蘇州大学「酔話会」

不問過去的事、在中国生活快楽、交換消息

中国江蘇省蘇州市蘇州大学
高嶺者留学生の談話室

結業式点描

2012年06月26日 | つぶやき

本日、雨、午後1時半から東校区文輝楼にて蘇大海外教育学院2012年春季結業式。つまり半年ごとに行われる卒業式と修行式の平行挙式。雨にもかかわらず、しかも端午節休暇3日間をはさんでのイベントなのに参会者は例年なみかそれ以上。200席の階段教室に座りきれず、最後尾の立ち席者約50人。なぜ? この回答らしきものは末尾に、、、。

まず、なりゆき。午後1時半、すでに講堂は満席。10分過ぎて、黄興院長のあいさつ。勿論中国語。初心者も混じるなかで、やむをえない。「本日、成績優秀で表彰される人、成績はだめでも、話したらぺらぺらのひと、どっちもえらい。卒業する人、来学期もここで勉強する人、どちらもがんばって!」笑いはとっていたが、話してる本人の顔にマンネリの表情が見えた。つまり、展望を語ってない。聞き手の能力をおもん配かって、語らないのか? でも、ぼくに言わせれば、熱く語るべきではないか。例え生徒はわからなくても、院長が熱く語ってたのは何か?若い連中はあとで、情報収集する。表彰されるのは、9割方韓国、日本人。漢字の素養がない欧米人は着いていけない。

先般、学院幹部にインタビューした時には、欧米人のために、別の究学の道筋を用意したいと抱負を語ってくれた。今回卒業して帰国する欧米人は「蘇州大学へ行けば、漢字を覚えなくても、ピインだけでも、中国語をマスターできるプロジェクトを用意している」と伝える伝導師。

帰国する彼等、欧米人もアラブ人もアフリカ人も中国語を教える学院の次の戦略に期待して雨の中を参会したのではないか? 雨の中、欧米人ほかの顔がことのほか多かった。

中国語が世界語となる先陣をきる蘇大海外教育学院の出陣に立会したく、今会もビデオを回したが、やや残念。

今回は恒例の学生代表謝辞も式次第にはなかった。ビデオを撮りつつ、ちょっと一席ぶってやろうかとも思ったが、年寄りがしゃしゃり出ては、日本の政治舞台の二の舞と自重した。ぼくにとっては、これが最後の結業式。 z


6月例会報告

2012年06月23日 | 酔話会からお知らせ

6月22日、師惠坊「村さ來」にて、酔話会6月例会が開催されました。

参加メンバー:柏尾、澤村、片山、長沼、前田、河田、矢部の7名(敬称略)。
          (森下氏も参加予定でしたが、体調不良のため急遽欠席)

6時から開始、気がつくとすでに11時を回っていました。あっという間の5時間、楽しく盛り上がりました。
怪鳥が懸念していたサーモンも問題なく、その他の料理や部屋の環境もまずまずでした。
特筆すべきは、「酒田」から「村さ來」に移ってきたという小姐、Z氏曰く桜町弘子(注)似、“令人産生好感的人”でした。
・・・(注)桜町弘子:丘さとみ・大川恵子と共に東映三人娘のひとり、東映時代劇に数多く出演、下町娘の役などを好演。

なお、澤村氏が7月で卒業、OBとなられます。新しい旅立ちに祝福!
(文責:y)


6月例会のご案内

2012年06月16日 | 酔話会からお知らせ

酔話会6月例会を下記の通り開催します。 

  日時: 2012年6月22日(金曜日) 午後6時開始。
  場所: 「村さ来」 園区師惠坊90号(下記の地図を参照してください)

  「蘇大 酔話会」の名前で予約してあります。


 

 

今回も出欠の確認をWEBで行ってみたいと思いますので、下記のURLにログインして(パスワードは不要)、各自出欠の回答とコメントを記入してください。(なお、WEBにアクセスできない同学には、別途出欠確認をとらせていただきます。)

http://kanji.kodama.com/note.aspx?ac=rfll2aebc0q073xn


怎麼走?

