拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  日本はまだか?!

2025年02月16日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

例の『坐骨』で、一時は日本行き断念が頭をかすめた旅行であったが、おケツに注射をぶちむことで、馬骨自体は走り始めたが、そばでハヤトチリの相方が合いの手をあれこれ差し込む事で事態は急転直下〜〜あゝ、かくして出発間際までゴタゴタが続きよく眠れないうちに、出発の朝を迎えたのだった。

 

というのも、ハヤトチリの相方は『坐骨』と聞いた時点で、せめて空港内だけで車椅子が利用できればよいだろう...という嫁ゴコロでつい軽い気持ちで手配してしまった。が・・・である。自ら閉所恐怖を公言して憚らない相方は、旅行代理店を通してご注文していた、機内での非常口前面で、足を伸ばして寛げる席を確保していたが、それがなんと、車椅子使用者は利用することができない・・・という規定になっていることが判明し、相方は早速、車椅子をキャンセルしたまでは良かったが、例の快適な席2席はどうやら失ってしまい、そのために追加料金を払ったのにも関わらず・・・あ〜あ〜となったのである。相方は旅行代理店やらフィンエアーやらにせっせとメールやら電話をして交渉するも、フインエアーはすでに座席を一般席に変更し、変更が効かないという事態に。。。 。ハヤトチリののために、バカなことになりました。あ〜ア。

で、そのショtクのためでもないでしょうが、出発2日前に私のシャtクリが止まらなくなり、再び相方はパニクリ、我らが良き友、青い目の禅僧のシャtクリ道海和尚に相談、現在フランスのみ製造の秘薬をわざわざ持ってきてくださり、シャtクリに関しては大過をへず落着をみて安堵の胸をなぜた。

相方が選んだバレンタインディの日、4時半起床、6時半の電車でジュネーブ空港。10時50分ヘルシンキ発に乗り無事離陸。

北欧に向かう機内からの景色は、眼下に一面の白い雲で、雪国で生まれ育った者だけが決して忘れることのない『雪の大地』風景を彷彿とさせていた。

ヘルシンキの空港に鮮やかに着陸、まもなくトランジットして乗り換える大阪便がキャンセルしていることが判明‼️ フインエアーカウンターに詰め寄り抗議するも、パイロットのストライキによりパイロット不足のために、欠航で、次の大阪行きは2日後です・・・という若い女性従業員は済まなそうに宣う。で今日明日は、空港ホテルになりますので、二つのうちどちらかをお選びください!。

我々は疲れがどっと出て、とにかくホテルに落ち着いた。

   

翌日気を取り直し、ヘルシンキ一日観光の覚悟を決め、いざダウンタウンへ。

氷点下10度の体感温度は➖14度で、坐骨神経痛の病み上がりの身には余りにもシバレる気温で、なんとしてもモモヒキが必須であると、極寒の街をモモヒキ求めて、相方もモモヒキ相当のデカパンを求めて彷徨う。なんとか買い求め、装着するべく近くの国立美術館のトイレにてモモヒキをはいて、相方を待つと、半ば半べその相方が言うには、デカパンに着替えるために少し広めの障害者用のトイレを選び、脱いだものをキチンとたたんで置いたまでは良かったが、ジーンズを丁寧に置いた場所がなんとモダンな蛇口の下で、知らずに手をかざしたときに、よりによってジーンズの股のところが水浸しに・・・なったと言うのだ! 私は余りのオtチョコ状態に激怒したが、そこは深呼吸して抑え、どうすべきか思案し、美術館の係員に事のしだいを説明して、ヘアドライヤーの有無を聞いたが、『残念ながら、、、』の一言。

意を決して、私はドライヤーを買うために、一旦外出する旨を年配男性の係員に申し出たところ、余りの悲惨な話に同情したのか、『私に考えがあるから、ここで待っていなさい』と言って、何処かに消えたが、しばらくして蒸気ドライヤー?を持ってきて、これでトイレ前のスペースで乾かしなさい・・・と、ご親切。この状態を一撮した桀作写真があって掲載したいが、相方の懇願により断念することに。(そのうちいつか?)

この品のイイ係員の、おっさん、黒い小さなマントに身を包み、典型的なホモセクシャルの方のようであるが、その細やかな気遣いがこう言った旅先では有難いのだ。

絵の鑑賞もそぞろに、我々は午後一番の市内バスツアーに乗るべく移動。

上の写真は、そのバスから撮った写真であるが、かって道産子として過ごした故郷が蘇り、また高校生の時、模写したブリュゲールの絵に描かれている人影に想いが到った。 (このブログ、アイパッドで書いているが、なんか書きにくい)


  裏悟りの一句  " w・a・t・e・r "

2025年02月12日 | 東洋自分なり研究所

  先日…というか、もしかしたら一昨日であったか? 無職であり、特に病に悩まされると曜日・日付の感覚が失われて、何が何時だったか・・・。

 

  ヒョンなことから、気分的にタイムリーなYoutube動画と出会う・・・ということは、”引き寄せ”ということもあるだろうが、じつは 頭の良い”AI” によるお導き・・・

