逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

原発危機と「東大話法のトリック」安冨 歩

2012年03月28日 | 放射能と情報操作

『東大話法のトリック』

学識豊かで、丁寧で、語り口もスマートなのに何かおかしい。『原子力ムラ』の人たちを取材してきて、そう感じていた。
そんなモヤモヤを晴らしてくれる人がいると聞き、会いに行った。
「原発危機と『東大話法』」が話題の東京大学東洋文化研究所教授、安冨歩さん(49)。
『エクスキューズ』
<世界は、人類が地球環境と調和しつつ平和で豊かな暮らしを続けるための現実的なエネルギー源として、原子力発電の利用拡大を進め始めていました。このような中で、東日本大震災および福島第一原子力発電所の事故が起こりました。我が国は、事故終息に向け最大限の力を発揮しなければなりません>
一読、批判しようのない“きれい”な文章。
東大大学院工学系研究科原子力国際専攻のウェブサイトの一節。
『典型的な東大話法の一つですね』(安冨)
『原発を促進したのは「世界」ではなく、一部の国の政治家、官僚、電力会社、学者・技術者です。
なのに「世界」を持ち出すことで責任をあいまいにし、自己を免責している。
また「我が国は…しなければなりません。」というのも、日本の原子力関係者が必ず使おうとする勝手な言い分ですね』
安冨さんは、震災後、東大の現役教授やOBらが原発事故について、『同じパターン』の言葉遣いをするのに気付いた。
『例えば、「客観的に見れば…」という常とう句。権力を持った側と、そうでない側をごっちゃにして、自分の議論を無根拠に公平だと断言するのに等しい』
3・11以前、東大工学部教授は、核燃料の再処理の危険性を訴える討論相手に対し>まず出発点として『ある程度は原子力を使った方がいい』とし、『資源リサイクルは世界的には大きな流れ』だから、『適切な規模とタイミング』で進めるべきだと語っている。
安冨さんは『原子力を使うべきだという立場を一方的に宣言し、さらに自説に都合の良い話を並べ、再処理の危険という本質とは関係のない方向へ持っていく。東大話法の典型』と説明。
『我が国は…』
原子力ムラの関係者は、『私は今回の原発事故に直接関係ありませんが』『私の現役時代はこうではなかったのですが』と前置きする。
原子力関係者の多くにとって今回の原発事故は他人の問題であり、そもそも原発自体、ご飯を食べるための手段に過ぎない。
原発の危険性を訴えてきた京都大原子炉実験所小出裕章助教は、『私は原子力(研究)の場にいて、その原子力が事故を起こした。だから、普通の人とは違う責任が私にはあるのです』と正反対。
『我が国…』という東大話法本のサブタイトルは『傍観者の論理と欺瞞の言葉』で、脱原発の故・高木仁三郎さんも著書『原発事故はなぜくりかえすのか』で、
『自分があるようでいて実はないのですから、事故があったときに本当に自分の責任を自覚することになかなかなっていかないのです。ですから、何回事故を起こしても本当に個人個人の責任にならない』と書いた。
『ヘリクツの必要性』
バブル景気に浮かれる社会の最前線で正常な判断力を麻痺させていく同僚たち。安冨さんは大学院に戻り、さまざまな『暴走状態』からの離脱を研究。
静止しているコップの水を下から熱すると、一斉に同じ方向へ流れ始め、やがて沸騰する。
人間も、一人一人はそれなりの見識を持っているはずなのに、ある『条件』をそろえると、集団で一方向に邁進し始める。(魂の植民地化)
『原発推進』という条件のもとでは何が起こったか。
『原子炉の老朽化』を『原子炉の高経年化』と言い換え、原子力の危険性を審査する委員会を『原子力安全委員会』と読み替えた。
これらの『ごまかし』は今も解消されていない。
『まだしも原発を始めた世代は言葉のズレの意味を理解していたが、それ以降の世代となると、もう表面的に残った言葉の範囲でしか理解できなくなる。だからヘリクツが必要になる。東大話法とは、そのヘリクツの表現方法なんです。』
『戦争への道にも』
『魂の植民地化』による言葉の暴走、そのメカニズムは、さかのぼれば『戦争に向かっていったこの国にも作用していた』。
<神の国だから負けない>といった都合の良い『話法』を用いて無謀な作戦を重ね、ついに焦土と化した。
そして、今や東大話法は、まき散らされた放射線による被害を語る場にも持ち込まれている。
『人間が、(放射性廃棄物の危険が残るとされる)10万年単位で責任を持って物事に対処するのは不可能なのに可能と言い、低線量被ばくの健康影響はまだ分からないのに大丈夫と言う。絶えず言葉をズラさないと現状を維持できないのが原子力の本質なのです。』
東大話法を見抜くのは容易ではない。
『肩書が立派というだけで信じてはいけない。それと、意外に思われるかもしれませんが、信頼に値する仕事をしてきた人は個性的な容貌を持ち、いい笑顔の人が多い』。
まずは、権威の言葉をうのみにする私たち自身の姿勢を改めること、身近な常識や感覚に照らしてみることが第一歩なのかもしれない。

