、一体どういうつもりなんだろう)
銀之助が目覚めた。
「さかな~、さかな、生きのいいさかな~、さかなはいらんかねえ・・」
勝手場で銀之助は、寝てしまったのだ。
(勇吉さんだ。鰺を買わなければ)
飛び起きて、勝手場の戸をあけた。
勇吉は銀之助を待っていた。
「勇吉さん、鰺はあるかい」
「はい、ありますが、珍しいですね。一体どうしたんですか」
「華屋さんというお店を知ってますか」
銀之助は、昨日おすみと行った華屋について一部始終話した。
「それで鰺なんですね。承知いたしました。この桶の魚を全部捌きましょう」
勇治は勝手場に入って、鰺を三枚におろした。
半刻ほどかかってすべて終わり、鰺を酢でしめはじめた。
銀之助は、竈で飯を炊いた。
おすみ、おつた、おみねそして、お玉の四人が荷を抱えて「おはようございます」と言って、勝手場に入ってきた。
「あら、勇治さんじゃないの」と、おすみが驚いて言った。
「あんた、何やってんの」と、おみねも仰天した。
銀之助は、皆に今まで勇治が寿しを作るのを手伝ってくれたことを説明した。
「もう、銀之助さん、寿し作ってんですか」と、おすみはさらに驚いた。
「みなさん、今日は、花見ですから、花見の弁当を作る組と昼の献立を作る組と手分けしましょう」と、銀之助は笑顔でいった。
銀之助とおつたそして、お玉が昼の客の献立を、おすみ、おみねそしておつたが弁当を作ることになった
勝手場は賑わって来た。
銀之助は、重箱を五つ出してきて丁寧に洗い、おすみによろしくと言った。
おすみは、それぞれの料理手順をおみねとおつたに丁寧に教えた。
一刻半(三時間)ほど過ぎると、客に出す献立と花見の弁当が出来上がった。
最後に、銀之助が鯵寿しを作り終え、重箱に詰めた。
「美味しそう」と、お玉が言った。
おすみが説明し始めた。
「一の重は、かすてら玉子 鮎色付焼 竹の子旨煮 早わらび ひじき かまぼこ、二の重は、桜鯛 干大根、三の重は、鰺寿し、そして、四の重は小倉野きんとん 甘露梅、椿餅 薄皮餅です」
「おすみさん、すごいな」と、銀之助は目を丸くした。
「この献立は、花見の時の八百善の定番です。思ったより綺麗にできあがったわ」と、おすみが嬉しそうにいった。
昼の客が帰ってから、すぐに、片付けを終えて、銀之助たちは大川端に出かけた。
大川端の桜並木の下では多くの花見客が宴をはっていた。
橋本順之助、おつたの夫の源一、そして簪職人の銀太たちは、浅草橋から三町ほど下った場所の桜の木の下で、すでに酒盛りをしていた。
「皆さん、遅くなりました」
銀之助たちは敷茣蓙に座り、持ってきた酒を置き、そして風呂敷を解いで重箱を広げた。
「おう、これは御馳走だ」と、源一が、目をまん丸くして言った。
「こんな綺麗な料理、初めてだ」と、顔がすでに赤くなっていた橋本が重箱をのぞき込んで言った。
「皆で、買ってきたものもありますが、大体は皆で作ったんですよ」と、おすみが言ってから料理の説明をした。
皆、感心しながら聞いていた。
説明が終わると、銀之助が立ち上がった。
「皆さん、いつもうまいもん屋を御贔屓いただきありがとうございます。今日は、遠慮なく飲んで、食べてください」と言って、銀之助は橋本たちに酌をしてまわった。
しばらくの間、皆、飲み食いに夢中で静かに時は過ぎた。
お玉のそばに座った安吉も、我を忘れて食べ続けていた。
「こんなうめえものを食ったのは、初めてだ」と、満足げな源一は盃を飲み干し、煙管に火をつけ一服して言った。
「鰺のむすびみたいのは初めてですが、これはなんていうんですかい」と、銀太は、銀之助に酌をしながら尋ねた。
「これは、早寿しというんです。あっしも初めて作ったんですが、味はどうですか」
「銀之助さん、これは美味い。安かったら皆食べに来るぞ」と、橋本は、‘華屋’の寿しが繁盛していることや値段が高いことを付け加えた。
男連中は、酒が回ってきたせいもあってか、口数が増えてきた。
「おすみさん、一曲頼みますよ」と、真っ赤になった勇治が、おすみに向かって言った。
「そうだ、おすみさんのいい声も聞かせてくれ」と、橋本も手を叩いて言った。
おすみは、後ろに置いてあった三味線を手に取り、「では、‘桜尽し’を」と、言ってから歌い始めた。
♪雲井に咲ける山桜~霞の間よりほのかにも、見初めし色の初桜、絶えぬながめは九重の、
都帰りの花はあれども、馴れし東の江戸桜~
名に奥州の花には誰も、憂き身を焦がす塩釜桜・・・・・・・・・・・・・・・・♪
「おすみさん、相変わらずうまい!」
「日本一」
皆、声を発しながら手をたたいた。
お玉だけが、気乗りせずに、ただお付き合いで手を叩いているのにおすみは気づいた。
(お玉さんは、かなり重症だな)
銀之助も気づいて、お玉の前に席を移した。
「お玉さん、元気がないね。どうかしたんですかい」
声をかけられたお玉はびっくりして、銀之助の顔を見た。
話は、奥山の芝居に移っていった。
「市村座が興行している‘隅田川花御所染’は、大根役者ばかりだっていう噂だぜ」と源一が、煙管を口から外していった。
「‘隅田川花御所染’って、どんな内容なんですか」
銀太が、聞いた。
橋本が、物知り顔で答えた。
「 ‘隅田川花御所染’は、四世鶴屋南北の作だ。清玄法師を女にしたのが特徴で、あらすじは、こうだ。場所は、京。吉田家という家の長男の松若丸が、天下取りの野望を抱き、手始めに大友常陸之助を殺し、自らが常陸之助になりすますことから話が始まる。
許嫁の入間家の息女、花子姫は松若丸が死んだと思い込み、新清水寺で出家を決意するんだな。そして,清玄尼と名乗る。 そこへ松若丸が扮した常陸之助が現れるんだ。
常陸之助は桜姫の許嫁なのだが、松若丸の姿とうりふたつなので、清玄部尼は色欲に迷い、常陸之助を追って寺を出奔する。その後、病みやつれた清玄尼が養生する鏡ヶ池の妙亀庵に桜姫がやってきて、嫉妬に駆られた清玄尼は妹を殺そうとするのだ。そこへ無頼漢の猿島惣太が現れ、桜姫を助けて逃がすと、かねてから懸想をしていた清玄尼にいい寄るんだが、清玄尼が拒絶するので、惣太は悔し紛れに清玄尼を嬲り殺しにするのだ。 結末は、清玄尼の亡霊が松若丸の姿で現れ、松若丸と桜姫の道行に絡む舞踊で、怨霊の正体を現すと、押戻に撃退されて終わりとなるんだ」
「複雑で、怖い話なんですね」と、銀之助が言った。
「歌舞伎十八番の一つで歌舞伎の華といわれる荒事の押戻、小手、脛当、腹巻、大褞袍を着、三本の大太刀を差し、竹笠と青竹を持って花道から出て、荒れ狂う怨霊や妖怪を舞台へ押し戻すんだが、その役が市村座の役者では迫力がないんだな」と、橋本が渋い顔で言った。
「そういえば、この間、その役者さんたち、お店に来たわね。お玉さん」
「ええ、・・・・・・」
お玉は、歯切れの悪い返事をした。
銀之助は、心配そうにお玉の方をそっと覗き見た。
一刻半ほど過ぎ、陽が陰り、川風は冷たさを増して、銀之助たちを取り巻き始めたところで、皆名残惜しそうな顔をしながらも片づけを終えて、宴はお開きになった。
数日後、お玉は、四ツ刻(十時)になっても、来なかった。
「お玉さん、どうしたのかしら」
銀之助とおすみ二人で、昼の支度を終えて、店を開いた。
「おすみさん、店を閉めたら、長屋に戻ってお玉さんの様子を見てきてくれませんか」
その日は、客が少なかったので、銀之助は、昼過ぎ店じまいの前に、おすみを長屋に行かせた。
八ツ半刻(十五時)頃、おすみが店に戻ってきた。
「銀之助さん、お玉さん、いつもの通り、安吉ちゃんをおつたさんに預けて出かけたそうよ。てっきりうまいもん屋に働きに行ったと思っていたようよ」
「どこに行ったか、分からないんですか」
銀之助は困った顔をした。
七ツ刻の鐘が鳴った。
「銀之助さん、今日の献立は、なんにしましょうか」
「昨日花見で作った鰺寿しとこんにゃくみぞれ汁にしました」
「鰺寿し、美味しかったですね。大きさも華屋さんより半分ぐらいで食べやすかったし、うまいもん屋の看板になりますよ。こんにゃくみぞれ汁は、こんにゃくとおろしだいこんに昆布だしで作ればいいですね」と言って、こんにゃくみぞれ汁を作った。
銀之助が鯵寿しを作り終えるのを見て、おすみは、外に出て暖簾をかけた。
しばらくして、奥山で芝居や見世物を見てきた帰り客が、店に入ってきた。
その中に、白木屋の若旦那、庸介がいた。
「若旦那、いらっしゃい。今日は、鰺寿しがありますよ、いかがですか」
「おう。うまいもん屋さんも、いよいよ寿しを出すようになったのかい。じゃ、鰺寿しといつもの田楽豆腐、お酒を二合頼みますよ、おすみさん」
客が席を埋め尽くして、笑いや怒りの声そして、煙草の煙が店内に充満した。
「お待たせしました。若旦那、鰺寿しです」
「うまそうじゃないか、華屋さんと違って小ぶりだね。そういえば、もう一人の方は」
「今日は、お休みなんです」
「市村座が興行している芝居小屋で、似ている女を見たんですよ。まさかと思ったんですが・・」
新しい客が二人入って来たので、おすみは、ごゆっくりと庸介に言って、新しい客を席に案内した。
その客の注文を聞いたおすみは勝手場に戻って、銀之助に庸介のいったことを話した。
「お玉さん、一体何があったんでしょうね」
銀之助は、寿しを握りながら心配そうにいった。
「こんばんは」
「国分屋の番頭さんが来られたわ」
おすみは、入口に行き、弥助を空いている席に案内した。
弥助はあの事件以来、仕事帰りに時々うまいもん屋に寄って夕餉を取った。