  かな?!と最近思っているが。 今回は1980年アメリカテレビ映画となった『奇跡の人』をかなりボケ気味の画面で観て、深く感動した。

  何時だったか覚えてないくらい昔、名優アン・バンクラフトのサリバン先生役、パティ・デュークのヘレン・ケラー役の映画1962年を観た覚えがある。

  今回見た映画は、昔子役で演じたパティ・デュークがサリバン先生役を演じていたのが感慨深いものがあるような気がした。

 

  ところで、盲・聾・唖の三重苦・・・とは、いかなるモノであろうか? まして、生後19ヶ月目熱病に冒され三重障害に陥ったヘレン・ケラー。

  知能の障害があるわけではない、真っ暗闇に放置されながら、しつけもされず7歳になるまで野獣のように生きてきたヘレン・ケラーが

  自身、眼の障害があり、養護施設で育った若き家庭教師サリバンがやってきた・・・。

  『 ヘレン・ケラーは6歳のとき(1887年3月3日)に家庭教師アン・サリバンと出会い、そこからわずか1か月ほど(4月5日)で「Water」の指文字を理解しました。

    これは、彼女がもともと知的好奇心が非常に強かったこと、そしてサリバンの教育方法が優れていたことの両方が関係している』・・・とはChat君

 

                  クラシック映画チャンネルより

 

  私は、いまだ野性の少女ヘレンを、強い信念と愛情で、体を張って人間としての躾、教育していくサリバン先生の姿・・・悪戦苦闘するその二人の姿・・・

  そしてあの名場面、ポンプで汲む水に触れた時、それが水を意味する『w・a・t・e・r』であること、物事には名前があることを初めて自覚できたヘレンの喜び!

  ・・・その場面を観ると

 

  禅語録の随所に描かれている、師と弟子の攻防を観る思いをせざるを得ない。

  弟子自身は三重苦でもなんでもない・・・、『目開き』でありながら、観えないもう一つの世界にのたうち回り・・・

  師は一打して、彼の真言の一句を待つのみ・・・。

 

  物事に『表裏』があるとすれば、それは『表裏一体』であろう。 

  だとすれば、ヘレン・ケラーのそれは『裏悟り』であり、若い禅僧がめざすのは『悟り』なのだ。

 

『音と光のない世界』盲・聾・唖の三重の障がいのある妻を支える夫 山深い過疎村”で生きていくと決めた夫婦の物語 「つれあい」【2002年民放連盟賞 優秀賞】

 

  私は、映画『奇跡の人』をみた後、指文字に惹かれたが、これをなんと日本語ではなんと云うのであろうかと思っていたら ↑↑この動画がいつの間にか用意され

  これをみることで、『触読手話』であることを知った。 指文字ではアルファベットが優れていると思うが、日本語はどのような指文字であろうか?


  馬骨ゆえに坐骨かよ!

2025年02月10日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  いや〜・・・なんというか、『生還しました!』と言うと大袈裟だが、気分的にはそんな感じがする・・・今日2月10日。

 

  帰国旅行という、私たちにとって7年ぶりのこの旅行を半年前から計画して楽しみにしていた矢先の出発を控えた2週間前

  私は、あまりの腰痛に、救急病院を訪ねレントゲンを撮り、薬を頂いたが、一向に効かず、2日後に再び救急病院を訪れ再診

  腰痛は『坐骨神経痛』と診断され、それなりの薬を処方してもらい、MRI検査も手配していただいた。

 

  なんせ、約一週間のあいだ、私は横になって眠ることが出来なかった・・・。

  相方と一緒の寝室では、片時もじっと寝ていられない私は互いに気を使うし、サロンの簡易ベッドにもなるソファで悪戦苦闘してすごした…。

  身体をベッドに横たえるいかなるポーズも、最初はともかく、数十秒後には耐えられない痛みがやってくるのだ・・・。

  色々なことを考えるが、『馬骨ゆえに坐骨かよ!・・・』っていう、いつもの駄洒落風(ダジャレ)罵(ののし)りをリフレインさせ約一週間を乗り切った。

  横になって眠れないものだから、ベッドに向かって座り肘をついて少し寝ては夜が明けるのを待ったのだ・・・。

 

  じつはその間、生まれて初めて、中国鍼灸を2回施術体験した。

  鍼灸に関しては私はまったくの素人ではない。一応、鍼灸・マッサージの免許皆伝だ。(といってもペーパー・アキュパンクチャーである)

  その私からみても、スイス在住25年、腕前にかなりの自信を持った中年のその中国人先生の施術は、本場中国を感じさせる良い施術であった。

  ただ、その場では寛解するものの、20分後にはもとに戻って、相変わらず私はびっこを引いて歩かねばならなかった・・・。

  まぁ、こうやって繰り返し治療を受けながら少しずつ良くなるということはわかるが、料金を考えるとそう何回も行けやしない。

 

  考えてみると15年前の引越屋時代に、右側坐骨神経痛に罹って痛い思いをした。いまでも右足の中指、薬指の感覚が薄く、明らかに違う。

  あの時も医者はMRIを撮って、『あなた、引越の仕事は無理ね・・・』と言って、薬とフィジオの手配をしただけで、『えっ、それだけ』と思ったものだ。

 

  薬やら2回の鍼灸、それに風呂に入浴というのも案外よく効いたのか、今日あたり急速に回復。寝室のベッドで寝返りもほぼ自在になってきた。

  で、明日は先週予約していた。ステロイド注射をする日なのだが・・・、まぁ、先生にどうすべきかお聞きしてから、決断することにした。

 

                 なんせ、4日後に出発だに・・・!