◇『東大話法』20の規則(『原発危機と「東大話法」傍観者の論理・欺瞞の言語』から)
(1) 『自分の信念』ではなく、『自分の立場』に合わせた思考を採用する。
(2) 自の立場の都合のよいように、(自分勝手に)相手の話を解釈する。
(3) (自説にとって)都合の悪いことは無視し、(自分にとって)都合の良いことだけを返事する。
(4) 都合の良いことがない場合には、関係ない話をしてお茶を濁す。
(5) どんなにいいかげんでつじつまが合わないことでも(タレント政治家橋下徹のように)自信満々で話す。
(6) 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
(7) その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
(8) 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
(9) 『誤解を恐れずに言えば』と言って、うそをつく。
(10) スケープゴートを侮辱することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
(11) 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
(12) 自分の議論を『公平』だと無根拠に断言する。
(13) 自分の立場に沿って、都合の良い話を集める。
(14) 羊頭狗肉。
(15) わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
(16) わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
(17) ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
(18) ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
(19) 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
(20) 『もし○○○であるとしたら、おわびします』と言って、謝罪したフリで切り抜ける。 
「特集ワイド」毎日新聞 2012年3月23日(金)

『日本人のメディアリテラシー』

安冨 歩は1963年生まれ、京大出のマクロ経済学者で現在は東大教授。
著書『原発危機と「東大話法」』で示した『20の規則』は良く出来ていて、何も東大話法に限定しなくても、それ以外のマスメディアの常連として登場する何らかの『権威』である、専門家とか識者・解説者、タレント政治家にも共通する特徴です。
無知で傲慢で話し方が乱暴な橋下徹や石原慎太郎などは、この記事の最初の『学識豊かで、丁寧で、語り口もスマート』以外の全ての項目に当て嵌まるでしょう。
極一部の新左翼関連以外では誰も知らなかったのに死んだら突然『戦後最大の思想家』に祭り上げられた吉本某にも多くの項目が当て嵌まる。
一致しないのは15番目の『見せかけだけの自己批判』と20番目の『謝罪したフリ』だけである。
サルでもできる『反省』が彼には言葉でも態度でも薬にするほども無かった。
吉本隆明の場合には『徹底した開き直り』、『厚顔無恥の度外れた厚かましさ』であり、責任ある大人なら当然である筈の謝罪や反省はポーズとしても全く無かったのである。
1945年8月15日までの、破滅的で悲惨な戦争を手放しで賛美した日本の知識人の欺瞞性を『日本人とは何か』で解明して見せた加藤周一と、今回、安冨歩が『原発危機と「東大話法」』で原発村学者のインチキ話法(詐欺的な欺瞞)は、対象が大日本帝国と日本の原発村と規模の違いがあるだけで、その主張する本体部分は『確実な破滅への工程』に対する、不思議な知識人の精神構造の解明であり同じ種類の仕事であると思われる。
何故、帝国の知識人にしても原発村の学者にしても、全く同じ態度(科学的判断力と批判精神の完璧な欠如、体制順応と厚顔無恥な徹底したご都合主義)なのだろうか。
何故、目の前の誰にでも判る筈の客観的な科学的事実(目の前の危機と将来の破滅)が彼等には少しも見えなかった(知らなかった)のだろうか。
あるいは何故彼等は『見たくなかった』(知りたくなかった)のだろうか。
知識人は、他の大勢の一般大衆のように『知らなかった』とか、『だまされていた』で済ますことは出来ないのである。
そもそも何かを『知っている』専門家のことを日本以外の世界では知識人とか学者と呼ぶ。
日本のような『何も知らない知識人』などは言語矛盾で、本来は存在自体が出鱈目(詐欺やペテン)で、絶対にありえない椿事である。
67年前の貴重な経験(大失敗)を忘れ果てて、多くの学者や知識人が、何故科学的思考方法(疑うことや批判すること)を完全に放棄して、目の前の差し迫った『危険性』をこれ程まで完璧に無視することが出来たのだろうか。
科学的な客観的観察眼で事実(危険性)が正しく見えていた京大の小出助教など小数者と、全く見えていなかったそれ以外の圧倒的な多数派(原発村の住民の御用学者)との違いは興味深い。
毎日新聞の「特集ワイド」『東大話法のトリック』はネット上には存在するが一部には存在しない。
同一新聞でも場所や時間によって記事に違いがあり、極狭い範囲での別刷り版で、少量配布されたのだろうか。
確かにこの記事は単に原発村の学者の特別な言葉遣い(東大話法)に止まらず、マスコミ報道の欺瞞性を告発するものである。それに気が付いた毎日新聞編集部が自主規制した可能性もある。

