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逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

「日本文化における時間と空間」加藤周一

2013年06月23日 | 文化・歴史


『帝国の敗北、周りの空気を読む日本の不幸』

今の日本ですが、1945年8月15日の敗戦の少し前と酷似している。何から何まで少しも違いが無い。
世界の常識とは隔絶した特殊な日本的悪弊が蔓延して社会全体を蝕んでいるが誰にも止めれない悲劇。
日清日露の戦争でも日中15年戦争でも第二次世界大戦でも同じで、終始一貫して日本政府(マスコミ)は国民に『この戦争は正義の戦争だ。日本は勝ち続けている』と言い続け、国民を騙していた。
今の教科書的な解釈では、国民の多くは1945年の敗戦までその大本営発表の『神話』(真っ赤な嘘)を鵜呑みにしていた(騙されていた)ことになっているが、歴史的事実とは微妙に違う。
実はこれも1945年の敗戦後に、新しく作られた『神話』(真っ赤な嘘)である。
日本全土が焼け野原であり沖縄が陥落しB29爆撃機が上空を自由に飛び回っている。一億玉砕(本土決戦)が叫ばれていたのですから、誰が見ても完全な負け戦である。
敗戦時点では、実は国民全員が薄々『日本が負けている』(大本営発表が真実で無い)と知っていた。
知識層に限っては、敗戦間近どころか戦争開始のはるか前から確実に『最悪の結果』を知っていた。
ところが自分が熟知している(実は全員が知っている)『最悪の真実』を、誰ひとりも表てだっては口に出さなかったのです。
日本の最も悪い部分が出てしまった悲劇で、周りの空気を読んで、彼等は決して真実を語らなかった。
無力なインテリだけではなくて、日本で唯一の主権者であるヒロヒト天皇も近衛文麿元首相も東条英機陸軍大将も日本の敗戦を事前に知っていた。
最高責任者も知識層も一般大衆も、日本人の全員が同じなのです。
誰も彼もが周りの空気を読んで、大勢に流されていたのですが、今回の福島第一原発事故でも全く同じ種類のことが起きています。
全員が福島の悲惨極まる真実を知っているのだが、誰一人も『駄目だ』『負けている』と言わない日本人。
不幸の『先送り』の連鎖反応。悲劇と言うよりは、最早究極の喜劇である。
日本人のひとりとして本当に情けない。これでは間違いなく第二の敗戦はもうじきで、決して避けれない。

『福島検討委「2月」発表、意味不明の馬鹿騒ぎ』 

2月13日『3万8千人で3人の小児甲状腺がん確定、3人疑い』と公式発表。
福島県検討委の摩訶不思議な大本営発表を『逝きし世の面影』ブログが詳しくを解説する。
腰を抜かすほど驚いたのだが、『何とか記事を否定したい』との摩訶不思議な内容の嫌がらせコメントが沢山送られてくる。
そもそも驚愕の『小児甲状腺がん発症』は北朝鮮の核実験の大騒動のドサクサに紛れて、誰にも知らさないように極秘発表されていたのですよ。この重大ニュースに気が付いた日本人は極小数だったはずです。
(大量の嫌がらせコメントは以前にもあったが、その時は数千万人の視聴者があるNHKの「ためしてガッテン」での偽装告発なので当然である。
誰でも見るゴールデンタイムのNHKテレビと、読者が1日数千人のブログでは基礎となる人数が違いすぎている。基本となる条件が正反対)
頭が空っぽのネットウョやら妄想癖の極左の成れの果てやらエアー御用学者の筆頭菊池誠の科学教信者やら悪魔の碾き臼新自由主義命の池田信夫やら731部隊福島医大の鈴木教授モドキなど有象無象、種種雑多な邪悪な手品師詐欺師が跳梁跋扈する様は末世である。
彼等は、何とかして目の前の悲惨な事実を否定したかったのでしょう。
ところが事態は時間の経過と共に益々悪化する。
6月5日、福島県検討委員会が4ヵ月前に出した数字よりも悪い17万4千人で『確定12人、疑い15人』(合計27人発症)では否定コメントが一つも無い。
姑息な隠蔽工作の無駄を悟ったのでしょうか。
避けようが無い日本の崩壊を68年前の8月15日直前のように、今では全員が知ってしまったのです。