  

 


  不立文字から漢字方程式!?

2025年02月04日 | 東洋自分なり研究所

  先日、『スナックおけい』のママさんとの会話が動画になり、私のYoutube 初デビューとなった。

 

  生き恥をさらすようで、ちょっと躊躇はあったが、そんなことを言ってられない歳でもあり、『東洋自分なり研究所』の所長として

  普段考えている事を、広く聞いていただける良い機会でもあるので、ママのおけいさんと酒を酌み交わす事となった。

 

  話の内容は私、馬骨の『禅の素晴らしさを伝えたい』・・・という気持ちを前提に、『考えるな、漢字ろ!』から『漢字方程式』にまで到った

  いきさつなどを中心に会話を交わしたが、後で動画を拝見すると、馬骨のまったりもたついた話を、さすが高学歴のおけいさん、スッキリと

  分かりやすい表現にしたかと思うと、合いの手として発言する短い言葉のはしばしに非常に感慨深い洞察が開陳されているのを発見して

  馬骨がこれまで言語化することが出来なかった、私自身の問題を解明する糸口を示してくれていたのだ。

 

              

 

  例えば、おけいさんのこの一言 『 でも、言語化しないと知性が測れないんですよ 』・・・。

 

  禅は『不立文字』といって文字や言語の排除を主張する…立場であるのに、禅を称揚する馬骨が、『考えるな漢字ろ』やら『漢字方程式』などと言って

  やたらに文字言語に拘泥するという、この矛盾は一体何なのか? ・・・という問題を解明するのに、彼女のこの一言は素晴らしいヒントとなっている。

 

  私の意見というのは無学の者のもので、学術的ではまったく無いことを前提に話すが

  一部の(しかも重要な)漢字というのは、古代インドの佛教経典サンスクリット語を中国語に漢訳する際に、優れた佛教徒によって

  曰く言い難い事柄などを漢字表現する『文字』を新たに創作された・・・と私は考え、それ等を私は『佛語』と称す。(フランス語を意味する仏語と峻別)

 

  『不立文字』の修行で培った『曰く言い難い』事柄を、優れた佛教徒によって文字言語化された佛語は、今現在、一般の文字言語と混在し

  その真意を解読されることもなく、ひっそりとその光を内に秘めているのみ。

  知性は言語化で測れるが、(般若)智性は佛語による解読でなければ測れない・・・。 ということで、禅僧は『円相』を描く・・・『 ◯ 』

  

                                                                                          考えるな漢字ろ! N16  Don't think , Feel 


  相対性無理論

2025年01月29日 | 東洋自分なり研究所

  SMSの急速な進展による、嘘八百がまことしやかにまかり通る娑婆にあって、ほんの一部の心ある人々の間に

  『禅とはなんぞや?』・・・という囁き(ささやき)が、耳を澄ますことでようやく聞き取れるほどの『音』となっているだろうか。

 

  映画『インターステラー』ではないが、世も末・・・といえるほど、映画とはまた別な要因で全人類的荒廃が物凄いスピードで展開するなか

  映画のように、人類を救いえる『方程式』・・・のようなモノがあるのか?

 

  そのようなだいそれた命題が我が『東洋自分なり研究所』に課せられていたとは?・・・この漢字方程式を発見するまで

  私自身気が付きもしなかった。

 

  それを私は『相対性無理論』による漢字方程式と称するが・・・ 物質 ÷ 観音 = 佛質 』 という科学と宗教の邂逅如き結論となった。

 

  これまで、仏陀によって宣言されていたという『 山川草木悉皆成仏 』。これを一般的な漢式にしたのがこの式である。

  意味についてググってみると『眼に見えないものを含め、この世に存在するすべてのものが、私たちを本来の姿に立ち返らせようとして、

                間断なく働き続けている、という意味で、存在するすべてに仏性が宿るという考え方』東養寺・HPより拝借

 

           

            問題は『観音』であり、単なる観察とは次元を異にしているということで、『禅は相対性無理論』・・・と馬骨は云う。

            この理論を昨日(2025 1/28)逝去(せいきょ)された、不屈の経済アナリスト森永卓郎氏に捧げて。

 


  『還暦』から『観暦』へ

2025年01月27日 | 東洋自分なり研究所

  私が60歳のとき迎えた『還暦』は、以来私にとって佛道を究明するにあたり非常に重要なキーワードとなり、はや13年目を迎えようとしている。

  特に『還暦スキャン』という造語でもって、自己の佛道の進捗状況を過去にむけて俯瞰し、私の身辺に起きたすべての出来事が偶然ではなかった事など

  を再確認する術(すべ)としてのアイテムとして非常に重宝し、このブログで公開しているが、果たして利用している人はいるのだろうか?