『思考奪う 偽りの言葉 高慢 無責任な傍観者』安冨歩(東京新聞 2月25日)

着想は福島原発事故後、NHKに出ずっぱりだった関村直人(原子力工学)の話しぶり。
関村教授は不安でテレビにかじりつく視聴者に向かって、ずっと楽観的な『安全』を強調し続けた専門家。
1号機爆発の一報にも『爆破弁を作動させた可能性がある。』と言い切り酷い学者不信を招いた。
『過酷事故が目の前で起こっていても、官僚や学者は原発を安全と印象づける「欺瞞言語」を手放さなかった。東大で見聞きする独特の話しぶりにそっくりだと思った。』
『東大話法』は東大OBが最も巧みに操るが、出身大学とは関係ない。
爆発事故を『爆発的事象』と繰り返した東北大出身の枝野幸男官房長官も、典型的な東大話法。
『正しくない言葉で、まずだましているのは自分自身。
目の前で爆発が起こっている現実を直視できなくなり、正気を疑うようなことも平気でできるようになる。』
経済学博士の安冨歩教授はバブルに突き進んだ銀行の暴走と、戦争に向かってひた走った昭和初期の日本社会の相似に気づき、既存の学問分野を超えて『なぜ人間社会は暴走するのか』を探求してきた。
安冨歩教授は、『最も恐ろしいのことは、危機的な事態が起こった際、正しくない言葉を使うこと。それは一人一人から判断力を奪う』と強調する。
『危険なものを危険といわず』
戦前、戦時中に『日本は神の国だ』などと言い続けたことが客観的な現状認識を妨げ、いたずらに犠牲者を重ねた。
そんな『言葉の空転』が原子力ムラでも蔓延。『危険』なものを『危険』と言わない東大話法が偽りの安全神話を支え、事故を招いた。
『上から目線の話しぶりに潜む東大話法のウソ』
規則1:自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する
『原子力関係者がよく使う言い回しに、「わが国は・・・しなければなりません」がある。
「私」ではなく、往々にして国や役所などを主語にするのが「立場」の人です。』
日本人のほとんどは、立場に合わせて考え、『立場上そういうしかなかった』といった言い訳もまかり通りがちだ。
『責任から逃げている「立場」がいくつも寄り添い、生態系のように蠢いているのが日本社会。しかし、「立場の生態系」がどこにいくのかは、誰一人知らない。』
高慢 無責任な傍観者
周囲もあぜん 『記憶飛んだ』
規則8:自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル張りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
原子力ムラには自分を『傍観者』とみなしたがる。
『客観的であることと傍観することをはき違え、なんら恥じるところがない』
傍観者ぶりが際立っているのが、原子力安全委員会の斑目春樹委員長。
国会の原発事故調で『一週間寝ていないので記憶が飛んでいる。(官邸に)どんな助言をしたか覚えていない』と、当事者とは思えない言い訳をして、周囲を唖然とさせた。
『原発に反対し続けた京大原子炉実験所の小出裕章さんが、講演のたび「原子力にかかわってきた者として謝罪したい」と繰り返しているのと比べると驚くばかりの傍観者ぶりだ。』
規則3:都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけを返事する。
規則5:どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも、自信満々で話す。
九州電力の『ヤラセ討論会』の大橋弘忠東大教授(システム量子工学)も典型的な東大話法。
小出助教授の『人は間違うし、想定外の事態も起こり得るので、安全余裕をなるべく多くとるのが、原子力のようなものを扱うときの鉄則だ』に対して、大橋教授は『安全余裕を完全に間違えて理解している方の考え方』と冷笑。
水蒸気爆発の心配をする市民団体にも、『私は水蒸気爆発の専門家』と胸を張り、見下す。
『プルトニウム拡散の遠因』
『原子炉を四十年間、研究をしてきたのは小出さんの方。ところが、大橋教授が討論会を仕切ってしまった。その結果、九州電力の玄海原発には危険なプルトニウム混合燃料が投入された』。
福島第一原発でもプルサーマルが始まり爆発事故でプルトニウムが飛び散った遠因に、大橋教授の『プルトニウムを飲んでもすぐに排出される』東大話法が貢献した。
『東大話』にだまされないために安冨教授は、『自らの内にある東大話法に向き合い、考えることから逃げない姿勢が大切。東大話法を見つけたら、笑ってやること』と提案する。
笑われて、恥ずかしいことだと気づくことで東大話法から抜け出せる。
どこに向かうかわからない『立場の生態系』については、パイプに詰まったごみのような存在が迷走を止める役割を担うこともある。
『官僚にも学者にも、あるいはメディアにも、自分の言葉を持つ人たちがわずかにいる。
そんな一人一人の存在でかろうじて社会がもっている。
もし、人間社会が卑怯者の集団になったら、社会秩序は維持できない。』