「今日は、鰺寿しとこんにゃくみぞれ汁ですけれど、いかがですか」
「それといつものをお願いします」
「番頭さん、お待たせしました。みぞれ汁は後で持ってきますから」
おすみは樽の上に、酒と寿しそして、田楽豆腐を置いた。
「おすみさん、お玉さんはお休みですか」
おすみは、用事のため、休みといった時、大工の源一が弟子二人を連れて、店に入ってきた。
空いている席に腰をおろすなりに、注文を取りに来たおすみに言った。
「おすみさん、こいつらにうめえものを食わせてやってくれ。おいらは、田楽豆腐と酒だ。そういえば、この間市村座の連中がこの店に来ていたといってたな。あいつらはひどい奴らだそうで、娘や女たちを騙しては貢がし、挙句の果てにポイだそうだ。大根役者くせに悪党だと、おすみさんも気をつけなよ」
「はいはい、源一さん」
おすみは、勝手場の銀之助に源一の注文を告げた。
「源一さん、かっこいいところ見せたいんだね。奮発してやりますか」
銀之助は、寿しを十個握った。
おすみは、田楽豆腐を作りながら、源一から聞いた市村座の話をした。
「そんなひどい奴らなんですか。ちょっと調べてみた方がいいですね。また、橋本様に相談してみましょう」
「私も、一緒させてください。心配なんです」
店を閉めてから、銀之助は、おすみと源一と一緒に、徳衛門長屋の橋本順之助の家を訪ねた。
一方、お玉は、まだ長屋には帰っておらず、奥山から北にある出会茶屋で市村座の八之助と会っていた。
「これどう。八さんに似合うかしら」
お玉は、風呂敷から派手な着物を出した。
「お玉さん、こんな高いもの悪いね」
お玉は、八之助の隣に座りなおして、酌をした。
「お玉さんも、一杯どう」
「一寸だけいただきます」
八之助が、お玉の懐に手をすべりこませた。
「八さん、まだまだ」
「ゆっくり飲んでから・・・・」
四半時、二人は戯れた。
「そろそろ、帰らないと」
お玉が、肌蹴た着物を整えた。
「お玉さん、ちょっとお願いが・・・」
「なんですか」
「実は、今の芝居、赤字なんです。場所代が、払えなくなりそうなんです」
「払えなくなるとどうなるんですか」
「また、旅に出なければなりません。せっかくお玉さんにお会いできたばかりなのに」
「どのくらい必要なんですか」
「十両もあれば、そして、儲かる芝居をやればここにいられます。もう少しで受ける芝居が完成します。何とかお願いできませんか。お玉さんに毎日会いたいんです」
お玉は、十両と聞いて驚いた。
「お玉さん、いいんです。いまの話、なかったことにしてください」と、八之助は寂しそうに言った。
お玉と八之助が分かれた頃、徳衛門長屋の橋本順之助の家では。
「おう、雁首揃えてどうしたんだ。まあ、中に入れ」と橋本は銀之助たちに言った。
おすみは、流しに行っていつものように、竈に火をつけ、湯を沸かした。
「銀之助さんだけでなく、源一までもが、一体何があったんだ」
銀之助が、最近のお玉の行動について、一通り話をした。
源一が、お玉がぞっこんの市村座の八之助たちの悪い噂を憤って話し始めた。
しばらくして、おすみが座敷に上がり、源一の近くに茶碗の乗った盆を置き、橋本のそばにあった徳利を取って、茶碗に酒を注いだ。
「さあ、召し上がれ。何とかお玉さん、助けてやってくださいね」
「おすみさん、いつも悪いな。みんな飲んでくれ。お玉さんが騙されているとはなあ、困ったものだ」
「調子に乗って、酒ばかり飲んで、いい方法を考えないと、おすみさんに怒られそうだ」
と、顔が赤くなった源一が言って、頭を叩いた。
その時、入口の腰高障子戸が開いて、「こんばんわ」といって、源一の女房のおつたが入ってきた。
「みんな、酒の肴、持ってきたよ」
香の物や、ねぎ味噌、焼き魚が盛りつけられた大皿を皆の真ん中に置いた。
「おう、これはちょうどよかった。おつたさん、申し訳ない」
橋本が頭を下げた。
「後から、勇治さんたちも来るそうだから、すこし残しておいておくれ」
「これは、皆ここには座れんぞ」
橋本が、立って酒を飲むしぐさをしたので、皆笑った。
「橋本様、そんなことしてないで、早くいい知恵出しておくんなさいよ」
おすみは、ちょっと怒っていった。
「すまん」
「橋本様は、おすみさんに頭上がんないんだから」
おすみは、顔が赤くなったようだったが、行灯から離れた所にいた銀之助は、気づかなかった。
「銀之助さん、何か良い考えはないか」
銀之助は、盆に茶碗をおいて、
「そうですね、あいつらをお玉さんが知らないうちに、江戸から追い出すことが出来たらいいんですが」
「まだ、あいつらお縄になるほどでもなさそうだし、どうしたらよいもんかな」と、橋本。
「どうです、あいつらの噂をかわら版に書いてもらうなんてことは」と、源一が言った。
「書いてくれるだろうか」と、橋本が煙管を火鉢に叩いた。
「悪いのは三人ですね」
おすみが口をはさんだ。
源一が頷いた。
「市村座の役者は、十人ぐらいのようだ」
橋本は、また煙管に火をつけた。
「どこかの島へ追放させるか」
「そうだ、勇治さんなら、漁師を知っているから来たら相談してみよう」
銀之助がいった。
「それはいいかもしれん」と、ほっとした様子の橋本が言って、徳利を持って茶碗に酒を注いだ。
「こんばんわ。」
皆、入口に目を向けた。勇治夫婦が、戸を開けて入ってきた。
「ちょうどいい時に来てくれた。二人とも、早くこっちに座ってくれ」
おみねは、持ってきた皿に乗せた鮎の塩焼きを皆の前に置いた。
橋本が、自分の茶碗を飲み干して、勇治に渡して言った。
「まあ、一杯飲め」
橋本が、勇治の茶碗に酒を注いだ。
おすみが、おみねの前に湯を置いた
銀之助が、今までの話をかいつまんで勇治に話し始めた。
勇治は、黙って話を聞き付け、銀之助の話が終わるのを待ってから言った。
「なんとか、やってみましょう」
一刻ほど談合して、皆、家に戻って行った。
朝から、今にも雨の降りそうな空模様であった。
銀之助は、勝手場で昼の段取りをしていた。
「おはようございます。」
と、おすみが店に入ってきた。
「銀之助さん、今日の献立はなんにしましょうか」
「勇治さんから鮎を買ってますので、鮎の塩焼きと豆腐汁でどうでしょうか」
「はい、分かりました」
おすみは、流し台に行って、米をとぎ始めた。
銀之助は、鮎に塩をまぶした。
おすみが、米を入れた釜を竈にかけた時、お玉がおはようございます、といって勝手場に入ってきた。
「昨日は、休んですみませんでした」
「どうしたんですか」
「いや一寸、身体の具合が悪かったものですから」
いつもの通り、昼の閉店まで三人は働きつめた。
そして、おすみが暖簾を店の中に入れ、皆、片付けに入った。
片付けを終え、銀之助は、二階に上がり売り上げを勘定していた時、
「玉ですが、銀之助さん、折り入ってお話があるのですが」
障子戸の向こうからお玉の声がした。
(来たか)
「どうぞ、入って下さい」
お玉は、障子戸を開けて座った。
「なんでしょうか」
「実はちょっと、お金が必要になったもので・・・・。お給金の前借をしたいのです」
「いくら必要なんですか」
「十両ほどです」
銀之助は、しばらくの間、腕を組んで考え込んで、
「お玉さん、そう簡単に十両といわれても。一体何に使うんですか」
「申し訳ありません、今はいえません」
(これは早く、八之助を片付けなければ)
「十両は大金なんで、五日ほど待ってください」
三人は夜の支度を終え、店を開いた。
昼から降り出した雨が、激しくなっていた。
「銀之助さん、雨がひどくなってきたわね」
おすみは、勝手場の窓から外を覗いて言った。
「もうお客さん、来ないかもしれませんね」
銀之助は、もうしばらく店を開けておくと言ったが、六ツ刻になっても客が一人もいなので、銀之助はおすみとお玉に店じまいすることを伝えた。
お玉を先に帰らせ、銀之助とおすみはこれから来る長屋の人たちの食べ物を作り始めた。
四半刻過ぎた頃、橋本順之助と大工の源一がやって来た。
「皆さん、ご苦労様です」
「銀之助さんが一番ご苦労されてますよ」
源一が言った。
しばらくすると、勇治が一人の老人を連れて、裏口から入ってきた。
店の中に一角に集まっていた銀之助たちのところに行って、勇治が老人を紹介した。
「直助だ。話は勇治から聞いた。何とかやってみるで」
「直助さん、座って下さい」
銀之助は、直助が座ると、皆を紹介し、計画の理由とその策の段取りを説明した。
直助は、銀之助の話を聞きながら時々相槌を打っていた。
呑みこみが早そうに見えた。
銀之助の話が終わると、おすみが酒を運んできた。
また勝手場に戻って、鯉の味噌煮を四匹乗せた皿を樽の上に置いた。
「荒川で取れた鯉ですよ。勇治さんの差し入れです」
おすみは、芝居がひける前に、八之助に付文を渡し、今、出会い茶屋で八之助を待った。
女中にすでに運ばせておいた酒と肴の膳二人分が、置かれていた。
「おすみさん、お待たせ」
八之助が、襖戸を開けて入ってきた。
「八之助さん、まずは一杯いかがですか」
おすみは、八之助に盃を持たせて、酌をした。
八之助は、勢いよく盃を空けて、おすみに渡そうとした。
「八之助さん、あたしお酒だめなんですよ」
おすみは、八之助の手から徳利を取って、八之助の盃に酌をした。
八之助はそれを飲み干し、
「おすみさん、少しだけでも」といって、しつこく盃を押し付けてきたが、目をこすりながらちょっと眠たくなってきたので、横になるといった。
「八之助さん、あたしの膝を枕代わりにどうぞ」
おすみが、膝を寄せた。
