蘇州大学「酔話会」

不問過去的事、在中国生活快楽、交換消息

中国江蘇省蘇州市蘇州大学
高嶺者留学生の談話室

想定外

2011年12月30日 | つぶやき
先日、福島原発事故調査・検証委員会(中間報告)が出された。

http://icanps.go.jp/post-1.html

東電・保安院・政府のダメさ加減にはあきれるばかり。
想定外の事態が発生・・・では済まされない物を管理・運営していることの責任感欠如。
こんな連中が原発を管理・運営・危機管理を行っていたかと思うと空恐ろしくなる。

・Ⅶ これまでの調査・検証から判明した問題点の考察と提言

の項だけでも読まれることをお勧めする。

日本の原発は54基、現在定期点検を含め48基が停止中らしい。(TV報道)
現在の状況(安全性の確保未確認)では来年前半には全基停止すると言うが、地元了解無くして再起動は不可。
(尾)

12月例会開催のお知らせ

2011年12月21日 | 酔話会からお知らせ
各位

酔話会12月例会を下記要領で行います。
ご参集行ください。

<会合日時>
・日時:12月23日(金)午後5時半~
・場所:東呉飯店入り口隣のラーメン屋「准揚面館」


不明点、問い合わせは、会長まで電話ください。

以上(事務局)

クリスマス学芸会で芝居をやるよ。(さわ)

2011年12月21日 | 酔話会からお知らせ
 12月23日金曜日午後2時から蘇大本部西門すぐ内側の敬賢堂で恒例の「留学生クリスマス晩会」開催。

ぼくたちの班から誰も出ないので、急遽ぼくが飛び入りでなにかやることになった。演題は「楓橋夜泊」、寒山寺を詠った張継の唐詩にまつわる故事と伊藤博文の銘入りの鐘が寒山寺にきた由来を張継になったり、博文になったりしながら一人芝居でやってみようというこんたん。

故事の背景は下記のとおりかいてみたが、せりふは即興で。うまくいったらごかっさい。
十分くらいの芝居だけど、おひまだったら、来てみてね。
席は五百席くらいあるので、あまりがらがらだと張り合いないし、誰か見てくれないと呑み会のとき話してみても興が伝わらない。
できればだれか舞台に上がって後ろで掛け軸を支えてくれたり、ビデオで撮ってくれるとなおありがあたい。よろしく。

访寒山寺的故事
那是我第一次来到苏州的事了。我早就知道苏州城外有闻名的名刹寒山寺。
有一天我带着摄影机去参观了寒山寺。下面是那时听到的故事。
寒山寺有一千五百年的历史。一千两百年前唐代的诗人张继来到苏州在枫桥边停泊的船上过了一夜。他当时科举考试落榜了,怀着悲伤的心情,到半夜也睡不好觉。忽然咚咚的钟声传到客船上,他有了灵感,就作诗了;月落乌啼霜满天 江风渔火对愁眠 姑苏城外寒山寺 夜半钟声到客船。这就是脍炙人口的唐诗;枫桥夜泊。后来好多名人把这首诗写而刻石。尤其清代末的书法家俞樾写的诗碑是苏州市重点文物的。我到手了一幅这首诗碑的拓本。
还有另外一个故事。甲午战争时日本士兵抢走了寒山寺钟楼的吊钟。后来日本的首相伊藤博文听到这件事。他在日本的各个角落寻找这口钟,都找不到。他只好开始募集捐款,过了一段时间汇集了一大笔钱。因为日本人都惦念“夜半钟声”里描写的寒山寺的吊钟。他用这笔钱铸造乳头吊钟就把它还给寒山寺了。这是一百多年前的事。这口钟现在挂在寒山寺大雄宝殿里,表面刻着伊藤博文和铸造钟的工匠的名字。伊藤博文是我的同乡人,也是我国第一代首相。想到他们对寒山寺的友好情谊,我回想往时感慨颇深。
  
 ちなみに、「風橋夜泊」の日本語は、
月落ち鳥(からす)啼いて霜天に満つ 江村の漁火愁眠に対す 
故蘇城外寒山寺 夜半の鐘声客船(かくせん)に至る
  英語は
The moon is coming down in the midst of the crow calling and the frost covering all over the sky.
Looking at the fishing fires across two bridges of Jang & Feng, I’m having a lonely sleepless night.
Outside of Suzhou, stands the temple by the name of “Han Shan Si”.
I hear the temple bell ringing all the way to my boat at midnight.

ABOUT CONNECTING THE DOTS.

2011年12月13日 | つぶやき
 2011年は東北大震災により多くの尊い命が奪われた悲しい年でした。
幸いにしてその難を逃れた方々も、親子兄弟を亡くされ自宅を失い仮の住まいで寒い冬を迎えて居られ、そのご苦労はいかばかりかと察するに余りあります。

難を逃れ生かされた子供達・青年達には、何としても未来に希望を持ち続け強く生き抜いて欲しいと願わない訳にはいきません。

私が末席を汚すITの世界でも今年一人の巨星がその天命を全うしました。
 「スティーブ・ジョブズ」
Appleコンピュータ創業者の一人、パーソナルコンピュータMacintosh発明者でありAppleコンピュータの再建者です。

彼が2005年スタンフォード大学の卒業式で卒業生に贈った有名なスピーチ(翻訳版)を転載させて頂きます。
既に読まれた方も多いかと存じますが、未来に羽ばたく若者達に向けた素晴らしいスピーチです。

そのスピーチは
「ありがとう。今日は世界で最も優秀と言われる大学の卒業式に同席できて光栄です。実は私は大学を出ていないので、これが私にとって最も大学の卒業に近い経験になります。今日は私の人生から3つのストーリーを紹介します。それだけです。大したことはありません。たった3つです。」で始まります。

スピーチは長くなりますので、4回に分けて転載します。

--------------------------------------------(以下転載)
ABOUT CONNECTING THE DOTS.

最初は、点と点をつなぐ話です。

私はリード大学を6ヶ月で退学しましたが、本当に辞めるまで18ヶ月ほど大学に居残って授業を聴講していました。ではなぜ辞めることになったか?