『違い過ぎる「6月」発表の完全沈黙の不思議』

この『逝きし世の面影』ブログの小児甲状腺がんの記事の趣旨は終始一貫していて同一である。
違いは、内容的に多少は判断がより明確で断定的になっている程度である。
ところが4ヶ月前にはあれ程有った福島県検討委の驚愕の発表を否定して、何とかして社会的影響を弱めようとする胡散臭い『コメント』群が、今回は完全にゼロです。
ほんの少し前にはあれ程有ったのに。たったの4ヶ月で自分たちを取り巻く環境が完全に様変わりしている恐怖。
小児甲状腺がん発症を『否定するコメント』が、今回まったく無い。
不思議過ぎるのである。
実は頭が空っぽのネットウョを含めて、今では日本人全員が薄々福島第一原発事故で『日本の破滅は避けれない』『もう駄目だ』との、恐るべき真実に気が付いたのでしょう。
福島県での小児甲状腺癌の爆発的発症の驚愕の実体を、みんなが薄々知っている。
何とか否定したいのだが、最早誰にも出来ない。
今の日本は68年前の敗戦直前と、全ての条件がまったく同じである。
知っているが、自分自身では『日本国の第二の敗戦』を口に出すのは恐ろしいので黙っているのです。

『まわりの全員で「空気を読む」日本的無責任』

五味川順平の『御前会議』が判りやすく指摘しているように、『衆知を集めて天皇に奏上』すると→『天皇は拒否しない。』→ところが→『天皇が裁可された。』事項は→『修正が不可能になる。』→しかし→『そもそも天皇にはNOと言うだけの勇気が最初からない。』
日本にはドイツのヒットラーやイタリアのムッソリーニの様な積極的な戦争指導者は一人もいないのです。
日米開戦の前の首相の近衛文麿も、開戦した東条英機首相も何れも同じで、何とかアメリカと戦争をしなくて済ます方法を考えていた。
戦争当事者の陸軍も海軍も主導権争いに忙しく、真面目に戦争を考えていたか疑わしい。唯一正しく先が読める山本五十六でも半年先程度の話で戦争終結までの戦略は全く無い。
明治憲法下での唯一人の主権者であるヒロヒト天皇もアメリカとの戦争に反対だったが何となく時流に流されて開戦に賛成する。
上は天皇から陸海軍、マスコミや知識層、中間層から庶民まで日本人全員が、その時々の『時流』や『ムード』に縛られ、今風に言えば『KYだ』(空気が読めない)とみんなに看做されたくなかったので、何となく開戦という流れに流されて戦争を始めてしまうのですから情けない。
東条は開戦を天皇に上奏する時に、感極まって号泣する始末ですが、何でこの時に誰かが『駄目だ』の一言がいえなかったのか。?
しかも一度決まると最後の防衛線であるサイパン島陥落で日本の命運は尽きたのに、1年以上も日本の全ての都市が焼け野原になっても原爆投下とソ連参戦の恐怖が実現するまで何時までもだらだらと止められない。
一度決めると『やめよう』と言う決断が出来ないあたりは、今の諫早湾や辺野古、原子力発電などの無駄に大きい公共事業とも共通する欠陥ですが、つくづく日本では誰も彼も中央部が空洞化していて『最高責任者には責任が無い』情けない有様。
この当事も実は今と事情は同じで、マスコミが国家を戦争の破滅の道に誘導していくが勿論当事のマスコミには戦争責任は無いし、マスコミ自身も世間とか世論とかに流されていた。