「八之助さん、弱いのね。寝てしまったわ」というと、隣の部屋の板戸が開き、銀之助と橋本が顔を出し、部屋に入ってきた。
「おすみさん、よくやった」
橋本が労った。銀之助も頷き、持っていた手拭いで猿轡を、橋本は、両手を後ろ手にして、縄をかけそして、足も縛った。
隣の部屋から布団を持ってきて、八之助をぐるぐる巻きにして縛った。
「さあ、銀之助さん、運び出そう」
おすみは、階段を下りて、人がいないのを確認して、二階に合図を送った。
銀之助と橋本は、八之助を巻いた布団を一階に担ぎおろし、裏口の外で待たせていた駕籠に乗せた。
「さあ、行ってくれ。酒代はずむぞ」
橋本が、駕籠かきにいった。
駕籠の両側について、銀之助と橋本は走った。
大川に架かった筋違橋の船泊に、舟の上で直助が待っていた。
巻布団を二人は、舟に運び込んだ。
「直助、頼むぞ」と、橋本がいった。
「まかしときな」
直助は櫂を動かし、滑るように舟は大川を下り始めた。
半刻ほどたって、舟が揺れ出した。
「直助、大丈夫か」
「湾に出ただ。一刻ほどで島に着くから辛抱しろ」
佃島に着いた。
銀之助と橋本が、巻布団を直助が時々使っている苫屋に運び込んだ。
二人は手際よく布団をほどき、八之助を出して、水を飲むことができるように猿轡を緩め、手首も前に縛りなおした。
直助が、桶に水を入れて横たわっている八之助のそばに置いた。
「これでしばらくの間、ここからは出れねえだろう。少しは頭を冷やせばいい」
橋本が、吐き捨てるようにいった。
銀之助は頷いた。
何事もなかったかのように、明け六ツ刻(六時)、銀之助は目を覚ました。
裏庭の井戸で顔を洗っていると、勇治がやって来た。
「おはよう、銀之助さん」
銀之助は、うまく八之助を佃島に運んで行ったことを伝えた。
「そりゃよかった。これで一安心だね。いい浅利あるけどどうですか」
銀之助は、、浅利を一篭買った。
(昼の献立は浅利丼にしよう)
勝手場で浅利を剥いていた時に、おすみとお玉がおはようございますといって、入ってきた。
「銀之助さん、今日の昼はなんですか」
おすみは、銀之助の目をしっかり見た。
「勇治さんから、浅利を買ったんで、浅利丼にします」
銀之助は、うまく行ったことを目でおすみに合図を送った。
「さあ、お玉さん、今日も美味しい料理を作りましょう」
おすみは、豆腐汁を作り始めた。
一方、お玉は元気なく、米を炊く準備に入った。
昼の客は、思っていたよりも多く、九ツ半で浅利丼は売り切れたので、銀之助は、おすみに店を閉めるよう伝えた。
お玉は、客の使った茶碗を片付けた。
(お玉さんは、八之助のことを忘れられないんだな)
片付けが終わったのを見計らって、銀之助は、お玉を二階に呼んだ。
「お玉さん、お金の件だが、もうしばらく待ってください」
お玉は、ただ頭を下げ続けるだけであった。
「さあ、夜の支度にかかりましょうか」
勝手場では、おすみが田楽豆腐を作っていた。
「おすみさん、お玉さん、献立は、雑炊と雷豆腐にしましょう」
銀之助は、豆腐を崩し始め、おすみは、大根をおろした。
お玉は、茶碗に飯を盛り始めた。
七ツ刻(四時)の捨て鐘が鳴った。
おすみがうまいもん屋の暖簾を掛けに出ると、市村座の市之丞と梅之助が、店の前で待っていた。
「いらっしゃい」
おすみは、二人に声をかけたが、市之丞と梅之助は、無視して店の中に入って行った。
二人のところにお玉が行った。
いつまで経っても、お玉は勝手場に戻って来なかった。
「お玉さんを呼んできます」
おすみは、銀之助にいった。
市之丞と話していたお玉の所に行った。
「お玉さん、ちょっと」
「おすみさん、お二人がいうのには、八之助さんが、昨日から帰ってこないんですって」
市之丞が、割って入った。
「おすみさん、あんた昨日、八之助と会っていないか」
女形の市之丞が、おすみを上から下まで舐めるように見た。
「いいえ、会ってませんよ。なぜ、私が会わなければならないんですか」
おすみは、市之丞を睨めつけるようにいった。
「まあ、いいや。酒と田楽豆腐、適当に持ってこいや」
梅之助が、いった。
おすみとお玉は勝手場に戻り、酒と田楽豆腐を用意し、お玉が、それを盆に載せて、市之丞たちのところに運んで行った。
「銀之助さん、八之助に会っていたのを、あの二人に感づかれているようです」
「そうですか、気を付けないといけませんね」
銀之助は、あの二人が今後どのように出てくるか思案した。
(おすみさんをここに泊めたらどうか、いやお玉さんがどう思うか・・・・。そうだ、当分の間、おすみさんの後をつけて行くか。橋本様にもまた、手伝ってもらう)
「おすみさん、当分の間、帰りはおいらが後からついて行くんで、心配しないで。ただ、お玉さんには内緒でね」
銀之助は、店の行灯を消して、勝手場に戻った。
おすみとお玉は、茶碗を洗っていた。
「お玉さん、安坊が待っているだろうから、早く帰ってやってください」
「銀之助さん、おすみさん、すみません」と、お玉は言って頭を下げた。
お玉を見送った銀之助は、二階に上がって天袋から丸棒を出して、背に差し下に降りた。
「おすみさん、そろそろ帰りますか」
銀之助は、提灯に火をつけおすみに渡した。
おすみは、腰高障子を開け、銀之助に頭を下げ出て行った。
半町ほど離れると、銀之助はおすみの後を追った。
三町ほど追いかけたところで、二つの黒い影がおすみの前に立ちはだかったのを銀之助は見て、おすみの所に走った。
「おすみ、八之助兄いのこと知っているんだろう、いわねえと痛い目にあうぞ」
梅之助が、おすみの胸ぐらを掴んだ。
「何すんのよ」
当身を受けたおすみは、よろけた。
それを、梅之助が受けた。
「早くしろ」
市之丞が、急かした。
「待て」
「銀之助か」
市之丞が組みかかってきた。
銀之助は、市之丞の胸ぐらを掴んで、背負い投げ飛ばした。
「痛てえ」
市之丞が背中から落ちた。
梅之助が、おすみから手を放し、懐から匕首を出した。
「てめえ、覚悟しろ」
梅之助が、突き進んできた。
銀之助は、後ずさりしながら、背中に手をまわして、丸棒を引き抜いたと同時に、梅之助の右手首を撃った。
「ギャー」
梅之助の手からが落ちた。
「この野郎」
市之丞も匕首を抜いて、後ろから突いてきた。
銀之助は、身体を沈ませ、振り向きざまに右足の脛を払った。
‘ゴキン’
市之丞は、気を失って倒れた。
「おすみさん、えっい」
銀之助は、おすみの両肩を手で支え、膝で背中を押し活を入れた。
おすみが、目を開いた。
「銀之助さん」
おすみは、銀之助に抱きついた。
二人は、橋本の家に行った。
橋本は銀之助の話を聞いて、
「銀之助さんは、強いのう」
「これからどうしたらいいんでしょうか」
おすみは、元気を取り戻したようで、沢庵漬けと徳利そして茶碗を二人の前に置いた。
「おすみさん、難儀したのう」
二人の茶碗に酒を注ぐおすみの手が、震えていた。
「さあ、召し上がってくださいな」
やっと、おすみが口を開いた。
「奴らは、これからどう出てくるかだな」
橋本が、酒を飲み干して、いった。
「二人とも骨を折っていますから、当分の間は舞台に上れますまい」
「銀之助さん、しばらくは様子見だな。当分の間、おつたとおみねに芝居小屋に通って、様子を探ってもらおうか」
銀之助は頷いき、おすみは、すぐに立ち上がり、腰高障子を開けて外に出て行った。
しばらくして、おつたとおみねを連れて、戻ってきた。
二人が座ったのを見計らって、銀之助が、市村座の見に行って市之丞たちの様子を探って来るように頼んだ。
二人は、喜んでその役目を引き受けた時、
「こんばんわ」
源一と勇治が、徳利を抱えて入ってきた。
おつたが、源一に銀之助に頼まれた話をした。
「うちのかかあに、そんな大役が勤まるか」
源一が、笑いながらいった。
「あんたなんかより、あたしたちの方がどれだけ役に立つか、見てなよ」
といって、おみねが、勇治の茶碗を取り一気に飲んだ。
三日後の四ツ刻(十時)。
うまいもん屋では、昼飯の準備に銀之助たちは忙しく働きまわっていた。
「こんにちわ」おつたとおみねが勝手場に入ってきた。
「いらっしゃい。」
銀之助は笑顔で二人を迎えてから、
「二階で話を聞かせてください」といって、二階に連れて行った。
「銀之助さん、市村座はもう出て行ったようよ」
「そうですか」
「最初はごまかしながら興行していたんですが、市之丞と梅之助の二人が舞台に上がっていないのを客たちが気付いて、客足が減り、収入が得られないため、市村座は、夜逃げ同様に小屋を出て行ったそうです。どこに行ったか分かりませんが、市村座は解散したとのもっぱらの噂です。これで、お玉さん、きっと諦めがつきますね」
浅草寺の鐘が、捨て鐘を打った後、四ツ刻半(十一時)を知らせた。
「おつたさん、おみねさん、ご飯を食べて行ってください」
「わるいわね」と、おつたが言った。
銀之助たちが二階から降りた時、おすみが暖簾を外にかけて、戻ってきたところ、銀之助は、おすみにおつたたちに飯を食べてもらうことにしたと伝えた。
おつたとおみねが、樽に腰を下ろした。
二人の所にいいにおいが漂ってきた。
「お待たせしました」
お玉が、と鯉の味噌煮を二人に運んできた。
それぞれの皿に鯉一匹ずつ、豪華に載っていた。
「おいしそう」と、おみねが言った
「お玉さん、板について来たわね」と、おつたがお玉に笑顔を向けた。
「いつも、安吉がお二人にお世話になって、ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」