その理由は私が生まれる前に遡ります。私の生みの母親は若い未婚の大学院生でしたので、彼女は私を養子に出すことを決めていたのです。

彼女は育ての親は大学 を出ているべきだと強く感じていたため、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることになっていました。
ところが、私が生まれる直前に、本当に欲しいのは女の子だと。

そういういきさつで、養子縁組を待っていた今の両親は夜中に「予想外に男の子が生まれたので欲しいですか?」という電話を受け たのです。

彼らは「もちろん」と答えました。
しかし、生みの母親も後で知ったことですが、母親は大学を出ていない、父親は高校も出ていませんでした。
そこ で、生みの母親は養子縁組の書類へのサインを拒みましたが、何ヶ月か経って、今の両親が将来私を大学に行かせると約束してくれたので、気持ちが整理できたようです。

これが私の人生の出発点になったのです。

17年後、実際に大学に入りましたが、私はあまり深く考えずにスタンフォード並みに 学費の高いカレッジを選んでしまったので、労働者階級の親の収入のほどんどは大学の学費に使われていました。

半年もすると、私はそこに何の価値も見出せな くなっていたのです。

人生で何がやりたいのか私自身に考えがなかったですし、それを見つける手助けを大学がどうしてくれるか思いつきませんでした。

なのに 自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を使い果たしている。

だから退学を決めたのです。

それが全てうまく行く道だと信じて。もちろん当時はかなり怖 かったです。

ただ、いま振り返ると、これが人生で最良の決断だったのです。というのも、退学した時点で興味ない必修科目は受けなくてもよく、自分にとって 面白そうな授業に集中できたからです。

寮には自分の部屋もなく、夢を見れる状態ではありませんでした。
夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、食費のためにコーラ瓶を店に返して5セント集めしたり、日曜夜はハーレクリシュナ寺院のご飯を食べに7マイル歩きました。

これが私の楽し みでした。
こうした自分の興味と直感に従うだけの多くの体験があとになって値段がつけられない価値に変わったのです。

ひとつ具体的な話をしてみましょう。

リード大学には、当時おそらく国内でも最高のカリグラフィ教育がありました。
見渡せばキャンパスにはポスターから戸棚に貼るラベ ルまで美しい手書きのカリグラフィばかりだったのです。

私は退学したのですから普通の授業はとる必要もないのでカリグラフィの授業を受けて手法を学ぶこと にしたのです。
私はそこでセリフやサンセリフの書体について習ったり文字と文字のスペースを変えていく概念についてつまり異なる文字のコンビネーション手 法など素晴らしいフォントの作り方を学問として学びました。

フォントは、美しく、歴史的にも、芸術的にも、科学で把握できないほどの緻密さでしたのでそれは私にとって魅力的な発見となったのです。

フォントは、人生の役立つという期待すらありませんでした。
しかし、それから10年経って 最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する時にその知識が役に立ち、マックの設計に組み込むことにしました。

こうして初めて美しいフォントを持つコ ンピュータが誕生したのです。
もし私が大学であのコースを寄り道していなかったら、マックには複数の書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、 ウィンドウズはマックの単なるマネに過ぎないのでこうしたパソコンがいま世界に存在しないかもしれません。

もし私が大学を退学していなかったら、あのカリ グラフィの授業に寄り道することはなかったしパソコンには素晴らしいフォント機能がないかもしれない。
もちろん大学にいた頃の私には、未来を見据えて点と 点をつなげることはできませんでした。

しかし10年後に振り返えると、とてもハッキリ見えることなんです。

もう一度言います。

未来に先回りして点と点をつなげることはできない。
君たちにできるのは過去を振り返ってつなげることだけなんだ。
だから点と点がいつか何らかのかたちでつながると信じなければならない。
自分の根性、運命、人生、カルマ、何でもいいから、とにかく信じるのです。
歩む道のどこかで点と点がつながると信じれば、自信を持って思うままに生きることができます。
たとえ人と違う道を歩んでも、信じることが全てを変えてくれるのです。



※スティーブ・ジョブズ
1955年2月24日 - 2011年10月5日膵臓癌により死亡(享年56歳)

(尾)

ABOUT LOVE AND LOSS.

2011年12月13日 | つぶやき



ABOUT LOVE AND LOSS.

2つ目は、愛と敗北についての話です。

自分が何をしたいのか人生の早い段階で見つけることができたことは幸運でした。

実家の車庫でウォズとアップルを創業したのは、私が20歳の時でした。
私たちは仕事に没頭し、10年間でアップルはたった2人の会社から4千人以上の従業員を抱える20億ドル企業に成長しました。

私たちは最高傑作であるマッキントッシュを発表しましたが、そのたった1年後、30歳になってすぐに、私は会社をクビになってしまいました。

自分が始めた会社を首になるなんて不思議ですが、こういうことなんです。

アップルの成長にともなって、私は一緒に経営できる有能な人間を雇い最初の1年はうまくいっていました。
しかし、やがて将来ビジョンについて意見が分かれ、仲たがいに終わったのです。

取締役会は彼に味方し、私は30歳にして会社を去りました。

まさに社会的に追放された感じでした。私の人生のすべてを注ぎこむものが消え去ったわけで、それは心をズタズタにされた状態になりました。

数ヶ月は本当にどうしたらいいのか分かりませんでした。
自分が前世代の起業家の実績に傷をつけてしまい、手渡されたリレーのバトンを落としたように感じました。

私はデイヴィッド・パッ カードとボブ・ノイスに会いひどい状態にしてしまったことをお詫びしようとしました。
まさに社会的脱落者となりシリコンヴァレーから逃げ出そうと考えたほどです。

しかし自分がやってきたことをまだ愛していることに少しづつ気づきました。

アップルの退任劇があっても私の気持ちは全く変わらなかったのです。

私は会社で否定されても、私はまだ好きだったのです。
だからもう一度やり直すことに決めたのです。

その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは、自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。
成功者の重圧が消え、再び初心者の気軽さが戻ってきたのです。

あらゆるものに確信はもてなくなりましたが。おかげで、私の人生で最も創造的な時期を迎えることができたのです。

その後の5年間に、私はネクストという会社とピクサーという会社を設立しましたし、妻となった素敵な女性と恋に落ちました。

ピクサーは世界初のコンピュータによるアニメーション映画「トイ・ストーリー」を創りました。
いま世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。

思いもしなかったのですが、ネクストがアップルに買収され私はアップルに復帰することになり、ネクストで開発した技術は現在アップル再生の中核的な役割を果たしています。
さらには、ロレーヌと私は素晴らしい家庭を一緒に築いています。

ここで確かなのは私がアップルをクビになっていなかったら、こうした事は何も起こらなかったということです。

それは大変苦い薬でしたが、患者には必要だったのでしょう。

人生には頭をレンガで殴られる時があります。しかし信念を失わないこと。

私がここまで続けてこれたのは、自分がやってきたことを愛しているからということに他なりません。

 君たちも自分が好きなことを見つけなければなりません。
それは仕事でも恋愛でも同じこと。

これから仕事が人生の大きな割合を占めるのだから、本当に満足を得たいのであれば進む道はただひとつ、それは自分が素晴らしいと信じる仕事をやること。

さらに素晴らしい仕事をしたければ、好きなことを仕事にすること。

もし見つからないなら探し続けること。落ち着かないこと。

心の問題と同じで、見つかったときに分かるものですし、愛する仕事というのは、素晴らしい人間関係と同じで、年を重ねるごとに自分を高めてくれるものです。

だから探し続けること。落ち着いてはいけない。




ABOUT DEATH.

