K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

セバスチャン・スキッパー『ヴィクトリア』

2016年10月04日 | 映画
みなさまこんにちは。秋もたけなわ、涼しくなったり暑くなったり、よくわからない気候になかなか私服が定まらないただけーまです。

セバスチャン・スキッパー監督の『ヴィクトリア』を鑑賞しました。※毎度のことながら今更かよ、というツッコミはなしで…



<Story>
ひとりの若い女性が激しいダンスに身を委ねていた。3ヵ月前に母国スペインのマドリードを後にして、単身ベルリンでの生活を始めたヴィクトリア(ライア・コスタ)である。踊り疲れて帰路につこうとしたヴィクトリアは、夜明け前の路上で地元の若者4人組に声をかけられる。


「全編140分ワンカットの衝撃」という謳い文句で宣伝された本作。全編ワンシーンはヒッチコックの『ロープ』でも(不完全とは言え)実践された試みであり、それ自体は多少話題性のあるものでしかありません。しかし、この作品の本質はそうした技術的なところではなく、ヴィクトリアという女性のリアルな内面の描写であると感じました。
ヴィクトリアはピアニストの夢潰えた承認欲求不満の少女。夢を諦めた挙句、半ば自暴自棄にクラブで遊ぶヴィクトリアは、地元のゴロツキであるゾンネにナンパされそのままギャングが関わる事件に巻き込まれていってしまう。ストーリーとしては非常にツッコミどころ満載というか、いやいや防犯意識低すぎでしょと何度も心の中で唱えてしまうものです。
ヴィクトリアが事件に巻き込まれていく発端は、その承認されない自我の不安定さゆえです。音楽院で競い合っていた同級生や認めてくれなかった教授たちのせいで、ヴィクトリアは「承認」に飢えているわけです。そんな状態で、ふと深夜のカフェで弾いたリストの『メフィストワルツ』をゾンネに褒められ、その承認された感覚が次第に盲目的な恋(のようなもの)となっていくのです。



承認欲求不満というのは実に恐ろしいもので、その裏は自己存在を第一に優先するという無意識があります。つまり、一見ヴィクトリアがゾンネに惹かれたように見えるシーンは、自己愛の裏返しでもあるわけですね。
この「承認欲求」は現代社会に深く根付いていて、それはSNSの「いいね」を求める傾向からも明らかでしょう。獲得した「いいね」の数がその人の価値であるかのような認識が現代社会にはあるわけです。お洒落な写真をアップして、ファッショナブルな記事をシェアして、週末イベントに相乗りしてしまう、そんな態度こそ現代の奇病と言えはしまいでしょうか。

ラストシーン、ホテルの一室で対峙したゾンネの死に対してひとしきり「泣き切った」ヴィクトリアは、余りにもあっけなくホテルを後にします。それは、ゾンネに代わり再び自分を承認してくれる相手を求めて、ベルリンの街中へ消えていく姿なのです。承認欲求不足の恐ろしさと女性の残酷さが描写された印象的なラストシーンです。
思い返せば、クラブでの目眩のするような冒頭の美しいダンスシーンは、欲求不満を紛らわすための舞踊だったようにも感じます。そこで舞踊をやめたとき、ヴィクトリアは自己愛を追求する女王となるのです。



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