『共産党の70年前の栄光と蹉跌』

日本人全員が、世間に気を使いすぎていて、周りの空気を読みすぎる。
この正反対の空気が全く読めないのが共産党で、戦争反対を口に出せば監獄行きは免れないが、それでも自分の得にならない自説を主張して投獄される。
昭和天皇が死にかかっている時に、戦争責任を追及すれば幾ら正しくとも周りのみんなに嫌がられると知っているのだが(自分にとって得に成らないので)『止めよう』なんて考えは出てこない。
唯一同じなのが『一度決めた事は変えられない』体質なのですが、地獄を見るまでに何故小まめに修正する事ができないのか。
しかし22年前の冷戦崩壊で、なぜか日本共産党の『空気が読めない』姿勢が180度引っくり返るから不思議である。

『20年前の挫折と、共産党の摩訶不思議な転向』

今回の日本の第二の敗戦(福島第一原発事故)では、もっと情勢は悪い。
70年前には周りの空気を無視して日本国内で唯一戦争に反対したし20年程前には唯一戦争責任を追及した日本共産党までが、今回は空気を読んで周りと同一歩調をとっている。まさに挙国一致の体制翼賛会の再来である。
一億玉砕やら一億総懺悔やら、大勢順応、全員一致の完全復活である。
これでは日本国の敗戦は避けれない。
躍進していた昔とは大違いで、今の日本共産党は何とも不思議な話ですが、以前には自分たちが完全否定していた宗教的な慈善活動を恥じることなく堂々と行っている。
18年前の1995年1月17日に発生した阪神大震災で日本共産党が被災民を助けるボランティアとか募金を呼びかけたのですが、これは社会科学の最先端である共産主義とは無縁な発想であり無茶苦茶です。
地元の神戸の共産党組織がやむを得ない緊急避難として、目の前の市民を助けるのは当然である。
ところが、これとは別に、党本部がボランティアとか募金を呼びかけるなど労働者の利益を守る左翼政党として自殺行為ですよ。(3・11大震災では今でも共産党本部が募金を全国的に呼びかけている)
そもそも日本人の今までの労働感では、正当な働きに対しては正当な報酬が支払われなければ成らない。
ボランティアなどの『ただ働き』の勤労奉仕は、労働者にとっては愚劣で最悪の行為である。
被災民を助ける為の募金活動も同じで、日本政府による救援義務を誤魔化す煙幕程度であり、左翼政党としては自己否定に近い最悪の行為である。
今の日本共産党は宗教の慈善活動に近い行為を行っているが、20年以上前では絶対に無かった。
何も日本共産党に限らずとも左翼政党が政治活動として、『慈善』活動を行っては絶対に駄目なのです。
それは慈善ではなくて、『偽善』である。
日本共産党が、何故か20年ほど前からキリスト教系の宗教団体モドキに変質しているのですよ。腹が立つ。
昔を知ってる者には考えられない異常事態であり、これでは共産党が勝てるわけが無いし、日本が病的に右傾化したのは当然の結果であった。

『個人主義の欧米社会、共同体指向の日本人の社会意識』

日本はコンセンサス社会だとよく言われるのですが、これは日本的な『空気を読む』と同じ意味である。
欧米的な個人主義を基本とする合理主義ならば、『空気の制作者は誰か?』とか『仕組みだって誰かが作らなければ存在しないだろう』などと考えるが、これは大きな勘違い。
日本ですが、欧米とはその成り立ちが違っていて、そもそも『コンセンサス社会』なのです。
この『コンセンサス』とは、本来の英語のconsensusの意味とは大きく違う、曰くいいがたい摩訶不思議な代物で、無理やり一言で説明すると今大流行の『絆』であり、本人の合理的な意思だけでは『切るに切れない愛おしい束縛』のことなのです。
『絆』の語源は家畜の足を縛る紐のことであり、自分自身の意思では絶対に脱出できない恐ろしい罠でもある。

