蘇州から離れて冬休みを過ごしていると、ふしぎに蘇州が思われてならない。つれづれなるままに、呉の昔に筆を馳せてみる。
越王句践(えつおうこうせん)との戦さの傷がもとで死んだ吴王阖闾(ごおうこうりょ)
の墓は蘇州虎丘(ふちゅう)にある。阖闾の父は寿梦(じゅぼう)の長男诸樊(しょはん)。呉の寿梦元年は周の简王(かんおう)元年(BC585)、孔子生誕(BC551)の34年前。
「史記」では「泰伯(たいはく)から寿梦に至るまで19代」と述べている。泰伯はBC1070年頃(殷いん末)まだ黄河中流の地方豪族だった周(しゅう)の太王(たいおう)の長子だったが、末弟に家督を譲って江南に下り、荊蛮(けいばん)の地で首長におされて、呉の国を建国したと言い伝えられている。したがって、BC1050年、周(しゅう)武王(ぶおう)が殷を滅ぼして周を建国したとほぼ同時期に周の勢力圏外江南の地に泰伯が呉を建国したと言えよう。
その600年後、呉王夫差(ふさ)が臥薪嘗胆して再起した越王句践に破れ、BC472年自害して、呉は越に平定された。その越もBC334年には、楚(そ)に平定された。春秋から戦国へかけて、江南をかけぬけた呉越興亡の物語も、つわものどもが、夢のあと。
蘇州の西、今は無錫の梅村にある泰伯稜には、巨大な泰伯像があり、近所には当時の貴族の墳墓群鸿山遗址(こうざんいせき)とその発掘跡及び出土品を展示した博物館、泰伯以降の呉の歴史パノラマ展示館があるので、関心の向きは、一度足を運ばれては!
越王句践(えつおうこうせん)との戦さの傷がもとで死んだ吴王阖闾(ごおうこうりょ)
の墓は蘇州虎丘(ふちゅう)にある。阖闾の父は寿梦(じゅぼう)の長男诸樊(しょはん)。呉の寿梦元年は周の简王(かんおう)元年(BC585)、孔子生誕(BC551)の34年前。
「史記」では「泰伯(たいはく)から寿梦に至るまで19代」と述べている。泰伯はBC1070年頃(殷いん末)まだ黄河中流の地方豪族だった周(しゅう)の太王(たいおう)の長子だったが、末弟に家督を譲って江南に下り、荊蛮(けいばん)の地で首長におされて、呉の国を建国したと言い伝えられている。したがって、BC1050年、周(しゅう)武王(ぶおう)が殷を滅ぼして周を建国したとほぼ同時期に周の勢力圏外江南の地に泰伯が呉を建国したと言えよう。
その600年後、呉王夫差(ふさ)が臥薪嘗胆して再起した越王句践に破れ、BC472年自害して、呉は越に平定された。その越もBC334年には、楚(そ)に平定された。春秋から戦国へかけて、江南をかけぬけた呉越興亡の物語も、つわものどもが、夢のあと。
蘇州の西、今は無錫の梅村にある泰伯稜には、巨大な泰伯像があり、近所には当時の貴族の墳墓群鸿山遗址(こうざんいせき)とその発掘跡及び出土品を展示した博物館、泰伯以降の呉の歴史パノラマ展示館があるので、関心の向きは、一度足を運ばれては!