なんか復興ボランティアの話と前後してしまったのですが、3月11日に日本を襲った東日本大震災のことをやっぱり書いておこうと思います。
東北の被災者たちに比べたら全然大したことではないのですが、あの日あの瞬間のことを書き残しておいた方がいいように思ったので。
その日私は仕事で、クライアントが出展してるドラッグストアショーに顔出し&サンプル集めのため、幕張メッセに来ていました。
お昼前には同僚と到着。
営業という職業柄昼ご飯は夕方が多いためこの日も一通りまわってからにしようと、まずはクライアントのブースへご挨拶に。
この事を後でどんなに後悔したことか。
見知った担当者と挨拶をすませ、いざサンプル集めへGO!!
アンケートやクイズに答えたりとにかくサンプルをガンガン集めまくりました。
しかしこれも後でどんなに後悔することになるか・・この時は全く思いもしませんでした。
誰もが知ってるドラッグ最大手の企業のブースはだいたい回り終え、 時間も14時半を回ったので、
最後にライオンのブースを回ってからお昼を食べて会社に帰ろうかということになりました。
そのライオンのブースでサンプルをもらう為にクイズに答えている時に地震は来ました。
最初は震度2~3くらいの揺れで、一瞬みんな動きを止めて
“地震?!”
って感じで様子をうかがっていましたが、だんだん揺れが激しくなり、ブースだけでなく、メッセ建物全体がギッシギッシと音を立てて揺れ始めました。
今まで生きてきて感じたことのないような大きな揺れでした。
そんな中、ライオンの社員の方々とコンパニオンの人たちはすごく冷静で、
“ブース内は危険なので頭を守ってブースから離れてくださーい”
“ブースから出て壁側に移動してくださーい”
と、誰かから指示されることもなく、自発的に呼びかけ誘導を始めました。
正直こんな時でも一企業の従業員という意識を忘れず客を誘導する姿に、プロ意識の一片を垣間見たきがします。
後で、別の会場でコンパニオンの仕事をする友人と話をした時に、その友人は、スタッフである自分が取り乱したらお客が混乱してしまう、自分が成すべきことは冷静さを保ち自分よりもお客の安全を第一に考えなければ!と瞬時に思ったそうです。本人も、振り返ってみてあの瞬間よくそういう風に思えたもんだ、と思うそうですが、それがプロ意識の一旦であることは間違いないでしょう。
自分が逆の立場だったらできただろうか。。。
その間も揺れは収まらず、立っているとよろけてしまうような激しい揺れの中、私たちも他の人々とともに誘導されるがまま建物の壁際に移動しました。
揺れ始めてから5分もたたない内に、メッセ会場内から外に出る非常扉が開き、人々は外へ出るように促され、
かなり人がいたのですが、私たちは列を作り順番に外へ出ました。
そんな中、中国人観光客の団体が大声を上げて走り回り、右へ左へ。。
扉が開いた瞬間なんて人を突き飛ばし掻き分け掻き分け我先に駆け出していきました。
こんな中国人が何人もいたんですよ。。
私も激しい揺れの中で突き飛ばされて膝をつきました。
・・・
正直かなりイラッときました。
地震に慣れている日本人だってこんな激しい、もしかしたら命に関わるような大地震にめったに経験したことなんてないっていうのに。
それに、効率的には並んで順番に出たほうが絶対早いんですよ。
それとは対象的に会場スタッフの人たちは相変わらず自分達のことは構わずに、総出で来場者の誘導にあたっていました。
本当に尊敬します。
少しして非常扉のすぐ横の搬入用のシャッターが開き、皆一斉に外にでました。
外に出るときに、メッセの中のブースが倒れたり、壁のパネルがはがれて落下するのが見えました。
外は駐車場でしたが、出た瞬間にとまっているはずの車が大小に関らず、ゆっさゆっさと激しく揺れている様子が目に入りました。
海外沿いの木々も、街灯も、すべてが音をたてて揺れていました。
左手奥にある旧幕張プリンスの高層ビルもよじれながらボキッと折れちゃうんじゃないかというくらいグラグラ揺れいました。
自分も何度もよろけました。
この時初めて、巨大な地震が来ているんだ!
という実感がわき青ざめました。
怖さよりも心配でした。
家族、親戚、友人、知り合い、会社の同僚。。。
電話はつながりません。。。
通りを見ると、道路のあちこちにひびや地割れ、段差ができていて、その上あちこちから液状化現象で水と砂が噴出していました。
ただこの瞬間は、むか~し中学か高校の地学でチラッとでてきた位の“液状化現象”という言葉はすぐには思いあたらず、水道管が破裂したのかと思っていましたが。
関東大震災!
真っ先にこの言葉が思い浮かびました。
そして東京がどうなっているのか、日本はどうなってしまうのか、
自分はどうなるのか、明日からの生活はどうなってしまうのかとても不安になりました。
関東大震災なら、幕張のこの状況から考えて東京が無事であるはずがない。。。
しかし隣にいた同僚から驚きの声があがりました。
“震源地は宮城だって!!”
WBC以来その機能をすっかり忘れていた私の隣で 同僚はワンセグに見いっていました。
震源地 宮城
これは私たちだけでなく、周りにいた全ての人を驚きの渦に巻込んだことは間違いありませんでした。
だって千葉でこんなに揺れたのに震源地が500キロ以上離れた宮城県なんて。。。
じゃあ宮城周辺はどんだけ揺れたんだ・・・
みんながそう思いました。
しばらくの間、どうすることもできなくて、
メッセの横の駐車場に座りこみ、携帯のワンセグをひたすら見て情報を集めました。
私たち以外にも多くの人がそうしているようでした。
その間も余震と見られる大きな揺れが何度も何度も続いてました。
本当に異常事態です。
ふと横に目をやると、先ほどの旧幕張プリンスのビルに窓拭きのカート(?)が屋上からぶら下がっており、
ものすごい速さでロープを巻き上げ屋上に戻ろうとしているのが見えましたが、揺れが来るたびにカートが大きく揺れていて、駐車場にいる誰もが、いつの間にか
“がんばれ!もう少し!!”
