蘇州大学「酔話会」

不問過去的事、在中国生活快楽、交換消息

中国江蘇省蘇州市蘇州大学
高嶺者留学生の談話室

泰州記

2012年06月04日 | 旅行

6月2日から一泊二日で、蘇州の対岸泰州市へ行ってきた。午前9時半、新区錦華苑からマイクロバスで出発。前夜の雨も止んで、薄日のさす天気。蘇州の雨はいつも夜降って朝あがる。一行中高年男性ばかり10名。歴史探訪会のメンバー。酔話会からもぼくとyとkの3人が参加。10名の共通点は、全員歴史ずき。全員酒ずき。数名女ずき。早速バスの中で朝からビールで乾杯、小旅行への期待がふくらむ。高速で江陰長江大橋を越え、2時間半で泰州着。ビールのおかげで、あっという間。

飛び込みでマイクロをつけた食堂は裏が竹やぶになっていて、鳥骨鶏やうずらが放し飼い。なぜかホロホロ鳥もいる。地場料理は美味。昼間から宴会。一行には、Tさん、Dさんの二人の中国人も参加。食堂さがし、料理注文のベテラン。Tさんは、旅行社幹部を二十年来やっており、旅の嗅覚は抜群。はじめての土地でも案内をらくらくこなす。おかげで、昼食二回、夕食一回ぜんぶ飛び込みだったが、安くて美味い泰州料理を満喫。一行大満足。冷えたビールのない店もあったが、そこは入郷随俗。

昼食後、胡錦濤主席の母校小学、中学を見学。と言っても校門にバスを着けて、いきなり守衛と見学交渉。中学は、校庭まで入れなかったが、小学は、入れてくれた。入れてくれたどころか、最近できた展示室はじめ主席の学んだ教室まで案内してくれた。主席の席は、前から二番目で、机に表示札が置かれていた。当時のカリキュラムまで、黒板横に貼られていた。校門を入ったところには、主席が青海書記当時、母校の生徒達にあてた励ましの手紙の一節が彫られた碑があったので、一同記念写真を撮った。実は、守衛が独断で入れてくれたのには前段があった。土曜なので、中二の娘が守衛室に来ていた。Aさんが顔立ちが似ているが娘か?というと、守衛の顔がほころんだ。娘がわれわれを日本人とみて「こんにちは」という。これで、いっきょに校門の電動引き戸が開いた。実は、主席はここから精華大学へ進んだのだが、最近まで故郷のことは、外部へ公表していなかった。勿論、離京以後泰州へ帰ってきたこともない。故郷のために国家予算をかたよって使うことを戒めたのだろう。ふるさと政治家と称して、地元にせっせと利益誘導するどこかの政治屋とは覚悟が違う。Tさんによると、主席は姉、妹との三人兄弟。家は市の中心から10km南の田舎にあり、寄宿舎で勉学しただろうと。

    
               胡錦濤主席の母校(中学)                     胡錦濤主席の母校(小学)にある碑

 小学校6年生時の座席表(胡錦濤主席は前から2列目の席)

このあと、梅蘭芳の記念館見学。本人は北京生まれだが、父祖の地が泰州であったため、ここに記念館がある。1937年盧溝橋事件後上海に移住。抗日の意思から舞台活動を拒否、髭をたくわえた頃の写真が展示してある。夫人が二人あり、四人の子供をもうけた。その写真も。このころの事情は、映画「華の生涯 梅蘭芳」に詳しい。

       

夜は壺中天で宴会。Aさんが階下で見かけた冷奴に似た“冷粉”を注文、たしかにうまい。帰りにスーパーで酒とつまみを買い込み、ホテルにもどってyの部屋に10人全員集合。Aさんが講師をつとめて、呉の歴史を復習。途中から“いいちこ”のお湯割りを配りだしたので、そのまま二次会。薩摩隼人のFがおやじギャグを連発。もう止まらない。日本老人どもの日本昔話は、中国人のふたりには理解を超えたものだったろう。

翌日8時半チェックアウト、湊湖国家湿地公園の葦原を手漕ぎの船でゆらゆら見物。船頭に歌を所望して、楽しむ。潮来の風情。仲間から「潮来花嫁さん」「潮来の伊太郎」などナツメロも飛び出す。尾瀬の木道の二倍ほどの幅がある湿地の木道を歩いて鹿や水鳥を見物。
    

船からあがって、マイクロで湊潼古鎮へ向かい昼食。急遽ビール冷やしてくれと注文して、昨夜のつまみと紹興酒の残りを出して、宴会。待ちきれず冷えて無くても二三本早く持って来い。二三本が五六本になり、結局ぬるいビールがどんどん空く。それでも地場料理の味は絶品。