八ツ刻(午後二時)の鐘の音を聞いて、二人は帰って行った。
おすみは、二人を見送って、暖簾をはずした。
銀之助は、店の中を片付け始めた。
おすみは、皿を洗い、玉は、洗い終わった皿を拭いた。
勝手場に戻って来た銀之助は、お玉が皿を棚にしまっているのを見て、
(お玉さんに、市村座のことをいうか)と、銀之助が、覚悟を決めた時、
おすみの声が、聞こえた。
「お玉さん、市村座の役者さんたちが、芝居小屋からいなくなったそうよ」
おすみが、客から聞いた話をお玉にした。
お玉の顔色が、変わった。
銀之助とおすみは、驚いた。
(お玉さんは、八之助がいなくなったことや、市之丞の件は知らないのかしら)
「お玉さん、顔色悪いようですが、どうかしたんですか」と、銀之助が、心配そうに声をかけた。
「今日は、身体の具合が悪いんで、帰っていいですか」
「お玉さん、大丈夫」
「おすみさん、お玉さんを長屋まで送ってもらえませんか」
「大丈夫です。一人で帰れます」
お玉は、片付けを終わるとそそくさと帰って行った。
銀之助は、おすみに店番を頼んで、そっと、お玉の後を追いかけた。
そのすぐ後、入れ違いで橋本順之助が、裏口から入ってきた。
「銀之助さん、居るかい」
「あら、橋本様」
「おすみさんだけかい」
「ええ、銀之助さんは、今しがた、お玉さんが心配で、後をつけて行きました」
おすみは、おつたとおみねが来て、市村座が芝居小屋から出て行ったことを知らせに来とことと、その件をお玉に話したところ、顔色を変えて慌ててお玉が帰っていた様子を話した。
「そうか、お玉は、まだ騙されているのに気付かず、奴にのぼせているのか」と、言って橋本は考え込んだ。
「銀之助さんが、帰って来るまで、お待ちになったら」
芝居小屋の周りに建てられていた市村座の幟は、一本もなかった。
お玉は、小屋の中に駆け込んで行った。
それを見て、銀之助は周りを注意しながら、暗闇の中に入って行った。
お玉は、桟敷に腰を落とし、呆然としていた。
闇の中に人が動いた。
銀之助は、丸棒を掴んで、お玉に近づいた。
急に声がした。
「お玉」
梅之助が、左手に匕首を持ってお玉に近づくのを、壁の隙間からの日差しが照らした。
「梅之助さん、何すんだい」
市之丞が、足を引きずりながら、梅之助の後ろから、中刀を肩にしょって現れた。
「この女、銀之助とぐるだ。梅之助、やっちまえ」
「待て」
「誰だ」
「銀之助か」
市之丞が、上段に構えて、銀之助に近づいて来て、二間ほど距離が詰まった時、銀之助は、一歩踏み込んだ。
「えいっ」
「わー」
市之丞が、倒れ気を失った。
それを見た梅之助が、突進してきた。
銀之助は、軽くかわし、丸棒を梅之助の背中に叩きつけた。
「ぎゃっ」
梅之助も気絶した。
震えているお玉に言った。
「お玉さん、面倒なことになる前に帰ろう」
二人は、芝居小屋を出て、うまいもん屋に向かった。
「早く帰って、おすみさんの手伝いをしなきゃ」
うまいもん屋の近くに来たところで、銀之助は、お玉にいった。
「お玉さん、ちょっとおいら買いものしていくんで、先に帰って下さい」
銀之助が、店に戻った。
「ただいま」
「お帰りなさい」
おすみが銀之助を迎えた。
お玉も気が付き、銀之助に頭を下げた。
銀之助は、買ってきた大仏餅の包みを開けた。
「おすみさん、お玉さん食べて下さい」
「田中屋さんの大仏餅ね、おいしそう」
おすみは、ほおばって食べた。
お玉の頬に涙がながれていた。
「お玉さん、泣くのはもういいんじゃないかしら。早く食べないと、食べちゃうよ」
おすみが、微笑んだ。
「銀之助さん、おすみさんから聞きました。いろいろ、ありがとうございました」
お玉は、手拭いで目を拭った。
「さあ、お店を開きますよ」
おすみは、暖簾を掛けに入り口に向かった。
お玉は、店の行灯に灯をつけ始めた。
国分屋の弥助が、一番に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
お玉が元気で迎えた。
「お玉さん、お久しぶり」
弥助はいつもの奥の行灯のそばの席に座った。
注文を聞いたお玉は、勝手場に戻った。
おすみに、鮎の塩焼き、大根雑炊の注文を伝え、徳利に酒を注いだ。
「お玉さん、塩焼き、出来上がり」
銀之助が威勢よくいった。
おすみは、大根雑炊を作りながら、
「弥助さん、お玉さんのことを心配していましたよ」
お玉は、手拭いで目をぬぐって、弥助の膳を運んで行った。
「お玉さんと弥助さん、うまくいくといいですね」と、おすみがいいながら、新しく入って来た客を迎えに店に出て行った。
銀之助は、しばらくしてやって来る橋本たちの酒の肴の準備を始めたところ、おすみが弥助来て、銀之助に話があるから来てくれと言っていると勝手場に戻ってきた。
「なんだろう」
「笑顔だったから悪い話ではなさそうよ」
銀之助は弥助の前に行った。
「何か御用ですか」
「今年の夏に我々は大山詣りに行く予定でしたが、主人のお母様が先日亡くなったため行けなくなりました。よろしければ銀之助さんたちが代わって大山詣りに行っていただけないかと主人が言ってます。どうでしょうか」
「長屋の連中も誘っていいですか」
「もちろん、銀之助さんのご希望通りどなたと一緒でも構いません」
「きっと、皆喜びます」
「ただ一つお願いがあるのですが」
「なんでしょうか」
「我々の代参ということで、よろしいですか」
「構いません」
「では、に伝えますので、後日、行く人数を教えてください」
銀之助はさっそくおすみに伝えて、長屋の連中に声をかけてもらうよう頼んだ。
「大山詣りにはいつか行きたいと思っていたんです」おすみは嬉しさが体中からあふれでていた。
銀之助も、夏が待ち遠しくなった。
浅草寺の桜の蕾がほころんでいた。
うまいもん屋にも花見の客が、訪れるようになった三月の末の暮れ七ツ刻、いつものように、おすみは、外に暖簾をかけた。
しばらくすると、店の中は客たちの話し声や笑い声で賑やかになった。
おすみとお玉が、客の注文を聞きにいったり、酒や肴を運んだりして、忙しく動き回った。
お玉は、五日前、徳衛門長屋の以前おさとが住んでいた家に、安吉という六歳の息子を連れて引っ越してきた。
その日、おすみは、お玉が挨拶に来たときに、何か仕事がないかと相談を受けたので、おすみは、翌日、銀之助に相談したところ、うまいもん屋でどうかということになって、お玉はここで働くようになったのだ。
お玉が昼働いている間、長屋の女たちが息子の安吉の面倒を見ていた。
六ツ刻の鐘の音が聞こえてからしばらくして、役者とわかる派手な姿の男三人が、店に入ってきた。
「いらっしゃい」
お玉は、明るい声で男たちを空いている席に案内し、注文を聞いた。
勝手場に戻って、お玉は、銀之助に注文の田楽豆腐六本、つい最近お品書きに入れたまぐろきじ焼きそして、利休飯を三人前と伝えてから、徳利で温めた酒を徳利に移した。
「銀之助さん、あのお客さんたち、奥山の芝居小屋にでている歌舞伎役者ですって」
「ほう、見慣れない客だから、最近来た人たちでしょうね」
この時代は、四代目鶴屋南北が多くの作品を創作し、江戸三座を中心に江戸歌舞伎が全盛期であった。
歌舞伎役者は‘河原者‘と区分され身分上差別されていたが、反面各地への通行に便宜を与えられていた。
お玉は、役者たちのところへ、酒と田楽豆腐を運んで行った。
「すぐに、まぐろきじ焼きを持ってきます」
「そんなに、急がなくていいですよ」
細面で目が切れ長のとした男が、低く響きを持った声でいった。
その男は三人の中で一番若く、そして、男前にお玉の目に映った。
「利休飯は、まだいいですか」
「まだいいですよ」
一番年上と思われる男は、いった。
「娘さんは、ここでは長いのですか」
女形にはうってつけな顔立ちの男が、盃を置いていった。
娘といわれ、お玉は、顔を赤らめながらつい最近と答えた。
「今、‘りきゅうめし’をやってますので、ぜひ見に来てください。良い席にご案内しますよ」と、一番年上の男がいってから、自分は大阪からやって来た市村座の八之助と名乗って、女形を市之丞、そして若いのを梅の助と紹介した。
紹介された梅の助が、田楽豆腐を飲み込んで行った。
「名前を教えてください。下足番に伝えておきますから」
「玉、といいます」
「お玉さん、江戸っ子ではないでしょう。越後ですかい」
お玉は当たっていたので、驚いた。
男たちは、大阪から来た旅芸人で、全国旅をしているので、しゃべり方でどこの生まれか、大体分かるといった。
そんなやり取りをお玉が、梅の助としていていると、市之丞が盃をお玉に渡して酒を飲まそうとした。
二度断ったが、お玉も嫌いな方ではないので、一杯だけといって飲んだ。
勝手場に戻ると、それを見ていたおすみがお玉に注意した。
「お玉さん、お客さんから盃を受けたらきりがないから、受けてはいけないといったじゃないの。また、混んでいる時は、お話は手短にして下さいね」
「あの方たちが、何度も勧めるので断れなくって。すみません」
お玉は、おすみと銀之助に向かって頭を下げた。
銀之助は、竈にかけた鍋を見ていた。
「お玉さん、まぐろきじ焼き出来上がりです」
「はい」
お玉は、役者たちのところに持って行った。
おすみは、他の客に酒を運んで行った。
戻って来たお玉が、銀之助にいった。
「利休飯三つお願いします」
「はいよ」
銀之助は手際よく利休飯を作り終え、お玉に持って行かせた。
