お久しぶりでございます。東京に越してきてから早3か月。まさに光陰矢の如し、2015年ももう半年が過ぎてしまい時の早さに焦りに焦っております。家具も一通り揃い、試験も終わり、仕事はまだまだ慣れませんがようやっとひと段落つけましたので久しぶりにブログを更新します。今後は短くても更新は頻度の高さを優先したいですね(自信ないけど…)
えーではでは、今回は映画の内容で更新します。
この1か月間、チェコのシュルレアリスム映画監督であるヤン・シュヴァンクマイエル監督の回顧上映会「ヤン・シュヴァンクマイエル映画祭」が渋谷のイメージ・フォーラムにてやっておりましたので、彼の初長篇映画『アリス』で度肝を抜かれた経験をまた味わおうと足繁く通ってまいりました。相変わらず、度肝を抜かれっぱなしでしたが、その感想と彼の作品が如何に素晴らしいかについてつらつらと綴っていこうと思います。
今回この映画祭で上映していたのは全部で6プログラム(長編3作と短編作品集3プログラム)。何でも新作の『昆虫』という作品が近日公開されるということで、それに合わせて回顧上映会が催されたようです。しかし、渋谷イメージフォーラムで1日1本、21時からしか上映しないというタイトなスケジュールでしたので、もう平日も仕事終わりに行かねばならない(?)鬼畜な事態に……。ですが、平日仕事終わりの身体に鞭打ってでも観たくなるほど彼の作品は素晴らしい魅力に満ちているのです!(3か月くらい前にもっと大々的にやっていたようなのですが存在を知らず、情弱ツラいエピソードでした……)
■上映作品(全6プログラム)
『アリス』(1988年)
『オテサーネク』(2000年)
『サヴァイヴィング・ライフ-夢は第二の人生-』(2010年)
『ドン・ファン』他短篇7作(1966-1980年)
『ジャバウォッキー』他短篇6作(1964-1979年)
『対話の可能性』他短篇7作(1967-1989年)
『対話の可能性』意外は総て観ることができました。長編は総て観れたのと、アリス好きとしては見逃せない『ジャバウォッキー』が観れたのでまあ及第点というか自分には合格点を上げたいのですが、しかしコンプリート出来なかったのは非常に哀しいというかもどかしいというか……未だ観れてない作品も多々あるのでその時にまとめて観よ~。
元々彼の作品は映画の『アリス』と彼が挿絵を担当した「不思議の国のアリス」の絵本しか持っていなかったということもあり、「アリス好きな変態」ということで一方的にシンパシーを感じていたわけでございますけれども、今回その他の作品も観てやはり「アリス」云々無くとも彼の作品は好きになっていただろうなあと確信しました。要は彼の『アリス』ではなく、彼の作風そのものが好きだったようです。(一通り観ても一番よかったのは圧倒的に『アリス』でしたが!)
ヤン・シュヴァンクマイエル『アリス』(1988年)
ヤン・シュヴァンクマイエルが挿絵を担当したルイス・キャロル『不思議の国のアリス』
シュルレアリスムの手法
彼の作品に一貫しているのは現実の映像や人形の映像、写真などをモンタージュするという、パッチワーク的な作風です。
例えば『アリス』なんかは実際の少女としてのアリスが西洋人形に変化して物語が進んだり、『サヴァイヴィング・ライフ』では実際の人間が写真の切り抜きになったりと、手を変え品を変え新鮮なイメージを観客に与えてくれます。
そして、ここまで新鮮な映画にも関わらず、CGをほとんど使用していない点も彼の凄い所です。それにも関わらず、彼はCGをフルで活用した映画よりもよりファンタジーな世界を現出させる、これはこの監督にしかできないことでしょうし、今後も彼のような監督は(良い意味でも悪い意味でも)現れないと思います。「シュルレアリスム」という言葉が前時代的なものになっている今、誰よりもアナログでありながらどの映画作品よりも新鮮、それこそヤン・シュヴァンクマイエル監督の真骨頂です。
『サヴァイヴィング・ライフ-夢は第二の人生-』(2010年)
醜の美
そして全体的にシュールなグロさが散りばめられているのも彼の作品に共通していますね。(基本的に皮肉めいていて明るい映画は無いです…)
