日本という国は、じつに『縁起の国』だと思う・・・だから沢山の外国人が集う国なのではないだろうか。
この正月という時期、日本は『縁起モノ』で溢れかえる、というもの凄い国だと思う。
これまで何回か書いてきたが、私は長いこと、そもそも『縁起』という言葉の意味自体がさっぱり解らなかった。
仏教書などを読むと時折、『釈迦が悟ったのは縁起であった』・・・などという一文に出逢うと、なんのこっちゃやら解らず戸惑うばかりであった。
今思うと傑作なのは『縁起モノ』の代表格が禅の祖師『ダルマ』さんである事で・・・『悟り』を開く、つまり『縁を起こす』という事が
自国の文化の中心になっていて、毎年新年を迎えるたびに『悟りを促す』象徴である『ダルマ』やら『注連縄(しめなわ)』やら『干支の置物』やら
その他、あらゆる『縁起モノ』で身の回りを取り囲んでいるというのに、肝心の『悟り』に眼が行かない大衆のあり方というものが面白い。
国をあげて、『それ』を尊重しながら、己からは『それ』を追究しない大衆・・・まぁ、見方を変えると『常に門を開けて』待っている状態ともいえるが。
『縁起』という事が解るには『観・自』在の働きを自己の内に観なければ、決して解るものではない・・・と思う。
だからなのだろうか、『般若心経』の出だしに『観自在菩薩』の名が登場するのは・・・観・自が在ってはじめて『縁が起こる』のだから。
私は『悟り』は『郷里・サトリ』であるという説を唱えた時、『郷』の字解に『二人が向かい合って坐っている』絵柄を基にして字が成り立っていることを
知ったからであるが、この向かい合っている二人が『自我と無我の自己』であることを『観』じている状態を表している字と解字した事による。
『0・ゼロ』が『0』の働きに目覚め、無限の『数』との関わりに目覚めるためには、『0自体の縁起』が必要だ。
量子力学に『観』の働きが欠かせないのと同じに、『縁起』も『観』の働きを要する。 そういった『縁起』を促す国が日本という国なのだと思う。
定年退職した2017年に第二の郷里(神戸の六甲)の神社で出会った『縁起物』の図
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