 

  しかし、考えようによっては、『還暦』という言葉自体がもともと佛語であれば、60歳の人に限定した『還暦』であるはずがなく、

  私のいう『郷里・サトリ』に向かおうとする回帰本能への進捗具合の最期のチェックポイントとして仮に60歳を『還暦』としたのだろう。

 

  その『還暦』も13年目を迎えてみると、やはり自分の中では少しずつ深化しているようで、

  『還暦』というのは、明らかに『観暦』した自己を顧(かえり)みる行為であることに私は気づいてきた…。

  この『観暦』の『観』は『観自在・観世音菩薩』の『観』であり、『自他不二』の自己を『観』じた自己の歴史の『還暦』なので

  『還暦』は、つまり『観暦』であって、単なる思い出を振り返る行為の『還暦』ではない・・・ということなのだ。

 

  最近、量子力学など科学の面で『観察者』の存在が非常に重要になっているが、それよりはるか以前の釈尊が悟りを開いた時

  『自他不二』の感覚は主客の無い『観覚』として体得したであろう、そしてそのことは釈尊誕生の際の『天上天下唯我独尊』の宣言が

  後に『悟り』として成就することを時空を超えて『観』知っていたことを意味しないか?と私は思う。

 

  そうした『観暦』を想う時、私は映画『インターステラー』で最も印象に残るシーン、本棚の本がポルターガイスト現象の如く床に落ちる現象に

  対して、それを見逃す事なく、『観』を働かせた娘が数十年後に、父親からの貴重なメッセージとして、その現象を解読したいきさつというのは

  時空を超えた『観暦』の一つの働きとして『観』と『観』を結ぶ赤い糸としての『観暦』を思わずにはいられない・・・。

 

  まぁ、真実の自己を観る際に、『自』を『おのずから』現象と『みずから』現象の合致が『観』を生じ、無位の真人たる『自分』を観るのだろう。

 

           

             『観暦』というのは、この写真のような、ふとした瞬間に垣間見る現象として現れる・・・

  

 2024年6月26日のブログ記事〜映画『インターステラー』と『間』の方程式

  映画インターステラー  『インターステラー』とは『星と星の間』という意味だそうだが、時空間の『間』でもある。

 

 


   『坐』は身体性の究極的象徴

2025年01月25日 | 東洋自分なり研究所

  ほんの数日前、Youtube番組『Imagine大学』の学長である茂木健一郎さんのお話『言語ゲームと身体性』があった。

         https://www.youtube.com/watch?v=YWgUQYThQx4&t=616s

 

  その番組のなかで、彼は『僕は現代の日本のネット空間のあり様というのは、身体性を忘れた志向性のゲームをしている気がするんですよね。』と言い。

  Chat-GPTをはじめ、様々な『AI〜人工知能』を介した情報空間に終始して、実体験の伴わない知識の集積に満足しているかに見える現代人の風潮に

  危機感を表明していた。

 

  私はこのYoutube動画を観てあらためて思ったことは、坐禅の『坐』こそは、究極の身体性で、禅が目指す境地というのは

  『身体性』から決して離れない末に見えてくる『観』の感覚・・・故に『覚(さとり)』と言うことを思い出していた。

  佛教、ことに禅は、そこを徹底し、身体性の伴わない知識の集積『知恵』と、究極の身体性である『坐』を通して得た『智慧』を峻別する。

 

  禅寺に入ってまず、目に入るの禅語は『脚下照顧』の標語板だが、一般的には脱いだ履物をきちんと揃えておきなさい・・・ということだが、

  それは表層的な意味の捉え方で、『大地に生きている自己をしっかり意識しろ!』的な真意があるだろう。

  禅の修行は『身体』という制限に生きる、自分自身をしっかり見つめることに他ならず、徹頭徹尾その事実から目をそらさない『行』なのだ。

  『法界定印』という手の組み方も、『半眼』にすることも・・・いま、ここに『坐』している自己が在り、それ以下でも以上でもない境地を基とする。

  頭でっかちの知識を排し、地に足のついた智慧をより大切に育んできた東洋智慧の究明こそが、これからの時代をリードしてゆくのだ。

 

  自身が脳科学者であり、最先端の科学と一般人の間の橋渡し的な優れた活動をしている茂木健一郎さんにして、禅的な『視座』の欠如はある意味

  非常に残念な気がするが、逆に言えば、私には科学的『視座』が全く無い…わけだから人それぞれ十人十色ということか。

  それにしても、日本人であれば、幼少期より身体性の大切さを伝えている伝統文化としての『道』を、何にせよ体得することは素晴らしい。

 

               

              私のアパートには、老師から頂いた『独坐大雄峰』の掛け軸があるが、このどこにもいかない『坐』こそが『大雄峰』なのだ。

                        ( 昨朝のバラ色のモンブラン 2025 1/ 24 )


