あれからもう四年も過ぎてしまった。
無我夢中だったので、あれこれ考える暇もなく過ぎた感じがする。
あの時
震災直後には、長男が仕事から戻る途中に避難場所で会い無事を確認。
主人は一時間以上かかって仕事場から抜け出して来てくれて、避難場所で会う。
下の子は家のお勝手口にダンボールに「無事」の書置き。
それぞれが無事だった事は確認したが、そのあと、東電事故で散り散りになる。
私はみんな(主人の実家)とはぐれ一人になり、お隣さんと共バスで避難する事に。
今、落ち着いて考えれば、あの時、主人の職場に向えば・・・
主人の職場のある町にも避難場所があったはずで、そこに向えば離れ離れにはならなかったのに・・・
どうなるかわからず、不安な気持ちのままバス移動した。
震えるほど不安だけど、いずれまた家には帰れると信じて、それだけでみんなと行動を共にした。
初めておにぎりが出された時、お腹はすいているのに、飲み込めなくて・・・・水で流し込んだ・・・
日に日に悪化して行く東電。
体育館でみんなでテレビをみながら、これから先どうなってしまうのか、不安の毎日だった。
置いてきたブーさんの事を思い、どうすることもできず、一人泣く。
そして、埼玉に行かなければならなく時、どうしよう、どうしようと一人あせった。
当時、主人は病院の事務員、今どんな状態か聞かなくてもわかるのが、たまらず夜中に電話したっけ・・・
なんというか、神様仏様のおかげで、埼玉に行くバスにのる直前に救われた。
その後は親戚にお世話になり、一ヵ月後には主人と一緒に住むことができた。
今思い出しても、移動するバスの中の事、体育館でダンボールの上に毛布をかぶり寒さと不安で震えながら寝たこと、
思い出すと今でも胸が苦しくなる。
東電は廃炉に向けての作業が始まっているが、汚染水漏洩など事故が続いている。
わが町には中間貯蔵施設が出来る事になる。
帰りたくても、帰れない。
汚染される前の空・・・
親族、みんな離れ離れになってしまったけれど、みんな無事だった事を思えば幸せだ。
いつまでもグチばっかり言って暗くなっていてはいけない。
それぞれが、その場所、その場所で頑張って行かなければ。
まだ仮設住宅の住まわれている方も多くいます。
何とか、復興住宅などに入れるように、小さな希望一つでも見つかるように、心から祈ってます。
これから先、まだまだいろんな事、困る事、いっぱいあるだろうけれど、なんとか主人と二人で頑張って行きたい。
一日を大事に、前向きでに生きて行こうと思っている。