拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

   『坐』は身体性の究極的象徴

2025年01月25日 | 東洋自分なり研究所

  ほんの数日前、Youtube番組『Imagine大学』の学長である茂木健一郎さんのお話『言語ゲームと身体性』があった。

         https://www.youtube.com/watch?v=YWgUQYThQx4&t=616s

 

  その番組のなかで、彼は『僕は現代の日本のネット空間のあり様というのは、身体性を忘れた志向性のゲームをしている気がするんですよね。』と言い。

  Chat-GPTをはじめ、様々な『AI〜人工知能』を介した情報空間に終始して、実体験の伴わない知識の集積に満足しているかに見える現代人の風潮に

  危機感を表明していた。

 

  私はこのYoutube動画を観てあらためて思ったことは、坐禅の『坐』こそは、究極の身体性で、禅が目指す境地というのは

  『身体性』から決して離れない末に見えてくる『観』の感覚・・・故に『覚(さとり)』と言うことを思い出していた。

  佛教、ことに禅は、そこを徹底し、身体性の伴わない知識の集積『知恵』と、究極の身体性である『坐』を通して得た『智慧』を峻別する。

 

  禅寺に入ってまず、目に入るの禅語は『脚下照顧』の標語板だが、一般的には脱いだ履物をきちんと揃えておきなさい・・・ということだが、

  それは表層的な意味の捉え方で、『大地に生きている自己をしっかり意識しろ!』的な真意があるだろう。

  禅の修行は『身体』という制限に生きる、自分自身をしっかり見つめることに他ならず、徹頭徹尾その事実から目をそらさない『行』なのだ。

  『法界定印』という手の組み方も、『半眼』にすることも・・・いま、ここに『坐』している自己が在り、それ以下でも以上でもない境地を基とする。

  頭でっかちの知識を排し、地に足のついた智慧をより大切に育んできた東洋智慧の究明こそが、これからの時代をリードしてゆくのだ。

 

  自身が脳科学者であり、最先端の科学と一般人の間の橋渡し的な優れた活動をしている茂木健一郎さんにして、禅的な『視座』の欠如はある意味

  非常に残念な気がするが、逆に言えば、私には科学的『視座』が全く無い…わけだから人それぞれ十人十色ということか。

  それにしても、日本人であれば、幼少期より身体性の大切さを伝えている伝統文化としての『道』を、何にせよ体得することは素晴らしい。

 

               

              私のアパートには、老師から頂いた『独坐大雄峰』の掛け軸があるが、このどこにもいかない『坐』こそが『大雄峰』なのだ。

                        ( 昨朝のバラ色のモンブラン 2025 1/ 24 )



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