2011年12月13日 | つぶやき



ABOUT DEATH.


3つ目は、死についての話です。

私 は17歳の時、こんな感じの言葉を本で読みました。

「毎日を人生最後の日だと思って生きてみなさい。そうすればいつかあなたが正しいとわかるはずです。」

これには強烈な印象を受けました。
それから33年間毎朝私は鏡に映る自分に問いかけてきました。

「もし今日が自分の人生最後の日だしたら今日やる予定のことは私は本当にやりたいことだろうか?」それに対する答えが「ノー」の日が何日も続くと私は「何かを変える必要がある」と自覚するわけです。

自分がもうすぐ死ぬ状況を想像することは最も大切な方法です。

私は人生で大きな決断をするときに随分と助けられてきました。
なぜなら、他人からの期待、自分のプライド、失敗への恐れなど、ほとんど全てのものは…死に直面すれば吹き飛んでしまう程度のもので、そこに残るものだけが本当に大切なことなのです。

自分もいつかは死ぬと思っていれば、何か失うのではかないかと危惧する必要はなくなるので、私の知る限りの最善策です。

失うものは何もない。思うままに生きてはいけない理由はないのです。

今から1年ほど前、私は癌と診断されました。

朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。
私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。医師たちは私に、これはほぼ確実に治療ができない種類の癌であり、余命は3ヶ月から6ヶ月と言いました。
そして家に帰ってやるべきことを済ませるよう助言しました。

これは医師の世界では「死」を意味する言葉です。それは、子供たちに伝えた10年分のことを数カ月で済ませておけ、という意味です。
それは、家族が心安らかに暮らせるよう全て引継ぎをしておけ、という意味です。
それは、さよならを告げる、という意味です。

私はその診断書を一日抱えて過ごしました。
そしてその日の夕方に生体検査を受けました。喉から内視鏡を入れ胃から腸に通してすい臓に針を刺して腫瘍の細胞を採取しました。
私は鎮静状態でしたので、妻の話によると医師が顕微鏡で細胞を覗くと泣き出したそうです。というのは、すい臓ガンとしては珍しく手術で治せるタイプだと判明したからなんです。

こうして手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

これは私がもっとも死に近づいた瞬間で、この先何10年かは、これ以上近い経験がないことを願います。こうした経験をしたこともあり、死というのが有用だが単に純粋に知的な概念だった頃よりも、私は多少は確信も持って言えます。

誰も死にたいと思っている人はいません。
天国に行きたくても、そこに行くために死にたい人はいません。

それでいて、死は誰もが向かう終着点なのです。
かつて死を逃れられた人はいない。

それはそうあるべきだから。なぜなら「死」は「生」による唯一で最高の発明品だから。

「死」は「生」のチェンジエージェントだから。

つまり古いものが消え去り、新しいものに道を開ける働きです。
いまの時点で、新しいものとは、君たちのことです。

でもいつかは、君たちもだんだんと古くなり、消え去るのです。
あまりにドラマチックな表現なのですが、それが真実なのです。

君たちが持つ時間は限られている。
人の人生に自分の時間を費やすことはありません。

誰かが考えた結果に従って生きる必要もないのです。
自分の内なる声が雑音に打ち消されないことです。

そして、最も重要なことは自分自身の心と直感に素直に従い、勇気を持って行動することです。

心や直感というのは、君たちが本当に望んでいる姿を知っているのです。

だから、それ以外のことは、全て二の次でも構わないのです。


STAY HUNGRY, STAY FOOLISH.

2011年12月13日 | つぶやき



STAY HUNGRY, STAY FOOLISH.

私が若い頃 "The Whole Earth Catalogue 全地球カタログ" というすごい出版物があって、私と同じ世代ではバイブルのように扱われていました。

それはステュアート・ブランドという人が、ここからそれほど遠くないメンローパークで制作したもので、彼の詩的なタッチで彩られていました。

1960年代の終わり頃はパソコンもDTPもない時代ですから、全てタイプライターとハサミとポラロイドカメラで作られていました。

それはまるでグーグルのペーパーバック版のようなもので、グーグルが35年遡って登場したかのような理想的な本で、すごいツールと壮大な概念に溢れかえっていました。

スチュアートと彼のチームは ”The Whole Earth Catalogue” を何度か発行しましたが、ひと通りの内容を網羅した時点で最終号を出しました。

それは1970年代半ばで、私がちょうど君たちの年代だった頃です。

最終号の裏表紙は、朝早い田舎道の写真だったのですが、それはヒッチハイクの経験があればどこか見たことある光景でした。

写真の下には "Stay hungry, Stay foolish." という言葉が書かれていたのです。

Stay hungry, Stay foolish.

それが、発行者の最後の言葉だったのです。

それ以来、私は常に自分自身そうありたいと願ってきました。

そしていま、卒業して新しい人生を踏み出す君たちに、同じことを願います。


Stay hungry, Stay foolish. ハングリーであれ、バカであれ。

ご清聴ありがとうございました。

もし今なれるとしたら、何才に?なぜ?(さわ)

2011年12月11日 | つぶやき
 蘇大外語学院留学予備班の作文の宿題、三題中一つ選んでエッセイを書け。なかに、

If you could live in some age other than your own, which would it be and what would you do?
(今あなたが勝手に選べるなら、なりたい年令は何才?何をする?)という出題があった。
どうも、ぼく向けに先生がしこんだにおいがするので、一応これを書いてヨイショすることにした。
さて、どうゆうぐあいにまとめるか。とりあえず、勝手に年令を選べるなら18才。
18才の若者にこれからの競争社会を勝ち抜いていくために、今の時点で何をやっておくのがいいか、サジェッションするとどうなるか、という角度で考えてみた。 諸兄なら、18才の若者に何をやっとけとおっしゃるか?僕の場合、要旨以下の通り。(つぶやき;
英語にするのに骨がおれそう)
<I’m Eighteen>
今、勝手に年令を選べるなら、18才。4年かけて世渡りのスキルを仕込む。何をするか?大学で英語を勉強する。なぜか?