  即『坐』の智慧

2025年01月22日 | 東洋自分なり研究所

  AI である ChatGPT を一度でも使った者が、最初に驚嘆するのは、その反応のスピードだ・・・。

  『人間わざ』ではない・・・を実感する瞬間であり、AIの存在を強く認識させられる瞬間でもある。

  私のような低次元での使用でも、一応ビックラこいているのだから、高次元で使用している人々の恩恵度は想像もできないほどだろう。

 

  で、そのスピードについて何か書こうとおもって『即座』という漢字を観たとき、私はその文字『座』の在ることに驚いた。

  私にとって『座』は『坐禅』の『坐』と観て、それは即、『般若智』を表すので、『即坐』で『般若智のスピード』を意味しているのだ。

  つまり、佛教的に云うと『即坐』とは『観自在』の般若智で、

  『AI』の人工知能に対する自(慈)性の智慧ということで、私は『JI』と先日名付けたばかりだ。

 

  たぶん私はだれよりも『色即是空空即是色』の『即是』に注目する者だと思っているが、

  『即是』のスピードたるや、量子力学でいうところの『重ね合わせ・もつれ』反応のスピードで、光より早いと思う。

 

  そのスピード感を、いにしえの仏教徒は『即坐』・・・と書き表した。

  面白いのは、『速い』はずなのに『坐』であることだ。

  ここを、現代人によく考えてもらいたい。 禅の公案として『AI時代』に生きる人間として解明すべき問題だ。

 

              毒リンゴ 喰らえと蛇の そそのかす 即坐に観るや 弥勒微笑む :馬骨

 

  私は小学生のとき、学級委員とかいう頭のいい子がやる委員ではなく、体育の時間だけ元気がよかったので、厚生委員なんかを拝命して

  クラス全員の前で司会のような役をやらされ、いつも家に着いてから『ああ〜、あれはこう言えば良かった…』などと自分の頭の遅いことを

  嘆いて、それは今現在も同じだが、智慧より先に『感情』が即坐にその正否を示していることに気づく。 感情は思考よりも速い・・・。

  それは『坐』によりて、その智慧が在ることを知る・・・。


 『禅』は三段打ち上げロケット!

2025年01月18日 | 東洋自分なり研究所

  何かが大きく変わろうとしている時代、その最先端2025年における『禅』の果たすべく役割について展望してみたい。

 

  馬骨の『水晶占い』ではないが、禅についてはこんな風景が観えるのだ・・・

         

             禅ロケット音は『観世音』を発し、音色は『天上天下唯我独尊!』で飛翔中

 

 

  禅とは何か? という問いが常にまずくるわけであるが、禅に携わった者でも、その見解はそれぞれであることを前提としても

  釈迦の『悟り』というエッセンス(本質)を捉えての『禅』であることは間違いないだろう。

 

  ここからは、無学な馬骨論になるが、

  禅が人類救済の為に、人類自らが打ち上げたロケットであるとした時

  地上から宇宙に打ち上げる為に、最初の打ち上げエネルギーとして『初期仏教』があり、次に『大乗仏教』があって、

  『三段ロケット』の様相を経て現在の『禅』がある・・・と、観てはどうだろうか。  

 

  この『三段ロケット』と言うところを、今年の『巳年』にちなんで、『脱皮』といってもいいと思うが

  禅というのは、歴史的には『三段ロケット』であるけれども、あらゆる時空の制限から絶えず『脱皮』している点から言えば

  『脱皮』という言葉がより本質を捉えているかもしれず、それ故に『禅』を外から傍観する人々には、『禅』が観えずらいのだともいえる。

 

  9世紀の中国唐代の禅僧、臨済禅師は『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ(臨済録)』・・・とすでに凄いことを言って

  『禅』が何モノにも属してないことを、極端な言い方で強調している。

  仏陀も、あらゆるイデオロギーから、自由な立場であることを『天上天下唯我独尊!』・・・と初めから言っているわけだ。

 

  その点については、私は臨済宗の禅寺・円覚寺で禅を修行したが、徹底していて、私は禅が仏教であることすら念頭になかった。

 

  どんなに、科学が進歩して『物質』の本質に迫ったとしても、イデオロギーの呪縛からの解放という問題はまた別問題で

  人をして無にする『仏質=仏性』に眼を向ける『禅』の存在により注視する必要があるのだと思う。 


  『色即是空』 の 音劇『ノートルダム・ド・パリ』

2025年01月15日 | 観・音楽

  昨日は一日、フランスのミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』にスッポリはまってしまった。(過去にも何回かハマっているが)

 

  私はヒョンなことから、フランス語圏はスイスに住んでいるが、それも三十数年・・・で、フランス語にもフランス文化にも

  いまだに別段それほど興味もなく… たぶんその弱点というのは、私のせっかくの人生にとって大いに『マイナス』であるとは思っていながら

  そればかりは、どうにもならなく『仕方ない・・・』と、放って置いた。

  でも、このミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』には 『色即是空』を色濃く感じて・・・フランス語もフランス語文化も滅茶苦茶好きになりそうなのだ。

 

            

             三人の男が… エスメラルダに愛の歌を捧げる一節 Who is he who throws the first stone at her?

