2週間ほど前の事。
午前中から何度も聞こえる隣のご主人の声。
お隣は私たち夫婦より少し年上のご夫婦、きっと団塊の世代だ。
昭和の人間は我慢することに長けている。
30度超えの夏場でも、我が家同様、お隣も窓を開け放している。それは、すなわちエアコンがない事を意味している。
関東圏に住む娘は、エアコンを勧めるけれど、「北海道の夏ぐらい扇風機で乗り切れる」と、エアコンを意地でも使わない昭和人間である。
窓を開け放した隣同士は、会話が筒抜けだ。
いつもは奥様の甲高い声のみが聞こえているのだが、今日は珍しくご主人の「もーいいかい?」が午前中から何度も聞こえる。
お孫さんでも来ているのだろうか。きっとそうに違いない。娘さんの子供だろう。
お隣同士とはいえ、ご挨拶を交わす程度で、家族構成などもほとんど知らない仲である。
今から十数年前、時折見かける隣のお嬢さんは、スタイルも良く、とても美しい娘さんだった。かなり個性的な方で、ある日見かけた時には、肌の露出度の多い流行りの洋服に、頭はビンク色の坊主刈りだった。
ちょっと驚いたけれど、顔立ちが整っているので、ファッション雑誌から出てきた人の様だと思った。
そんな時代の先端をいく格好をしたお嬢さんは、団塊の世代の父親とは、ぶつかり合う事が多かったみたいだ。そう思ったのは、ある日の出来事からだった。
ある夜の事、お隣の窓が乱暴に開く音がして、奥様の甲高い声が聞こえた。
「警察呼ぶよ!」と。
何やら緊迫した事態があったらしい。私は娘さんとご主人の間に何かあったのではないかと想像した。
低いご主人の声が、かすかに聞こえ、その後は静かだったから、奥様のその行動が事態を鎮めたらしい。
それからしばらくして、娘さんは家から居なくなったようだった。一人暮らしをする事になったのか、あるいは結婚で家を出たのか知らない。
お隣の親子関係に、少し自分と父の関係が重なった。
ジイジとなった隣のご主人は、お孫ちゃんが可愛くてしょうが無いといった感じだ。
かくれんぼでもしているのか、「もーいいかい?」が何十回となく聞こえる。その「もーいいかい?」に、お孫ちゃんへの愛が溢れていた。
それは午後2時過ぎまで続いた。タフで孫付き合いの良いジイジだ。
もし、我が家に孫が出来たら…と、ふと想像した。我が家のジイジはきっと数回孫に付き合った後、「はい、もう終わり、もう終わり」と逃げるに決まってる。それを考えると、隣のジイジは立派だ。ジイジの鑑的存在だ。
午後3時ごろ、気づけば、いつしかお隣の声は静かになっていた。ジイジもお孫ちゃんもすっかり疲れて、お昼寝でもしているのに違いない。
私も時が経てば、子供を通してきっと父と和気あいあいと出来たのになあ。和解しないまま父が旅立ってしまったことで、いつも心に何か引っかかっている。
隣のご主人の「もーいいかい?」で、つい父を思い出した。
「許してもらっても、いいかい?」
空に向かって尋ねたら、きっと「馬鹿野郎!」と雷が落ちるに決まっている。いや、もしかしたら、こんなに時が経っているのだ。
「もーいいよ」と、許しが得られるかも知れない。