と声を上げていました。
無事回収されるのを見届けて安心したところで、再び携帯のワンセグに目をやると、
今度は信じられない映像が目に飛び込んできました。
巨大な津波が、次々に家々を飲み込んでいく様子です。
津波の映像をこれほどはっきりと映像でみたのは生まれて初めてでした。
映画の中で見た巨大な波なんかとは全く違うものでした。
【津波は“波”ではなく、大規模な洪水】
という話を昔聞いたことがありますが、正にその表現がもっとも正しいということがはっきりとわかりました。
突然東北に住んでいる友人や、親戚のことがとても心配になりましたが、その時は祈ることしかできませんでした。
周りの人たちも同じ映像をみているのか、驚きや悲鳴、泣き声まで聞こえてきました。
携帯電話の通話とメールは相変わらずできませんでしたが、ワンセグが見れたので今この日本で何が起こっているのか、情報を得て認識することはできました。でも全く理解できませんでした。
いや、正確には理解したくなかったんだと思います。
余震が続く中、津波の様子に私も同僚もなすすべもなく茫然と2時間近く駐車場に座り込んでワンセグを見ることしかできずにいました。
そのままいてもどうしようもないのでとりあえず駅に向かいました。
駅に行くまでの道路の惨状はとても酷いもので、基礎がしっかりしている建物の地面と歩道の間には30cm位の段差ができ、歩道も車道も割れ目から水と砂が吹き出し、歩道のタイルは至るところはがれて凸凹でヒールの靴でなくとも歩きにくい状態でした。
そんな惨状でも、不思議な位ビルや建物自身は朝と変わりない状態で建っていて違和感すら覚えましたが、なんだか急に都内のことが心配になりました。
駅に向かっている途中、会社の携帯に別の同僚から電話がかかってきました。
会社の携帯はPHSで、ユーザーが少ないので実は全然電話かけられたんです。
この事実は地震の直後にわかっていたのですが、ただ相手が普通の携帯会社だと条件一緒なので、結局自宅や家族には連絡つかなかったのです。。
それで、電話をかけてきた同僚の彼女も電車が止まってしまっているのでやはり出先で足止めをくらっているようで、渋谷から虎ノ門の会社まで歩いて戻るということでした。
とりあえず無事を確認し合い、会社の方が大丈夫か聞いてみたんです。
ちなみに私の会社は東京タワーの近くにあるのですが、同僚は、
“さっき電話したらみんな無事みたいだけど、なんか東京タワーが曲がっちゃったらしんだよ!!”
えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!
びっくりしすぎて言葉を失いました。
“ほんとですか???東京タワー曲がっちゃったんですかーーーー!?!?!?東京の被害ってやっぱりひどいんですかね?”
と言いかけた瞬間、電波悪くなって電話がきれました。。
私が電話に向かって“東京タワー曲がっちゃった”という言葉を発した時、
周りを歩いていた大勢の人たちがいっせいに振り向きました。
“東京タワー曲がったらしよ。”
“やべーよ、東京の被害相当じゃないの”
などなどの会話が聞こえてきました。。。
後に東京タワーの曲がり具合が、先っちょのアンテナがほんの少しだけ傾いた程度と知り、
あらぬ噂の根源を作ってしまったこと、周りの心配や恐怖を煽ってしまった自分のうかつな言葉を反省しました。
その後駅に着くと、海浜幕張の駅周辺は水浸し、泥だらけ、周辺のお店は全てクローズ、駅の照明は全て消され真っ暗、駅の出入り口にはロープが張られ、立ち入り禁止の紙と警備員が1人。
駅前にはタクシーや公衆電話に並ぶものすごい数の人々と、ど-していいかわからずその場にいる人とがごっちゃになっていてとにかくごったがえしていました。
いつの間にやら警察官が来ていて被害状況を確認したり、ぐちゃぐちゃの道路の真ん中で交通整備をしたりしていて、なんだかやっぱり大変なことが起きてしまったんだと改めて思いました。
(↑残り少ない貴重な携帯の電池の都合上1枚しか撮らなかったんですが、海浜幕張駅、駅前)
この日の電車はもう出ないということがわかったので、同僚と2人、どうしたらいいものかと茫然としていましたが、少し先を見ると、駅前のビルの前で、野菜やお菓子を露店販売しているのが見え、自分たちがお昼ご飯を食べていなかったことを思い出し、とりあえず近くまで行ってみることにしました。
これといって食事に相当するものは売っていませんでしたが、野菜だけでなくお菓子や飲み物などいろいろあるのがわかりました。
とりあえず空腹を満たすものを物色していると、3人のおばちゃんグループが近くに来て、
“ど-なるかわからないんだから食べ物はいっぱい買っておきなさい!!”
“煎餅はご飯やお餅と一緒で炭水化物だから買うべきよ!”
“味はともかく飲み物も必要よ!”
“飴も糖分だからいいわよ!”