おすみは、帰った客の使った徳利や茶碗を持ってきて流しで洗っていた時、銀之助が声をかけた。
「おすみさん、両国の尾上町の回向院前の華屋の‘与兵衛寿司’にいったことありますか」
「話には聞いたことがあるくらいで」
「じゃあ明日行ってみませんか」
「いいですね、華屋与兵衛さんという方が考えた鮨、どんなものか食べてみたいです」
「決まった、明日の午後、店を休みにして与兵衛寿司に行きましょう」
翌日、店を閉めた銀之助とおすみは、浅草橋から屋根船に乗った。
大川の堤は、連なる桜花が屏風に描かれたように青い空と川に映えていた。
その中を船は、すがすがしい風を受けて、大川をゆっくりと下って行った。
「おすみさん、長屋の皆さんを誘って、皆で花見をしませんか」
銀之助は、声をかけた。
「いいですね。長屋の人に声をかけてみます」
「では明後日あたり、昼店を閉めてから大川の堤でどうですか。酒と肴はうまいもん屋が用意しましょう」
「おつたさんとおみねさんに手伝いに来てもらいますね」
二人は両国橋で降りて、しばらく大通りを歩き右角を曲がって裏門から回向院に入った。
そして、万人塚に向かい手を合わせた。
華屋は、回向院の表門の斜め前にあった。
入口は二間で、紺地に白抜きで‘寿し’と書かれた大きな暖簾が掛かっており、腰高障子戸が開け放たれていた。
右側の屋根の下には、‘華屋’と書かれた行燈が据え置かれていた。
寿しの包みを持った町人風の男が出てきた後に、二人は、店に入った。
もう八ツ半刻になるのに、一尺半ほどの上り座敷には、客でほとんど埋め尽くされていた。
二人は、奥の片隅の席に案内された。
銀之助は華屋で一番、二番の人気の小鰭(コハダ)・鯵(アジ)を二人前注文した。
すぐに先ほどの女中が、寿しを桶に載せて運んできた。
「はやいな」
「早ずし、といわれているようです。大きいですね、握りこぶしくらいあるかしら」
「魚は、酢でよくしめてます」
「お待たせしました」
女が、浅利汁と生姜を盛った小皿を二人の前に置いた。
「この生姜は何のためにつけているんですか」
銀之助が、女に聞いた。
「薄切りの生姜を甘酢に漬けたものです。 生姜は、ばい菌の繁殖を抑える効果があるんですよ」
銀之助は、浅利汁を口に含んでいった。
「これは、仙台味噌ですね」
仙台味噌は、濃厚な旨みと、深い香りを持つ赤褐色の辛口味噌として、江戸では人気があった。
二人は、しっかりと味を舌に覚え込ませるように、半刻ほどかけて注文したものを食した。
銀之助は、一分を支払っておすみと店を出た。
「美味しかったけれど、いくらなんでも、一貫、二百五十文とは高いですね」
おすみは、銀之助にいった。
「大工さんの日当が、三百五十文ぐらいですから、みなさん、いつもというわけにはいきませんね」
二人は、歩いて帰ることにした。
半刻ほど歩いて、浅草橋を渡った時、
「銀之助さん。あの人、お玉さんじゃない?」
おすみの顔の方向を銀之助は見た。
「男は、先日店に来た役者の一人じゃないか」
二人が、近くの小料理屋に入って行ったのを見て、
「お玉さん、なにしてんのかな」とおすみは不審そうに思いながらも、銀之助の後に続いて長屋に向かった。
銀之助がうまいもん屋に戻ったのは、七ツ半刻頃であった。
勝手場で一人明日の準備をし終わった後、酒を飲み始めた。
(華屋の寿しは美味かったが、高すぎるな。酢飯に酢でしめた魚とわさびを乗せるだけだ。もっと安くして、うちでもだしてみよう。明日、勇治さんから鰺を買って試して作ってみるか。そうだ、花見の時作って持って行こう)
(しかし、お玉さん、息子をほっぽらかして、一体どういうつもりなんだろう)
銀之助が目覚めた。
「さかな~、さかな、生きのいいさかな~、さかなはいらんかねえ・・」
勝手場で銀之助は、寝てしまったのだ。
(勇吉さんだ。鰺を買わなければ)
飛び起きて、勝手場の戸をあけた。
勇吉は銀之助を待っていた。
「勇吉さん、鰺はあるかい」
「はい、ありますが、珍しいですね。一体どうしたんですか」
「華屋さんというお店を知ってますか」
銀之助は、昨日おすみと行った華屋について一部始終話した。
「それで鰺なんですね。承知いたしました。この桶の魚を全部捌きましょう」
勇治は勝手場に入って、鰺を三枚におろした。
半刻ほどかかってすべて終わり、鰺を酢でしめはじめた。
銀之助は、竈で飯を炊いた。
おすみ、おつた、おみねそして、お玉の四人が荷を抱えて「おはようございます」と言って、勝手場に入ってきた。
「あら、勇治さんじゃないの」と、おすみが驚いて言った。
「あんた、何やってんの」と、おみねも仰天した。
銀之助は、皆に今まで勇治が寿しを作るのを手伝ってくれたことを説明した。
「もう、銀之助さん、寿し作ってんですか」と、おすみはさらに驚いた。
「みなさん、今日は、花見ですから、花見の弁当を作る組と昼の献立を作る組と手分けしましょう」と、銀之助は笑顔でいった。
銀之助とおつたそして、お玉が昼の客の献立を、おすみ、おみねそしておつたが弁当を作ることになった
勝手場は賑わって来た。
銀之助は、重箱を五つ出してきて丁寧に洗い、おすみによろしくと言った。
おすみは、それぞれの料理手順をおみねとおつたに丁寧に教えた。
一刻半(三時間)ほど過ぎると、客に出す献立と花見の弁当が出来上がった。
最後に、銀之助が鯵寿しを作り終え、重箱に詰めた。
「美味しそう」と、お玉が言った。
おすみが説明し始めた。
「一の重は、かすてら玉子 鮎色付焼 竹の子旨煮 早わらび ひじき かまぼこ、二の重は、桜鯛 干大根、三の重は、鰺寿し、そして、四の重は小倉野きんとん 甘露梅、椿餅 薄皮餅です」
「おすみさん、すごいな」と、銀之助は目を丸くした。
「この献立は、花見の時の八百善の定番です。思ったより綺麗にできあがったわ」と、おすみが嬉しそうにいった。
昼の客が帰ってから、すぐに、片付けを終えて、銀之助たちは大川端に出かけた。
大川端の桜並木の下では多くの花見客が宴をはっていた。
橋本順之助、おつたの夫の源一、そして簪職人の銀太たちは、浅草橋から三町ほど下った場所の桜の木の下で、すでに酒盛りをしていた。
「皆さん、遅くなりました」
銀之助たちは敷茣蓙に座り、持ってきた酒を置き、そして風呂敷を解いで重箱を広げた。
「おう、これは御馳走だ」と、源一が、目をまん丸くして言った。
「こんな綺麗な料理、初めてだ」と、顔がすでに赤くなっていた橋本が重箱をのぞき込んで言った。
「皆で、買ってきたものもありますが、大体は皆で作ったんですよ」と、おすみが言ってから料理の説明をした。
皆、感心しながら聞いていた。
説明が終わると、銀之助が立ち上がった。
「皆さん、いつもうまいもん屋を御贔屓いただきありがとうございます。今日は、遠慮なく飲んで、食べてください」と言って、銀之助は橋本たちに酌をしてまわった。
しばらくの間、皆、飲み食いに夢中で静かに時は過ぎた。
お玉のそばに座った安吉も、我を忘れて食べ続けていた。
「こんなうめえものを食ったのは、初めてだ」と、満足げな源一は盃を飲み干し、煙管に火をつけ一服して言った。
「鰺のむすびみたいのは初めてですが、これはなんていうんですかい」と、銀太は、銀之助に酌をしながら尋ねた。
「これは、早寿しというんです。あっしも初めて作ったんですが、味はどうですか」
「銀之助さん、これは美味い。安かったら皆食べに来るぞ」と、橋本は、‘華屋’の寿しが繁盛していることや値段が高いことを付け加えた。
男連中は、酒が回ってきたせいもあってか、口数が増えてきた。
「おすみさん、一曲頼みますよ」と、真っ赤になった勇治が、おすみに向かって言った。
「そうだ、おすみさんのいい声も聞かせてくれ」と、橋本も手を叩いて言った。
おすみは、後ろに置いてあった三味線を手に取り、「では、‘桜尽し’を」と、言ってから歌い始めた。
♪雲井に咲ける山桜~霞の間よりほのかにも、見初めし色の初桜、絶えぬながめは九重の、
都帰りの花はあれども、馴れし東の江戸桜~
名に奥州の花には誰も、憂き身を焦がす塩釜桜・・・・・・・・・・・・・・・・♪
「おすみさん、相変わらずうまい!」
「日本一」
皆、声を発しながら手をたたいた。
お玉だけが、気乗りせずに、ただお付き合いで手を叩いているのにおすみは気づいた。
(お玉さんは、かなり重症だな)
銀之助も気づいて、お玉の前に席を移した。
「お玉さん、元気がないね。どうかしたんですかい」
声をかけられたお玉はびっくりして、銀之助の顔を見た。
話は、奥山の芝居に移っていった。
「市村座が興行している‘隅田川花御所染’は、大根役者ばかりだっていう噂だぜ」と源一が、煙管を口から外していった。
「‘隅田川花御所染’って、どんな内容なんですか」
銀太が、聞いた。
橋本が、物知り顔で答えた。
「 ‘隅田川花御所染’は、四世鶴屋南北の作だ。清玄法師を女にしたのが特徴で、あらすじは、こうだ。場所は、京。吉田家という家の長男の松若丸が、天下取りの野望を抱き、手始めに大友常陸之助を殺し、自らが常陸之助になりすますことから話が始まる。
許嫁の入間家の息女、花子姫は松若丸が死んだと思い込み、新清水寺で出家を決意するんだな。そして,清玄尼と名乗る。 そこへ松若丸が扮した常陸之助が現れるんだ。