 ものの本によると、地球人口70億人中3.8億人の母語が英語、2.5億人の第二母語が英語、12.3億人が英語を勉強している。33.6億人が英語とかかっわって生きている。世界のTV番組の75%、E-mailの80%、インターネットの85%、インターネットアドレスの100%に英語が使われている。40~50年後の地球人口の50%が英語を話す。地球の6000語の言語中21世紀末には90%が消滅する。このとき、英語の主導的地位はますます向上している。中国では約3億人が英語を勉強している。英国と米国の人口の総和に匹敵する。こういう予測をたてれば、やはり最優先課目は英語でしょう。将来これを使いこなせないと置いていかれる。情報をとる、発信する、商売する、契約する、スピーチする、英語を媒体としてのコミュニケーションが全体量の大部分を占める。また、英語は世渡りに欠かせないツール。これが使いこなせれば、多くの競争で優位に立てる。(かげの声;ここまでは英語の先生ヨイショがみえみえ。あとのくだりは付けたし、でもここからが本人のホンネ)

 さて、次のツールは何か?コンピューター。インターネット社会でコンピューターがフルに使いこなせれば多くの競争で優位に立てる。





 次は、金融知識。グローバルにヘッジファンドがかけめぐる世の中。人の世を動かしているのはかねであるとしっかり認識して、その仕組みに精通し、在学中も利殖や投資を手がけるなど経験と実利の二兎を追う。
以上3つを十分体得すれば、卒業後特定企業に労働者としてべったり身売りしなくても、進退の自由を確保しつつ、一応食うには困らない生活を営めるだろう。ただし、一度破産してしまうと、穴に落ちたヤギといっしょで、這い上がれない。浮き沈みは人の世の常だが、ゼロからでなく這い上がれるもとでになる資金だけは最悪確保しておくよう心がけたい。
かねの面では、一応のめどがついても、豊かな人生をおくるには、まだ欠かせないものがある。人は群れの中でくらす。群れの中でどのような位置取りをするかは、個人の性格にもよるが、少なくとも自己発信ができなくては、楽しくはない。いくら英語が話せても、話す中身が空っぽでは、自他ともに楽しめない。では中身のある話をするには、今何をすべきか。多くのことを好奇心をもってながめ、自分としての考えを整理してたくわえ、時にそれを話してみる練習を繰り返す。弁論を通じて合意をとりつけ、ひとをたばねていくテクニックは身に付けておきたい。時には、ひとと妥協しながら、時には討論しながら、アイディアをまとめていくのは楽しい作業である。食事や酒席は最も楽しい語らいの場である。

 会話意外でもひととの付き合いは楽しい。そのためには、ちょっとしたスキルの習得が欠かせない。好みにもよるが、ダンス、ギター、手品などは手ごろ。なぜ手品?ニューヨークで財布ごとスラれたときどうする。とりあえず、地下鉄代くらいは要る。手品がうまければ、路上で稼げる。芸は身をたすける。スポーツでもゲームでも、相手と勝負するもの、あるいは単独でやるものは、群れにとけこむ主旨になじまない。

友人はつくる能力を身につけておけば、自然にできる。あえて、義理人情のからむ一生の友をつくらなくても、その時の状況に応じて楽しみを分かち合えればいい。苦しみは、自分で克服するもので、分担にはなじまない。
アルバイトも世の中体感の有効な手段。その観点で体験したい。実体験が認識の新しい境地を開いてくれる。しかし、学費稼ぎのためなら、別の頭を働かせたい。奨学金、借金、スポンサー情報などを手広く入手し、金融の知識を生かして資金確保したい。不足すれば、生活費を切り詰めてもかまわない。何しろ、今はスキル蓄積のステップなのだから。

18才の今は、将来何になるかではなく、世の中をどう渡っていってもつぶしがきくスキルをせっせと身につけたい。これが、18才の若者にとって一番大事だと思う。
(不安;こんなことをぐだぐだ書いて、青雲の志高いクラスの若者が納得してくれるかなあ?)

(逃げ口上)
 ぼくが筆をとると、つい「いかに世のため人のためになるか」ではなく、「いかに自分の人生を楽しむか」に軸足が向いてしまう。与謝野晶子も「みだれ髪」で詠んでいる。
「やはらかき乙女の肌に触れもせで、悲しからずや道を説く君」。ぼくもせいぜい君子にあらず、小人であることをよしとしよう。
 宿題の作文テーマに悪乗りして、思いつくままに書きつらねてしまったが、さて、貴兄ならどんなアドバイスを?ともかくも、おしまいまでお付きあいいただき、謝謝。

2012年節假日安排公布

2011年12月06日 | 酔話会からお知らせ
2012年节假日安排公布 中秋国庆放假8天

2011年12月06日10:48 新华网 我要参与(4557)
国务院办公厅关于2012年
部分节假日安排的通知
国办发明电〔2011〕45号
各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:
根据国务院《关于修改〈全国年节及纪念日放假办法〉的决定》,为便于各地区、各部门及早合理安排节假日旅游、交通运输、生产经营等有关工作,经国务院批准,现将2012年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:
2012年1月1日至3日放假调休,共3天。2011年12月31日(星期六)上班。

二、春节:
1月22日至28日放假调休,共7天。1月21日(星期六)、1月29日(星期日)上班。

三、清明节:
4月2日至4日放假调休,共3天。3月31日(星期六)、4月1日(星期日)上班。

四、劳动节:
4月29日至5月1日放假调休,共3天。4月28日(星期六)上班。

五、端午节:
6月22日至24日放假公休,共3天。

六、尾关生日节:
7月27日,前后共3天放假。

七、中秋节、国庆节:
9月30日至10月7日放假调休,共8天。9月29日(星期六)上班。

节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫等工作,遇有重大突发事件发生,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。
国务院办公厅
二〇一一年十二月五日
(中国政府网)

cn.yahoo.comより転載(事務局)

君は、幸せかい?(さわ)

2011年12月06日 | つぶやき
もうひとつ投稿します。
そんな顔ししないで、チョットつきあってよ。
例によって、先ず最近のニュースから。 そして、おしまいに私見。

 12月5日時事通信配信ニュース;「幸福度指標」で最終案=130項目、有効性検討へ―内閣府
 内閣府の有識者会議は5日、国内総生産(GDP)で測れない豊かさを表す新たな「幸福度指標」に関する最終報告をまとめた。
経済社会状況、心身の健康、家族や地域社会との関係性などの観点から、8月に公表した原案より多い約130の評価項目を提案した。
来年から試験的にデータを集め、評価の有効性を検討する。