『ムラ社会としての日本』

日本独特の『絆』で、お互いが『空気を読む』日本的共同体である『ムラ社会』については知の巨人の加藤周一が考察しているのですが、これは面白い。
日本の共同体意識ですが、決して西欧的な民主主義とか社会主義とかのパブリックの概念とは無関係。
共同体意識は、日本独自の『ムラ社会』の『絆』として発展してきたもので良さも同じなら弊害も同じ。
共同体としての日本的『ムラ社会』は、特徴としては民主主義のパブリックとは違い、その規模が限定的で小さくて広がりが無い、『公』(パブリック)よりも『私』(プライベート)に近い性格がある。
プライベートな共同体の特徴とは内(ムラ人)と外(ソト人)との峻別が過酷であること。
ムラ社会の共同体の『内側』の人々に対しては常に優しく公平で誠心誠意、正直である。
だから絆が残っている東北の大震災直後に欧米など外国なら必ずある略奪も暴動も日本では絶対に起きない。田舎ばかりか日本では神戸などの大都市でも起きなかった。
ところが一度『外側』と認定されると話は別。内側に適用される『優しさ』も『公平さ』もまったく無い。
話が完全に反転してしまい、どれ程悪質で理不尽でも何も問題とは感じない。
この一番端的な悪しき例は、日本国を原発事故で未曾有の危機に叩き込んでも少しも反省することも恥じることも無い厚顔無恥で強欲な、あの政官財学報の極悪利益共同体である『原子力ムラ』を想像すれば『なるほど。!』と、誰でもが納得してもらえると思います。
彼等は社会(パブリック)の利益の上に、自分たちの小さな集団である身近な身内の『ムラ』(プライベート)の利益を優先して何ら恥じないのです。

『日本文化における時間と空間』

世界に例が無い、日本独自の『ムラ社会』の不思議ですが、加藤周一の最晩年の著作『日本文化における時間と空間』での日本論が参考になる。
『普遍性と縁が無い』日本文化の際立った特徴の原因とは、日本人の時間と空間に対する独特の概念らしい。
日本語では『時制』が非常に曖昧で不規則に使用されるが、時間が過去から現在、現在から未来に一直線に流れる単純構造の世界基準ではなくて、過去も未来も、すべてが今現在の時間軸『いま』の延長線上にある。
日本では現在(いま)に繋がる過去や未来として捉えられている。
過去も未来も『現在』から独立していなくて、すべてが『いま』の概念の中に収斂するのです。
空間の概念も、今現在の自分たちの住む場所『ここ』が、すべてに優先する。
日本文化の中では時間も空間も『部分』として捉えるが、困ったことにその事実を日本人は正しく認識していない。
『いま』とか『ここ』が、全体(世界)に対する単なる『部分である』とは考えない。この『いま』とか『ここ』を日本ではもっとも重視していて、これ等の小さな『部分』を積み重ねることで『全体』へと至るという思考方法です。
これは帰納法的なミクロな、ある意味では自然科学の最も多用する手法なので、日本人は西欧的な『普遍性』や『超越性』を少しも必要とはしていなかった。
空間は『ここ』(自分の生活空間である家やムラ共同体、会社、国家)なので、日本人独自の強い帰属意識が生まれるが、その関心は共同体内部(ここ)に止まり、外部(社会とか世界)までは考えない。
『いま・ここ』主義は、必然的に日本独自の不思議な『ムラ社会』が出来上がる。

『いまを優先して、過去は水に流し、将来は風まかせ』

遠い将来に起きる悪い心配は無視して考えない。
時間が『いま』なので、過去・現在・未来を鋭く区別するのではなくて、現在にすべてを収斂させるので、これでは無条件・無原則の際限の無い現状肯定が起きてしまうので、過去の戦争責任などの追求には反発を感じるのは当然だった。
安倍晋三など日本の右翼(歴史修正主義)とは、日本人特有の『いま・ここ』主義から生まれる際限の無い現状肯定の見本のような内容なので、原発の再稼動とか自衛隊の国軍化を主張するし、無条件の対米従属にも疑問を感じない。
終わって仕舞った過去の失敗(68年前の帝国の崩壊も、2年前の原発の爆発も)など悪いことは水に流し、将来のことは風まかせ。出たとこ勝負のケセラセラで済まして仕舞う。
決して自分が責任を取るとの姿勢が無い。『過去は水に流し、将来は風まかせ』で最初から考えないのは日本独自の『いま・ここ』主義による無制限の現状肯定の思想から生まれているので日本の場合は根が深い。