古鎮の清時代の地元名士徐氏宅見学。いくつにも分かれた建て屋の中庭の一つにギネスブックにのっている樹高5m、樹齢千年の山茶花の木があった。3,4月が開花期で枯れた花が枝にひっかかっていたが、そばに全木に赤い花がまぶれついた写真があった。雲南省麗江のピンクの山茶花と姉妹木という説明もある。屋久島の千年杉を思うと目の前の青々した葉をつけた山茶花が樹齢千年とは信じがたいが、そばにビネスブック認定証があるので、やはり本物だろう。山茶花はさざんかと読めるが、英名camellia と書いてある。つばきということだが、つばきは、花が首からそっくり落ちる。目の前の枝には、枯れた花が落ちずにこびりついている。花も八重でつばきより小ぶり。してみると、やはりさざんか?「さざんかの宿」の鼻歌も聞こえてくる。徐氏宅を出て、古鎮の通りにもどると、臭豆腐を売るの匂いが満ちている。数人が名物らしい揚げ饅頭を買った。

午後4時泰州に別れを告げ、高速で南走。車中全員安眠。江陰長江大橋を南へ渡ると高速の交通量が急に増える。無錫のパーキングエリアでトイレ休憩。またぞろ、昨夜の残りの缶ビールが配られ、車中で宴会。40分が蘇州新区錦華苑に到着、解散。おつかれさま。z


スワンモック

2012年05月30日 | 旅行

スワンモック寺院はバンコクから640km南、タイ半島部東、タイ湾側のジャングルの中にある。22年前、院長のアジャンブッダサンが寺院東側のジャングルを切り開いて「国際黙想修験場」を開いた。爾後毎月10日間の外界隔絶黙想道場を欠かさずつづけてきた。毎月平均80人の黙想希望者が世界中から集まり、22年間で延べ2万2千人がここで黙想した。

十年前、バックパッカーをしていた頃、ぼくも参加したことがある。ジャングルを切り開いた10haの敷地には、椰子の木が植えられ、林間に吹き抜けの道場、食堂、セメントの箱を並べたような宿舎が散在している。白眉は温泉。近くに泉源があり、80℃の湯が敷地内を流れる小川に注いでいる。上流が女子プール、下流が男子プール。といっても、ジャングルの中で小川が少し深く広くなっているところをプールと呼んでいるだけ。男子プールは幅5m長さ20mもあり、中央は足がつかないので、みんな立ち泳ぎで入浴している。もちろんフリチン。女子は知らない。

さて、道場は、毎月1日に開講し、11日に閉講する。 十日間、食、住、説教つきで200バーツ(6千円)。安いのは、運営が喜捨で行われているため。参加者は欧米人が主体。ぼくが参加した時は、東洋人はシンガポールから来た華僑とぼくのふたりだけだった。黙想のインストラクターは4人の僧、米国人1人とタイ人3人。説教はすべて英語。と言っても、呼吸を整えて黙想する手順を繰り返してほどきするのが主。参加者には沈黙が課されるので、英語は説教を聴くだけで、話す機会はない。黙想のスタイルは座禅と立禅と歩行禅がある。夜ローソクを灯した池のまわりを、80人の参加者が黙々とめぐるさまは、幻想的。最初座禅でまともに座れたのはシンガポールの華僑とぼくだけだった。

一日の生活は、午前4時、ドラの音で起床。4時半から黙想。6時からヨガ。午前8時吹き抜けの食堂で朝食。メニューは米飯、豆、野菜、スイカ、バナナなど完全な菜食。朝食後10時まで各自割り当てられた持ち場の掃除。10時から黙想。12時半昼食、メニューは朝食と同じ菜食。飲み物は茶または果物ジュース。一日2食なので、食事はこれが最後。昼食後各自の持ち場で屋外掃除。ぼくは温泉プールの掃除を志願。網で水に落ちたごみや落ち葉をすくいながら温泉につかれる。14時半から黙想。18時、食事はないが茶と果物はとれる。そして温泉タイム。沈黙の立ち泳ぎ。みんな規則は厳守する覚悟で来ている。19時半黙想。21時就寝。21時半消灯。

これが十日間つづく。沈黙の十日間。禁酒、禁煙、全菜食一日2食の十日間。セメントの上にアンペラを敷いただけのベッドに寝ながら黙想の日々。ぼくの時は、80人入居したが、10人が脱落して途中で道場を去った。脱落したのは、全員男性だった。持久力においては、男性は女性に劣るか?

十日間とはいえ、すべてが時間配分され、規制される毎日は獄中生活と似ていなくもない。しかし、ぼくは、毎日自由がありすぎる旅人だったので、ひとに行動をゆだねておけばすむ生活はむしろ気楽だった。黙想は、座禅のしかた、呼吸方法、思考の手順まで手ほどきされるわけだから、当初呼吸確認と思考ステップの確認でほかのことを考える余裕がなかったが、なれるとけっこう思索範囲が広がる。長年生きてきているので思索する材料には事欠かない。十日間の黙想もたいくつすることは無かった。というか、この際これまで行き届かなかったすみずみまで思いをめぐらせた。一大長編小説を読んだ感じ。味をしめて、その後も別の黙想道場へも行ったが、やはりたいくつはしなかった。しかし、ジャングルに温泉プールがあるスワンモックが一番いい。毎日単調な繰り返しのなかで、素っ裸で熱い湯につかれる開放感は格別。

さて十日目の夜は、説教のあと、20時から1時間だけ参加者各自が説教壇に登ってショートスピーチすることが許される。十日間口から言葉を吐くことを戒められてきた人間が何をしゃべるか? 実におかしい。みんな機関銃のようにしゃべるが、ほとんど脈絡をなしていない。中には黙想で空中に浮くことを体験したと言って座ったまま飛び上がって見せるもの、歌を歌いだすもの、さまざま、、、。一時間後、再び沈黙が要請されるとなにかほっとしたような空気が流れる。

十一日目、朝の黙想を終え、午前5時45分沈黙解除となり、お互いの会話が許される。朝食の席は何十羽のひばりが一時に囀っているよう。なぜか、女性の声ばかり響く。男性は聞き役。現実復帰能力は女性が上ということか?