自分を幸せだと感じる度合いに関する意識調査のほか、経済社会状況については仕事や住宅の満足度など、心身の健康では自殺者数などの評価項目を設定。
自然環境の持続可能性に関する項目も挙げた。
全項目を統合した指標は算出せず、各項目の良しあしから社会状況を診断、政策運営に生かす考えだ。
政府は昨年閣議決定した新成長戦略で、幸福度指標を作成する方針を掲げた。

 先に国王夫妻が来日したブータンは「国民総幸福量(GNH)」というユニークな指標に沿って政策を行う国として知られており、国際機関や各国政府も指標開発を進めている。
来年秋にはインドで経済協力開発機構(OECD)などの主催により、各地の研究報告や意見交換を行う会合が予定されている。

(チョット私見)
ブータンは僕も3週間住んだが、現代文明にドップリ漬かったぼくには、住み続けるのは無理。
知らぬが華で、文明の味を知ってしまったら、かの地の幸福を捨てても、キャバクラにもどりたくなる。
これぞ、俗人のさが。

10月12日パリ時事;日本の幸せは中ぐらい?=幸福度指標で報告書-OECD
 経済協力開発機構(OECD)は11月12日、国内総生産(GDP)などマクロ経済指標だけでは測定できない「幸福度」に関する報告書を公表した。
日本は寿命や治安などで高評価だったものの、多くの項目で中程度の順位に位置付けられ、平均値ではOECD加盟34カ国中19位だった。

報告書では、所得や雇用など「物的生活条件」と健康や安全など「生活の質」の両分野で計22指標を選定。
測定に当たっては施策の成果を重視し、客観指標だけでなく生活への満足度など主観的な側面も考慮に入れた。

10月31日;豊かさの指標に「幸福度」=来年の「リオ+20」へ提案-政府
 政府は10月31日、来年6月にブラジル・リオデジャネイロで開かれる「国連持続可能な開発会議(リオ+20)」で採択される成果文書に向けた提案を発表した。
環境保全と両立した経済成長を目指し、先進国だけでなく、中国やインドといった新興国や、民間企業などもそれぞれ能力に応じた責任を果たす必要があると指摘。
国内総生産(GDP)とは異なる豊かさの指標として、心身の健康などに視点を当てた「幸福度」を挙げた。

 1992年に当地であった「地球サミット」から20年となるのを機に開かれる同会議では、世界の首脳級らが集まり今後10年の経済や社会、環境の在り方を話し合う。

ここから私見;
 幸せ? かなり主観的な概念。
でも、セッティングのしかた次第。ひとりで幸せ、家庭単位で幸せ、地域社会で幸せ、国規模で幸せ、グローバルに幸せ。
昔、渋沢龍彦の「幸福の哲学」という小冊子を読んで共感したことがあるが、やつは肉体的満足を徹底追及するスタンスで幸福論を書いていた。
旨いものを食って、いい酒を呑んで、いい女を抱いて、贅沢して、それしかないって。早死にしたが、長生きしてるぼくは、幸せの見方が少し変わってきた。
そう脱俗したわけではないが、いい仲間がいて、いい話ができて、そして、話をさかなに、やっぱりうまい酒か。

 いい話ができるには、好奇心の持続と情報の脳へのインプットが要る。次の呑み会をターゲットに話題を収集し、周辺情報をインプットするのは楽しみ。
それで、毎日たいくつしない。
かわいい子がいても、話題がつづかないのでは興ざめ。やはり、人は知的動物、いつも自分の脳をクリエイティブにしておきたい。

実は、小生いま、毎日午後、蘇大外語学院留学準備班に上班している。
同学はみな18~19歳。無理もないが、会話練習で自分のまともな考えがしゃべれない。
英語の語彙は勉強しているのだが、自分の考えをまとめきれない。

そこで、老同学のぼくは、みんなに言う。
「目の前のことに好奇心をもって、自分の考えを整理しておきなさい」。
英語で話すか、中国語で話すか、どっちでもいい。今19歳の君たちが、あと50年ひととかかわって生きる時、自分の考えを持って、それを話すことができる人とできない人では、生きてる価値がえらい違うよ、と。

老子は、「犬の声が聞こえても隣の村へ行かず」と、ひとは近隣社会からはみださず、身のほどをわきまえて、おだやかにくらすことを、理想とした。
「吾唯足知(*2)」の境地で禅に通じる。
しかし、現代の情報化社会では、「見ざる、聞かざる、言わざる」は、逆にストレスを増産する。
やはり、「見て、聞いて、言う」ほうが、スッキリするだろう。

さて、「幸せ」、心身壮健、言いたいことを言い合える仲間、つきぬ好奇心、つきぬ話題、そしてうまい酒。
渋沢龍彦の世界にほぼもどってしまった感あり。

諸兄、また、呑みましょう。

<事務局追記>
(*1)澁澤 龍彦(しぶさわ たつひこ 1928年(昭和3年)5月8日 - 1987年(昭和62年)8月5日)は、日本の小説家、仏文学者、評論家。
別名のペンネームに澁川龍兒、蘭京太郎、Tasso S.などがある。
(*2)吾唯足知;京都・竜安寺にある蹲(つくばい)に刻まれている言葉。際限ない欲望に溺れることなく、現在の状況を善しとして生きる大切さを説いたもの。

中国南方の旅(尾)

2011年12月04日 | 旅行
年も押し迫り残すところあと僅か。
この一年を振り返えれば反省すべき点ばかりが脳裏を過ぎるが、それはさて置き、今夏中国南方へ一人旅に出た話を。


旅は8月27日から9月15日の20日間、くそ暑い時期に南方への旅行は如何なものかとも考えたが、思い立ったが吉日である。
今回の計画ルートは写真地図の様に、蘇州(江蘇省)から浙江省、江西省、湖南省、広西チワン自治区、広東省、福建省を回る旅。

旅行のテーマは「中国の隣国へ行ってみよう!」である。
・広西チワン自治区南寧市から陸路「ベトナム・ハノイ」
・広東省珠海市から陸路「マカオ」(既に中国の一部だが私は未だ行ったことがない)
・福建省アモイ市から海上を「台湾」

汽車の切符はひとつ手前の都市で購入、切符が入手できたらホテルをネットで予約すると言う按配で順次コマを進めてゆく旅である。
原則、移動は夜間寝台列車を利用しホテル代を浮かせた。

結論から言えば、日本パスポートの威力は絶大で何らトラブル事もなくスムーズな越境が可能だった。

何せ長い旅であり全行程を書き連ねるわけにも行かないので「ハノイ」への移動を写真を交えて書きます。

○広西チワン自治区から陸路「ベトナム・ハノイ」(2011/09/01~09/06)