『アリス』では色々な登場キャラクターの首がはねられたり、動物の頭蓋骨が動いていたりなど、ここには挙げきれない数のグロいシーンがあります。また、『オテサーネク』では木偶が人間を食べてしまったり、『ジャバウォッキー』では大量の少女の人形がミキサーで砕かれたり、『サヴァイヴィング・ライフ』では熟女の裸体が提示されたりなど、決して美的ではないシーンが彼の作品には多分に含まれているのです。
ウンベルト・エーコが「醜の美」を提唱しているように、人間は必ずしも正的に美しいものに美を感じるわけではありません。美的体験は感性的であることが基本ですから、寧ろ「美」と「醜」は一見対立的でありながら「美的(=感性的)体験」の対象としては同軸としても捉えられるわけです。即ちその「感性的体験」としての美醜の価値はその絶対値で決まってくるとも考えられます。
但し、ただ醜ければいいというものではなく、そこは「美」とは異なり選択された「醜」というものが前提とならなければなりません。例えば生きている蝶は飛んでいようが、花に留まっていようが「美的体験」にはつながりますが、死んでしまった蝶に関しては、ヒトに踏まれた死骸には「美的体験」を得られず、蟻に群がられた死骸には「美的体験」を得られるといったように、醜は状態によって「美的体験」のフィールドに上がってくるかどうかが変わってくるわけです。(具体例はあくまで主観です、すいません変態ですね)
そして、ヤン・シュヴァンクマイエルという監督はこの美的醜とでも言うべき醜さを表現することに長けている監督であるのです。少女という美的対象に動物の骨が群がったり、ミキサーで粉砕したりなど醜的要素を付加することで、通常の美では体験できない「美的体験」を可能にしているのです。
『ジャバウォッキー』(1971年)
同じような手法、というより「醜の美」をそのまま体現したような映画としてはアレクセイ・ゲルマン監督の『神々のたそがれ』というとんでもない作品がありますね。これはもう予告編を観て頂ければ一目瞭然ですが、圧倒的に「汚い」映画です。しかし、その醜い映像から観客は目を離せない。それは何故か…その「汚さ」の「美的対象」としての絶対値が大きいからにほかなりません。因みに、ウンベルト・エーコはこの作品に対し「ゲルマンに比べればタランティーノの映画は、ディズニー映画だ。」という評価をしています。
こうした美的醜の感覚の鋭さは、園子音監督の『ヒミズ』であったダダイスム的醜の技法にも通ずるものがありますね。
アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』
園子温『ヒミズ』
少女という対象
そして、これも彼の特徴のひとつと勝手に捉えておりますが、彼の作品ではしばしば少女を性的対象とするような表現がとられます。しかし、その手法は決していやらしいものではなく、どちらかというとメタ的な「女性の儚さ」とでも言うべき表象を捉えようとしているかのようです。
例えば『アリス』では、不思議の国で恐ろしい思いをしながらも、ひたむきにウサギを追いかけ回すアリスの姿が印象的です。ウサギに攻撃されながらも"Please, Sir!(待ってうさぎさん)"と言いながら無邪気に追い回す様子は、純粋さが失われる前の儚さ染みたものを感じさせます。ウサギが男性のメタファー(プレイボーイのように)になっているとすれば、途中で展開される「翼の生えたベッドに襲われて白い液体にダイブするシーン」や「青いイモ虫(靴下に目が付いた奇妙な生物)との遭遇時に靴下を無理やり脱がされるシーン」がいずれ訪れる処女性の喪失を暗示していることにも気づくでしょう。
ヤン・シュヴァンクマイエル『アリス』(1988年)
また『オテサーネク』でも「少女性の喪失」を暗示するシーンが複数あります。メインで登場してくる女の子が近所のおじいさんに性的なまなざしを受けたり、弟(=子供)がほしいと駄々をこねてみた(これは母性の発露)り、いろいろなメタファーがありますが、何よりインパクトがあるのは映画のメインビジュアルでしょう。女の子が上目づかいで目玉焼き(卵の暗示)に舌を這わせているシーン。これこそ母性の発露をもっとも端的に表す一方で、女性の艶めかしさ的な部分が表面化(少女→女性への変容)しているシーンなのです。
ヤン・シュヴァンクマイエル『オテサーネク』(2000年)
そして、こうした純潔の消失という表象に対しては、どうしてもバルテュスの絵を想起せざるを得ません。