1. バス路線 “47路” の場合 (上記地図の青色ルート)
      【星海学校東】バス停(蘇茜路南面)で下車、蘇茜路を50m西進、星都街で右折し250m北上、
      星海実験中学を過ぎたところで師惠坊商業街に右折すると約50mで到着します。

2. バス路線 “108路” の場合 (上記地図の紫色ルート)
     【師惠隣里中心】バス停(星海街東面)で下車、星海街を横切って師惠坊に入り、300m西進
   すると到着します。

3. バス路線 “146路” の場合 (上記地図のオレンジ色ルート)
      【師惠坊】バス停(蘇惠路南面)で下車、蘇惠路を50m西進、星都街で左折し、100m南下後
   師惠坊で左折すると約50mで到着します。

4. 地下鉄(軌道1号線)の場合
      【星海広場】駅で下車、1号出口から出て、星海街を300m南下(蘇惠路を超えて更に南下)し、
   師惠坊で右折、300m西進すると到着します。

5. それ以外の方
      地図を参照してお越しください。

(幹事:y)


われらが母校

2012年06月13日 | 学習

酔話会でわれらが母校といえば、、、いわずと、、、蘇大海外教育学院。と、おおみえをきったが、その具体像を語れと言われれば、はなはだ心もとない。そこで、学院幹部に最近お話をうかがう機会があったので、紹介。

蘇州大学では、各学部で留学生を受け入れており、中国語学習だけとっても、四年制大学として、文学部本科、また韓国大真大学蘇州分校も蘇州大学内にあり韓国人大学生を受け入れているなど、多様であるが、今回は東校区文輝楼を校舎とする海外教育学院に限って話をすすめていただいた。


                        蘇州大学 海外教育学院 文輝楼

先ず、学院の歴史:

学院設立は30年前の80年代初め。2003年から留学生受け入れ規模拡大。2009年からは、国の奨学金対象校となり更に発展。

現在の留学生受け入れ状況:

半年以上の留学生を長期留学生、一ヶ月内外の留学生を短期留学生と呼んでいる。今学期は長期留学生50カ国、430名。韓国30%、日本20%、アメリカ、欧州の順。年齢層は若者が多数ながら、現役大学生から、フリーター、企業駐在員、その奥様、退職高齢者などさまざま。学費負担面では、本人自費留学のほかサウジアラビアなど派遣国側国費留学、アフリカなど第三世界からの中国側受入奨学金留学、アメリカ、フランス、日本などの大学との大学間相互受け入れ協定による留学など多様。

短期留学生は姉妹提携している友好校から受け入れている。今年中日本、韓国、アメリカ、フランスから20グループ、約300名受け入れる。ちなみに、日本の友好校は、宮崎公立大、京都産業大学、立命館、関西学院、金沢大、国士舘大、群馬女子大、和洋大、関東国際高校など十校。

最近の傾向:

韓国、日本からの留学生数はかわらないが、アメリカ、ヨーロッパからの留学生は増えている。彼等は学院卒業後も中国で働くことを求めて来ており、実際中国国内の合弁企業等に就職している。蘇州大学でも2009年から国費奨学金が出せるようになり、特に第三世界のアフリカからの留学生が増えてきた。実は今年に限り、日本からの留学生が増えたが、理由はわからない。東日本大震災が影響したのかも?

留学生気質:

私費留学の多かった90年代に比べ最近の学生はまじめに勉強するようになった。交換留学大学生は留学の成績が単位に組み込まれているのでよく勉強する。2009年から成績が良ければ国費奨学金を受けられるようになったので、成績も上がった。新HSK漢語検定試験で上級の5~6班の学生は最高レベルの6級がとれるだろうし、留学生全体の半数は4級がとれるとみている。

国別長短:

日本人、韓国人は漢字に強く、読み書きが得意。目で読めてしまうし、漢字である程度意思疎通できるので、会話がおろそかになる。その分発音は苦手。欧米人ははじめ漢字が書けないので、音でコミュニケーションするしかない。その分聴き取り、話しが早く上達する。しかし、中国で就職するには、漢字の読み書きが必須、やはり彼らにとって漢字のハンディは大きい。

日本人留学生:

長期留学生は韓国に次いで多く、今学期は約90名。交換留学の大学生、一般大学生など若者、日系企業の駐在員の奥さん、退職高齢者など。高齢者留学生十数名のほとんどは日本人。彼等は自分で勉強するだけでなく、指導的役割も果たしている。日本人は総じてまじめ。

今後の取り組み:

第12次五カ年計画(2011~2015)で留学生の規模を拡大することが計画に入っている。韓国、日本だけでなく欧米その他の国からの留学生が更に増える傾向にあり、中国で就職を求める学生も増えているので、そのニーズに応えて適切な授業ができるように改善を積み重ねる。

また、第三世界の東南アジア、アフリカの留学生をもっと受け入れる体制を強化しなければならない。教え方、教える内容についても研究しなければならない。例えば、更に上級に進みたい学生には総合学習を、会話能力だけをつけたい学生には会話だけを教える入りやすいクラスを準備する等これから考えていかなくてはならない。

以上でした。 z


苗字談義

2012年06月12日 | つぶやき

中国で現在使われている姓は約500。トップテンは、王、李、張、劉、陳、楊、黄、趙、呉、周。王さんは総人口中7.3%9298万人、李さんは7.2%9207万人、張さんは6.8%8950万人。