 長沙(湖南省)から16時間の長距離夜行列車で早朝の南寧(広西チワン族自治区)駅に到着。
到着早々翌日のベトナム・ハノイ行き切符を購入に切符売場へ、聞けばベトナム行きは7時から窓口販売と言う。
駅前で朝食を取り(実に不味い小龍包だ)7時前に窓口へ、既に窓口は開いており私の前にベトナム人の女性が切符を購入中。
彼女は中国語が全くダメな様で係員に携帯電話を渡し中国語が出来る誰かを仲介に切符を購入中、面倒がらずに係員も根気よく対応している。

私の番、紙に書いてハノイ行きの往復切符購入希望を伝える。
「帰りの切符はここでは買えない、ハノイで買え」と言う、ま仕方がないね、向こうで買いましょう。

1等寝台で248元、切符も何かいつもの切符らしくない。

南寧で一泊、翌日南寧18:45発の国際列車T8701次に乗った。


列車には国際列車であることの中国国家エンブレムが付いており、南寧-河内(ハノイ)と書かれている。
車両は国内で使われている一般の一等寝台の型落ちの様な車両で、永く使われている様子である。


乗客はベッド4つの部屋に私を含めて2名、一等寝台の利用客は殆ど居らず1車両に7,8名程しかいない。
同室の中国人のにーちゃん、ビルの浄水設備の仕事でハノイから更に1200km北へ仕事に行く途中らしく、ベトナムは何度も往復しておりベトナム情報を色々と教えてもらった。彼には後に大変お世話になる。
隣の部屋から日本語が聞こえてきた。
挨拶に出向くと、部屋には日本人の旦那さんベトナム人の奥さんのご夫婦と台湾人で日本のクラブで歌手をやっていたと言う元気なおばちゃんが居り、偶然とはいえ日本語が出来る人間が一車両に4名乗り合わせ、ベトナム経験豊富な中国人、日本人、ベトナム人からベトナムが初めての台湾人、日本人(私)がベトナム情報を得る事となった。


22:20中国側国境の駅ピンシャン到着、国境事務官が乗り込んで来、パスポート提出と出国カードを書かされる。
全員荷物を持って列車から下車、ピンシャン駅の待合室で手荷物検査とパスポートの出国スタンプをもらい再度乗車、この出国手続きで約1時間半停車(すごく長い)。
出国手続きに降りてきた乗客は全員で19名、これがここまでの8両の乗客全て、利用率の低さが分かる。
ピンシャンからは約同数のベトナム人が乗車してきたが、合わせても40名足らずである。


ピンシャンを出発し2時間後の0時20分、ベトナム側の入国駅ドンタンに着く。
ここでも1時間ほど停車し入国手続き、同室の中国人にーちゃんが奥の部屋へ連れて行かれ何やら押し問答。
後で聞くと彼は、パスポートを一度無くし再発行しておりそこへイチャモンを付けられたらしい、人民元10元で決着したとのこと、何処の世界も金次第である。


ベトナム時間朝6時近くに最終駅ゼーラム駅に到着。
中国国内の軌道は広軌、ベトナム国内は狭軌、広軌の軌道はこの駅が終点である。
私は帰りの切符を購入したいが出口近くには売り場が全くないし、ネット情報では両替商がやってきて中国元からベトナム・ドンへの両替が出来ると書いてあったが、寄ってくるのはハノイ市内方面への客引きタクシーばかり。
わたしゃベトナム通貨を1ドンも持ってないく銀行も無さそうな田舎駅、バスにもタクシーにも乗れない。
困った所で同室の彼がハノイまでタクシーで行くと言うので同乗を頼むとスンナリOKをくれた・・助かった。
(隣の部屋のグループは別の処へ行くと駅前で別れた)


ハノイ駅はメチャ小さい駅、これがベトナム首都駅かと目を疑うほどである。
タクシーに同乗させて貰った中国人のにーちゃんは、ハノイ駅で降りたとき人民元を渡そうとしたが受け取らず彼は自分のホテルへと向かい別れた、感謝である。
しかし、わたしゃ1ドンも無くホテルも無い。
でも慌てることは無い銀行が有るでしょ、窓口は開いていないがATMが有る。
思惑通り中国の銀聯カードが使える、早速ベトナム・ドンを確保、銀聯カードのネットワークはすごい、お金が有れば問題ない。

寄ってきたバイクのにーちゃんがしつこいので、当りを付けていたホテルまでとバイクの後ろに乗った。
ホテルへ着くと何とシャッターが下り閉まってる。
こりゃマズイな、でもホテルはやたらと多い地区の様で飛び込みで何とかなると踏み、ホアンキエム湖を散策、早朝だが散歩する高齢者が非常に多い、暑いここは早朝の散歩が最適なんだろう。


湖に面したカフェで朝食を取る、アイスコーヒーが旨い。(ベトナム珈琲は旨い)
綺麗な環境のカフェである、欧米人の客ばかりで皆バックパッカー。
アイスコーヒが50,000ドン、パンと卵焼きが45,000ドン、貨幣感覚が変になる。
ここで解った事は、100の位を切り捨て約3分の一すれば概ね人民元の感覚で考えられると言う事。
しかし早くデノミすべきだねこの国の貨幣は。

1時間ほど時間をつぶし閉まっていたホテルの近くGolden Spring Hotelへ飛び込み、宿泊費はUS$30/泊と言う、部屋を見せて貰うと小奇麗で問題なし。
このホテルに2泊することとした。


やたらと街中に国旗が目立つと思ったら、9月2日は「建国記念日」なんだそう、偶然なのかホーチミンさんのお招きなのか、とにかくおめでたい日にハノイに滞在しているようだ。

初めてのこの街の印象その1
 とにかく聞きしに勝るバイクの数、半端じゃない、バイクの大群が街中を何時も大移動している、皆どこへ行くのか?
70年代北京で見た自転車の大群をバイクに置き換えたような按配で、中国とは違った活力に溢れている。
4人乗りバイクは当たり前、しかし事故現場を見たことは無く皆さん運転が上手なんだろう。
またほぼ全員、運転者も同乗者もヘルメットを着用してる、真面目な国民性なのかもしれない。


印象その2
 綺麗な街と汚れた街が同居している感じ。
フランス統治が長かった性だろうかフランス風の綺麗な街並みが多く有るが、一歩外れるとアジアらしく汚れている。
投宿している旧市街地(OLD TOWN)は建物も道路もゴチャゴチャ、散歩に出てもホテルへの帰り道が解らなくなるほどに道が入り組んでいる。