             『 誰が彼女に最初の石を投げるのか その者は地上にいる価値などない・・・』 と深いコトをいう。

 

  私はいつも『色即是空』の『色』という字・・・その翻訳した仏教徒に深い敬意をはらう。

  『色』という言葉の持つ、なんと深いことかと。 『色』のその本当の鮮やかさは、『空』に至った者にしか解らないのでは・・・。

  たぶん欲望というのは『空』に至るための『色』の働きで、『空』に至ることで、『色』をよく理解し、良く生きる智慧を生むのでは・・・。

 

  『色』と『空』とは仕切りのない、色を限りなく無くした果に 空じる 色でもあり、色でもない・・・というような次元に

  私たちを導く生命の働き・・・なのではないだろうか。 

  さすが仏語の国のミュージカルのことだけあるわい、言外に『色即是空・空即是色』を見事な歌声で歌い上げている!!

 

 

     このミュージカルのフルバージョンを観たい方は コチラから ↓ フランスにハマる注意あり

             https://www.youtube.com/watch?v=3AnTqOIgPr0&t=5710s                            


  Bad-man・辰 の『ミス』考

2025年01月14日 | オレ的アングル

  定年退職(2017年)以来、週イチ3時間のバトミントン修練を続ける中で、いろいろ思う事がある・・・。

 

  他のスポーツはどうか知らないが、我々がやっている『バトミントン・ダブルス』において、自他ともども『ミス(失敗)』する機会の絶大なること

  他の追従を許さない・・・スポーツではないかと、思う今日此の頃、その意味と意義を考えてみた。

 

  土曜日の午後、3時間、その日参加する人数によって最大4コート利用できるバトミントン・クラブに私は参加している。

  平均年齢が40〜50歳ぐらいで、内女性が3〜4人、だから多いときは全員で16名ということになり、そのうちの4〜6人は

  別の曜日もプレーしているので、バトミントンに完全にハマっているオヤジの中には週に3回プレーしている奴もいる。(かつて私の如く)

 

  バトミントンをプレーする時に、問題になるのはそのレベルで、実力の差がこれほど歴然とするスポーツもまた珍しいと言えるかもしれないほど

  レベルに差がつくスポーツで、昔私は競技団体に所属して、各地域で主催される大会に参加したものだが、

  A(ナショナルチームに参加するレベル) 以下B,C,Dとレベル分けされる中私はDの3のレベルであった。

  このレベル分けがなければ、話にならないほど、実力差が大きく、プレーしていても全く面白くないのだ。

 

  そういう意味では、私が今参加しているグループのレベルというのは、平均値として『Dの上〜中』で、この範囲で上手い者と下手な者いろいろだ。

 

  このグループでは、マッチ(試合)を始める前の15分ほどの準備運動としての羽の打ち合い、それが終わると残り2時間45分はすべてダブルスの試合となり、

  2セットの試合が終わると7、8分の休憩をはさんで即、自分と相手のパートナーと変えて次の試合が始まる・・・この繰り返しだ。

 

  バトミントンのダブルスというのは、パートナーとのコンビネーションが非常に難しいスポーツで、基本的なことをトレーナーに付いて

  一度でも学んだ者と、そうでない者とでは動きがぜんぜん違ってくる事もあり、組んだパートナーのレベルによって自分の対応が違ってくることを

  プレーするうえで自覚することが重要になる。

 

  ・・・エトセトラ。細々書くとキリがないのでこれくらいにして、『ミス(失敗)』について書くと

  自分のミスもさながら、時々一緒にプレーするパートナーの『いつものミス』には、ほぼ『諦めの境地』に私は達していて、

  それは、自分の『いつものミス』・・・バトミントンであるから、一瞬の判断におけるプレーにおける『いつものミス』に自動的にハマってしまう

  魔境との戦い・・・とも言えるコントロール不能状態に陥るたびに、『あぁ〜っ!』と後悔することが、ママあるのだ。

 

  本来であれば、『いつものミス』を矯正すべく、プロのトレーナーとともに、同じシチュエーションを繰り返し練習して克服すれば良いのだが

  そういった余裕のない我々は、ぶっつけ本番での際に克服すべき点を、強い意志をもって問題克服に取り組むべく『試合』に挑む…しかない。

  その意味では、バトミントン・ダブルスという競技は、そのチャンスが何度も何度もやってくる競技であることは、実にありがたい競技であるのに

  私達はそれでも毎回『いつものミス』を繰り返している・・・。これの克服が『Bad-man辰』(私のバトミントン名)の今年の目標である。

 

  (せっかくのチャンスを『いつものミス』で台無しにする・・・という状態は、『小さな悟りチャンス』を意識の働きが薄弱の為に見逃すのに似ている…かも)

 

              

  バトミントン世界選手権大会がローザンヌであった1995年(私43歳)から私はバトミントンにハマり、引越屋になる2003年まで夢中にプレーした。

  2017年に定年退職したのを機に、バトミントン再開! 今に至る・・・。昔はシングルのみ、現在はダブルスのみ。

               

  


