先日、愛と美について大学の友人と語る機会があった。
美と愛はどちらが真理なのかという話。随分文学的だ。
まあ、お互いに文学部の議論厨同志だからしょうがないけども。
結論としてはどちらも真理であり、優劣は無いということになったけど、なんだかぼくは愛の方がより優勢なのではないかと議論が終わった今更になって思う。というのも、具体例に落とし込んだ場合、ぼくはどんな芸術に触れることが出来なくなろうともきっと好きな人と居ることを選ぶと思うからだ。
ちょっと前までは「美こそ至高」というテーゼを喚いていたけれど、結局それは愛情に飢えている感情を唯一麻痺させてくれたのが芸術だったからではないかな。そう、つまり「美こそ至高」というテーゼは最初から破綻していたということ。芸術における感性的な快感に浸っている間は、脳内がそれで満たされるから、あたかも美が愛を凌駕しているように感じる、要は錯覚めいたものに過ぎない。まあ、それは愛と美を逆転させても同じことが成り立つわけだけれど。
でも、何も美が愛にすごく劣っているというわけではなくて、無欠性という点であれば愛は美に勝っているというのはその通りだと思う。美の無欠性というのは、美的快感は誰にとっても真理であり、一方的に「良い」ものであるということ。その点、愛というのは不完全で、だからこそすごく人間的であるとも思うんだけど、とにかく必ず「良い」結果になるとは限らない。愛が生じるというのは、それ即ち「嫉妬」や「独占欲」も発生するということで、これは心には一般的には「良い」影響をもたらさない。(そういう言い方をすると美にも独占欲は働いてしまいそうになるけど、でも人々が夕日を綺麗だと思うことや青空を快いものだと感じるのは普遍的だし、なにより体験として考えたときにそれはその人の中にしか生じえない)
そう考えると、美とはとても「神」的(宗教的?)なもので愛とは実に「人間」的なものになるね、ということになった。つまり、ぼくは下手したら宗教にはまってしまう可能性が…!笑
愛情は人間臭い、つまり不完全で、同時に動物的でもある。愛するということは必ず性的なものが絡まざるを得ないし、それはそのままつまり動物本能的な営みのようにさえ捉えられる。ぼくはきっと、そういう動物的な側面を美の高尚さと対比させようとしていた節があるのかもしれない。
だってそうじゃない?あの女のこといちゃつきたいという感情よりは、夕暮れのマジックアワーに自然と感動する感情の方が綺麗だと思うでしょ?
愛は正義を歪ませるけど、美は何も歪めたりしない。寧ろ、歪んだものにさえ宿るのが美というもの。それはこのブログでも書いているけど、醜の美というものがあるから、歪みに対してさえ「良い」感情を抱いてしまう。アンフォルメルやダダイズムの美術的潮流からもそれは明らかなことではある。(ぼくの知識が美術に偏っているのも美を後押ししてしまう所以なのかも)
理性的には美を擁護しつつも、結局は「夕日の美しさに多くを求めすぎる」ことも愛に上書きされてしまう(美を崇拝する自分の中でも!)のだろうと直観できるのは、やはり人間も動物だということの証左のように感じてしまう。
そんなことを焼き肉をつまみながら男ふたりで話していたのでした。
美と愛はどちらが真理なのかという話。随分文学的だ。
まあ、お互いに文学部の議論厨同志だからしょうがないけども。
結論としてはどちらも真理であり、優劣は無いということになったけど、なんだかぼくは愛の方がより優勢なのではないかと議論が終わった今更になって思う。というのも、具体例に落とし込んだ場合、ぼくはどんな芸術に触れることが出来なくなろうともきっと好きな人と居ることを選ぶと思うからだ。
ちょっと前までは「美こそ至高」というテーゼを喚いていたけれど、結局それは愛情に飢えている感情を唯一麻痺させてくれたのが芸術だったからではないかな。そう、つまり「美こそ至高」というテーゼは最初から破綻していたということ。芸術における感性的な快感に浸っている間は、脳内がそれで満たされるから、あたかも美が愛を凌駕しているように感じる、要は錯覚めいたものに過ぎない。まあ、それは愛と美を逆転させても同じことが成り立つわけだけれど。
でも、何も美が愛にすごく劣っているというわけではなくて、無欠性という点であれば愛は美に勝っているというのはその通りだと思う。美の無欠性というのは、美的快感は誰にとっても真理であり、一方的に「良い」ものであるということ。その点、愛というのは不完全で、だからこそすごく人間的であるとも思うんだけど、とにかく必ず「良い」結果になるとは限らない。愛が生じるというのは、それ即ち「嫉妬」や「独占欲」も発生するということで、これは心には一般的には「良い」影響をもたらさない。(そういう言い方をすると美にも独占欲は働いてしまいそうになるけど、でも人々が夕日を綺麗だと思うことや青空を快いものだと感じるのは普遍的だし、なにより体験として考えたときにそれはその人の中にしか生じえない)
そう考えると、美とはとても「神」的(宗教的?)なもので愛とは実に「人間」的なものになるね、ということになった。つまり、ぼくは下手したら宗教にはまってしまう可能性が…!笑
愛情は人間臭い、つまり不完全で、同時に動物的でもある。愛するということは必ず性的なものが絡まざるを得ないし、それはそのままつまり動物本能的な営みのようにさえ捉えられる。ぼくはきっと、そういう動物的な側面を美の高尚さと対比させようとしていた節があるのかもしれない。
だってそうじゃない?あの女のこといちゃつきたいという感情よりは、夕暮れのマジックアワーに自然と感動する感情の方が綺麗だと思うでしょ?
愛は正義を歪ませるけど、美は何も歪めたりしない。寧ろ、歪んだものにさえ宿るのが美というもの。それはこのブログでも書いているけど、醜の美というものがあるから、歪みに対してさえ「良い」感情を抱いてしまう。アンフォルメルやダダイズムの美術的潮流からもそれは明らかなことではある。(ぼくの知識が美術に偏っているのも美を後押ししてしまう所以なのかも)
理性的には美を擁護しつつも、結局は「夕日の美しさに多くを求めすぎる」ことも愛に上書きされてしまう(美を崇拝する自分の中でも!)のだろうと直観できるのは、やはり人間も動物だということの証左のように感じてしまう。
そんなことを焼き肉をつまみながら男ふたりで話していたのでした。
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