『かんながらのみち』(随神の道)

西洋思想の根幹を成すキリスト教(一神教世界)的な観念論世界での価値や真理は、歴史的に超越的なものとして成立している。
ところが、すべての物事を『ありのままに、そのまま受け入れる』(無制限の現状肯定)という日本的な『かんながらの道』には超越的な動機は少しも含まれていない。
古代には外から最先端の先進思想である超越的な儒教や仏教が入ってくる。
ところが、超越的でない『かんながらの道』の伝統に飲み込まれて仕舞う。逆に儒教や仏教の方が超越的な本質部分を変えて日本的に変質して、千年以上も実生活を超越することが出来なかったのである。
恐るべし神ながらの道。
それなら150年前に新しく入って来た外国由来の最先端の『思想』や『哲学』『宗教』が、超越性を獲得出来ずに無制限の現状肯定に陥ったのは不思議ではなくて当然だった。
戦時中の知識人の戦争協力は『結果』(必然)である。
本来『科学』的真理は普遍的であり、その意味では完全に超越的である。
科学的な客観的真理はガリレオ・ガリレイの『それでも地球は動く』との言葉の通りで、人々の思惑とか思想、善悪には何ら影響されない。
ところが日本では『科学』さえも、はるか昔の『かんながらの道』につながっていて、世間の思惑や周りの空気に左右され融通無碍に変化するのは、原発の安全審査を見れば明らかである。
普遍的な科学的真理さえ歪める日本的『かんながらの道』は、敗戦前の知識人の戦争協力のみならず、日本の近代思想の内側を解く鍵である。
それなら60年間も『かんながらのみち』に抵抗して独自の道を歩んできた外来の共産主義(共産党)が、とうとう20年前から日本的『無制限の現状肯定』に変質するのはむべなるかな。
なんとも致し方ない成り行きである。
現在の『小渕書簡』を隠蔽し、福島県の小児甲状腺がんの爆発的発症に目を瞑る日本共産党の不思議な(自殺行為の)理解不能の協力姿勢とも繋がっているのだろうか。
しかし、それにしても不思議である。到底合理的には説明が付かず理解不能。不可解である



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21 コメント

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根が深いのですね。 (なおじ)
2013-06-22 01:52:31
かねてから日本人、いや、この島国国家に永く暮らしている人々は、「顔見知り」には「温かい」のに、「それ以外」には「冷たい」のは何故だろう?と思っておりました。単に「慣れていない」のだろうと思っておりましたが、どうやらもっと根深いものがあるのですね。
ストンと腑に落ちましたが、同時に、とても暗い気持ちになりました。この状況下で、最善の策などとても浮かんできませんが、事態を少しでもマシにする為のヒントとかお持ちでしたら教えていただけたら幸いです。この後に及んで、そんなものはもはやない!ように私自身は思ってしまっている節があるので、無責任な問いかけではあるのですが、、、、、、。ごめんなさい。智慧者のあなたなら、もしや。と思い敢えてお尋ね致します。
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恐るべし、日本文化! (asobitarian)
2013-06-22 11:38:47
私も最近、加藤氏のこの本を読み、それについて記事を書こうと思っていたところでした。
それにしても、加藤氏の言うように、この「いま=ここ」主義という現在主義と共同体集団主義が千年以上に及ぶ日本文化の伝統だとすると、なおじさんも言われているように、日本人の歴史忘却主義と現状追随主義はほとんど克服不可能な宿痾という絶望的な結論になってしまいそうですね。
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作っているのか、壊しているのか? (お花畑)
2013-06-22 14:08:41
創造的破壊という名のただの破壊。
破壊は破壊に過ぎない。
壊すばかりで作らないからどんどん衰退。