 瓢箪から牛の『十牛図』

2025年01月13日 | 東洋自分なり研究所

  先日、相方が彼女の重要箱からハガキ大の白黒写真を取り出し、『この写真、私大好きなのよ…』と言うので、見てみると

  私の自撮写真、いわゆるセルフポートレート写真で、昔、隠岐の島へ闘牛の写真を撮りに行った時の一枚だった。

 

              

  24歳のときの写真で、ゴルフキャディのバイトから、卒業した写真学校(芦屋)に助手として雇われ、金と時間に余裕ができたことで

  何故か、『闘牛』をテーマに、宇和島とか隠岐の島とかに取材に出かけた時の写真・・・であった。

 

  相方に見せられ、久々にこの写真を観て、『隠岐の島の闘牛を撮りに行った時の写真だよな…』と思つたとき、『あれっ、十牛図』と思い

  この時、初めて自分の『闘牛写真』と悟りの進捗具合を絵図にした『十牛図』とが、直結した。

          2023年9月7日のブログ記事〜ギャラリー還暦『森』〜宇和島の闘牛

 

  昔禅修行していた当時、古本屋さんで買った山田無文老師の『十牛図』を持っていて何度か読んだが、ピンと来るわけでもなく

  自分の修行との接点も見いだせず、うっちゃっていたような『十牛図』本であった。

  それが、今頃になって自分と禅と牛写真とが、一つながりに『十牛図』に繋がったような気がしたのだ。

   ( 4年前ぐらいに十牛図について少し書いたものがあった 2021年7月11日のブログ記事〜大丈夫教)

 

       

 

  上の私の写真は、この十牛図でいえば、1番の『尋牛』ということろか? 

  というか、それにしても後に『禅道』を歩むことになった私が、24歳の時、撮影の為とはいえ牛を尋ねて宇和島や隠岐の島に行くなんて・・・。

  今になって思うと、私は『十牛図』そのままの人生を生きてきたような気がするが、考えてみると十人が十人それぞれの『十牛図』を歩んでいるのだと思う。

 

  私が『還暦スキャン』と、自分の過去を観察の眼を持ってじっくり顧みる事を奨励する意味というのは、じつは誰の人生にも必ず

  『十牛図』があるからなのだと思う。

  自分の人生というのは後で、吟味しなければなかなか解るものではないような気がするが、どうかな?

 


  ロサンゼルスの山火事におもう…

2025年01月12日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  昨年は、元旦から能登地震があり、大いに意気消沈したので、今年は元旦から6日過ぎてもこれと言った災害がないようなので

  今年はなんとか穏やかな滑り出しをしたかな・・・と思っていたら、7日過ぎてロサンゼルスで山火事発生というニュースがあり

  10日になってもますます火力が強まっているというニュースをYoutubeで観て、その規模がただ事ではないことを知る・・・。

 

       

 

  現地住人のインタビューで、『逃げるのが精一杯で、何も持ってない… 』と茫然自失の様子に、言葉を失う。

  

  2022年 2月にロシアのウクライナ侵攻 2025年になっても収束つかず、戦争は続く。

  2023年 10月ハマスによるイスラエルテロ攻撃、 対するイスラエルのガザ(ハマス)報復攻撃が今も続く。

  2024年 元日能登半島地震が起こり、2025年になっても復興からはほど遠い状態・・・のようだ。

  もちろん、他にも私の知らない、戦争や災害が世界のあちらこちらで起きているだろう・・・。

 

  ロサンゼルスといえば、シリコンバレーの近くで、私的には『AIの街』だろう・・・と、頭の何処かで思っていたが、

  人間の英知の?倍の『AI』を駆使して豊かな生活を送っているであろう『よきサンプル地域』のはずが・・・。

 

  昨年4月から雨の降らない天候が続き、異常に乾燥した状態・・・それがわかっていて、現地の政治家や気候専門家は危機感を持たなかったのか?

  火事で逃げまくる際、渋滞で動きが取れなくなり、沢山の車が鍵をかけたまま路上に置き去りにした為に、消防車が通れなくなったという。

  ・・・そういった事を、事前に予測して警告するのが『人間の英知』であり、『AI』の仕事だろう??

  人間の『英知』は一体どこへ行った??  

 

  そういった事を思った時、『AI 対 JI 』について書いたけど、やっぱり人間の本性である『慈悲と智慧』を略した『JI』の智慧を働かすことの

  大切を思わずにはいられない。 

  世の『諸行無常』、は誰もが知っていながら、『諸法無我』への智慧については無頓着って、どうなんだ。

 

  


  元旦から駒の『正月』考

2025年01月10日 | 東洋自分なり研究所

  郷里の日本の正月も35年ほど、離れていながら・・・、いや離れているからこそ?か、 

  こちらヨーロッパの新年感の薄い・・・『正月』ではない新年に、慣れたというか諦めたと思いながらも、深いところでは…。

 

  しかし定年退職で、時間的余裕があるせいか、ふと『正月』という言葉と文字に眼がいってしまった。

  この72年間、一度もそんなこと考えたことがない『正月』考・・・といっても御存知のように、『〇〇』考というタイトルは

  単にカッコウ付けているだけで、学術的に何の裏付けもない、馬骨論であることを、年が改まったのを機におことわり申す。

 