等々見ず知らずの私たちにすごい勢いで助言してくれました。
私たちは助言にそって、煎餅と飴と野菜ジュースと甘栗を買いました。
ただ後ろには人がたくさんいたので、買い占めにならない程度の量です。
食料をGETした私たちは、その辺の植え込みのブロックに座り、ひとまず購入した煎餅などをほおばりました。
その間もひび割れて剥がれた歩道のタイルの隙間などから、たえず水と砂が吹き出していました。
少し先を見ると、サンクスが営業しているのが見えましたが、店内は満員電車のような人混みで、とても何か買えるような状態ではないような感じでした。
ワンセグでは政府の記者会見で、2次災害を防ぐためにも、けっして無理して帰宅しようとしないように!なるべく会社に留まるようにと呼び掛けていましたが、外出先の人間に対してどうしたらいいとか、そういうことは教えてくれませんでした。
私の同僚は自宅が横浜なので鉄道が止まっている以上、帰宅することは不可能。
私の自宅は千葉県ですが、同じ千葉県とはいえ、チバラキ地帯と呼ばれる茨城との県境まで東京湾から歩いて帰るのは無理でした。
昔TVで、災害シュミレーション再現VTRというものを見たことがあるのですが、私たちは正に、そこで解説されていた、
「帰宅難民」
というやつなんだと思いあたりました。
それに加え、この日は、手がかじかむ位の寒さと夕方の海沿いということもあって激寒だった上に、長い間外にいたこともあって、完全に体が冷えきっていました。
小腹も満たしたところで、とりあえずこの日の帰宅は諦めて、ホテルでも探すかということになり歩き始めたのですが、途中のどこかの会社のビルが解放されていたのを見つけ、寒さしのぎに入ってみることにしました。
ビルの正面出入口の目の前からビルを囲むように30cm位の段差ができていて、バッサリ切り取ったように、コンクリートとその下の土の断面がはっきり見えていました。
たぶん建築基礎のしっかりしているビル周辺はそのまま残り、液状化したこちら側の道路全体が30cm位沈下したといったところでしょうか。
中に入るとたくさんの人たちが疲れ切った様子で床に座り込んでいました。
地べたに短いスカートの制服で座り込んでいる女子高生たちに呆れていた過去はとりあえず忘れておくことにして、私たちも空いているスペースの床を陣取って座りこみました。
とにかく大したものも食べてないのに凸凹した道を寒い中歩き回り、精神的にも肉体的にも本当に疲れていました。
靴を見れば泥だらけの上、中までびちゃびちゃで、足は冷たく冷え切っていました。
しばらく座りながら同僚と
どーしよっか。。。。
と話していると、前を通った人が京成線が動いてるらしい!というような会話をしていました。
盗み聞きというと聞こえは悪いですが、家に帰れるなら帰りたかったので、海を背に海浜幕張駅より少し内陸にある京成線の駅を目指して移動することにしました。
歩道を歩いている途中に小さな水溜りにはまりました。
はまって見ると無意識的に推測していた深さよりも全然深く、足首まで水につかりびっくりしました。
水溜りは泥でにごっていてよく見えませんが、雨によってできた水溜りと明らかに違うのは、その深さが全くわからないことです。
地震によって道路は凸凹になってしまったので、小さく見えても下手すると相当深い水溜りにはまり怪我をする恐れがあるとこの時初めて気がつきました。
歩いていくうちに、京成線の方に向かって歩く人よりも、こちらに向かって歩いてくる人のほうが多いことに気がつきすれ違いざまに見知らぬサラリーマンたちに声をかけると、やはり京成線も止まっているとのことでした。
しかたなく海浜幕張駅の方に戻りましたが、日も暮れて、気温はどんど下がっているようでした。
何よりも海風の冷たいこと。。。
レストランや、ゲームセンターなどが入るビルの前で冷たい海風をしのぎつつ、
一応会社に連絡してみようと電話をしました。
内務部の次長は、社員の全員の無事と、東京タワーのアンテナが少し曲がったという事実と、今日泊まる場所のあてがないのは私たち2人だけだという事実を教えてくれました。
また、会社では帰れない社員のために、近所でグループ会社が営業している飲食店から差し入れがあり、とりあえず雑魚寝にはなるものの、暖房のきいた部屋で食べ物にも困らずみんな過ごしているとのこと。。
複雑でした(ーー;)
なぜこんな日によりによって幕張に。。。
そして東京タワー曲がったってそういうことか、ってきり真ん中らへんからグニャと曲がったのかと思った。。。
みんな暖房のきいた部屋にいるんだ、よかった。。
そんなことを考えてる間に携帯のインターネットは少し使えるようになったので、ミクシーで現状をつぶやいてみると、それを見たいろんな人が、メールや返事を書いてくれました。
特に地震の影響がほとんどなかった関西や西日本にいる友人たちは、いろいろ情報を集め、連絡してくれました。
関東の鉄道は全滅でその日の復旧の見込みはないとか、
東京都は公立高校を帰宅難民のために開放したらしいから行ってみたら?とか。
(まあ幕張は千葉ですけど)
とにかく、遠く離れた友人たちが私を心配してそういう動きをしてくれたことに心底感謝し、
ネットやツイッターの世界のすごさというか、便利さというか、活躍を実感しました。
ただ、なかなか回線が込み合ってって思うようにつながらなかったのですがね。
こう考えると、大正時代に起こったという関東大震災や阪神淡路大震災なんかの時は、携帯もなかったしこれだけの情報社会ではなかったのですから、人々はどんなに不安だったことでしょう。
そして今の情報社会だったら助かっていた命もたくさんあったのでないだろうか、と思いをめぐらせました。
さて半分野宿覚悟の状態で、この寒さに朝まで耐えられるんだろうかと心細くなっていると、
お店はほぼ全てといっていいほどクローズしていましたが、その建物は屋内駐車場があるようで、エレベーターホールまでは入れるようでした。
寒さをしのぐため、私たちはその建物のエレベーターホールに留まることにしました。
まぁ朝まで解放しているのかかなり怪しいと思いましたがとにかく寒くて。
それと、かき集めたドラッグストアーショーのサンプルがかなり重くて、持ち歩く紙袋の取っ手の紐が指に食い込み、本当にどこかに捨てたい気分でした。
エレベーターホールには30人位の人たちがすでにいて、皆地べたに座り込んでいました。
私たちも2人分のスペースを確保して座り込み、とにかくか連絡がつかないものかと電話をしていました。
少しして、母親と連絡がつき、家族全員の無事を確認できました。
父親はこんな時だというのに車で出かけたとのことなので、
父親の携帯に電話してみることにしました。
電話に出た父に、電車が止まっているから幕張までに迎えに来てくれないかという旨をつたえると、
“幕張ー!?今空手の昇段試験中だから無理だよ。
だいたい地震って震源地は宮城だろうが!あの程度の地震で甘えんな!”
とか言われ、あんだけ揺れたのに全然感じてなかった上、津波が来たことすら知らなかったという。。。
そんでもってお弟子さんたちも誰も休まずに試験に来てることもびっくりしました。
内陸の方が揺れなかったんでしょうか?
