「親友はいるか」そう尋ねられれば、即座には答えられない。ためらう。
いったいどのような存在の友を親友と呼ぶのか。
その定義によって、答えが多少違ってくるように思う。
国語辞典で確かめてみる。
「親友」=心から打ち解けた親しい友人。
その横にもう一つ。
「心友」=よく心の中まで知り合った友人。
「親友」も「心友」もほぼ似たような友人と解釈していいのだろう。
そんな「親友」は、高校生、大学生、あるいは社会人になり立ての頃、
確かにいたように思う。
「人は常に友達を失い続けている」
──ニューヨーク大学医学部のアイリーン・レバノン教授が、こう言っている。
日々の生活の中で楽しい時間を共有したり、悩みを打ち明けたりできる、
そんな心許し合える友人を持つことの大切さは言うまでもない。
さらに固い絆で結ばれた友、これこそ親友と呼べる友人であろうが、
そんな友を持っている人ほど健康で長生きしやすい。
いろんな科学的調査がそう裏付けているとあれば、
「人は常に友達を失い続けている」と言うのは、何とも心寂しい話である。
現実を見れば確かに、学校を卒業したり、会社を定年退職したりすると、
その都度、そうした友人たちが減っていく。
高校生、大学生、あるいは社会人になり立ての頃、
確かにいたように思う僕にしても、「今はいるのか」と聞かれれば、
過去の話の中に収めそうになるのだ。
また結婚したり、転職したりした時なども、一人、また一人と
友達としての付き合いが失われていくことを
多くの誰もが経験し、感じているはずだ。
それなのに、年を取るにつれ新しい友達をつくることは難しくなる。
子どもの時は、公園で知らない子と知り合い、一緒に遊べば、
たちまち友達となってしまうのに、大人になるとそう簡単ではない。
それと、学校というのはゆっくりと、自然に親密さを生み出してくれる
まさに友達育成の場なのである。
大人には、学校のような場は少ないし、そんな場に身を置くだけの
時間的な余裕も失われてしまう。
こう理屈を並べると、友達のいない孤独な老人ばかりになってしまう。
先のレバノン教授は──
「大人になってから友達をつくろうとすると、まず『友達が少ないことは問題だ』
とか『もっともっと友達をつくらなければ』といったことを過剰に意識してしまう。
それは〝不名誉な事実〟として強迫観念みたいなものになりかねず、
そうなると、ますます友達ができにくくなる」
「現実には、友達がまったくいないという人はいない。友達がいない、少ないことで
強迫観念に陥る必要はまったくないのだ。あまりにも理想的な友人関係、
つまり親友関係というものを強く思い描き、追い求めすぎてはいまいか」
こんな風にも言っている。
要するに「もう少しリラックスした友人関係でいいのではないか」
そういうことであろうか。
そう言われると、少しは気が楽になる。そのような人は何人かいる。
その人たちは、親密な社会的つながりを感じさせてくれる。
彼らを親友と呼ぶ。それで十分だ。あまり難しく考えないことにしよう。
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