『東電の〝派遣教員〟東大教授〝逆ギレ〟反論の東大話法』サンデー毎日」4/1号

『プルトニウムは飲んでも大丈夫』のセリフで有名な東大大学院の大橋弘忠教授(59)。
九州電力玄海原発へのプルサーマル導入の安全性を問う(第三者委員会が九電の『やらせ』と断定した)公開討論会。大橋氏は、余裕の笑みとも受け取れる表情を浮かべ、持論を展開。
『事故の時にどうなるかは、想定したシナリオにすべて依存する。(原子炉の)格納容器が壊れる確率を計算するのは、大隕石が落ちてきた時にどうするかという起こりもしない確率を調べるのと一緒。専門家になればなるほど、格納容器が壊れるなんて思えない』
『プルトニウムは実際には何にも怖いことはない。水に溶けないので飲んでも体内で吸収されず、体外に排出されるだけだ』
ところが福島第1原発事故では『想定したシナリオに依存どころか、制御不能に陥る。
プルトニウム混合のプルサーマルに否定的な京大原子炉実験所の小出裕章助教(62)らに対して、〝上から目線〟で安全性を強調する大橋教授。
『都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする』
『どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す』
『誤解を恐れずに言えば、と言って嘘をつく』
安富歩教授は『国内初となる玄海原発へのプルサーマル導入に、大橋氏の〝原発推進トーク〟がひと役買ったと言われても仕方がない。その延長線上で10年9月には福島第1原発の3号機にMOX燃料が投入され、半年後にその3号機が水素爆発で大量の放射性物質をばらまいた』
大橋教授は、東大原子力工学科から東電。現在は同大学院工学系研究科システム創成学の教授で『東電の派遣教員』(東大関係者)。
大橋教授は、原発推進の立場から国策の一翼を担って、保安院原子炉安全小委員会委員長や総合資源エネルギー調査会委員など政府の委員を歴任。昨年10月には北陸電力の志賀原発運営に助言する『原子力安全信頼会議』委員。
プルトニウム発言や、『大隕石が落ちる確率と同じ』はずの格納容器の損傷が確実となった今、大橋教授が自らの発言に対する説明責任は完全無視。
事故の反省も、避難住民や国民への謝罪は無いが、『説明責任』『プルトニウムは飲めるか』『話し方について』『やらせ事件』などの6項目を、自身のホームページで『身内』にはこっそりと反論、『プルトニウムは飲んでも安全』に関しては>『プルトニウムは水に溶けにくいので、仮に人体に入っても外へ出ていく、と述べたのが、それならプルトニウムは飲めるのか、飲んでみろ、となっているらしい。文脈を考えればわかるのに、いまどき小学生でもこんな議論はしないだろう』と開き直る。
安冨教授は呆れながら、
『これは「スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる」という東大話法の典型例です。しかも、水に溶けないから安全というのは、それこそ文脈を考えてみれば、むちゃくちゃな議論であることは明らかです。プルトニウムを吸い込めば肺の中にとどまり、放射線を出し続けるおそれがあるからです』
『この人は学者ゴロにすぎない』
九電の『やらせ問題について』では、第三者委員会委員長を務めた郷原信郎弁護士(57)に対する〝暴言〟も。
>『私は佐賀県から依頼されてた・・・この種の討論会は、推進派も反対派も動員をしてそれぞれの立場から質疑を行うのは当然・・・国会答弁でも何でも同じ。
目立ちたがり屋の弁護士さんが「やらせやらせ」と言い出し、それに社会全体が翻弄された』
傲岸不遜を地でいくような発言に、郷原氏も『大橋氏は小出氏らの発言に噛み付き、ケチをつけているだけ。学者ではなく「学者ゴロ」「原発ゴロ」にすぎない』。
『論外です。発言がデタラメすぎる。我々は徹底した調査で巧妙なやらせのカラクリを解明したわけで、大橋氏がまともに反論できることがあれば、堂々と私に反論したらどうか。自分の身分、立場を隠して世論を誘導する質問を仕込んだ推進派と他の聴衆は一緒にできない』
公開討論で大橋教授と対峙した小出助教は、
『(反論を読んで)ただただ、あきれました。こんな人が東大教授なのですね。もともと東電の人だから、こんなことをやってきたのでしょう。「技術的」「客観的」など何の根拠も示さないまま、自分勝手な論理を主張するだけで、「いまどき小学生でもこんな議論はしないだろう」と彼に言葉を返したい。
福島原発の事故が起きてしまっている現実をまず見るべきだし、自分がどういう役割を果たしてきたのか、胸に手を当てて考えるべきでしょう。』
大橋教授は『多忙につき取材(面談、書面とも)はお受けできない』と拒否、向き合うべきは、学内の身内ではなく国民ではないのか。