午前9時半閉講。ぼくは、シンガポールの華僑といっしょにバスで街にもどって、昼間からシンハビールを浴びるほど呑んだ。何しろ十日間禁酒は、生来はじめてのことだったので、うまかったのなんの。ビールが乾いたタオルに吸い取られるように、臓腑にしみこんできたのを今でも覚えている。

最近の水ぶくれ生活を思うにつけ、人間、ときには身体からも頭からも水をしぼりだして、リセットした方がいい、、、と思う。   z


済南記

2012年04月24日 | 旅行

一週間済南へ行ってきました。故郷山口県と山東省の友好三十周年記念行事取材というか、山東電視台との打ち合わせというか。忙しかったけど、よく呑み、よく唄い?第2?第3か?(5年も学んだ?蘇州がある)のふるさとを満喫して、、、、、、きました。先ずは「済南記」孔子さまから。

孔子さま

山口県山東省友好提携30周年の記念活動を見るべく、30年ぶりに済南へ来た。蘇州北駅9:34発北京行き高鉄に乗車3時間20分、車内で上海から済南へ行く老夫婦と娘二人の4人と同席した。老人は86歳、済南の生まれ、従軍して、老後上海の娘のところで世話になっている。1926年生まれだから1928年の済南事件の時は二歳。終戦が45年だからまだ19歳。老人が戦ったのは、国民党との戦い。山東省には王震、白如冰など有名な革命軍の将軍がいた。ためしに聞いてみたら二人とも知っていた。実は、ぼくも王震には北京の中日友好協会で、白如冰には山東省代表団団長とした来日の際、会っている。白如冰には大谷山荘の温泉で肩を貸して一緒に風呂にも入った。実は白如冰は開放戦争で右足に銃弾を受け、風呂はすべるのであぶない。上海の老人は革命烈士の墓を詣で、かっての戦友を慰霊するのだという。抗日戦争の方でなくてよかったと、ホッと胸をなでおろした。

娘二人が普通料金で列車の切符を手配したのを知ると、老人は退役軍人の赤い手帳を出して、これを見せれば半額なのにと、言っていた。まだかくしゃくとしている。

12:53済南西駅着。バスで市内へ向かう。高鉄は去年開通したばかりなので、済南西駅前はまだ開発中。157路バスに乗って市内へ。途中営市西街で117路バスに乗り換え。混んでいた。乗るとすぐ、若い人が席を譲ってくれる。見ていると、若い人はほかの老人にもみなそうしている。となりの中年の人に「ここではみなあんなにするの?」と聞いたら「孔子の里ですからねえ。孝順はあたりまえですよ」。「これはいい土地に来た」と言ったら、「楽しんでいってください」と名詞をくれた。中国古籍発掘管理委員会主任趙立兵とある。孔子の教えがすぐ出てくるはずだ。兵役に行ったんですか?と冗談を言うと。名前だけですと笑っていた。

30年前は自転車だらけだった街も今は車で渋滞。バスが市内に入ると高層ビルの群れ。国体をやった体育館、博物館など最近建ったビルは中国各省の施設のうち、規模最大。山東大漢といって、山東人はたけが大きいことを言うが、とにかく大きいことは好き、建物の規模も全国一が自慢。

バスを降りると山東師範大学直営のホテルにチェックイン。フロントの対応が感じがいい。サービス業だから当然と言えば当然だが、それを言うと、「孔子の里ですから」という答えが返ってきた。ここでもか。孔子は二千五百年経っても住む人の心に伝わっている。孔子廟は何度も立て替えられたし、形のあるものは、うつろっても、こころは確実に伝承される。形而上は形而下よりも強し。

翌日夕方、泉城公園に行った。この公園は周囲4kmもある。「中に日本庭園雅あるはずだが」と庭掃除の老人に尋ねると「案内しよう」と箒を置いて先にたって歩き始めた。20分も歩いたころ、前方に錦帯橋の模型がかかった池が見えた。これは、案内してもらわないとたどりつけない。孔子は親切を教えていたのかな?そう言うと老人は笑って、帰って行った。

翌翌日山東電子台交流室長に招待された。その席の話題。「日本ではサラリーマンが仕事帰りに仲間で呑む時の話題ナンバーワンは上司の悪口でしょう」。室長曰く「ここでは、本人が居ないところで陰口は言いませんよ。孔子の教えに、、、、、」まいったまいった!山東省にはでかい建物がたくさんあるが、いちばんでかいのは、やはり孔子さま。 z

 


巴蜀記

2012年03月11日 | 旅行

今日3月11日、東北大震災一周年。成都双流空港ラウンジで上海虹橋行き便を待つ間に、これをメモっている。四川地震から四年、「完全復興なった」宣言もされた蜀の地でこの日にこれをメモっていることに不思議を感じる。東北はあと三年後に「完全復興なった」宣言できるだろうか?