韓国では、約250。トップから金、李、朴、崔の順。

日本では、約27万。世界中で一番多い。ホント。トップテンは、佐藤、鈴木、高橋、伊藤、渡辺、斉藤、田中、小林、佐々木、山本。

ちなみに、欧州では、フィンランドが約3万、ほかの国全部あわせても約2万。

姓がなく、名だけの国もあある。

日本も江戸時代までは、苗字を公称するものはわずかで、江戸末期の人口を3千万人とするとその4%120万人が苗字をもち、使われた姓は1万。それでも、中国。韓国に比べると格段に多い。平安時代の姓が1200という記録があるので、江戸末期まで千年で10倍増えている。それが、明治になってなぜ更に27倍に増えたか?

それは明治新姓による。明治政府は徴税、国民皆兵、階級制打破の基礎となる新戸籍法を発布、その一環として、明治8年国民全員が苗字をつけるべしという苗字必称義務令すなわち明治新姓布告が出された。これで、これまで名前しかなかった平民も大急ぎで苗字をつけさせられた。

このとき、日本に20数万の苗字が生まれた。と言ってもかってにつけたわけではない。自分の苗字をつけるのだから、それなりによって立つところを求める。最もよって立ったのが地名である。事実苗字の八地割以上が知名から来ている。それも、新住居表示で近頃やたら増えている旭丘とか夕陽丘とか団地風の地名ではない。そもそも明治の初めころの地名は、自然や地勢に根ざした昔の地名がそのまま残っていた。古くは万葉のころからの地名、新しくても荘園時代の地名が名残をとどめていた。

それが証拠に訓読みが多い。音読みは中世以降と考えてよい。先の十大姓のうち音読みは佐藤、伊藤、斉藤の3っつだけで、あとは訓読み。実際には苗字の八割以上が訓読み、すなわち大和ことばである。

ここで、気がつくのは、異字体、異読が多いこと。中国では、声調違いの異読はあるが、読み方つまりふりがな違いの異読は少ない。日本漢字は、ひとつの漢字でも和音すなわち大和言葉に漢字をあてた訓読みのものと後に入った呉音、漢音、唐宋音等の音読みなどいくつかの読み方がある。さらに、苗字は普通の本では出くわさないような読み方をする場合がたくさんある。辞書にもない判じ物のような和字もある。それでもれっきとした苗字であるから、持ち主のおっしゃるとおりに読まなくてならない。

先に述べた日本の苗字は27万あるという数字は、異読もそれぞれ別のものとして数えたもの。同じ漢字の苗字なら異字も異読も一つのものとして数えたらいくつになるか?10万くらい減るだろうが、ひとさまの苗字をかってに読み替えて一束にくくるのは不遜。やめておいたほうがよい。

万葉の歴史をとどめているのだから、苗字の話はまだまだ底が深い。先祖の出自がわかる。異字異読もそれなりのいわれがある。じゅげむじゅげむごこうのすりきれ は落語の世界だが、勘解由小路かげゆこうじさんなど五字六音のものもある。

この話、ひとりでは手に負えない。この投稿をみんなで見聞した奇名など持ち寄ってルーツ談など繰り広げるよすがとしたい。

たかが苗字、されど苗字。あだやおろそかにはできない。苗字と名字どうちがう?氏姓は?はなしは、いくらでもでてくる。                 z


泰州記

2012年06月04日 | 旅行

6月2日から一泊二日で、蘇州の対岸泰州市へ行ってきた。午前9時半、新区錦華苑からマイクロバスで出発。前夜の雨も止んで、薄日のさす天気。蘇州の雨はいつも夜降って朝あがる。一行中高年男性ばかり10名。歴史探訪会のメンバー。酔話会からもぼくとyとkの3人が参加。10名の共通点は、全員歴史ずき。全員酒ずき。数名女ずき。早速バスの中で朝からビールで乾杯、小旅行への期待がふくらむ。高速で江陰長江大橋を越え、2時間半で泰州着。ビールのおかげで、あっという間。

飛び込みでマイクロをつけた食堂は裏が竹やぶになっていて、鳥骨鶏やうずらが放し飼い。なぜかホロホロ鳥もいる。地場料理は美味。昼間から宴会。一行には、Tさん、Dさんの二人の中国人も参加。食堂さがし、料理注文のベテラン。Tさんは、旅行社幹部を二十年来やっており、旅の嗅覚は抜群。はじめての土地でも案内をらくらくこなす。おかげで、昼食二回、夕食一回ぜんぶ飛び込みだったが、安くて美味い泰州料理を満喫。一行大満足。冷えたビールのない店もあったが、そこは入郷随俗。