『東大から起きた「原子力ムラ」内部批判』

東大原子力工学の学者の欺瞞が凝縮。事故を矮小化し、反省もせず、国民を欺く姿は悪質。
福島第一原発爆発後、核燃料サイクル、放射性廃棄物が専門で、産官学『原子力ムラ』の中心の日本原子力学会会長の田中知東大教授は、『今一度、我々は学会設立の原点である行動指針、倫理規定に立ち返り、己を省みることが必要であります。すなわち、学会員ひとりひとりが、事実を尊重しつつ、公平・公正な態度で自らの判断を下すという高い倫理観を持ち、(中略)社会に対して信頼できる情報を発信する等の活動を真摯に行うことができるよう会長として最大限の努力を致す所存であります』と原発事故後、高邁かつ誠実な精神を謳い上げた。
しかし田中東大放射線管理部長の『環境放射線対策プロジェクト』が、多数の東大教員から、『まったく信用できない』批判される。
田中教授は原発事故後東大キャンパスの放射線量を調査し同時期の本郷キャンパスと比べ格段に高かったが、柏キャンパスの線量が高い理由は>『測定値近傍にある天然石や地質などの影響で、平時でも放射線量率が若干高めになっているところがあります><結論としては少々高めの線量率であることは事実ですが、人体に影響を与えるレベルではなく、健康になんら問題はないと考えています。』
ところが柏市の高線量『ホットスポット』は文部科学省調査などから明らか。低線量被曝の仮説は、放射線による発がんリスクには放射線量の閾値はなく、放射線量に比例してリスクが増える。
不正確な『東大話法』に対して、東大人文社会の島薗進教授など東大教員有志(理系より文系が多い)45人で改善要請文を大学側に大学側に提出。
『東大は「放射能の健康被害はない」との立場を明確に示したことになりますが、「健康に影響はない」と断定するのはおかしい。
多様な意見を考慮せず、狭い立場で一方的な情報を出しているとしか思えない。より慎重なリスク評価を排除するのは適切ではありません』
『低線量でもそれに比例したリスクは存在するとした標準的な国際放射線防護委員会(ICRP)モデルに基づいた記述とし、「健康に影響はない」という断定は避ける』など、『東大の原子力ムラ』に対して東大内部から批判が公然化し『健康に影響はない』を削除。
濱田純一総長から『さまざまな角度からの幅広い議論が必要な問題と思いますので、引き続き忌憚のないご意見をいただきたい』『担当者に速やかな検討の指示』の返信。
しかし総長の思いとは裏腹に、田中教授を責任者とするプロジェクト側には、『非を認めて謝るのではなく、単に表現が悪かったので修正した』との姿勢が窺える。
東京電力寄付講座は一部が消滅。
トップを動かしたとはいえ『巧妙に非を認めようとしない言い逃れだ。こうした思考法は「東大話法」という独特のものです』と安冨教授。
放射線の人体への影響について放射線防護の専門家の多くが安全論に傾いたのは、全国の大学で電力会社や原子力産業の資金で研究が進められたことが背景にある。
『傍観者を決め込む御用学者』
東電との『産学連携』の東大の原子力ムラに関して安冨教授は、
『たとえ東電からカネをもらって研究するにしても、東電ではなく公共に尽くす。そうした研究の独立性をいかに維持するかが重要なのだ。東電のカネで行っていた過去の東大の研究が、学問としての独立性を保っていたかどうかをきちんと検証する必要があります。独立性がなかったと認められたならば、被災者に還元する。検証をせずズルズル状態のままでは東大の権威と信頼は守れません』