3月3日蘇州を発って蜀(四川)の国を9日間うろついた。巴(重慶)までは足をのばせなかったが、語呂をとって、巴蜀記とした。

先ず、きのうの話から。

3月10日、一週間の蜀の旅を終えて再び成都へ戻ってきた。午後2時、めずらしく晴れ、気温15度。明日は蘇州へもどるが、半日どうするか。

碧峰峡の野生パンダは小雨の中、木に登ってあたりを睥睨していた。濡れそぼって寂寥感さえ感じた。晴れた日のパンダはどうだろうと思いついて、成都大熊猫繁育研究基地へタクシーを飛ばした。交渉で片道80元。80元の元を取ろうと、運転席のとなりにすわって、話しかけてみた。ドライバー、顔はいかついが、けっこうのってきた。

名前は? 。 小平の? そう。 小、生まれは?成都。 歳は? 40。

(娘とおなじだ) 親父はいくつ? 43年生まれ。(ぼくよりふたつ下だ)子供は? 娘が一人、初中二。

向こうからも聞いてきた。

T:どこから来た? 蘇州。 何やってる? 中国語を勉強している。??? 中国人じゃあないの? 日本人。 へえー、地震たいへんだったね、マグニチュード9、四川より大きかった。 よく知ってるね。

T:親父が日本語を勉強していたから、自分も関心をもった。

ぼく:親父は抗日戦争の頃生まれたのに、なんで日本語に関心をもったの?

T:日本もドイツも戦争に負けたのに、なんであんなに早く経済大国になったのだろうと関心をもった。よくTVの外国ニュースを見る。親父も自分も。

車中の話は延々と続く。

T:日本は戦後教育を重視した。毛沢東は文革をやって、その間教育を空白にしてしまった。この差が大きかった。日本の天皇は政治の実権は持っていないが、尊敬されている。毛沢東も天皇みたいになって、政治は周恩来に任せればよかった。

成都のタクシードライバーは実に雄弁。国体の話になったので、こっちも興がのってきた。

ぼく:日本は島国だから万世一系の天皇で今まで来られた。

T:日本にも朝代の交代はあっただろう。  (やつはなんでも知っている)

ぼく:あれは同一民族内の政権交代で、中国のような他民族に征服されての交代ではない。

(つい、そのちがいを説明しようと、以下やや勇み足)

農耕民族の漢族は龍で、狩猟民族の元や満族は鵬だ。龍が長期支配で腐敗すると、外から鵬がやってきて、新しい中国を再生する。しかし、中国には伝統文化という麻薬がある。外から来た鵬もしばらくすると感化されて龍になる。それが腐敗するとまた鵬が来てとってかわる。それでも中国は今日まで欧州のように二十数カ国に分裂せず、一つの国体を保っている。なぜか? 中華思想、孔子だ。老子をとったら、分裂小国家、欧州と同じになっていただろう。

T:そんな話ははじめて聞いた。 フーン。

(少し調子に乗ってしゃべりすぎた。Tは家に帰って、今日日本人がこんなことを言っていたと話すだろうが、親父から「お前、前を見て運転しろ」とどやされるだろう)|

車が止まった。いつのまにか、パンダ基地のゲート前に着いていた。時計を見ると午後3時。

58元払って、入場。目の前にジャッキチェーンが二匹のパンダを抱いてニッの写真。こんなんしたらいくら? 1300元。 パンダは地球スター。

サファリーカーで園内一巡。幼児パンダ、若年パンダ、成年パンダと飼育エリアが分かれている。やはり、人もパンダも幼児のほうがかわいい。生後1年くらいの幼児パンダ園でカメラをまわす。空堀の外に1mくらいの塀をめぐらせた園地で8頭のパンダがぐちゃぐちゃにおりかさなって、なかば遊びで竹を奪い合いながら食っていた。碧峰峡の野生パンダに比べて格段のんびりしている。天気のせいか?環境の違いか?

(ここで、8匹のパンダだじゃれあって、竹を食っている写真と野生パンダが木に登ってぼくを睨んでいる写真を入れたいが、ビデオで撮ってきたので、あとで工夫してみる)

帰りはバスを乗り継いで、都心までもどってきた。1時間半かかったが、出費はしめて6元。途中雑醤麺を食った。不要辣、清淡的。―――なにか物足りない。スーパーに寄って寝酒とつまみを買って宿にもどる。

酒とつまみ:

