K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

ジャンフランコ・ロージ『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』

2017年02月27日 | 映画
こんにちは。久しぶりの投稿です。最近は楽器の練習でなかなか更新できませんでした。

今回はベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したジャンフランコ・ロージ監督の『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』です。たまにはタイムリーな更新をと思い、もろもろすっ飛ばしての更新です。



<Story>
12歳の少年サムエレは、友だちと手作りのパチンコで遊び、島の人々はどこにでもある毎日を生きている。しかし、この島には彼が知らないもうひとつの顔がある。アフリカや中東から命がけで地中海を渡り、ヨーロッパを目指す多くの難民・移民の玄関口なのだ。島の人口約5500人に対して、今は年間5万人を超える難民・移民がランペドゥーサ島へやってきている。島には巨大な無線施設が建ち、港には数多くの救助艇が停泊している。ひとたび難民たちが乗った船から救難要請の連絡が入ると、無線が飛び交い、ヘリコプターが飛び立つ。夜の海を照らすサーチライトが難民たちを探している。そんな緊迫した様子とは対照的に、島の日常は流れていく。(「映画『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』公式サイト」より)


作品中にはナレーションによる最低限の説明しかなく、前提の知識がなければ、この映画の本質はなかなかわからない、そんな難解な映画でした。説明のない、一見関係性のなさそうなカットによるモンタージュ。それによって紡がれる「物語」ではない「事実」に、監督の真摯な眼差しが注がれています。



映されるカットはランペドゥーサ島に辿り着いた移民たちの苦難の様子とランペドゥーサ島で平和に暮らす島民たちという相反するもの。舞台がランペドゥーサ島がであることだけが共通するものの、難民と島民の姿が殆ど交わることがないのが特徴的です。
こうした二項対立的な構成は、ビジュアルのコピー「ぼくたちは生きている。悲劇のすぐそばで。」という作品の主題を端的に描写しています。
難民の避難場所であり、変哲のない平穏な島でもあるという相反する事実。ランペドゥーサ島の二つの側面を的確に捉えた構成で、悲劇(=難民)と生活者が隔離されている事実がノンナラティブで伝わってくる、見事なモンタージュなのです。


平穏に暮らす島民


悲嘆に暮れる難民

島民の生活と難民の苦難という対立する二項が併存するランペドゥーサ島。そうした対立構造はさまざまなシーンに散りばめられています。
例えば、作中で難民の苦難を象徴するのが、難民を捜索するサーチライトやヘリコプターなどの無機物的なものである一方で、島民の生活は海辺や林の中を歩くなど、有機的な印象を与えるように描写されています。
また、昼夜と内外という点でも対比されています。難民たちは「夜に外」でボール遊びなどをして楽しみ、「昼は屋内」で係争地から脱出した喜びを語りますが、島民たちは「昼に外」で活動し、「夜は屋内」で家族との団欒に浸るのです。


難民を探すサーチライト

そこで、二項対立を越えた(弁証法に則ればアウフヘーベン的)存在が街の医者です。彼は島民の診察をする一方で、難民の死体検分も担当する、島の二つの側面を実態として知る存在なのです。
そんな中、二者の構造的対立を乗り越えるようになるのが、主人公の少年サムエレです。彼は左右の視力の大きな乖離により、自身が片方の目でしか世界を認識していないこと(ランペドゥーサ島の二面性への暗示)に、アウフヘーベンを誘う医者に気づかされます。視力矯正のために片目で生活を始めるサムエレは、島の二面性に疑問を投げかけるアイコンへと変貌を遂げることになります。



特に象徴的なのが、彼が夜の山に入り、小鳥の真似をしながら小鳥と戯れるシーン。これは、夜の世界に入り、自分の生活圏外の存在と交信するという、ランペドゥーサ島における難民との接近を予感させる行為(夜+外という難民パラメータへの接近)にほかなりません。

しかしながら、ラストシーンで映される、鳥を銃で撃ち落とすサムエレのジェスチャー。それは難民のことを考慮すると余りにもデリカシーのない行為であり、ランペドゥーサ島の二面性の乖離という問題を改めて提起する形で幕を閉じるのです。


取りに向かって放銃のジェスチャーをするサムエレ

疲弊しきった難民たちを救出する凄惨なクライマックスシーンなど、テーマを的確に捉えた映像が緻密に構成されている印象を強く受けました。素晴らしいドキュメンタリー映画です。


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