でも千葉は一応震度5強とか6弱だったはず。。。
迎えの車はなんとかキープできたものの、試験が終わってから来るとのことなのでたぶん夜中なのではと思われました。
迎えが来るまでは寒さをここでしのぐしかありませんでした。
しばらくすると、クローズしていたゲームセンターの店員が出てきて、お菓子や飲み物を提供してくれました。
店長さんと思しき店員さんは、
“なにぶんゲームセンターなので、景品のこんなお菓子くらいしかないのですが、
よかったら食べてください。 ”
“トイレも店内の奥にありますから自由に使ってください。”
と、なぜかすみません、と何度も頭を下げながら。
その場にいたほとんどの人が、本気で何度もお礼を言っていました。
すごく感動した!と言っている人もいました。
私たちもこういうことは全く想像していなかったので、とても感動しました。
エレベーターホールの真ん中に置かれたお菓子の山。
そこに1人、2人とお菓子を取りながら、“これもどうぞ”と自分の持っている余分なお菓子を更においていく人々。
なんだか私たちもさらに感動してしまって、交換する形でお菓子をとって自分の持っていた飴などをおいておきました。
また30分くらいすると、再び店長さん(?)が出てきて、
“ここでは寒いと思いますので、お店を開放することにしました。いすもありますし暖房いれたのでどうぞ中に入ってください”
と言って、店内に誘導してくれました。
なんか困ってるときにこういう人の温かみは本当に心に染み入ります。
本当に何度お礼を言っても足りない位でした。
食べ物と暖かい場所、トイレを確保できた私たちはしばらく呆然とユーホーキャッチャーの前に腰を下ろしていました。
携帯の充電もなくなりかけていたので、ニュースが気になるもののワンセグで携帯の充電が切れて連絡がつかなくなることの方が恐怖でした。
同僚との会話と言っても、
“どーする?”とか“疲れたね”
の言葉の繰り返しで、まともに会話にもならなくなっていました。
しばらくして、先ほどの店長さんが再びやってきて、
警察がやってきて、避難所に誘導しているのでそちらに移動してください。
とのことでした。
店長さんは、避難所までの地図を数十枚プリントアウトして1人1人に配ってくれました。
私たちは店長さんに何度もお礼を言いました。
他の人たちは、涙ぐんでお礼を言っている人もいましたし、逆に無言で地図を受け取り立ち去る若者もいました。
そんな若者に対し、意外と周りのほとんどの人が、
“やってもらって当たり前!とか思ってるのか”
“お礼さえ言えないなんて、非常識にもほどがある”
と声をあげて口々に非難していたのが意外でした。
日本人って他人に無関心というか関わりたくないというか、普段そういう人がいても口には出さないのが普通だと思っていたので。
本当に、何でお礼くらい言えないんだろう、と私も少しムカムカして、そして悲しくなりました。
とにもかくにも、もらった地図を手に避難所となっている小学校の体育館へ。
日も落ち外はかなり寒くなっていました。
途中ホテルの前を通りましたが、ロビーもレストランも人がごった返していました。
当然部屋に泊まる事はできないでしょう。
小学校へ着くと、非常用のおかゆと、乾パンを配っていました。
暖房も効いており、毛布も配られ、小学校の教職員があれこれ忙しく走り回っていました。
私たちは近くにいた人たちと食べ物を分け合いながら、
ここまでたどり着くまでの経緯や、状況などを語り合っていました。
私は小学校の体育館へ避難したことをミクシーでつぶやいたのですが、
つぶやいてすぐに神戸にいる友人から、
体育館はなるべく中心を陣取ったほうがいいよ!
阪神淡路大震災の時に余震でガラスが割れて降ってきたから。
とコメがありました。
小学校の先生たちも、何か不便はありませんか、と聞いて回っていました。
なんだか日本全国で助け合いが始まっているようで、少し感動しました。
途中携帯の充電がなくなってしまいましたが、近くにいたおばちゃんが充電器を貸してくれました。
私は逆に、携帯がつながらないと言っている人たちに、会社のPHSを貸しまくりました。
電話1本で家族の無事が確認できて安心できるなら、疲労感も違うでしょうから。
途中、一緒にいた稲毛に住んでいるというおじいちゃんが、学校の先生の計らいで家まで車で送ってくれるということで小学校を後にしました。
ただ一緒にいただけの私たちにも何度もお礼を言いながら、涙をながしていました。
かなり高齢で自宅のことを相当心配していたので、こんなところで一晩明かすよりも全然よかったと思います。その世代の人たちは携帯電話を持っているわけではないので、自分の目で見るまでは!という気持ちも強かったと思います。
夜中の1時頃になって、ようやく私の親が幕張に到着しました。
一緒にいたおばちゃん、おじちゃんたちは、家族や親戚でも見送るかの様に、
声をかけてくれて、見えなくなるまで手を振っていました。
同僚のコはとりあえずうちに来てもらうことにして、幕張を後にしましたが、
道路は凸凹で水があちこちからあふれ、地震の爪あとを改めて実感しました。
私たちが私の家に着いたのは朝6時を回っていました。
通常混んでいなければ40分位の道のりです。
高速道路は地震の後すぐに閉鎖されたので一般道は信じられない位激混みでした。
同僚は、電車が走り出したとの情報から、家がどうしても心配だからということで結局私の家で休むこともなく、近くの駅から帰りました。
家に帰って改めて、この日自分1人ではなくその同僚が一緒だったことに感謝しました。
本当に長い長い1日でしたが、
この日ほど、人々の暖かさを感じたことはありませんでした。
震災と復興への戦いはまだまだ始まったばかりです。
でも、この日私が感じたのは、現代社会で忘れかけていた人と人とのぬくもりや、人情といったかけがえのないものでした。
だからこそ、今度は自分が、東北の人たちへ何かしなければいけないと思っています。
最後に、ライオンのブースのスタッフの方、緊急で露天販売をしてくれた八百屋さん、いろいろアドバイスをくれたおばちゃん3人グループ、帰宅難民の為にビルを開放してくれたどこかの会社やゲームセンターの店員さん、電車の情報を教えてくれた見ず知らずのサラリーマンたち、避難所の小学校の先生たち、避難所で会って励ましあったおじさんやおばさんたち、など、この日幕張で出会った人たち、ネットやメールを通じて心配や情報をくれた友人たち、この日一緒にいてくれた同僚、幕張まで往復10時間近くかけて迎えに来てくれた両親、とにかく本当に心から感謝しています。
本当にありがとうございました。
◆2011年3月11日14:46 気象協会
http://tenki.jp/earthquake/detail-3611.html
東北の被災者たちに比べたら全然大したことではないのですが、あの日あの瞬間のことを書き残しておいた方がいいように思ったので。
その日私は仕事で、クライアントが出展してるドラッグストアショーに顔出し&サンプル集めのため、幕張メッセに来ていました。
お昼前には同僚と到着。
営業という職業柄昼ご飯は夕方が多いためこの日も一通りまわってからにしようと、まずはクライアントのブースへご挨拶に。
この事を後でどんなに後悔したことか。
見知った担当者と挨拶をすませ、いざサンプル集めへGO!!