安全神話の神髄こそが『東大話法』だ。
『原発事故をめぐっては数多くの東大卒業生や関係者が登場し、その大半が同じパターンの欺瞞的な言葉遣いをしていることに気付いたのです。東大関係者は独特の話法を用いて人々を自分の都合のよいように巧みに操作しています。言うならば、原発という恐るべきシステムは、この話法によって出現し、この話法によって暴走し、この話法によって爆発したのです』。
東大話法の根幹は『自らを傍観者と見なしたがること』。
学者は常に客観的でなければならないとの信条を盾にして、『だから自分はいつも傍観者でいることが正しい』と、自分に好都合な結論を引き出す。
『原発事故では、明らかに大きな権限を持つポストにいる御用学者が、完全に傍観者を決め込んでいます。その代表格が東大工学部出身で原子力安全委員会の斑目春樹委員長(元東大教授)です』。
『原子炉格納容器が壊れる確率は1億年に1回』と発言し、事故後もこれを撤回していない大橋弘忠東大教授も『東大話法』の使い手で規則9、15,20以外はすべて該当する。
大橋教授は玄海原発ヤラセ討論会での無責任暴言が有名。
『北陸電力は昨年10月、志賀原発運営に助言する原子力安全信頼会議を設置し、委員に大橋教授を選任したのには心底驚きました。「格納容器が壊れる確率は1億年に1回」とした発言の誤りが明らかになった現状で委員を引き受けたのもあまりにも無責任です』(押川教授)
『徹底した不誠実さと高速計算』
安冨教授は、『東大話法使い』の資質をこう定義する。
『徹底した不誠実さを背景として、高速回転する頭脳によって見事にバランスを取りつつ、事務処理を高速度でやってのける。多少なりとも良心がうずけばボロが出ます。
そういうものを一切さらけ出さないほどに悪辣かつ巧妙であるためには、徹底した不誠実さと高速計算とがなければできません。
東大にはそういう能力のある人材がそろっているのです』
「原子力ムラ」への改善要求について、東大医科学研究所の上昌広特任教授は、『柏キャンパスの放射線量をめぐる議論は結論が出ない神学論争』?であるとして事実上、科学論争を拒否。
(なるほど、徹底した不誠実さと素晴らしい高速計算ぶりである)
サンデー毎日2012/03/04

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5 コメント

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Unknown (ゆきぼー)
2012-03-25 22:57:23
はじめましてと思います。
この本を買おうかと思っていました。
参考になりました。
お礼。
返信する
東京の夕刊では一般的に載ったようです (現田石)
2012-03-26 08:06:29
現田石です。
紙面をチェックしたところ、東京本社発行版の毎日新聞2012年3月23日夕刊には載っているようです。うちに届いた3版には、少なくとも載っていました。ただし「東京大学」だから西日本では扱わないというへりくつがなりたって、西では載せなかった可能性はあると思います。
ともあれ、明石書店発行の新刊書「原発危機と『東大話法』」が(一部の巷で)話題だそうですね。
それを取材した記事が夕刊掲載なので、朝刊掲載より扱いが悪いという見方もできますが、いわゆる全国紙で大きく載っただけでも大事(おおごと)かもしれません。
ちなみに明石書店が把握している今日までの関連記事は次だそうです。