常陸之助は桜姫の許嫁なのだが、松若丸の姿とうりふたつなので、清玄部尼は色欲に迷い、常陸之助を追って寺を出奔する。その後、病みやつれた清玄尼が養生する鏡ヶ池の妙亀庵に桜姫がやってきて、嫉妬に駆られた清玄尼は妹を殺そうとするのだ。そこへ無頼漢の猿島惣太が現れ、桜姫を助けて逃がすと、かねてから懸想をしていた清玄尼にいい寄るんだが、清玄尼が拒絶するので、惣太は悔し紛れに清玄尼を嬲り殺しにするのだ。 結末は、清玄尼の亡霊が松若丸の姿で現れ、松若丸と桜姫の道行に絡む舞踊で、怨霊の正体を現すと、押戻に撃退されて終わりとなるんだ」
「複雑で、怖い話なんですね」と、銀之助が言った。
「歌舞伎十八番の一つで歌舞伎の華といわれる荒事の押戻、小手、脛当、腹巻、大褞袍を着、三本の大太刀を差し、竹笠と青竹を持って花道から出て、荒れ狂う怨霊や妖怪を舞台へ押し戻すんだが、その役が市村座の役者では迫力がないんだな」と、橋本が渋い顔で言った。
「そういえば、この間、その役者さんたち、お店に来たわね。お玉さん」
「ええ、・・・・・・」
お玉は、歯切れの悪い返事をした。
銀之助は、心配そうにお玉の方をそっと覗き見た。
一刻半ほど過ぎ、陽が陰り、川風は冷たさを増して、銀之助たちを取り巻き始めたところで、皆名残惜しそうな顔をしながらも片づけを終えて、宴はお開きになった。
数日後、お玉は、四ツ刻(十時)になっても、来なかった。
「お玉さん、どうしたのかしら」
銀之助とおすみ二人で、昼の支度を終えて、店を開いた。
「おすみさん、店を閉めたら、長屋に戻ってお玉さんの様子を見てきてくれませんか」
その日は、客が少なかったので、銀之助は、昼過ぎ店じまいの前に、おすみを長屋に行かせた。
八ツ半刻(十五時)頃、おすみが店に戻ってきた。
「銀之助さん、お玉さん、いつもの通り、安吉ちゃんをおつたさんに預けて出かけたそうよ。てっきりうまいもん屋に働きに行ったと思っていたようよ」
「どこに行ったか、分からないんですか」
銀之助は困った顔をした。
七ツ刻の鐘が鳴った。
「銀之助さん、今日の献立は、なんにしましょうか」
「昨日花見で作った鰺寿しとこんにゃくみぞれ汁にしました」
「鰺寿し、美味しかったですね。大きさも華屋さんより半分ぐらいで食べやすかったし、うまいもん屋の看板になりますよ。こんにゃくみぞれ汁は、こんにゃくとおろしだいこんに昆布だしで作ればいいですね」と言って、こんにゃくみぞれ汁を作った。
銀之助が鯵寿しを作り終えるのを見て、おすみは、外に出て暖簾をかけた。
しばらくして、奥山で芝居や見世物を見てきた帰り客が、店に入ってきた。
その中に、白木屋の若旦那、庸介がいた。
「若旦那、いらっしゃい。今日は、鰺寿しがありますよ、いかがですか」
「おう。うまいもん屋さんも、いよいよ寿しを出すようになったのかい。じゃ、鰺寿しといつもの田楽豆腐、お酒を二合頼みますよ、おすみさん」
客が席を埋め尽くして、笑いや怒りの声そして、煙草の煙が店内に充満した。
「お待たせしました。若旦那、鰺寿しです」
「うまそうじゃないか、華屋さんと違って小ぶりだね。そういえば、もう一人の方は」
「今日は、お休みなんです」
「市村座が興行している芝居小屋で、似ている女を見たんですよ。まさかと思ったんですが・・」
新しい客が二人入って来たので、おすみは、ごゆっくりと庸介に言って、新しい客を席に案内した。
その客の注文を聞いたおすみは勝手場に戻って、銀之助に庸介のいったことを話した。
「お玉さん、一体何があったんでしょうね」
銀之助は、寿しを握りながら心配そうにいった。
「こんばんは」
「国分屋の番頭さんが来られたわ」
おすみは、入口に行き、弥助を空いている席に案内した。
弥助はあの事件以来、仕事帰りに時々うまいもん屋に寄って夕餉を取った。
「今日は、鰺寿しとこんにゃくみぞれ汁ですけれど、いかがですか」
「それといつものをお願いします」
「番頭さん、お待たせしました。みぞれ汁は後で持ってきますから」
おすみは樽の上に、酒と寿しそして、田楽豆腐を置いた。
「おすみさん、お玉さんはお休みですか」
おすみは、用事のため、休みといった時、大工の源一が弟子二人を連れて、店に入ってきた。
空いている席に腰をおろすなりに、注文を取りに来たおすみに言った。
「おすみさん、こいつらにうめえものを食わせてやってくれ。おいらは、田楽豆腐と酒だ。そういえば、この間市村座の連中がこの店に来ていたといってたな。あいつらはひどい奴らだそうで、娘や女たちを騙しては貢がし、挙句の果てにポイだそうだ。大根役者くせに悪党だと、おすみさんも気をつけなよ」
「はいはい、源一さん」
おすみは、勝手場の銀之助に源一の注文を告げた。
「源一さん、かっこいいところ見せたいんだね。奮発してやりますか」
銀之助は、寿しを十個握った。
おすみは、田楽豆腐を作りながら、源一から聞いた市村座の話をした。
「そんなひどい奴らなんですか。ちょっと調べてみた方がいいですね。また、橋本様に相談してみましょう」
「私も、一緒させてください。心配なんです」
店を閉めてから、銀之助は、おすみと源一と一緒に、徳衛門長屋の橋本順之助の家を訪ねた。
一方、お玉は、まだ長屋には帰っておらず、奥山から北にある出会茶屋で市村座の八之助と会っていた。
「これどう。八さんに似合うかしら」
お玉は、風呂敷から派手な着物を出した。
「お玉さん、こんな高いもの悪いね」
お玉は、八之助の隣に座りなおして、酌をした。
「お玉さんも、一杯どう」
「一寸だけいただきます」
八之助が、お玉の懐に手をすべりこませた。
「八さん、まだまだ」
「ゆっくり飲んでから・・・・」
四半時、二人は戯れた。
「そろそろ、帰らないと」
お玉が、肌蹴た着物を整えた。
「お玉さん、ちょっとお願いが・・・」
「なんですか」
「実は、今の芝居、赤字なんです。場所代が、払えなくなりそうなんです」
「払えなくなるとどうなるんですか」
「また、旅に出なければなりません。せっかくお玉さんにお会いできたばかりなのに」
「どのくらい必要なんですか」
「十両もあれば、そして、儲かる芝居をやればここにいられます。もう少しで受ける芝居が完成します。何とかお願いできませんか。お玉さんに毎日会いたいんです」
お玉は、十両と聞いて驚いた。
「お玉さん、いいんです。いまの話、なかったことにしてください」と、八之助は寂しそうに言った。
お玉と八之助が分かれた頃、徳衛門長屋の橋本順之助の家では。
「おう、雁首揃えてどうしたんだ。まあ、中に入れ」と橋本は銀之助たちに言った。
おすみは、流しに行っていつものように、竈に火をつけ、湯を沸かした。
「銀之助さんだけでなく、源一までもが、一体何があったんだ」
銀之助が、最近のお玉の行動について、一通り話をした。
源一が、お玉がぞっこんの市村座の八之助たちの悪い噂を憤って話し始めた。
しばらくして、おすみが座敷に上がり、源一の近くに茶碗の乗った盆を置き、橋本のそばにあった徳利を取って、茶碗に酒を注いだ。
「さあ、召し上がれ。何とかお玉さん、助けてやってくださいね」
「おすみさん、いつも悪いな。みんな飲んでくれ。お玉さんが騙されているとはなあ、困ったものだ」
「調子に乗って、酒ばかり飲んで、いい方法を考えないと、おすみさんに怒られそうだ」
と、顔が赤くなった源一が言って、頭を叩いた。
その時、入口の腰高障子戸が開いて、「こんばんわ」といって、源一の女房のおつたが入ってきた。
「みんな、酒の肴、持ってきたよ」
香の物や、ねぎ味噌、焼き魚が盛りつけられた大皿を皆の真ん中に置いた。
「おう、これはちょうどよかった。おつたさん、申し訳ない」
橋本が頭を下げた。
「後から、勇治さんたちも来るそうだから、すこし残しておいておくれ」
「これは、皆ここには座れんぞ」
橋本が、立って酒を飲むしぐさをしたので、皆笑った。
「橋本様、そんなことしてないで、早くいい知恵出しておくんなさいよ」
おすみは、ちょっと怒っていった。
「すまん」
「橋本様は、おすみさんに頭上がんないんだから」
おすみは、顔が赤くなったようだったが、行灯から離れた所にいた銀之助は、気づかなかった。
「銀之助さん、何か良い考えはないか」
銀之助は、盆に茶碗をおいて、
「そうですね、あいつらをお玉さんが知らないうちに、江戸から追い出すことが出来たらいいんですが」
「まだ、あいつらお縄になるほどでもなさそうだし、どうしたらよいもんかな」と、橋本。
「どうです、あいつらの噂をかわら版に書いてもらうなんてことは」と、源一が言った。
「書いてくれるだろうか」と、橋本が煙管を火鉢に叩いた。
「悪いのは三人ですね」
おすみが口をはさんだ。
源一が頷いた。
「市村座の役者は、十人ぐらいのようだ」
橋本は、また煙管に火をつけた。
「どこかの島へ追放させるか」
「そうだ、勇治さんなら、漁師を知っているから来たら相談してみよう」
銀之助がいった。
「それはいいかもしれん」と、ほっとした様子の橋本が言って、徳利を持って茶碗に酒を注いだ。
「こんばんわ。」
皆、入口に目を向けた。勇治夫婦が、戸を開けて入ってきた。
「ちょうどいい時に来てくれた。二人とも、早くこっちに座ってくれ」
おみねは、持ってきた皿に乗せた鮎の塩焼きを皆の前に置いた。
橋本が、自分の茶碗を飲み干して、勇治に渡して言った。
「まあ、一杯飲め」
橋本が、勇治の茶碗に酒を注いだ。
おすみが、おみねの前に湯を置いた
銀之助が、今までの話をかいつまんで勇治に話し始めた。
勇治は、黙って話を聞き付け、銀之助の話が終わるのを待ってから言った。
「なんとか、やってみましょう」
一刻ほど談合して、皆、家に戻って行った。
朝から、今にも雨の降りそうな空模様であった。