印象その3
 とにかく「カフェ(Cafe)」がやたらに多い街である。
おしゃれなカフェ、露店の様なカフェと至るところにカフェが有り、皆コーヒー・お茶を飲んでいる。これもフランスの影響なのかも、それとも怠け者が多いのか?
私も何度かカフェでコーヒーを飲んだがベトナムコーヒーは味が濃く美味しい。


印象その4
 商店での買い物、商品を投げないし、お釣りを投げないし、外人とみると英語で金額を丁寧に伝えてくれるし、売り子さんに笑顔が有るしで、ダメ・チャイナに比べ好感度がメチャ高い、だけど言葉が通じないんだな~。
ベトナムで会った女の子(ベトナム料理店のHUEちゃん、ゼーラム駅で親切にしてくれたPhamちゃん)、おじさんには優しいのである。


印象その5
 やたらに欧米人が多く、その多くがバックパッカー。
投宿している旧市街地(OLD TOWN)には、パッカー向けの安ホテルが至るところに有り、街中にはリュックを背負った白人が多く目に着く。
ハノイに来られる時は旧市街地(OLD TOWN)での宿泊をお勧めする、ホテルマンンも英語で対応してくれるし値段も安い。

印象その6
 日本料理屋が自分の予想以上に多い。
日本人向けの情報誌が2冊出ており、情報誌に載っているハノイの日本料理は60店ほどもある。
何処の国でも同じだが、日本大使館近くには日本料理屋が集まっている。
昨夜も情報誌を頼りに「寛」と言う日本料理屋に出かけたが、料理長は日本人のYさん、顧客も日本人が多い。
隣り合わせたハノイ国立大学で学ぶ日本の若者二人と楽しい時間を過ごした。
年間留学費用は学費・宿泊費・生活費込みで日本円70~80万円程らしく中国留学と変わらない。
しかしアパート代が高い事と物価上昇が激しく昨年比40%の上昇と嘆いている、この国は政府のコントロールが上手く行ってないのかもしれないな。
ベトナム語は6声あるんだそう、中国語の4声より多い、店の仲居さんにベトナム語を教えてもらったが発音が難しい。
でもこの店高い、写真の料理(生ビール6杯含む)で808,500ドン、ハノイには食べ飲み放題システムは今の処無いようです、やれば当るかも。

印象その7
 物価は中国とほぼ同じか少し高めの印象。


「ホーチミン博物館」界隈を散策、建国記念日の為だろうか「ホーチミン廟」には参観する客の長蛇の列が出来ていた。
美術館、展示されている絵の多くは「ベトナム戦争」をモチーフにした絵が多く、この国にとって先の戦争の意味の大きさが偲ばれる。



日中は暑い。
9月5日 最高32度(最低気温30度)晴れ 昼と夜の気温が変わらない。

こんな所で、長々と失礼。

日本人、なぜ長生き?(さわ)

2011年12月04日 | つぶやき

われら「酔話会」60余歳びとにとって、あと何年生きるかは、やはり気になるところ。そこで、最近のニュースから、日本人の長寿秘訣にせまってみた。先ずは、データーから、そして最後に私見。

12月2日のニュース
厚生労働省は2日、国内最高齢の長谷川チヨノさん(115)=佐賀県基山町=が同日午前8時28分、入居していた老人保健施設で死亡したと発表した。老衰だったという。これにより国内最高齢は、男性の世界最高齢でもある京都府京丹後市の木村次郎右衛門さん(114)となった。女性の国内最高齢は川崎市に住む113歳。
(チョット私見)木村さん、明治30年生まれ、日清戦争後下関条約―調印会場と伊藤博文像現存―で台湾が日本に割譲された翌年。あっぱれ、日本男性の星、世界の星。オリンピック金メダルよりすごい。祈、自己記録更新。

9月13日のニュース
敬老の日を前にして、厚生労働省は100歳以上(9月15日時点)の高齢者が4万7756人となったと発表した。昨年より3307人増え、41年連続で過去最多を更新。女性が全体の約87%を占めた。
 人口10万人当たりの100歳以上の人数は、全国平均で37.29人。都道府県別では島根県(75.70人)が2年連続で最多となり、2位は昨年3位の高知県(67.58人)。2009年まで37年間1位を維持し、昨年2位だった沖縄県(66.04人)はさらに順位を下げ、3位となった。上位13位まで西日本の県が占め、今年も「西高東低」となった。最少は22年連続で埼玉県(21.13人)。
 厚労省は「沖縄は人口が増えているが、島根と高知は減少しているため、高齢者の比率が高まったのではないか」と分析している。今年度新たに100歳となる人は、昨年度より1683人多い2万4952人。

日本人の平均寿命2010年データー

日本人の平均寿命は
 日本人の平均寿命が、さらに延び女性は22年間も世界の1位を続けている。また、男性も4位から2位へ躍進した。
1)平成18年「簡易生命表」厚生労働省
 日本人の平均寿命は、男性79.00歳、女性85.81歳で過去最高を更新した。男性の20.6%、女性の43.9%が、90歳まで生きる計算になるそうだ。(チョット私見)つまり、男で5人にひとり、女で5人に2人が90歳まで生きる。つまり、酔話会の諸兄はほぼみんな90まで生きる。コマッタね。
2)平成17年との比較
 17年はインフルエンザの流行で男女とも平均寿命がわずかに縮まった。しかし、18年は男性が0.44歳、女性が0.29歳と再び延びた。男女差は6.81歳で、前年より0.15歳縮まった。
3)世界との比較
(1)女性
 厚労省が集めた世界各国・地域のデーターと比べると、女性は昭和60年から22年連続の長寿世界一を維持。2位の香港(84.6歳)、ともに3位のスイス、スペイン(83.9歳)を大きく引き離している。
(2)男性
 男性は17年は4位だったが、18年はアイスランド(79.4歳)に次いで2位で、香港(78.8歳)、スイス(78.7歳)を抜き返した。
(3)将来見込み
 日本の場合、3大疾患で死亡する確率は男性が56.00%、女性は53.57%。3大疾患が克服されれば、男性の平均寿命は8.31歳、女性は7.20歳延びる見込みという。(チョット私見) ということは、節制すれば、酔話会全員百歳まで生きるかも。
長寿の要因は
(1)高い医療レベル
 寿命を延ばす要因としては、国民皆保険制度を基盤とした医療制度や高い医療レベルが挙げられる。具体的には、がん、心疾患、脳血管疾患の3大死因の改善が寄与していた。
(2)食事などの国民の生活習慣
 OECD加盟国のなかでは,日本の総カロリー摂取量や砂糖摂取量が最も少なく、肥満指数(BMI)が30を超える成人(肥満人口)の割合も最も少ない。
 肥満人口は,米国では30.6%であるのに対し、日本は3.2%である。10年ごとの肥満人口の割合の増加率も、日本は他国より明らかに少ないという。
 平均寿命は長ければ長いほどよく、疾患死亡率は低ければ低いほど望ましい。そのためには運動習慣の徹底、食生活の改善、禁煙、減酒など、生活習慣の改善によって疾病を予防しないといけない。また、何らかの目的を持って生きるのが長寿の秘訣。 