  だいたい日本でも『正月』とは、その一週間ぐらいはなんか新鮮なのだけど・・・2週間もすれば新鮮味が薄れて、まるで生物(なまもの)ようではあった。

  で、なんで新年の一月をして『正月』というのか?・・・ちょっとググってみると以下にになる

  
  『1月を正月と呼ぶのは、「正」と言う字に、年の初め、年を改めるという意味があるからです。

   昔から、その年の 新しい歳神様を家族そろってお迎えし、祝う、大切な日とされています。

   正月は、日本の行事の中でも最も古くから存在するものだと言われています。

   お正月は一般的に松の内(1月7日・15日)までを指します。

 

  ・・・とあり、『新しい歳神様』という言葉があるので、正月は神道系の行事かな…?と思ったのだが

 

  馬骨的には『正月』という『正』という文字にこだわり、何となく、その根源が仏教初期の教え『八正道』から来ているのでは、と妄想する。

 

       『八正道〜①正見(正しい見解) ②正思惟(正しい決意) ③正語(正しい言葉) ④正業(正しい行為)

            ⑤正命 (正しい生活) ⑥正精進(正しい努力) ⑦正念(正しい思念) ⑧正定(正しい瞑想) の修行のことである。』

 

  これだけ『正』の字を使って、修行というか、生活を正していこうという仏教の基本的教え『八正道』が、『仏ほっとけゴミ屋(538)さん)と

  538年頃に仏教が伝来したとき、こういったシンプルな基本の教えが日本の文化慣習に影響を与えないわけはない・・・。

 

  で、日本では古来より新年を、新たな年として様々な仕掛け

  

  1. 大掃除   2. 門松・しめ飾り・鏡餅の飾り付   3. 年越しそば  4. 初詣

  5. おせち料理   6. お雑煮   7. お年玉   8. 年賀状   9. 獅子舞   10. 福袋

  11. 羽子板・凧揚げ   12. 鏡開き  13. 書き初め  14.除夜の鐘  15.忘年・新年会

  ・・・エトセトラ、エトセトラ、ざっとこれだけ、或いは人によっては個人的な『正月仕掛け』もあるだろう。

 

  こんだけ、全日本的に『正月』を盛り上げれば、日本に生まれた者は『正月』を実に『新たな年』と思わざるを得なくなるものだ。

  その根底には仏教思想である『慈悲と智慧』が脈々と息づいている事は間違いないであろう。 目出度い・・・。

 

             

               スイスの我が家のささやかな『正月』印・・・・図

 


  アパート『階段展』

2025年01月09日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  先日の1月5日に、相方の姉が70歳の誕生日・・・ということで、彼女のリクエストで、姉の友人のアマチュアの詩人で絵描きのM女史が住んでいる

  アパートの階段を利用し、住人(殆どが移民とのこと)の子供達の絵とM女史の絵、それにふさわしい雰囲気の有名な詩人の詩などを添えた作品を

  4階建てのアパートの階段に貼り付けた『階段展』を、一緒に観に行きましょうという申し出であった。

 

  場所はジャズ・フェスティバルで有名なモントルーの街。

  駅の山側のアパートで、私はこちら側には来たことがなかったので、その古くて、昔は高級住宅街であったであろうレマン湖に続く斜面に立ち並ぶ

  建造物に往年、栄えていたであろうモントルーの面影を見るおもいで街並みをながめた。

 

  我々を駅まで迎えに来ていたM女史は、かっては精神科医として長年働き、現在は定年退職者で、わたしよりたぶん2〜3歳年上の人だと思う。

  彼女はフランスで有名なマンガ家・サンペが描く『プチ・ニコラ』に出てくるような、典型的な上品な西洋婦人の雰囲気をかもしていた。

 

        

  ↑↑こんな感じで、沢山の作品が貼り付けられ、それぞれの絵に詩が添えられていて、私でも読めるモノもあったが、

  なにせ、数が多く、スラスラと読めない我が低能力を恨んだ。

  子供達が思い思いの『想い』を描いたであろう作品は、未だ言語化することも想定しなかったであろう・・・それらにM女史が詩人の詩や作家が書いた

  一節を添え、それらの『想い』が言葉と共鳴して、それこそ想定外の深みや高さをみせたが、絵を描いた子供たちに物凄い影響を与えるだろう・・・と思った。

        

  考えてみると私の定年退職以来、私は沢山の定年退職に出会うことが多いが、このM女史 ↑↑のように、

  何かしら社会的活動をしている人達が多いことに、気付く。

  『階段展』という・・・地味な作品展であるが、そのクオリティたるや、侮(あなど)れないと言うか、素晴らしいと思う。

 

          

  『 翼を広げて飛ぶ鳥を、どうして嫉妬出来るだろうか?』

  『 しかし友よ、この出会いが危険なものとならないようにしてください。そうすれば私は心から祝福します!』

  『 無垢に生きることは何の役に立つのかな? ミューズを育むことは何のためにあるのか?』

  ・・・写真に撮っておき、後でフランス語を訳してみた。  だいたいこんなような事が書かれている詩であった図