銀之助は、勝手場で昼の段取りをしていた。
「おはようございます。」
と、おすみが店に入ってきた。
「銀之助さん、今日の献立はなんにしましょうか」
「勇治さんから鮎を買ってますので、鮎の塩焼きと豆腐汁でどうでしょうか」
「はい、分かりました」
おすみは、流し台に行って、米をとぎ始めた。
銀之助は、鮎に塩をまぶした。
おすみが、米を入れた釜を竈にかけた時、お玉がおはようございます、といって勝手場に入ってきた。
「昨日は、休んですみませんでした」
「どうしたんですか」
「いや一寸、身体の具合が悪かったものですから」
いつもの通り、昼の閉店まで三人は働きつめた。
そして、おすみが暖簾を店の中に入れ、皆、片付けに入った。
片付けを終え、銀之助は、二階に上がり売り上げを勘定していた時、
「玉ですが、銀之助さん、折り入ってお話があるのですが」
障子戸の向こうからお玉の声がした。
(来たか)
「どうぞ、入って下さい」
お玉は、障子戸を開けて座った。
「なんでしょうか」
「実はちょっと、お金が必要になったもので・・・・。お給金の前借をしたいのです」
「いくら必要なんですか」
「十両ほどです」
銀之助は、しばらくの間、腕を組んで考え込んで、
「お玉さん、そう簡単に十両といわれても。一体何に使うんですか」
「申し訳ありません、今はいえません」
(これは早く、八之助を片付けなければ)
「十両は大金なんで、五日ほど待ってください」
三人は夜の支度を終え、店を開いた。
昼から降り出した雨が、激しくなっていた。
「銀之助さん、雨がひどくなってきたわね」
おすみは、勝手場の窓から外を覗いて言った。
「もうお客さん、来ないかもしれませんね」
銀之助は、もうしばらく店を開けておくと言ったが、六ツ刻になっても客が一人もいなので、銀之助はおすみとお玉に店じまいすることを伝えた。
お玉を先に帰らせ、銀之助とおすみはこれから来る長屋の人たちの食べ物を作り始めた。
四半刻過ぎた頃、橋本順之助と大工の源一がやって来た。
「皆さん、ご苦労様です」
「銀之助さんが一番ご苦労されてますよ」
源一が言った。
しばらくすると、勇治が一人の老人を連れて、裏口から入ってきた。
店の中に一角に集まっていた銀之助たちのところに行って、勇治が老人を紹介した。
「直助だ。話は勇治から聞いた。何とかやってみるで」
「直助さん、座って下さい」
銀之助は、直助が座ると、皆を紹介し、計画の理由とその策の段取りを説明した。
直助は、銀之助の話を聞きながら時々相槌を打っていた。
呑みこみが早そうに見えた。
銀之助の話が終わると、おすみが酒を運んできた。
また勝手場に戻って、鯉の味噌煮を四匹乗せた皿を樽の上に置いた。
「荒川で取れた鯉ですよ。勇治さんの差し入れです」
おすみは、芝居がひける前に、八之助に付文を渡し、今、出会い茶屋で八之助を待った。
女中にすでに運ばせておいた酒と肴の膳二人分が、置かれていた。
「おすみさん、お待たせ」
八之助が、襖戸を開けて入ってきた。
「八之助さん、まずは一杯いかがですか」
おすみは、八之助に盃を持たせて、酌をした。
八之助は、勢いよく盃を空けて、おすみに渡そうとした。
「八之助さん、あたしお酒だめなんですよ」
おすみは、八之助の手から徳利を取って、八之助の盃に酌をした。
八之助はそれを飲み干し、
「おすみさん、少しだけでも」といって、しつこく盃を押し付けてきたが、目をこすりながらちょっと眠たくなってきたので、横になるといった。
「八之助さん、あたしの膝を枕代わりにどうぞ」
おすみが、膝を寄せた。
「八之助さん、弱いのね。寝てしまったわ」というと、隣の部屋の板戸が開き、銀之助と橋本が顔を出し、部屋に入ってきた。
「おすみさん、よくやった」
橋本が労った。銀之助も頷き、持っていた手拭いで猿轡を、橋本は、両手を後ろ手にして、縄をかけそして、足も縛った。
隣の部屋から布団を持ってきて、八之助をぐるぐる巻きにして縛った。
「さあ、銀之助さん、運び出そう」
おすみは、階段を下りて、人がいないのを確認して、二階に合図を送った。
銀之助と橋本は、八之助を巻いた布団を一階に担ぎおろし、裏口の外で待たせていた駕籠に乗せた。
「さあ、行ってくれ。酒代はずむぞ」
橋本が、駕籠かきにいった。
駕籠の両側について、銀之助と橋本は走った。
大川に架かった筋違橋の船泊に、舟の上で直助が待っていた。
巻布団を二人は、舟に運び込んだ。
「直助、頼むぞ」と、橋本がいった。
「まかしときな」
直助は櫂を動かし、滑るように舟は大川を下り始めた。
半刻ほどたって、舟が揺れ出した。
「直助、大丈夫か」
「湾に出ただ。一刻ほどで島に着くから辛抱しろ」
佃島に着いた。
銀之助と橋本が、巻布団を直助が時々使っている苫屋に運び込んだ。
二人は手際よく布団をほどき、八之助を出して、水を飲むことができるように猿轡を緩め、手首も前に縛りなおした。
直助が、桶に水を入れて横たわっている八之助のそばに置いた。
「これでしばらくの間、ここからは出れねえだろう。少しは頭を冷やせばいい」
橋本が、吐き捨てるようにいった。
銀之助は頷いた。
何事もなかったかのように、明け六ツ刻(六時)、銀之助は目を覚ました。
裏庭の井戸で顔を洗っていると、勇治がやって来た。
「おはよう、銀之助さん」
銀之助は、うまく八之助を佃島に運んで行ったことを伝えた。
「そりゃよかった。これで一安心だね。いい浅利あるけどどうですか」
銀之助は、、浅利を一篭買った。
(昼の献立は浅利丼にしよう)
勝手場で浅利を剥いていた時に、おすみとお玉がおはようございますといって、入ってきた。
「銀之助さん、今日の昼はなんですか」
おすみは、銀之助の目をしっかり見た。
「勇治さんから、浅利を買ったんで、浅利丼にします」
銀之助は、うまく行ったことを目でおすみに合図を送った。
「さあ、お玉さん、今日も美味しい料理を作りましょう」
おすみは、豆腐汁を作り始めた。
一方、お玉は元気なく、米を炊く準備に入った。
昼の客は、思っていたよりも多く、九ツ半で浅利丼は売り切れたので、銀之助は、おすみに店を閉めるよう伝えた。
お玉は、客の使った茶碗を片付けた。
(お玉さんは、八之助のことを忘れられないんだな)
片付けが終わったのを見計らって、銀之助は、お玉を二階に呼んだ。
「お玉さん、お金の件だが、もうしばらく待ってください」
お玉は、ただ頭を下げ続けるだけであった。
「さあ、夜の支度にかかりましょうか」
勝手場では、おすみが田楽豆腐を作っていた。
「おすみさん、お玉さん、献立は、雑炊と雷豆腐にしましょう」
銀之助は、豆腐を崩し始め、おすみは、大根をおろした。
お玉は、茶碗に飯を盛り始めた。
七ツ刻(四時)の捨て鐘が鳴った。
おすみがうまいもん屋の暖簾を掛けに出ると、市村座の市之丞と梅之助が、店の前で待っていた。
「いらっしゃい」
おすみは、二人に声をかけたが、市之丞と梅之助は、無視して店の中に入って行った。
二人のところにお玉が行った。
いつまで経っても、お玉は勝手場に戻って来なかった。
「お玉さんを呼んできます」
おすみは、銀之助にいった。
市之丞と話していたお玉の所に行った。
「お玉さん、ちょっと」
「おすみさん、お二人がいうのには、八之助さんが、昨日から帰ってこないんですって」
市之丞が、割って入った。
「おすみさん、あんた昨日、八之助と会っていないか」
女形の市之丞が、おすみを上から下まで舐めるように見た。
「いいえ、会ってませんよ。なぜ、私が会わなければならないんですか」
おすみは、市之丞を睨めつけるようにいった。
「まあ、いいや。酒と田楽豆腐、適当に持ってこいや」
梅之助が、いった。
おすみとお玉は勝手場に戻り、酒と田楽豆腐を用意し、お玉が、それを盆に載せて、市之丞たちのところに運んで行った。
「銀之助さん、八之助に会っていたのを、あの二人に感づかれているようです」
「そうですか、気を付けないといけませんね」
銀之助は、あの二人が今後どのように出てくるか思案した。
(おすみさんをここに泊めたらどうか、いやお玉さんがどう思うか・・・・。そうだ、当分の間、おすみさんの後をつけて行くか。橋本様にもまた、手伝ってもらう)
「おすみさん、当分の間、帰りはおいらが後からついて行くんで、心配しないで。ただ、お玉さんには内緒でね」
銀之助は、店の行灯を消して、勝手場に戻った。
おすみとお玉は、茶碗を洗っていた。
「お玉さん、安坊が待っているだろうから、早く帰ってやってください」
「銀之助さん、おすみさん、すみません」と、お玉は言って頭を下げた。
お玉を見送った銀之助は、二階に上がって天袋から丸棒を出して、背に差し下に降りた。
「おすみさん、そろそろ帰りますか」
銀之助は、提灯に火をつけおすみに渡した。
おすみは、腰高障子を開け、銀之助に頭を下げ出て行った。
半町ほど離れると、銀之助はおすみの後を追った。
三町ほど追いかけたところで、二つの黒い影がおすみの前に立ちはだかったのを銀之助は見て、おすみの所に走った。
「おすみ、八之助兄いのこと知っているんだろう、いわねえと痛い目にあうぞ」
梅之助が、おすみの胸ぐらを掴んだ。
「何すんのよ」
当身を受けたおすみは、よろけた。
それを、梅之助が受けた。
「早くしろ」
市之丞が、急かした。
「待て」
「銀之助か」
市之丞が組みかかってきた。
銀之助は、市之丞の胸ぐらを掴んで、背負い投げ飛ばした。
「痛てえ」
市之丞が背中から落ちた。