こうした表現媒体を超えて理念がつながっていくとき、芸術はもっともすばらしい輝きを放つように思えますね。
バルテュス《美しい日々》
バルテュス《決して来ないとき》
えーではでは、今回は映画の内容で更新します。
この1か月間、チェコのシュルレアリスム映画監督であるヤン・シュヴァンクマイエル監督の回顧上映会「ヤン・シュヴァンクマイエル映画祭」が渋谷のイメージ・フォーラムにてやっておりましたので、彼の初長篇映画『アリス』で度肝を抜かれた経験をまた味わおうと足繁く通ってまいりました。相変わらず、度肝を抜かれっぱなしでしたが、その感想と彼の作品が如何に素晴らしいかについてつらつらと綴っていこうと思います。
今回この映画祭で上映していたのは全部で6プログラム(長編3作と短編作品集3プログラム)。何でも新作の『昆虫』という作品が近日公開されるということで、それに合わせて回顧上映会が催されたようです。しかし、渋谷イメージフォーラムで1日1本、21時からしか上映しないというタイトなスケジュールでしたので、もう平日も仕事終わりに行かねばならない(?)鬼畜な事態に……。ですが、平日仕事終わりの身体に鞭打ってでも観たくなるほど彼の作品は素晴らしい魅力に満ちているのです!(3か月くらい前にもっと大々的にやっていたようなのですが存在を知らず、情弱ツラいエピソードでした……)
■上映作品(全6プログラム)
『アリス』(1988年)
『オテサーネク』(2000年)
『サヴァイヴィング・ライフ-夢は第二の人生-』(2010年)
『ドン・ファン』他短篇7作(1966-1980年)
『ジャバウォッキー』他短篇6作(1964-1979年)
『対話の可能性』他短篇7作(1967-1989年)
『対話の可能性』意外は総て観ることができました。長編は総て観れたのと、アリス好きとしては見逃せない『ジャバウォッキー』が観れたのでまあ及第点というか自分には合格点を上げたいのですが、しかしコンプリート出来なかったのは非常に哀しいというかもどかしいというか……未だ観れてない作品も多々あるのでその時にまとめて観よ~。
元々彼の作品は映画の『アリス』と彼が挿絵を担当した「不思議の国のアリス」の絵本しか持っていなかったということもあり、「アリス好きな変態」ということで一方的にシンパシーを感じていたわけでございますけれども、今回その他の作品も観てやはり「アリス」云々無くとも彼の作品は好きになっていただろうなあと確信しました。要は彼の『アリス』ではなく、彼の作風そのものが好きだったようです。(一通り観ても一番よかったのは圧倒的に『アリス』でしたが!)
ヤン・シュヴァンクマイエル『アリス』(1988年)
ヤン・シュヴァンクマイエルが挿絵を担当したルイス・キャロル『不思議の国のアリス』
シュルレアリスムの手法
彼の作品に一貫しているのは現実の映像や人形の映像、写真などをモンタージュするという、パッチワーク的な作風です。
例えば『アリス』なんかは実際の少女としてのアリスが西洋人形に変化して物語が進んだり、『サヴァイヴィング・ライフ』では実際の人間が写真の切り抜きになったりと、手を変え品を変え新鮮なイメージを観客に与えてくれます。
そして、ここまで新鮮な映画にも関わらず、CGをほとんど使用していない点も彼の凄い所です。それにも関わらず、彼はCGをフルで活用した映画よりもよりファンタジーな世界を現出させる、これはこの監督にしかできないことでしょうし、今後も彼のような監督は(良い意味でも悪い意味でも)現れないと思います。「シュルレアリスム」という言葉が前時代的なものになっている今、誰よりもアナログでありながらどの映画作品よりも新鮮、それこそヤン・シュヴァンクマイエル監督の真骨頂です。
『サヴァイヴィング・ライフ-夢は第二の人生-』(2010年)
醜の美
そして全体的にシュールなグロさが散りばめられているのも彼の作品に共通していますね。(基本的に皮肉めいていて明るい映画は無いです…)
『アリス』では色々な登場キャラクターの首がはねられたり、動物の頭蓋骨が動いていたりなど、ここには挙げきれない数のグロいシーンがあります。また、『オテサーネク』では木偶が人間を食べてしまったり、『ジャバウォッキー』では大量の少女の人形がミキサーで砕かれたり、『サヴァイヴィング・ライフ』では熟女の裸体が提示されたりなど、決して美的ではないシーンが彼の作品には多分に含まれているのです。