路易世家白蘭地110ml 4.9元

九塞溝耗牛肉干 50g  5.6元

一風呂浴びて、さて、ブランデーをコップに注ぎ、耗牛をつまむと、とびきりカライ。

パックをよく見ると「麻辣味」。四川入りして以降、すべて「不要辣的!」でとおしてきたのに、最後にとびきりからいツマミを買ってしまった。風呂も浴びたし、いまさらつまみを買いに出るのもおっくなので、ちびちびツマミながらやる。口内がほてって、感覚がなくなる。でも、ツマミに手が出る。結局50g全部食ってしまった。うまかった感が残る。こんなことなら、初めから麻辣の四川料理を敬遠しなければよかった。 あとの祭り。

9日間、オヤッちがう!と思ったこと。やはり同じだ!長江で繋がっているんだからな、と納得したこと、いろいろあり。このメモを頭に、思い出すままに、コメント欄を借りて、ボチボチメモってみる ことにしたい。 z


旅先からのメール

2012年02月02日 | 旅行
 今(現地時間AM6:30)ビエンチャン(ラオスの首都)のレストランでコーヒーを飲んでいます。
フエ(ベトナム)から先のチケットが春節で確保出来なかったので、止むなくバスでビエンチャン経由でタイヘ行くことにしました。
パソコンを持ってきたのですが動かず、iPodでは無理(HPの更新)と思います。
楽し思いと移動の苦難を味わっています。
(中西)

中国南方の旅(尾)

2011年12月04日 | 旅行
年も押し迫り残すところあと僅か。
この一年を振り返えれば反省すべき点ばかりが脳裏を過ぎるが、それはさて置き、今夏中国南方へ一人旅に出た話を。


旅は8月27日から9月15日の20日間、くそ暑い時期に南方への旅行は如何なものかとも考えたが、思い立ったが吉日である。
今回の計画ルートは写真地図の様に、蘇州(江蘇省)から浙江省、江西省、湖南省、広西チワン自治区、広東省、福建省を回る旅。

旅行のテーマは「中国の隣国へ行ってみよう!」である。
・広西チワン自治区南寧市から陸路「ベトナム・ハノイ」
・広東省珠海市から陸路「マカオ」(既に中国の一部だが私は未だ行ったことがない)
・福建省アモイ市から海上を「台湾」

汽車の切符はひとつ手前の都市で購入、切符が入手できたらホテルをネットで予約すると言う按配で順次コマを進めてゆく旅である。
原則、移動は夜間寝台列車を利用しホテル代を浮かせた。

結論から言えば、日本パスポートの威力は絶大で何らトラブル事もなくスムーズな越境が可能だった。

何せ長い旅であり全行程を書き連ねるわけにも行かないので「ハノイ」への移動を写真を交えて書きます。

○広西チワン自治区から陸路「ベトナム・ハノイ」(2011/09/01~09/06)


 長沙(湖南省)から16時間の長距離夜行列車で早朝の南寧(広西チワン族自治区)駅に到着。
到着早々翌日のベトナム・ハノイ行き切符を購入に切符売場へ、聞けばベトナム行きは7時から窓口販売と言う。
駅前で朝食を取り(実に不味い小龍包だ)7時前に窓口へ、既に窓口は開いており私の前にベトナム人の女性が切符を購入中。
彼女は中国語が全くダメな様で係員に携帯電話を渡し中国語が出来る誰かを仲介に切符を購入中、面倒がらずに係員も根気よく対応している。

私の番、紙に書いてハノイ行きの往復切符購入希望を伝える。
「帰りの切符はここでは買えない、ハノイで買え」と言う、ま仕方がないね、向こうで買いましょう。

1等寝台で248元、切符も何かいつもの切符らしくない。

南寧で一泊、翌日南寧18:45発の国際列車T8701次に乗った。


列車には国際列車であることの中国国家エンブレムが付いており、南寧-河内(ハノイ)と書かれている。
車両は国内で使われている一般の一等寝台の型落ちの様な車両で、永く使われている様子である。


乗客はベッド4つの部屋に私を含めて2名、一等寝台の利用客は殆ど居らず1車両に7,8名程しかいない。
同室の中国人のにーちゃん、ビルの浄水設備の仕事でハノイから更に1200km北へ仕事に行く途中らしく、ベトナムは何度も往復しておりベトナム情報を色々と教えてもらった。彼には後に大変お世話になる。
隣の部屋から日本語が聞こえてきた。
挨拶に出向くと、部屋には日本人の旦那さんベトナム人の奥さんのご夫婦と台湾人で日本のクラブで歌手をやっていたと言う元気なおばちゃんが居り、偶然とはいえ日本語が出来る人間が一車両に4名乗り合わせ、ベトナム経験豊富な中国人、日本人、ベトナム人からベトナムが初めての台湾人、日本人(私)がベトナム情報を得る事となった。


22:20中国側国境の駅ピンシャン到着、国境事務官が乗り込んで来、パスポート提出と出国カードを書かされる。
全員荷物を持って列車から下車、ピンシャン駅の待合室で手荷物検査とパスポートの出国スタンプをもらい再度乗車、この出国手続きで約1時間半停車(すごく長い)。
出国手続きに降りてきた乗客は全員で19名、これがここまでの8両の乗客全て、利用率の低さが分かる。
ピンシャンからは約同数のベトナム人が乗車してきたが、合わせても40名足らずである。