毎日新聞(2012年3月23日:夕刊)「特集ワイド」
「東大話法のトリック」

サンデー毎日(2012年4月1日増大号)
「東電の“派遣教員”東大教授 “逆ギレ”反論の東大話法」

河北新報(2012年3月1日)
「『東大話法』を疑え:判断力奪う欺瞞的言語」

東京新聞(2012年2月25日)「こちら特報部」
「思考奪う 偽りの言葉 高慢 無責任な傍観者」

サンデー毎日(2012年3月4日号)
「東大から起きた『原子力ムラ』内部批判」
返信する
67年前との類似点 (宗純)
2012-03-26 11:29:55
ゆきぼーさん、現田石さん、コメント有難う御座います。

この安冨 歩の『東大話法』の話は実に面白いですね。
原発村ですが、これは東大工学部原子力学科に限定されたものではなくて、政治家、官僚組織、産業界、原子力学会、報道機関が結託した鉄の五角形の『利権ペンタゴン』で、裾野は大学などに限定されたものではない。
これが日本国を間違った恐ろしい破滅の方向に誘導していた。
この話ですが、実は冷静に考えれば67年前以前の我が日本国が国家自体が丸ごと陥っていた状態と規模が大きく違うだけで、そっくり同じ構造ですよ。
1945年8月15日の敗戦まで、当時は日本の知識層丸ごと全員、今の東大の原発村の御用学者と同じ不真面目で破廉恥な態度だったのです。
66年後の2011年3月11日の大震災で原発村の知識人が実は『何も知らないインチキ知識人?』であることが発覚するのです。
ところが、A級戦犯の斑目委員長は未だに昔のままの原子力安全委員会の委員長に居座っている。
原発村の学者だけではなく、それ以外の東京電力も政府も『絶対に安全だ』と偽情報を垂れ流したマスコミも、誰一人も責任を感じて辞職したものは無いし、もちろん逮捕されたものも無い。
責任者は責任を取らず全ては昔のままであり、無茶苦茶なのです。
それなら3・11の福島第一原発事故は、決して8・15の敗戦では無い。
しかし、歴史上今のように政府やマスコミなど権威有る存在が嘘を言っていると世間の普通の市民が思う時代とは、多分日本では半世紀以上前にあって以来の、絶えて久しい、何とも珍しい。
66年前は日本の敗戦で、戦争を煽っていた知識人は粗全員が転向した。
ところが、今回では福島第一事故を見ても武田邦彦など極少数しか、まだ転向していないのです。
それなら、日本は終戦になっていないと解釈出来るのですよ。
私が何遍か指摘している事実ですが、現在はミッドウェー海戦で連合艦隊が壊滅して日本軍の『不敗神話』が崩壊しただけ。
3・11で原発安全神話は崩壊したが、日本はまだまだ原発推進の姿勢を崩していないのです。
それなら今の状態はミッドウェー海戦からサイパン島陥落の間で、敗戦の8月15日はまだまだ先であり、まだまだ日本人の苦難の道は続きます。
日本人が本当の戦争の恐ろしさを知るのは日本の最後の防衛線であるサイパン島が陥落してからの話です。
サイパン島からは連日B29が日本本土が空爆され日本全土が焼け野原になったので薄々戦争の実体を理解したがそれでも8月15日までは鬼畜米英とか一億玉砕とかの空虚な戦争スローガンを知識人やマスコミが叫んでいた。
それが変化したのは、あくまで敗戦後の話なのです。
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敗戦(現実)をいつ認められるか (くまごろう)
2012-03-27 01:24:14
推進派の多くは、原発(少なくとも原発に代わるエネルギーを実現するまで)がなければ現代の日本社会を維持できないと主張します。維持できない=日本は滅ぶ、という調子で、私には「この戦争に勝たなければ日本は滅ぶ」という言葉に重なって聞こえる。
広く原発に反対する立場の人間の活動次第でもあるが、過去を振り返れば楽観は全くできない。更に戦争より悪い材料として

戦争程明確な敵がいない。
放射性物質も放射線も人には感知不能。
ただちに影響はない。

四号機プールが崩壊すると、恐らく関東北陸東北の大部分が、本来避難しなけれぱならない程汚染するでしょう。しかし、仮にそうなったとしても、推進派は今の主張を殆どそのままにしておくことが可能です。今現在強制避難が続いている、原発の周囲以外は住んでいて問題ないという主張ですから、そういう場所が幾分増えただけとなる。
ということは、更に原発が五つ六つメルトダウンして大量の放射性物質がばらまかれ、ほぼ日本全土が壊滅的に汚染したとしても、(目茶苦茶な)論理的には同じ主張を続けることが可能です。