ウンベルト・エーコが「醜の美」を提唱しているように、人間は必ずしも正的に美しいものに美を感じるわけではありません。美的体験は感性的であることが基本ですから、寧ろ「美」と「醜」は一見対立的でありながら「美的(=感性的)体験」の対象としては同軸としても捉えられるわけです。即ちその「感性的体験」としての美醜の価値はその絶対値で決まってくるとも考えられます。
但し、ただ醜ければいいというものではなく、そこは「美」とは異なり選択された「醜」というものが前提とならなければなりません。例えば生きている蝶は飛んでいようが、花に留まっていようが「美的体験」にはつながりますが、死んでしまった蝶に関しては、ヒトに踏まれた死骸には「美的体験」を得られず、蟻に群がられた死骸には「美的体験」を得られるといったように、醜は状態によって「美的体験」のフィールドに上がってくるかどうかが変わってくるわけです。(具体例はあくまで主観です、すいません変態ですね)
そして、ヤン・シュヴァンクマイエルという監督はこの美的醜とでも言うべき醜さを表現することに長けている監督であるのです。少女という美的対象に動物の骨が群がったり、ミキサーで粉砕したりなど醜的要素を付加することで、通常の美では体験できない「美的体験」を可能にしているのです。
『ジャバウォッキー』(1971年)
同じような手法、というより「醜の美」をそのまま体現したような映画としてはアレクセイ・ゲルマン監督の『神々のたそがれ』というとんでもない作品がありますね。これはもう予告編を観て頂ければ一目瞭然ですが、圧倒的に「汚い」映画です。しかし、その醜い映像から観客は目を離せない。それは何故か…その「汚さ」の「美的対象」としての絶対値が大きいからにほかなりません。因みに、ウンベルト・エーコはこの作品に対し「ゲルマンに比べればタランティーノの映画は、ディズニー映画だ。」という評価をしています。
こうした美的醜の感覚の鋭さは、園子音監督の『ヒミズ』であったダダイスム的醜の技法にも通ずるものがありますね。
アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』
園子温『ヒミズ』
少女という対象
そして、これも彼の特徴のひとつと勝手に捉えておりますが、彼の作品ではしばしば少女を性的対象とするような表現がとられます。しかし、その手法は決していやらしいものではなく、どちらかというとメタ的な「女性の儚さ」とでも言うべき表象を捉えようとしているかのようです。
例えば『アリス』では、不思議の国で恐ろしい思いをしながらも、ひたむきにウサギを追いかけ回すアリスの姿が印象的です。ウサギに攻撃されながらも"Please, Sir!(待ってうさぎさん)"と言いながら無邪気に追い回す様子は、純粋さが失われる前の儚さ染みたものを感じさせます。ウサギが男性のメタファー(プレイボーイのように)になっているとすれば、途中で展開される「翼の生えたベッドに襲われて白い液体にダイブするシーン」や「青いイモ虫(靴下に目が付いた奇妙な生物)との遭遇時に靴下を無理やり脱がされるシーン」がいずれ訪れる処女性の喪失を暗示していることにも気づくでしょう。
ヤン・シュヴァンクマイエル『アリス』(1988年)
また『オテサーネク』でも「少女性の喪失」を暗示するシーンが複数あります。メインで登場してくる女の子が近所のおじいさんに性的なまなざしを受けたり、弟(=子供)がほしいと駄々をこねてみた(これは母性の発露)り、いろいろなメタファーがありますが、何よりインパクトがあるのは映画のメインビジュアルでしょう。女の子が上目づかいで目玉焼き(卵の暗示)に舌を這わせているシーン。これこそ母性の発露をもっとも端的に表す一方で、女性の艶めかしさ的な部分が表面化(少女→女性への変容)しているシーンなのです。
ヤン・シュヴァンクマイエル『オテサーネク』(2000年)
そして、こうした純潔の消失という表象に対しては、どうしてもバルテュスの絵を想起せざるを得ません。
こうした表現媒体を超えて理念がつながっていくとき、芸術はもっともすばらしい輝きを放つように思えますね。
バルテュス《美しい日々》
バルテュス《決して来ないとき》
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