ピンシャンを出発し2時間後の0時20分、ベトナム側の入国駅ドンタンに着く。
ここでも1時間ほど停車し入国手続き、同室の中国人にーちゃんが奥の部屋へ連れて行かれ何やら押し問答。
後で聞くと彼は、パスポートを一度無くし再発行しておりそこへイチャモンを付けられたらしい、人民元10元で決着したとのこと、何処の世界も金次第である。


ベトナム時間朝6時近くに最終駅ゼーラム駅に到着。
中国国内の軌道は広軌、ベトナム国内は狭軌、広軌の軌道はこの駅が終点である。
私は帰りの切符を購入したいが出口近くには売り場が全くないし、ネット情報では両替商がやってきて中国元からベトナム・ドンへの両替が出来ると書いてあったが、寄ってくるのはハノイ市内方面への客引きタクシーばかり。
わたしゃベトナム通貨を1ドンも持ってないく銀行も無さそうな田舎駅、バスにもタクシーにも乗れない。
困った所で同室の彼がハノイまでタクシーで行くと言うので同乗を頼むとスンナリOKをくれた・・助かった。
(隣の部屋のグループは別の処へ行くと駅前で別れた)


ハノイ駅はメチャ小さい駅、これがベトナム首都駅かと目を疑うほどである。
タクシーに同乗させて貰った中国人のにーちゃんは、ハノイ駅で降りたとき人民元を渡そうとしたが受け取らず彼は自分のホテルへと向かい別れた、感謝である。
しかし、わたしゃ1ドンも無くホテルも無い。
でも慌てることは無い銀行が有るでしょ、窓口は開いていないがATMが有る。
思惑通り中国の銀聯カードが使える、早速ベトナム・ドンを確保、銀聯カードのネットワークはすごい、お金が有れば問題ない。

寄ってきたバイクのにーちゃんがしつこいので、当りを付けていたホテルまでとバイクの後ろに乗った。
ホテルへ着くと何とシャッターが下り閉まってる。
こりゃマズイな、でもホテルはやたらと多い地区の様で飛び込みで何とかなると踏み、ホアンキエム湖を散策、早朝だが散歩する高齢者が非常に多い、暑いここは早朝の散歩が最適なんだろう。


湖に面したカフェで朝食を取る、アイスコーヒーが旨い。(ベトナム珈琲は旨い)
綺麗な環境のカフェである、欧米人の客ばかりで皆バックパッカー。
アイスコーヒが50,000ドン、パンと卵焼きが45,000ドン、貨幣感覚が変になる。
ここで解った事は、100の位を切り捨て約3分の一すれば概ね人民元の感覚で考えられると言う事。
しかし早くデノミすべきだねこの国の貨幣は。

1時間ほど時間をつぶし閉まっていたホテルの近くGolden Spring Hotelへ飛び込み、宿泊費はUS$30/泊と言う、部屋を見せて貰うと小奇麗で問題なし。
このホテルに2泊することとした。


やたらと街中に国旗が目立つと思ったら、9月2日は「建国記念日」なんだそう、偶然なのかホーチミンさんのお招きなのか、とにかくおめでたい日にハノイに滞在しているようだ。

初めてのこの街の印象その1
 とにかく聞きしに勝るバイクの数、半端じゃない、バイクの大群が街中を何時も大移動している、皆どこへ行くのか?
70年代北京で見た自転車の大群をバイクに置き換えたような按配で、中国とは違った活力に溢れている。
4人乗りバイクは当たり前、しかし事故現場を見たことは無く皆さん運転が上手なんだろう。
またほぼ全員、運転者も同乗者もヘルメットを着用してる、真面目な国民性なのかもしれない。


印象その2
 綺麗な街と汚れた街が同居している感じ。
フランス統治が長かった性だろうかフランス風の綺麗な街並みが多く有るが、一歩外れるとアジアらしく汚れている。
投宿している旧市街地(OLD TOWN)は建物も道路もゴチャゴチャ、散歩に出てもホテルへの帰り道が解らなくなるほどに道が入り組んでいる。


印象その3
 とにかく「カフェ(Cafe)」がやたらに多い街である。
おしゃれなカフェ、露店の様なカフェと至るところにカフェが有り、皆コーヒー・お茶を飲んでいる。これもフランスの影響なのかも、それとも怠け者が多いのか?
私も何度かカフェでコーヒーを飲んだがベトナムコーヒーは味が濃く美味しい。


印象その4
 商店での買い物、商品を投げないし、お釣りを投げないし、外人とみると英語で金額を丁寧に伝えてくれるし、売り子さんに笑顔が有るしで、ダメ・チャイナに比べ好感度がメチャ高い、だけど言葉が通じないんだな~。
ベトナムで会った女の子(ベトナム料理店のHUEちゃん、ゼーラム駅で親切にしてくれたPhamちゃん)、おじさんには優しいのである。


印象その5
 やたらに欧米人が多く、その多くがバックパッカー。
投宿している旧市街地(OLD TOWN)には、パッカー向けの安ホテルが至るところに有り、街中にはリュックを背負った白人が多く目に着く。
ハノイに来られる時は旧市街地(OLD TOWN)での宿泊をお勧めする、ホテルマンンも英語で対応してくれるし値段も安い。