昼食後、胡錦濤主席の母校小学、中学を見学。と言っても校門にバスを着けて、いきなり守衛と見学交渉。中学は、校庭まで入れなかったが、小学は、入れてくれた。入れてくれたどころか、最近できた展示室はじめ主席の学んだ教室まで案内してくれた。主席の席は、前から二番目で、机に表示札が置かれていた。当時のカリキュラムまで、黒板横に貼られていた。校門を入ったところには、主席が青海書記当時、母校の生徒達にあてた励ましの手紙の一節が彫られた碑があったので、一同記念写真を撮った。実は、守衛が独断で入れてくれたのには前段があった。土曜なので、中二の娘が守衛室に来ていた。Aさんが顔立ちが似ているが娘か?というと、守衛の顔がほころんだ。娘がわれわれを日本人とみて「こんにちは」という。これで、いっきょに校門の電動引き戸が開いた。実は、主席はここから精華大学へ進んだのだが、最近まで故郷のことは、外部へ公表していなかった。勿論、離京以後泰州へ帰ってきたこともない。故郷のために国家予算をかたよって使うことを戒めたのだろう。ふるさと政治家と称して、地元にせっせと利益誘導するどこかの政治屋とは覚悟が違う。Tさんによると、主席は姉、妹との三人兄弟。家は市の中心から10km南の田舎にあり、寄宿舎で勉学しただろうと。

    
               胡錦濤主席の母校(中学)                     胡錦濤主席の母校(小学)にある碑

 小学校6年生時の座席表(胡錦濤主席は前から2列目の席)

このあと、梅蘭芳の記念館見学。本人は北京生まれだが、父祖の地が泰州であったため、ここに記念館がある。1937年盧溝橋事件後上海に移住。抗日の意思から舞台活動を拒否、髭をたくわえた頃の写真が展示してある。夫人が二人あり、四人の子供をもうけた。その写真も。このころの事情は、映画「華の生涯 梅蘭芳」に詳しい。

       

夜は壺中天で宴会。Aさんが階下で見かけた冷奴に似た“冷粉”を注文、たしかにうまい。帰りにスーパーで酒とつまみを買い込み、ホテルにもどってyの部屋に10人全員集合。Aさんが講師をつとめて、呉の歴史を復習。途中から“いいちこ”のお湯割りを配りだしたので、そのまま二次会。薩摩隼人のFがおやじギャグを連発。もう止まらない。日本老人どもの日本昔話は、中国人のふたりには理解を超えたものだったろう。

翌日8時半チェックアウト、湊湖国家湿地公園の葦原を手漕ぎの船でゆらゆら見物。船頭に歌を所望して、楽しむ。潮来の風情。仲間から「潮来花嫁さん」「潮来の伊太郎」などナツメロも飛び出す。尾瀬の木道の二倍ほどの幅がある湿地の木道を歩いて鹿や水鳥を見物。
    

船からあがって、マイクロで湊潼古鎮へ向かい昼食。急遽ビール冷やしてくれと注文して、昨夜のつまみと紹興酒の残りを出して、宴会。待ちきれず冷えて無くても二三本早く持って来い。二三本が五六本になり、結局ぬるいビールがどんどん空く。それでも地場料理の味は絶品。

古鎮の清時代の地元名士徐氏宅見学。いくつにも分かれた建て屋の中庭の一つにギネスブックにのっている樹高5m、樹齢千年の山茶花の木があった。3,4月が開花期で枯れた花が枝にひっかかっていたが、そばに全木に赤い花がまぶれついた写真があった。雲南省麗江のピンクの山茶花と姉妹木という説明もある。屋久島の千年杉を思うと目の前の青々した葉をつけた山茶花が樹齢千年とは信じがたいが、そばにビネスブック認定証があるので、やはり本物だろう。山茶花はさざんかと読めるが、英名camellia と書いてある。つばきということだが、つばきは、花が首からそっくり落ちる。目の前の枝には、枯れた花が落ちずにこびりついている。花も八重でつばきより小ぶり。してみると、やはりさざんか?「さざんかの宿」の鼻歌も聞こえてくる。徐氏宅を出て、古鎮の通りにもどると、臭豆腐を売るの匂いが満ちている。数人が名物らしい揚げ饅頭を買った。

午後4時泰州に別れを告げ、高速で南走。車中全員安眠。江陰長江大橋を南へ渡ると高速の交通量が急に増える。無錫のパーキングエリアでトイレ休憩。またぞろ、昨夜の残りの缶ビールが配られ、車中で宴会。40分が蘇州新区錦華苑に到着、解散。おつかれさま。z