さて、ここからは私見
小生、毎日午後通学中の蘇大外語学院の学習資料に次のような記事が載っていた。題名“Graying Population Stays in The Pink”「歳はとっても、ぎっちらこ」。日本人は長寿記録を更新し続けている。その秘密は、医療の進歩、幼児期の栄養。ここは“?”、小生幼児期は毎日ハングリー、むしろ粗食がプラスしているのでは――あとで述べるが、これは根拠がある。あと、規律ある生活習慣、適度な運動、栄養、目的意識をもった生活、みな厚生省の分析に同じ。記事は、60歳以上のひとびとが、どのくらい”Independence”「自活」しているかにも言及している。食事、着物、料理、家計やりくりなど。酔話会同胞はもちろん問題なし。

別のページに“The Search for the Anti-aging Pill”「不老長寿研究」という記事がある。秦の始皇帝が徐福をして、蓬莱に不老長寿の薬を求めさせたが果たせず、兵馬俑に守られて、地下宮殿に眠って二千二百有余年を経た今日、ついに老化を防ぐてだてが、見つかったという記事である。始皇帝ならずとも、老けたくないのはおたがいさま。何が書いてあるのか? 老化を遅らせるには、老化しにくい細胞をつくりあげる。そのためには、低カロリーのバランスの取れた栄養をとる。低カロリー栄養の摂取は長寿の秘訣。老人は30%のカロリーカットが望ましい。日量2500カロリーを1750カロリーに減らす。低カロリー飼育のラットはフリーにえさをたべたラットよりすべて長生きした。カロリー制限されたモンキーは低体温で、膵臓ホルモンのインシュリン分泌レベルが低く、通常は年をとるとともに減少するホルモンを若いままに保つ。また、カロリー制限された動物は、高齢化してかかりやすい病気にもかかりにくい。例えば、低血圧、心臓疾患などにかかわる血液中のグルコース成分が低レベルで正常に保たれる。リーサスモンキーの実験では、15年間慢性疾患にかからなかった。細胞は食物から摂取するグルコースを使って自ら老化していく。

結局、細胞が速く老化しないように、グルコースの供給をおさえる。そのためには、カロリー摂取をおさえる。
すなはち、粗食が長寿の秘訣。さきに、日本人の長寿は、子供の頃粗食がプラスしているのではないかと述べたが、その後も粗食の習慣が身についてしまっている今の日本人高齢者が長生きなのは、うなずける。

始皇帝も美食をしてあんなに太ってしまわなければ、長寿をまっとうできたろうに、49歳(前259~前210)の寿命では、当時としても短命だったと言わざるを得ない。ちなみに、孔子は73歳、老子は83歳まで生きた。

さて、2012年おたがいまた一つ年をとることになるが、酔話会同胞、おたがい暴飲暴食をつつしみ、更に、規律ある生活習慣、適度な運動、栄養、目的意識をもった生活をこころがけ、長寿をたのしもうでは。

中検の話し

2011年12月04日 | つぶやき
事務局から何か近況を報告しろ、とのメールをいただいたので思案のあげくにお恥ずかしい報告を一つ届けましよう。

 昨年の春、突然に脳梗塞の発作が出てその後の経過もよくなっていたのですが、学校から入学に難色を示されたものだから、潔く退学しました。そして、今年の初め頃に、こんなことをしていては語学学習の進歩が無いではないか、と一念発起して日本で行われている中国語検定試験を上海で受けることにしました。三月の下旬に行われるおよそ一ヶ月前に受験票が届いてから慌てて復習を始め「ヒヤリング」に力を入れて復習をしていたのですが、そこへあの東北地方大地震が発生しました。


 当然のことながら、試験は中止となり心理的には緊張の糸が途切れてしまいました。そして、六月に実施されることになったのですが、今度は、それまでの緊張感が戻ってこなくて、毎日を無為に過ごしていました。まぁいいか、このままで受けてみよう、などとずぼらな気持ちで試験会場に向かいました。勿論のこと結果は不合格でしたが一番苦手と考えていた「ヒヤリング」が合格点を少々超えていて、「筆記」が合格点に達していませんでした。実は、私のウィークポイントは「ヒヤリング」である、と本人は自覚していたのですがそれが合格点を超えていたとは、自身も驚きだったのでした。

 よし、それならもう一度チャレンジしてやろう、として、一週間前の先月最後の日曜日に上海の受験会場に向かいました。そして、その一週間前、つまり十一月二十一日月曜日から始めて金曜日までの四日間、「語法」の復習をしました。それも、家にいると机の上には、パソコンが置いてあり、どうしてもそれを触って日本のニュースを読んでしまい勉強にならないものですので朝から喫茶店に行って片隅で教材の本を眺めていました。まぁ、そんな程度の復習だから、あまり効果もないのでしょうがそれでも本人は、納得して、「久しぶりに勉強したなぁ・・・」ってな気分で当日を迎えたのでした。

 結果は、どうだったかって・・・。前の試験で従来から自信がなかった「ヒヤリング」が合格点だったので「語法」に力を入れて復習したのでしたが、今度は、復習していた「語法」が合格点を超えていたのに「ヒヤリング」が不合格となりました。 どうして二つそろって合格しないのだろうか、少々苛立っています。

 長年人生をやっていると脳みその記憶細胞が一杯になっていて新しく覚えると前の事項が忘れてしまう現象が起こってきているようですね。といって、ほうっておくと穴の開いたバケツに水を注ぐがごとく忘れる方が早いか覚えを追加するのが多いか、競争になってしまいます。パソコンの硬盤(ハードディスク)容量は年々大きくなってきて今ではギガ単位を超えてテラ単位にまでなってきている。デジカメでも十年前には、30万像数(画素)だったのが今では1300万像数にまでなっている。こんなに電子産業は進歩しているのに医学界はどうしているんだ!なんて時折ぼやいたりしています。

 これが、冒頭に書きました、「お恥ずかしいお話」の顛末でした。
                             2011/12/03  柏尾 記