印象その6
 日本料理屋が自分の予想以上に多い。
日本人向けの情報誌が2冊出ており、情報誌に載っているハノイの日本料理は60店ほどもある。
何処の国でも同じだが、日本大使館近くには日本料理屋が集まっている。
昨夜も情報誌を頼りに「寛」と言う日本料理屋に出かけたが、料理長は日本人のYさん、顧客も日本人が多い。
隣り合わせたハノイ国立大学で学ぶ日本の若者二人と楽しい時間を過ごした。
年間留学費用は学費・宿泊費・生活費込みで日本円70~80万円程らしく中国留学と変わらない。
しかしアパート代が高い事と物価上昇が激しく昨年比40%の上昇と嘆いている、この国は政府のコントロールが上手く行ってないのかもしれないな。
ベトナム語は6声あるんだそう、中国語の4声より多い、店の仲居さんにベトナム語を教えてもらったが発音が難しい。
でもこの店高い、写真の料理(生ビール6杯含む)で808,500ドン、ハノイには食べ飲み放題システムは今の処無いようです、やれば当るかも。

印象その7
 物価は中国とほぼ同じか少し高めの印象。


「ホーチミン博物館」界隈を散策、建国記念日の為だろうか「ホーチミン廟」には参観する客の長蛇の列が出来ていた。
美術館、展示されている絵の多くは「ベトナム戦争」をモチーフにした絵が多く、この国にとって先の戦争の意味の大きさが偲ばれる。



日中は暑い。
9月5日 最高32度(最低気温30度)晴れ 昼と夜の気温が変わらない。

こんな所で、長々と失礼。

全員無事に蘇州へ

2010年07月27日 | 旅行
7月27日

昨夜、全員無事に蘇州に戻りました。

ウルムチ9時15分発の南方航空で青海省西寧市を経由し上海浦東空港へ。

空港からバスで蘇州、車中前列に日本観光旅行から帰った蘇州人の家族と話す。
おばあちゃん、おかあさん、蘇州大日本語学科3年のお嬢さんの3人。
おじいちゃんが今年3月に亡くなったとかで、おばあちゃんを元気付ける旅行だったのかもしれない。

団体旅行で参加費用は一人5千元、東京、箱根、京都、大阪を回ったのだと言う。
日本料理はボリュームが少なく口に合わなかったらしいが、皇居、秋葉原、温泉、金閣寺、大阪城などを回って楽しかったようだ。

お土産はキャノンの一眼レフカメラ、パナソニックの電気炊飯器。
旅行中の合言葉は「メイドインチャイナは買わない」だったらしいが日本で日本製を探すのは今や難しいだろう。

こんな事で、おなかを壊した人も居ましたが、全員無事に戻りました。
疲れた~(尾)

7月25日、ウィグル3日目

2010年07月25日 | 旅行
ウィグルに入る。
トルファンからの途中、中国死海を眺める。
塩分が濃く体が浮かぶんだそうで死海と同じらしい。
何でも有る中国である。
タクシーから降り死海を眺めたが寒くて寒くて外に居られない。
灼熱のトルファンから1時間走っただけでこの気温差である。

到着後博物館へ楼蘭の美女に会いに行く、生前は美しかったのだろうが、やはり現生の女性が良い。
その後バザールを見学、下町に有るバザールはウィグル族の世界、全くの異国、ここは漢民族の国ではないことが良くわかる。
女性たちの美しいことといったら無い、悟りを開きかけたがやはり現世へ逆戻り。

昨日は天池観光へ、友さんは鬼の霍乱か体調が悪いと良い不参加。
天池への途中万年雪を頂く天山山脈が美しい。
現地到着したが生憎雲が低く万年雪と天池の美しい風景は拝めない、箱根の芦ノ湖に来たみたいである。

夕刻バザールを散策、下町に有るバザールはウィグル族の世界、全くの異国である。
若い女性たちの美しいことといったら無い。
ケンタッキーでウィグル族の若い女性と話す、彼女たちも美しい。
今年大学を卒業し留学斡旋業社で働いていると言う彼女たち、若い男性たちは地元に仕事が無く地方都市、外国へ出てしまい彼氏を探すのが難しいと言う。
彼女たちも少数民族への差別問題を口にする、根が深い問題のようだ。

昨年のウィグル騒動の影響だろう、街中には武装警察の車両が巡回し睨みを効かせている。

汽車の切符が取れず明日は飛行機で戻ることになった。

7月22日、吐魯番

2010年07月23日 | 旅行
7月21日、吐魯番に入る。
吐魯番盆地はとにかく暑い、43度、ウィグルローカル時間は北京標準時間と2時間の差が有る。
北京時間の21時でもまだ明るく、レストランも19時に開店する。
土地柄これまでの町と異なりウィグル人が主役の町、ここは漢族の中国じゃない。