アンケートやクイズに答えたりとにかくサンプルをガンガン集めまくりました。
しかしこれも後でどんなに後悔することになるか・・この時は全く思いもしませんでした。
誰もが知ってるドラッグ最大手の企業のブースはだいたい回り終え、 時間も14時半を回ったので、
最後にライオンのブースを回ってからお昼を食べて会社に帰ろうかということになりました。
そのライオンのブースでサンプルをもらう為にクイズに答えている時に地震は来ました。
最初は震度2~3くらいの揺れで、一瞬みんな動きを止めて
“地震?!”
って感じで様子をうかがっていましたが、だんだん揺れが激しくなり、ブースだけでなく、メッセ建物全体がギッシギッシと音を立てて揺れ始めました。
今まで生きてきて感じたことのないような大きな揺れでした。
そんな中、ライオンの社員の方々とコンパニオンの人たちはすごく冷静で、
“ブース内は危険なので頭を守ってブースから離れてくださーい”
“ブースから出て壁側に移動してくださーい”
と、誰かから指示されることもなく、自発的に呼びかけ誘導を始めました。
正直こんな時でも一企業の従業員という意識を忘れず客を誘導する姿に、プロ意識の一片を垣間見たきがします。
後で、別の会場でコンパニオンの仕事をする友人と話をした時に、その友人は、スタッフである自分が取り乱したらお客が混乱してしまう、自分が成すべきことは冷静さを保ち自分よりもお客の安全を第一に考えなければ!と瞬時に思ったそうです。本人も、振り返ってみてあの瞬間よくそういう風に思えたもんだ、と思うそうですが、それがプロ意識の一旦であることは間違いないでしょう。
自分が逆の立場だったらできただろうか。。。
その間も揺れは収まらず、立っているとよろけてしまうような激しい揺れの中、私たちも他の人々とともに誘導されるがまま建物の壁際に移動しました。
揺れ始めてから5分もたたない内に、メッセ会場内から外に出る非常扉が開き、人々は外へ出るように促され、
かなり人がいたのですが、私たちは列を作り順番に外へ出ました。
そんな中、中国人観光客の団体が大声を上げて走り回り、右へ左へ。。
扉が開いた瞬間なんて人を突き飛ばし掻き分け掻き分け我先に駆け出していきました。
こんな中国人が何人もいたんですよ。。
私も激しい揺れの中で突き飛ばされて膝をつきました。
・・・
正直かなりイラッときました。
地震に慣れている日本人だってこんな激しい、もしかしたら命に関わるような大地震にめったに経験したことなんてないっていうのに。
それに、効率的には並んで順番に出たほうが絶対早いんですよ。
それとは対象的に会場スタッフの人たちは相変わらず自分達のことは構わずに、総出で来場者の誘導にあたっていました。
本当に尊敬します。
少しして非常扉のすぐ横の搬入用のシャッターが開き、皆一斉に外にでました。
外に出るときに、メッセの中のブースが倒れたり、壁のパネルがはがれて落下するのが見えました。
外は駐車場でしたが、出た瞬間にとまっているはずの車が大小に関らず、ゆっさゆっさと激しく揺れている様子が目に入りました。
海外沿いの木々も、街灯も、すべてが音をたてて揺れていました。
左手奥にある旧幕張プリンスの高層ビルもよじれながらボキッと折れちゃうんじゃないかというくらいグラグラ揺れいました。
自分も何度もよろけました。
この時初めて、巨大な地震が来ているんだ!
という実感がわき青ざめました。
怖さよりも心配でした。
家族、親戚、友人、知り合い、会社の同僚。。。
電話はつながりません。。。
通りを見ると、道路のあちこちにひびや地割れ、段差ができていて、その上あちこちから液状化現象で水と砂が噴出していました。
ただこの瞬間は、むか~し中学か高校の地学でチラッとでてきた位の“液状化現象”という言葉はすぐには思いあたらず、水道管が破裂したのかと思っていましたが。
関東大震災!
真っ先にこの言葉が思い浮かびました。
そして東京がどうなっているのか、日本はどうなってしまうのか、
自分はどうなるのか、明日からの生活はどうなってしまうのかとても不安になりました。
関東大震災なら、幕張のこの状況から考えて東京が無事であるはずがない。。。
しかし隣にいた同僚から驚きの声があがりました。
“震源地は宮城だって!!”
WBC以来その機能をすっかり忘れていた私の隣で 同僚はワンセグに見いっていました。
震源地 宮城
これは私たちだけでなく、周りにいた全ての人を驚きの渦に巻込んだことは間違いありませんでした。
だって千葉でこんなに揺れたのに震源地が500キロ以上離れた宮城県なんて。。。
じゃあ宮城周辺はどんだけ揺れたんだ・・・
みんながそう思いました。
しばらくの間、どうすることもできなくて、
メッセの横の駐車場に座りこみ、携帯のワンセグをひたすら見て情報を集めました。
私たち以外にも多くの人がそうしているようでした。
その間も余震と見られる大きな揺れが何度も何度も続いてました。
本当に異常事態です。
ふと横に目をやると、先ほどの旧幕張プリンスのビルに窓拭きのカート(?)が屋上からぶら下がっており、
ものすごい速さでロープを巻き上げ屋上に戻ろうとしているのが見えましたが、揺れが来るたびにカートが大きく揺れていて、駐車場にいる誰もが、いつの間にか
“がんばれ!もう少し!!”
