昭和30年代はまだバナナも高級フルーツの1つだったと思うが、私の好物だと知って、父は大房のバナナをたまに買って来た。その頃は台湾バナナが主流だったと思う。
大房のバナナから、私は遠慮なく何本もバナナをもぎ取り、野生の猿並みに食べていたに違いない。
最近スーパーで台湾バナナはほとんど目にすることがない。多く出回っているバナナは、もっぱらエクアドルバナナやフィリピンバナナだ。私の好みは安価で美味しいフィリピンバナナ。
今もほぼ毎朝バナナを食べている。
いつ頃だったか、免疫力を高める食べ物としてバナナがテレビ番組で紹介されてからは、尚更食べるようになったかも知れない。そのおかげか、現在も病知らずの健康体だ。
先日スーパーへ行った折、たまたまバナナが安かった。自宅に残っているバナナの残数は確か一本。それで、バナナを一袋購入した。
翌日の朝起きて、バナナを食べようとしたところ、新しいバナナの袋が既に開いていた。古いバナナ1本はそのままに、夫が新しいバナナを開封して食べたようだった。
夫は普段は滅多にバナナを食べない。これまでは、買ってきたばかりの新しいバナナはたまに食べることはあったけれど、熟れてシュガースポット(黒い斑点)が出て来たりすると、ほとんど夫は手を付けることがなかった。それで、熟れたバナナを食べるのは嫌なのだなと認識していた。
そんなこれまでの経緯から、古いバナナを避けて新しいバナナを食べたに違い無いと思った。
生鮮食品の管理の観点から、出来れば古いバナナから順序良く消費して欲しい物だ。そんな気持ちもあって、何気なく
「新しいバナナから食べたんだね」と普通のトーンで夫に声をかけた。すると夫から以外な応えが返ってきた。
それは、新しいバナナはまだ青く、熟れていない。残っている一本は、よく熟れて甘い。それを知った上で、あえて自分は新しいバナナを食べたのだと言った。
つまり、甘くて美味しいバナナを私に譲ってくれたと言う事だった。恐れ入ります。
話を聞いてみないと、真実というものはいつも分からないものだと思う。
新しいバナナを食べたのは「エゴ」かと思いきや、私を思いやる「優しさ」だったとは。
もうこりた。忘己利他。己を忘れて他を利する。仏教用語にそんなのがあった。まさにそれだ。
夫の優しさを有り難く感じながら、熟れたバナナを美味しくいただいた。
そして、袋から出された新しいバナナを眺めた。
夫はまだ青いと言うけれど、私の見立てでは十分食べ頃であるバナナだと思う。夫が一本食べた残りのバナナの中に、どこかにぶつけたのか一部黒く変色している1本があるのを見つけた。
ああ、どうせならこの傷んだ1本から食べて欲しかったなあ。
夫の優しさとは裏腹に、食物管理にはどこまでもシビアな私なのである。