22日は車で一日観光、火炎山、千仏洞、高昌古城、地下井戸を見学、昼食はぶどう棚が広がる農村家庭で取る。
二人のお孫さんに囲まれたじいちゃんばあちゃんの優しい顔がうれしい。
じいちゃんの言っても我々と年齢差は差ほど無いが、万頭は美味かったがスイカ、ハミ瓜の味は今一、蝿の多いのには閉口した。

むちゃくちゃに暑い吐魯番を後にし明日の午前中ウルムチへ移動する。

7月19日敦煌

2010年07月20日 | 旅行
熱い敦煌、天気予報は38度だが体感は40度以上、水ばかり飲んでいる。
朝ホテル前からバス8元でバッ高窟へ、入場料120元を学割で60元。
カメラ持ち込み禁止で荷物預かり所へ預け入場。
個人行動禁止のため案内嬢の後について回る。
日本語の案内があるがわれわれは国内人チケット(学割)のため日本語案内は利用できず、わけのわからない中国語案内で洞窟を回る。
しかし、まあこんな所にたくさんの穴と仏像をこれほどに多くよくも作ったものである。

昨日の夜行った按摩店のおねえちゃんを呼び出し一緒に夕ご飯を取る、皆元気が出た。
元気が出すぎたか、夜スケベ床屋へもぐりこんだ者が。
中西さんが下痢で食べられない、征露丸を飲んだので良くなればいいが。

21日は特段予定は無い、町をぶらつく事になるだろうが小さな町なので直ぐに周り終えるだろう。

7月17日敦煌に入る

2010年07月19日 | 旅行
蘭州から敦煌へ移動。
初めての2等車で狭く煩く皆寝不足の様子。
敦煌近くになると車窓は一面の大平原、砂だけの世界になる。

到着後、鳴砂山へ観光に、友さんは昼寝で不参加、ビールを飲んで寝てばかりいる。
入場料は120元と高額だが学生割引で60元。
ラクダに乗り鳴砂山往復が80元。

敦煌市は小さくのんびりした田舎町である。
街路樹の路は西方に来たことを感じさせるが日中の暑さには閉口する。
夜9時まで太陽が有る、日の沈むのが遅い。

明日はバッコウ窟へ

車内から

2010年07月16日 | 旅行
7月16日、西安から蘭州へ向かう車内から。
1時間遅れの汽車に乗り蘭州へ向かっています。
乗車からすでに6時間経過、順調に行けばあと一時間で蘭州につくはず。
外の景色は小高い山がずーっと続いている中を走り続けている。
今、定西駅に停車している、皆退屈な時間をすごしているが外の景色は蘇州では見られない。
しかし暇である。

学割効果

2010年07月16日 | 旅行
7月15日、西安2日目。
知り合いのタクシーを貸し切り終日観光。

先ずは空海さんの修行寺青龍寺、無料の日本語案内に同行され細かい説明を受ける。
その後、空海さんグッズをお布施代わりに購入したが、現生の快楽に固執する約一名は浄財に全く興味を示さなかった。

その後、ヘイマヨウ、楊貴妃のお風呂 華清池、始皇帝 地下宮殿(偽物)を回り西安のお遍路は終り。
夜は現代の楊貴妃達のショーを見て西安の夜は更けた。

西安の学割効果は次の通り。
西安城壁、半額20元。青龍寺、半額20元。ヘイマヨウ、25歳以上は学割効かず。華清池、学割効かず。地下宮殿、学割効かず。
2勝3敗。

明日は蘭州へ移動である。

西安1日目

2010年07月15日 | 旅行
7月14日、西安に1時間遅れで全員無事到着。
駅前でご当地名物と電車で同室になった西安人のにーちゃんに聞いた「パオモウ」と言うものを食べたが不味かった。
午後は、西安城壁を自転車で一周、友さんは昼寝で参加せず。
夕食後、マッサージで疲れを癒す。

お遍路

2010年07月12日 | 旅行
7月12日

迷故三界城
悟故十方空
本来無東西
何処有南北

「迷うが故に三界の城、悟るが故に十方空、本来東西無く いずこにか南北有らん」

迷うが故に煩悩に翻弄され三界(欲界、色界、無色界)という城壁に囲まれたような出口のない息苦しさを感じる。
悟れば三界の城壁など存在せずすなわち空(自由で)であり、心が開放されれば世界は違って見えてくる。
物事にあらかじめ決められた意味なぞは無く限界もない。

明日から三界の煩悩に悩むオヤジ4人(友さん、森下さん、中西さん、尾関)が、悟りを開かんがため中国横断往路4066kmの遍路に出る。

13日の夜に蘇州を立ち、先ずは弘法大師 空海和尚が修行をされた西安を訪ねその苦労を偲び、蘭州を訪ね蘭州ラーメンで腹を満たし、敦煌莫高窟千仏洞にひれ伏し悟りを開き、トルファン、ウルムチの街で綺麗なおねーちゃんの誘惑に打ち勝てる精神力を養うと言う16日間に渡る修行の旅である。

各都市のホテルは全てネットで予約済みだが汽車が敦煌までしか確保できていない、敦煌から先の足は現地調達しなければならない、何とかなれば良いが。

遍路の途中経過は友さんのPCから報告したい。(尾関)