と声を上げていました。
無事回収されるのを見届けて安心したところで、再び携帯のワンセグに目をやると、
今度は信じられない映像が目に飛び込んできました。
巨大な津波が、次々に家々を飲み込んでいく様子です。
津波の映像をこれほどはっきりと映像でみたのは生まれて初めてでした。
映画の中で見た巨大な波なんかとは全く違うものでした。
【津波は“波”ではなく、大規模な洪水】
という話を昔聞いたことがありますが、正にその表現がもっとも正しいということがはっきりとわかりました。
突然東北に住んでいる友人や、親戚のことがとても心配になりましたが、その時は祈ることしかできませんでした。
周りの人たちも同じ映像をみているのか、驚きや悲鳴、泣き声まで聞こえてきました。
携帯電話の通話とメールは相変わらずできませんでしたが、ワンセグが見れたので今この日本で何が起こっているのか、情報を得て認識することはできました。でも全く理解できませんでした。
いや、正確には理解したくなかったんだと思います。
余震が続く中、津波の様子に私も同僚もなすすべもなく茫然と2時間近く駐車場に座り込んでワンセグを見ることしかできずにいました。
そのままいてもどうしようもないのでとりあえず駅に向かいました。
駅に行くまでの道路の惨状はとても酷いもので、基礎がしっかりしている建物の地面と歩道の間には30cm位の段差ができ、歩道も車道も割れ目から水と砂が吹き出し、歩道のタイルは至るところはがれて凸凹でヒールの靴でなくとも歩きにくい状態でした。
そんな惨状でも、不思議な位ビルや建物自身は朝と変わりない状態で建っていて違和感すら覚えましたが、なんだか急に都内のことが心配になりました。
駅に向かっている途中、会社の携帯に別の同僚から電話がかかってきました。
会社の携帯はPHSで、ユーザーが少ないので実は全然電話かけられたんです。
この事実は地震の直後にわかっていたのですが、ただ相手が普通の携帯会社だと条件一緒なので、結局自宅や家族には連絡つかなかったのです。。
それで、電話をかけてきた同僚の彼女も電車が止まってしまっているのでやはり出先で足止めをくらっているようで、渋谷から虎ノ門の会社まで歩いて戻るということでした。
とりあえず無事を確認し合い、会社の方が大丈夫か聞いてみたんです。
ちなみに私の会社は東京タワーの近くにあるのですが、同僚は、
“さっき電話したらみんな無事みたいだけど、なんか東京タワーが曲がっちゃったらしんだよ!!”
えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!
びっくりしすぎて言葉を失いました。
“ほんとですか???東京タワー曲がっちゃったんですかーーーー!?!?!?東京の被害ってやっぱりひどいんですかね?”
と言いかけた瞬間、電波悪くなって電話がきれました。。
私が電話に向かって“東京タワー曲がっちゃった”という言葉を発した時、
周りを歩いていた大勢の人たちがいっせいに振り向きました。
“東京タワー曲がったらしよ。”
“やべーよ、東京の被害相当じゃないの”
などなどの会話が聞こえてきました。。。
後に東京タワーの曲がり具合が、先っちょのアンテナがほんの少しだけ傾いた程度と知り、
あらぬ噂の根源を作ってしまったこと、周りの心配や恐怖を煽ってしまった自分のうかつな言葉を反省しました。
その後駅に着くと、海浜幕張の駅周辺は水浸し、泥だらけ、周辺のお店は全てクローズ、駅の照明は全て消され真っ暗、駅の出入り口にはロープが張られ、立ち入り禁止の紙と警備員が1人。
駅前にはタクシーや公衆電話に並ぶものすごい数の人々と、ど-していいかわからずその場にいる人とがごっちゃになっていてとにかくごったがえしていました。
いつの間にやら警察官が来ていて被害状況を確認したり、ぐちゃぐちゃの道路の真ん中で交通整備をしたりしていて、なんだかやっぱり大変なことが起きてしまったんだと改めて思いました。
(↑残り少ない貴重な携帯の電池の都合上1枚しか撮らなかったんですが、海浜幕張駅、駅前)
この日の電車はもう出ないということがわかったので、同僚と2人、どうしたらいいものかと茫然としていましたが、少し先を見ると、駅前のビルの前で、野菜やお菓子を露店販売しているのが見え、自分たちがお昼ご飯を食べていなかったことを思い出し、とりあえず近くまで行ってみることにしました。
これといって食事に相当するものは売っていませんでしたが、野菜だけでなくお菓子や飲み物などいろいろあるのがわかりました。
とりあえず空腹を満たすものを物色していると、3人のおばちゃんグループが近くに来て、
“ど-なるかわからないんだから食べ物はいっぱい買っておきなさい!!”
“煎餅はご飯やお餅と一緒で炭水化物だから買うべきよ!”
“味はともかく飲み物も必要よ!”
“飴も糖分だからいいわよ!”