梅之助が、おすみから手を放し、懐から匕首を出した。
「てめえ、覚悟しろ」
梅之助が、突き進んできた。
銀之助は、後ずさりしながら、背中に手をまわして、丸棒を引き抜いたと同時に、梅之助の右手首を撃った。
「ギャー」
梅之助の手からが落ちた。
「この野郎」
市之丞も匕首を抜いて、後ろから突いてきた。
銀之助は、身体を沈ませ、振り向きざまに右足の脛を払った。
‘ゴキン’
市之丞は、気を失って倒れた。
「おすみさん、えっい」
銀之助は、おすみの両肩を手で支え、膝で背中を押し活を入れた。
おすみが、目を開いた。
「銀之助さん」
おすみは、銀之助に抱きついた。
二人は、橋本の家に行った。
橋本は銀之助の話を聞いて、
「銀之助さんは、強いのう」
「これからどうしたらいいんでしょうか」
おすみは、元気を取り戻したようで、沢庵漬けと徳利そして茶碗を二人の前に置いた。
「おすみさん、難儀したのう」
二人の茶碗に酒を注ぐおすみの手が、震えていた。
「さあ、召し上がってくださいな」
やっと、おすみが口を開いた。
「奴らは、これからどう出てくるかだな」
橋本が、酒を飲み干して、いった。
「二人とも骨を折っていますから、当分の間は舞台に上れますまい」
「銀之助さん、しばらくは様子見だな。当分の間、おつたとおみねに芝居小屋に通って、様子を探ってもらおうか」
銀之助は頷いき、おすみは、すぐに立ち上がり、腰高障子を開けて外に出て行った。
しばらくして、おつたとおみねを連れて、戻ってきた。
二人が座ったのを見計らって、銀之助が、市村座の見に行って市之丞たちの様子を探って来るように頼んだ。
二人は、喜んでその役目を引き受けた時、
「こんばんわ」
源一と勇治が、徳利を抱えて入ってきた。
おつたが、源一に銀之助に頼まれた話をした。
「うちのかかあに、そんな大役が勤まるか」
源一が、笑いながらいった。
「あんたなんかより、あたしたちの方がどれだけ役に立つか、見てなよ」
といって、おみねが、勇治の茶碗を取り一気に飲んだ。
三日後の四ツ刻(十時)。
うまいもん屋では、昼飯の準備に銀之助たちは忙しく働きまわっていた。
「こんにちわ」おつたとおみねが勝手場に入ってきた。
「いらっしゃい。」
銀之助は笑顔で二人を迎えてから、
「二階で話を聞かせてください」といって、二階に連れて行った。
「銀之助さん、市村座はもう出て行ったようよ」
「そうですか」
「最初はごまかしながら興行していたんですが、市之丞と梅之助の二人が舞台に上がっていないのを客たちが気付いて、客足が減り、収入が得られないため、市村座は、夜逃げ同様に小屋を出て行ったそうです。どこに行ったか分かりませんが、市村座は解散したとのもっぱらの噂です。これで、お玉さん、きっと諦めがつきますね」
浅草寺の鐘が、捨て鐘を打った後、四ツ刻半(十一時)を知らせた。
「おつたさん、おみねさん、ご飯を食べて行ってください」
「わるいわね」と、おつたが言った。
銀之助たちが二階から降りた時、おすみが暖簾を外にかけて、戻ってきたところ、銀之助は、おすみにおつたたちに飯を食べてもらうことにしたと伝えた。
おつたとおみねが、樽に腰を下ろした。
二人の所にいいにおいが漂ってきた。
「お待たせしました」
お玉が、と鯉の味噌煮を二人に運んできた。
それぞれの皿に鯉一匹ずつ、豪華に載っていた。
「おいしそう」と、おみねが言った
「お玉さん、板について来たわね」と、おつたがお玉に笑顔を向けた。
「いつも、安吉がお二人にお世話になって、ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」
八ツ刻(午後二時)の鐘の音を聞いて、二人は帰って行った。
おすみは、二人を見送って、暖簾をはずした。
銀之助は、店の中を片付け始めた。
おすみは、皿を洗い、玉は、洗い終わった皿を拭いた。
勝手場に戻って来た銀之助は、お玉が皿を棚にしまっているのを見て、
(お玉さんに、市村座のことをいうか)と、銀之助が、覚悟を決めた時、
おすみの声が、聞こえた。
「お玉さん、市村座の役者さんたちが、芝居小屋からいなくなったそうよ」
おすみが、客から聞いた話をお玉にした。
お玉の顔色が、変わった。
銀之助とおすみは、驚いた。
(お玉さんは、八之助がいなくなったことや、市之丞の件は知らないのかしら)
「お玉さん、顔色悪いようですが、どうかしたんですか」と、銀之助が、心配そうに声をかけた。
「今日は、身体の具合が悪いんで、帰っていいですか」
「お玉さん、大丈夫」
「おすみさん、お玉さんを長屋まで送ってもらえませんか」
「大丈夫です。一人で帰れます」
お玉は、片付けを終わるとそそくさと帰って行った。
銀之助は、おすみに店番を頼んで、そっと、お玉の後を追いかけた。
そのすぐ後、入れ違いで橋本順之助が、裏口から入ってきた。
「銀之助さん、居るかい」
「あら、橋本様」
「おすみさんだけかい」
「ええ、銀之助さんは、今しがた、お玉さんが心配で、後をつけて行きました」
おすみは、おつたとおみねが来て、市村座が芝居小屋から出て行ったことを知らせに来とことと、その件をお玉に話したところ、顔色を変えて慌ててお玉が帰っていた様子を話した。
「そうか、お玉は、まだ騙されているのに気付かず、奴にのぼせているのか」と、言って橋本は考え込んだ。
「銀之助さんが、帰って来るまで、お待ちになったら」
芝居小屋の周りに建てられていた市村座の幟は、一本もなかった。
お玉は、小屋の中に駆け込んで行った。
それを見て、銀之助は周りを注意しながら、暗闇の中に入って行った。
お玉は、桟敷に腰を落とし、呆然としていた。
闇の中に人が動いた。
銀之助は、丸棒を掴んで、お玉に近づいた。
急に声がした。
「お玉」
梅之助が、左手に匕首を持ってお玉に近づくのを、壁の隙間からの日差しが照らした。
「梅之助さん、何すんだい」
市之丞が、足を引きずりながら、梅之助の後ろから、中刀を肩にしょって現れた。
「この女、銀之助とぐるだ。梅之助、やっちまえ」
「待て」
「誰だ」
「銀之助か」
市之丞が、上段に構えて、銀之助に近づいて来て、二間ほど距離が詰まった時、銀之助は、一歩踏み込んだ。
「えいっ」
「わー」
市之丞が、倒れ気を失った。
それを見た梅之助が、突進してきた。
銀之助は、軽くかわし、丸棒を梅之助の背中に叩きつけた。
「ぎゃっ」
梅之助も気絶した。
震えているお玉に言った。
「お玉さん、面倒なことになる前に帰ろう」
二人は、芝居小屋を出て、うまいもん屋に向かった。
「早く帰って、おすみさんの手伝いをしなきゃ」
うまいもん屋の近くに来たところで、銀之助は、お玉にいった。
「お玉さん、ちょっとおいら買いものしていくんで、先に帰って下さい」
銀之助が、店に戻った。
「ただいま」
「お帰りなさい」
おすみが銀之助を迎えた。
お玉も気が付き、銀之助に頭を下げた。
銀之助は、買ってきた大仏餅の包みを開けた。
「おすみさん、お玉さん食べて下さい」
「田中屋さんの大仏餅ね、おいしそう」
おすみは、ほおばって食べた。
お玉の頬に涙がながれていた。
「お玉さん、泣くのはもういいんじゃないかしら。早く食べないと、食べちゃうよ」
おすみが、微笑んだ。
「銀之助さん、おすみさんから聞きました。いろいろ、ありがとうございました」
お玉は、手拭いで目を拭った。
「さあ、お店を開きますよ」
おすみは、暖簾を掛けに入り口に向かった。
お玉は、店の行灯に灯をつけ始めた。
国分屋の弥助が、一番に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
お玉が元気で迎えた。
「お玉さん、お久しぶり」
弥助はいつもの奥の行灯のそばの席に座った。
注文を聞いたお玉は、勝手場に戻った。
おすみに、鮎の塩焼き、大根雑炊の注文を伝え、徳利に酒を注いだ。
「お玉さん、塩焼き、出来上がり」
銀之助が威勢よくいった。
おすみは、大根雑炊を作りながら、
「弥助さん、お玉さんのことを心配していましたよ」
お玉は、手拭いで目をぬぐって、弥助の膳を運んで行った。
「お玉さんと弥助さん、うまくいくといいですね」と、おすみがいいながら、新しく入って来た客を迎えに店に出て行った。
銀之助は、しばらくしてやって来る橋本たちの酒の肴の準備を始めたところ、おすみが弥助来て、銀之助に話があるから来てくれと言っていると勝手場に戻ってきた。
「なんだろう」
「笑顔だったから悪い話ではなさそうよ」
銀之助は弥助の前に行った。
「何か御用ですか」
「今年の夏に我々は大山詣りに行く予定でしたが、主人のお母様が先日亡くなったため行けなくなりました。よろしければ銀之助さんたちが代わって大山詣りに行っていただけないかと主人が言ってます。どうでしょうか」
「長屋の連中も誘っていいですか」
「もちろん、銀之助さんのご希望通りどなたと一緒でも構いません」
「きっと、皆喜びます」
「ただ一つお願いがあるのですが」
「なんでしょうか」
「我々の代参ということで、よろしいですか」
「構いません」
「では、に伝えますので、後日、行く人数を教えてください」
銀之助はさっそくおすみに伝えて、長屋の連中に声をかけてもらうよう頼んだ。
「大山詣りにはいつか行きたいと思っていたんです」おすみは嬉しさが体中からあふれでていた。
銀之助も、夏が待ち遠しくなった。
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