効率化は結構だが効率化して浮いたリソースを
何に割り当てたのか?
結局人から職業を奪っただけではないのか。

育てもせずに非難するばかりでは単なる破壊者。
知性をどのように使うか?
人類は知性をろくでもなく使う人型の魔物にやられているようです。

地獄も極楽も方便で、屑が荒らせばそこが地獄になり
出来る人がそれなりの世界を構築しようと努力すれば
そこが極楽になっていく。

地獄も極楽もこの世のものであり、来世とは子どものことに過ぎない。(私なりの解釈です。)
子どもがいない人に来世などない。

>普遍的な科学的真理さえ歪める
質の悪い虚構が流布されるくらいなら現実に引き戻した方が遥かにましですね。その上で質の良い虚構がなければ弱者なんて当たり前に死ぬべき存在になる。弱肉強食で弱者が生きられるわけがない。弱者が生きていられるのはまだ質の良い虚構が通用しているからです。
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補足 (お花畑)
2013-06-22 14:20:10
>子どもがいない人に来世などない。
子どもが出来ない人を突き放すような物言いになっていることに投稿してから気付きました。失礼しました。(ちなみに当方も子どもはいません。)
自分の子どもがいなくても例えば何かを作ってこの世に残していくなり、人を教育するなりでも自分のかけらが残っていくことになります。

ただ、人間なんてミジンコと大差ないですけどね。
勝手に偉ぶっているだけです。
返信する
ありのままに、そのまま受け入れる (宗純)
2013-06-22 15:28:23
なおじさん、asobitarianさんコメント有難う御座います。

すべての物事を『ありのままに、そのまま受け入れる』という超日本的な、『かんながらの道』には超越的な動機は少しも含まれていないので、此処からは無制限の現状肯定が生まれやすい。
ところがですね、
ノーベル医学生理学賞を受賞したフランスの有名な生物学者ジャック・モノーが著書『偶然と必然』で、
『人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべき』と強調しているのですが、単純明快、
これって丸っきりの日本の『かんながらの道』そのものですよ。
1910年生まれのジャック・モノーは続けて、『にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである』とした。
これが色々な解釈が出来る余地がある曲者である。
「偶然と必然」を読んで
2009年11月08日 | 共産党
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/220ade96bf6e4a32482888040d3a89fe
欧米先進国ですが自動的に一神教世界なので、西洋思想の根幹を成す観念論世界での価値や真理の『超越性』とは、無条件で良いとは断定出来ない、
両刃の刃で有りとんでもない危険物ですよ。
日本とか日本人に対する観察眼は鋭いが、その点だけは加藤周一は甘すぎる。
一神教の持つ超越性を、善意に誤解している節がありますね。
超越性と普遍性とは表裏一体の関係にあり、現在の社会においては唯一『科学』だけが普遍性を持っている。
科学を人々が信じようが疑おうが、科学的客観的事実には影響せず微動だにしないのが特徴で、
その意味では完璧に全ての思想を超越している。
ところが一神教は自分の超越性と普遍性を主張するので、時々科学と正面衝突して騒動を起こしているのです。
ダーウィンの進化論とアメリカの福音派(原理主義)
2008年09月22日 | 宗教
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/2d655300bed438a5c7a7348e501fd9a3
国学の本居宣長が見つけた元々の日本にあった古代神道の根本精神である『かんながらのみち(随神の道)』では、『すべての物事をありのままに、そのまま受け入れる』ので明治以降に出来た新興宗教『国家神道』もすんなりと受け入れてしまう。
ところが、
この国家神道とは、超越的でない『かんながらの道』の伝統とは正反対の、超越的な一神教的な破壊的カルト宗教ですね。
日本の伝統とは一番遠い存在で、そもそも可也無理をしていたのでしょう。それなら68年前の失敗は当然だった。
現在の失敗も、実は無条件の対米従属で、アメリカと言う超越的なものを無理やり日本人が信じているところから発生しています。
日本の失敗は超越性の無さではなくて、
その逆で、日本の伝統にまったく無い超越性を無理やり主張するところから来る矛盾が爆発して、にっちもさっちも身動きが取れなくなったのでしょう。
そもそも『すべての物事を『ありのままに、そのまま受け入れる』とは、ジャック・モノーがいうように科学の精神そのもの。
イロハのいであり根本なのです。
今の日本から色々ある余分な超越性を剥ぎ取って、元々の『かんながらの道』に立ち返ることが一番の解決策かも知れません。
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難しい (ちくわ)
2013-06-22 15:51:37
ありのままに受け入れることは、実は難しい。多くの場合自分が見たいモノを見、聞きたいモノを聞いているだけ。もしかすると多くの日本人は近い将来の絶望を感じてはいるのかもしれません。しかしそれを受け入れるほどには強くない。事実から目を背け流布される甘言にすがり、それを真実だと思い込もうとする。それが今の日本という国の姿なのでしょう。
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阿吽の呼吸 (宗純)
2013-06-23 11:45:02
お花畑さん、コメント有難うございます。

コメントを何度も読み返したのですが仰りたい内容が残念がら理解出来ません。
話が如何とでも解釈出来るのですよ。もう少し具体的に分かりやすく書いてもらわないと私の能力では無理ですね。
大事な部分がさっぱり分からない。実は物事の正誤が大事なのではなくて、一番大切なのは価値観であり、優先順位なのです。
私にすべての物事に対する読解力があると勘違いしておられる方が多いが全くの勘違い。
そもそも何かが優れているとは、その他の別のものが劣っている場合が多いのですよ。
人の能力には必ず一定の限界がある。
米長邦雄が良い例で、能力の99%を将棋に消費した為に社会人としての一般常識では小学生以下の痴呆状態ですよ。
返信する
サバイバル (宗純)
2013-06-23 12:17:47
ちくわさん、コメント有難う御座います。

危険な登山とか緊急時のサバイバルでは、『自分が見たいモノを見、聞きたいモノを聞いているだけ』状態では間違いなく命を落とします。
自分の正しい現状認識だけが唯一生残るための条件なのです。
極限状態では、『自分が如何思うか』などは何の意味も無く、自分の認識と、現実との『一致』だけが大切であり、主義主張とやらの超越性とか願望とかは邪魔にこそなられ、役に立つことは滅多に無い。
ユリウス・カエサル・シーザーは、『人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。』との名言を残しているが、人は聞きたいことしか聞かない。
見たいものしか見ない。
カエサルは、『人々はほっするところのものを、喜んで信じる。』とも言っているが、人は望んでいることしか信じない傾向がある。
『人は、望んでいることを喜んで信じる』から、何回も信じられないような大失敗を繰り返すのです。
地獄を見ないと人間なかなか賢くはなれないし、一度地獄を見て少し賢くなっても時間が経てば元の状態に戻るのですから情け無い。
68年前に、権威あるマスコミとか政府が全員一致で真っ赤な嘘を垂れ流すとの、恐ろしい真実を日本人全員が知ってしまった。
ところが350万人もの日本人の命で購った貴重な体験も、今では完全に失われているのですから、本当に情け無いですね。
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すみません。 (お花畑)
2013-06-23 12:22:56
仰るとおり、とらえどころのない文章になっていてすみません。

>実は物事の正誤が大事なのではなくて、一番大切なのは価値観であり、優先順位なのです。

まさにこれですよね。どういう価値観を優先するか。
間違っていても信じたいものを信じる。
価値観とは宗教的感覚そのもので、それは時として生物が最優先しているはずの生存より優先される。
勝ち目のない戦いで特攻をしようと、自殺者が増えようと、原発事故で大損害が出ようとも、宗教的価値観にそって動く。
コペルニクス的転回は、中々難しいようです。
返信する
共産党について質問です。 (お花畑)
2013-06-23 12:30:37
当方は共産党とは何の関係もない人間で全く知らないのですが、ソ連崩壊後、共産党は共産主義に対してかの国の失敗を見て何らかの修正を加えたのでしょうか。本来左翼とは革新のはずですが護憲をやっていたり、ウヨクが革新的な新自由主義政策をやりまくっていたり、古典的な左右の定義から見るとこの国の左右は出鱈目ではないでしょうか。
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