等々見ず知らずの私たちにすごい勢いで助言してくれました。
私たちは助言にそって、煎餅と飴と野菜ジュースと甘栗を買いました。
ただ後ろには人がたくさんいたので、買い占めにならない程度の量です。
食料をGETした私たちは、その辺の植え込みのブロックに座り、ひとまず購入した煎餅などをほおばりました。
その間もひび割れて剥がれた歩道のタイルの隙間などから、たえず水と砂が吹き出していました。
少し先を見ると、サンクスが営業しているのが見えましたが、店内は満員電車のような人混みで、とても何か買えるような状態ではないような感じでした。
ワンセグでは政府の記者会見で、2次災害を防ぐためにも、けっして無理して帰宅しようとしないように!なるべく会社に留まるようにと呼び掛けていましたが、外出先の人間に対してどうしたらいいとか、そういうことは教えてくれませんでした。
私の同僚は自宅が横浜なので鉄道が止まっている以上、帰宅することは不可能。
私の自宅は千葉県ですが、同じ千葉県とはいえ、チバラキ地帯と呼ばれる茨城との県境まで東京湾から歩いて帰るのは無理でした。
昔TVで、災害シュミレーション再現VTRというものを見たことがあるのですが、私たちは正に、そこで解説されていた、
「帰宅難民」
というやつなんだと思いあたりました。
それに加え、この日は、手がかじかむ位の寒さと夕方の海沿いということもあって激寒だった上に、長い間外にいたこともあって、完全に体が冷えきっていました。
小腹も満たしたところで、とりあえずこの日の帰宅は諦めて、ホテルでも探すかということになり歩き始めたのですが、途中のどこかの会社のビルが解放されていたのを見つけ、寒さしのぎに入ってみることにしました。
ビルの正面出入口の目の前からビルを囲むように30cm位の段差ができていて、バッサリ切り取ったように、コンクリートとその下の土の断面がはっきり見えていました。
たぶん建築基礎のしっかりしているビル周辺はそのまま残り、液状化したこちら側の道路全体が30cm位沈下したといったところでしょうか。
中に入るとたくさんの人たちが疲れ切った様子で床に座り込んでいました。
地べたに短いスカートの制服で座り込んでいる女子高生たちに呆れていた過去はとりあえず忘れておくことにして、私たちも空いているスペースの床を陣取って座りこみました。
とにかく大したものも食べてないのに凸凹した道を寒い中歩き回り、精神的にも肉体的にも本当に疲れていました。
靴を見れば泥だらけの上、中までびちゃびちゃで、足は冷たく冷え切っていました。
しばらく座りながら同僚と
どーしよっか。。。。
と話していると、前を通った人が京成線が動いてるらしい!というような会話をしていました。
盗み聞きというと聞こえは悪いですが、家に帰れるなら帰りたかったので、海を背に海浜幕張駅より少し内陸にある京成線の駅を目指して移動することにしました。
歩道を歩いている途中に小さな水溜りにはまりました。
はまって見ると無意識的に推測していた深さよりも全然深く、足首まで水につかりびっくりしました。
水溜りは泥でにごっていてよく見えませんが、雨によってできた水溜りと明らかに違うのは、その深さが全くわからないことです。
地震によって道路は凸凹になってしまったので、小さく見えても下手すると相当深い水溜りにはまり怪我をする恐れがあるとこの時初めて気がつきました。
歩いていくうちに、京成線の方に向かって歩く人よりも、こちらに向かって歩いてくる人のほうが多いことに気がつきすれ違いざまに見知らぬサラリーマンたちに声をかけると、やはり京成線も止まっているとのことでした。
しかたなく海浜幕張駅の方に戻りましたが、日も暮れて、気温はどんど下がっているようでした。
何よりも海風の冷たいこと。。。
レストランや、ゲームセンターなどが入るビルの前で冷たい海風をしのぎつつ、
一応会社に連絡してみようと電話をしました。
内務部の次長は、社員の全員の無事と、東京タワーのアンテナが少し曲がったという事実と、今日泊まる場所のあてがないのは私たち2人だけだという事実を教えてくれました。
また、会社では帰れない社員のために、近所でグループ会社が営業している飲食店から差し入れがあり、とりあえず雑魚寝にはなるものの、暖房のきいた部屋で食べ物にも困らずみんな過ごしているとのこと。。
複雑でした(ーー;)
なぜこんな日によりによって幕張に。。。
そして東京タワー曲がったってそういうことか、ってきり真ん中らへんからグニャと曲がったのかと思った。。。
みんな暖房のきいた部屋にいるんだ、よかった。。
そんなことを考えてる間に携帯のインターネットは少し使えるようになったので、ミクシーで現状をつぶやいてみると、それを見たいろんな人が、メールや返事を書いてくれました。
特に地震の影響がほとんどなかった関西や西日本にいる友人たちは、いろいろ情報を集め、連絡してくれました。
関東の鉄道は全滅でその日の復旧の見込みはないとか、
東京都は公立高校を帰宅難民のために開放したらしいから行ってみたら?とか。
(まあ幕張は千葉ですけど)
とにかく、遠く離れた友人たちが私を心配してそういう動きをしてくれたことに心底感謝し、
ネットやツイッターの世界のすごさというか、便利さというか、活躍を実感しました。
ただ、なかなか回線が込み合ってって思うようにつながらなかったのですがね。
こう考えると、大正時代に起こったという関東大震災や阪神淡路大震災なんかの時は、携帯もなかったしこれだけの情報社会ではなかったのですから、人々はどんなに不安だったことでしょう。
そして今の情報社会だったら助かっていた命もたくさんあったのでないだろうか、と思いをめぐらせました。
さて半分野宿覚悟の状態で、この寒さに朝まで耐えられるんだろうかと心細くなっていると、
お店はほぼ全てといっていいほどクローズしていましたが、その建物は屋内駐車場があるようで、エレベーターホールまでは入れるようでした。
寒さをしのぐため、私たちはその建物のエレベーターホールに留まることにしました。
まぁ朝まで解放しているのかかなり怪しいと思いましたがとにかく寒くて。
それと、かき集めたドラッグストアーショーのサンプルがかなり重くて、持ち歩く紙袋の取っ手の紐が指に食い込み、本当にどこかに捨てたい気分でした。
エレベーターホールには30人位の人たちがすでにいて、皆地べたに座り込んでいました。
私たちも2人分のスペースを確保して座り込み、とにかくか連絡がつかないものかと電話をしていました。
少しして、母親と連絡がつき、家族全員の無事を確認できました。
父親はこんな時だというのに車で出かけたとのことなので、
父親の携帯に電話してみることにしました。
電話に出た父に、電車が止まっているから幕張までに迎えに来てくれないかという旨をつたえると、
“幕張ー!?今空手の昇段試験中だから無理だよ。
だいたい地震って震源地は宮城だろうが!あの程度の地震で甘えんな!”
とか言われ、あんだけ揺れたのに全然感じてなかった上、津波が来たことすら知らなかったという。。。
そんでもってお弟子さんたちも誰も休まずに試験に来てることもびっくりしました。
内陸の方が揺れなかったんでしょうか?