最後には神風が吹いて勝つ、と同様、どこまで状況が悪化しても、「偶然運が悪かった」などと、博打で身上つぶす人間のようなことを言っているのではないか。
そう思ってぞっとしました。
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負けている場合、余計に止められない (宗純)
2012-03-27 17:02:16
くまごろうさん、コメント有難うございます。

賭博と戦争ですが色々な部分で似ています。勝敗は必ず同数で有り参加者全員が勝つことは絶対に無い。
誰かが勝った分だけ、誰かが負けているので全てを合計して考えれば、誰も得をしないセロサムゲーム。
ところが賭博や戦争の参加者の特徴とは『自分が負ける』との当然の可能性を無視するか軽視するところでしょう。
参加者全員が、超楽観論だから賭博や戦争にのめり込むのですね。
一番似ているところは、なかなか勝ち逃げが難しいと言うことでしょう。
勝ち続けている時に止めることが出来れば間違いなく利益が出るのですが、勝っていると欲が出てきて止め難い。
もっと止め難いのは負けが込んでからの賭博や戦争で、負けが酷ければ酷いほど、余計に止めたくても止められない。それで大王製紙の阿呆息子のように全財産を失くすし、日本帝国のように国家が崩壊する。
賭博ですがある種の依存症であると言われています。
それなら自分の破滅が確実なのに自分では止めれなかった大日本帝国の太平洋戦争なんかも戦争依存症であるとも解釈出来ますね。
日本列島の最後の防衛線のサイパン陥落時に戦争を止めていれば、あるいは最後の日本の同盟国であるドイツが無条件降伏した時点で戦争を停止していれば、・・・
まったく、その後の展開は違っていたのです。
地獄の地上戦の行われた欧州とは大違いで、日本本土ほとんどは無傷に近い状態で残ったのですよ。
広島長崎の悲劇もソ連軍参戦も無かった。300万人以上の日本人の犠牲も無かった。千島列島を失うことも無かったのです。
勝ち戦での終戦よりも桁違いに負け戦の収束は困難なのですね。これは如何も原子力発電でも言えそうですよ。
ドイツは大きな損害を受けることなく原発廃止に踏み切ったが、日本は完璧な負け戦なのです。
これは、余計に止められないでしょう。
今止めると、当然『責任問題』が浮上します。
ところが原発推進の今の自民党にしても民主党政権にしても官僚にしても財界にしても原子力学会の学者にしてもマスコミにしても誰も責任を取りたくない。今のようにずるずると原発の火を消さずに済ますことが出来れば責任問題は発生しない。だから止められない。
外国とは大違いで傑出した者が無く横並びで誰も責任を取りたくない。
誰も責任者がいない日本の場合には、終わる道はたった一ついしかなくて『一億玉砕』しかないのですね。
67年前の8月15日は、ですから奇跡的な話ですよ。
日本が最後に戦争を止めると決断したのは、アメリカによる広島長崎への原爆攻撃だと米国のトルーマン大統領は主張したが、これは駄目でしょう。
アメリカのこの主張が正しいなら、原爆は人類に対する悪魔の兵器ではなくて、日本人の救いの神だとのとんでもない結論になりますよ。ですから日本人は『核兵器反対』ではなくて核兵器を神として崇める必要があるのですが、このアメリカの主張は無理筋。
ボツダム宣言受諾の決意はアメリカの核攻撃ではなくて、同じ時期のソ連軍の対日参戦です。ロマノフ朝の最後を考えればアメリカ軍には降服しても良いがソ連軍にだけは降服したくなかった。当時はロシア皇帝一族が全員処刑されてから二十数年しか経過していない。日本にとっては、歴史上のエピソードではなくて現実問題だったのです。
ポツダム宣言受諾の天皇聖断の原因を考察する
2011年02月22日 | 政治・外交と天皇制
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/8b7b7d85d97e72438fa77282259e792d
ソ連軍の参戦が無いと日本は戦争終結の決意が出来無いことをアメリカのルーズベルト大統領は熟知していたのですね。
東京大空襲で一晩で10万人が死んでも原爆攻撃で数十万人が死んでも、それでも戦争終結の決意が出来なかったとしたら、4号基プールが崩壊しても事情は同じで『止める』とはならないでしょう。
何故なら枝野が言うように『放射能は直ぐには健康に影響が出ない』。被害がでるのはアスベストや煙草と同じで数十年後になるがその時は幾らでも言い逃れが出来ます。
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