でも千葉は一応震度5強とか6弱だったはず。。。
迎えの車はなんとかキープできたものの、試験が終わってから来るとのことなのでたぶん夜中なのではと思われました。
迎えが来るまでは寒さをここでしのぐしかありませんでした。
しばらくすると、クローズしていたゲームセンターの店員が出てきて、お菓子や飲み物を提供してくれました。
店長さんと思しき店員さんは、
“なにぶんゲームセンターなので、景品のこんなお菓子くらいしかないのですが、
よかったら食べてください。 ”
“トイレも店内の奥にありますから自由に使ってください。”
と、なぜかすみません、と何度も頭を下げながら。
その場にいたほとんどの人が、本気で何度もお礼を言っていました。
すごく感動した!と言っている人もいました。
私たちもこういうことは全く想像していなかったので、とても感動しました。
エレベーターホールの真ん中に置かれたお菓子の山。
そこに1人、2人とお菓子を取りながら、“これもどうぞ”と自分の持っている余分なお菓子を更においていく人々。
なんだか私たちもさらに感動してしまって、交換する形でお菓子をとって自分の持っていた飴などをおいておきました。
また30分くらいすると、再び店長さん(?)が出てきて、
“ここでは寒いと思いますので、お店を開放することにしました。いすもありますし暖房いれたのでどうぞ中に入ってください”
と言って、店内に誘導してくれました。
なんか困ってるときにこういう人の温かみは本当に心に染み入ります。
本当に何度お礼を言っても足りない位でした。
食べ物と暖かい場所、トイレを確保できた私たちはしばらく呆然とユーホーキャッチャーの前に腰を下ろしていました。
携帯の充電もなくなりかけていたので、ニュースが気になるもののワンセグで携帯の充電が切れて連絡がつかなくなることの方が恐怖でした。
同僚との会話と言っても、
“どーする?”とか“疲れたね”
の言葉の繰り返しで、まともに会話にもならなくなっていました。
しばらくして、先ほどの店長さんが再びやってきて、
警察がやってきて、避難所に誘導しているのでそちらに移動してください。
とのことでした。
店長さんは、避難所までの地図を数十枚プリントアウトして1人1人に配ってくれました。
私たちは店長さんに何度もお礼を言いました。
他の人たちは、涙ぐんでお礼を言っている人もいましたし、逆に無言で地図を受け取り立ち去る若者もいました。
そんな若者に対し、意外と周りのほとんどの人が、
“やってもらって当たり前!とか思ってるのか”
“お礼さえ言えないなんて、非常識にもほどがある”
と声をあげて口々に非難していたのが意外でした。
日本人って他人に無関心というか関わりたくないというか、普段そういう人がいても口には出さないのが普通だと思っていたので。
本当に、何でお礼くらい言えないんだろう、と私も少しムカムカして、そして悲しくなりました。
とにもかくにも、もらった地図を手に避難所となっている小学校の体育館へ。
日も落ち外はかなり寒くなっていました。
途中ホテルの前を通りましたが、ロビーもレストランも人がごった返していました。
当然部屋に泊まる事はできないでしょう。
小学校へ着くと、非常用のおかゆと、乾パンを配っていました。
暖房も効いており、毛布も配られ、小学校の教職員があれこれ忙しく走り回っていました。
私たちは近くにいた人たちと食べ物を分け合いながら、
ここまでたどり着くまでの経緯や、状況などを語り合っていました。
私は小学校の体育館へ避難したことをミクシーでつぶやいたのですが、
つぶやいてすぐに神戸にいる友人から、
体育館はなるべく中心を陣取ったほうがいいよ!
阪神淡路大震災の時に余震でガラスが割れて降ってきたから。
とコメがありました。
小学校の先生たちも、何か不便はありませんか、と聞いて回っていました。
なんだか日本全国で助け合いが始まっているようで、少し感動しました。
途中携帯の充電がなくなってしまいましたが、近くにいたおばちゃんが充電器を貸してくれました。
私は逆に、携帯がつながらないと言っている人たちに、会社のPHSを貸しまくりました。
電話1本で家族の無事が確認できて安心できるなら、疲労感も違うでしょうから。
途中、一緒にいた稲毛に住んでいるというおじいちゃんが、学校の先生の計らいで家まで車で送ってくれるということで小学校を後にしました。
ただ一緒にいただけの私たちにも何度もお礼を言いながら、涙をながしていました。
かなり高齢で自宅のことを相当心配していたので、こんなところで一晩明かすよりも全然よかったと思います。その世代の人たちは携帯電話を持っているわけではないので、自分の目で見るまでは!という気持ちも強かったと思います。
夜中の1時頃になって、ようやく私の親が幕張に到着しました。
一緒にいたおばちゃん、おじちゃんたちは、家族や親戚でも見送るかの様に、
声をかけてくれて、見えなくなるまで手を振っていました。
同僚のコはとりあえずうちに来てもらうことにして、幕張を後にしましたが、
道路は凸凹で水があちこちからあふれ、地震の爪あとを改めて実感しました。
私たちが私の家に着いたのは朝6時を回っていました。
通常混んでいなければ40分位の道のりです。
高速道路は地震の後すぐに閉鎖されたので一般道は信じられない位激混みでした。
同僚は、電車が走り出したとの情報から、家がどうしても心配だからということで結局私の家で休むこともなく、近くの駅から帰りました。
家に帰って改めて、この日自分1人ではなくその同僚が一緒だったことに感謝しました。
本当に長い長い1日でしたが、
この日ほど、人々の暖かさを感じたことはありませんでした。
震災と復興への戦いはまだまだ始まったばかりです。
でも、この日私が感じたのは、現代社会で忘れかけていた人と人とのぬくもりや、人情といったかけがえのないものでした。
だからこそ、今度は自分が、東北の人たちへ何かしなければいけないと思っています。
最後に、ライオンのブースのスタッフの方、緊急で露天販売をしてくれた八百屋さん、いろいろアドバイスをくれたおばちゃん3人グループ、帰宅難民の為にビルを開放してくれたどこかの会社やゲームセンターの店員さん、電車の情報を教えてくれた見ず知らずのサラリーマンたち、避難所の小学校の先生たち、避難所で会って励ましあったおじさんやおばさんたち、など、この日幕張で出会った人たち、ネットやメールを通じて心配や情報をくれた友人たち、この日一緒にいてくれた同僚、幕張まで往復10時間近くかけて迎えに来てくれた両親、とにかく本当に心から感謝しています。
本当にありがとうございました。
◆2011年3月11日14:46 気象協会
http://tenki.jp/earthquake/detail-3611.html
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます