こんばんは。
今日はショッピングして大学内のジムで筋トレして、何やら充実した一日のように見えて卒論が一文字も進んでないただけーまです。
今日は、完全なる独断と偏見による、芸術観念を述べたいと思います。
めちゃめちゃ独断と偏見です。
まあ、私的な意見の一つだとでも思ってくれると嬉しいです。
そして、同意していただけた方には是非コメントを・・・!!
訪問者の割にコメントが少ないのが最近寂しくなってきました。
まあ、読んでいただけてるだけで感無量なのですが。
さて、では早速本題に入って行きたいと思います。
ここからはかなり観念的な、感覚的な話になってくるので。
正直、理詰めとかくそくらえ、って感じで理論が破たんしているというか、理論なんてない観念ですが。
最後までお付き合いいただけたら・・・
まず最初に2種類の演奏を聞き比べてほしいと思います。
ここでめんどくさがらずに聞いてくれると嬉しいです。
正直、聞いてほしいのはバッハ作曲の「ゴルドベルク変奏曲」第1変奏なんですが。
まずは、通常の演奏。
J.S. Bach, Goldberg Variations, Variation 1, Kimiko Ishizaka
この人、今さっき知ったんですが。
オーソドックスな弾き方でものすごく上手ですね~。
正統派のゴルドベルクという感じ。
まあ、第1変奏だけなんですが。
この第1変奏は冒頭のアリアの後に来る楽章なんですね。
つまり最初の変奏という非常に重要な楽章になっています。
オーソドックスな第一変奏を聞いていただいた(よね?笑)ところで。
問題の、グールドの第1変奏を聞いてみましょう。
Goldberg Variations BWV 988 (Glenn Gould, 1981) - 2/7
第7変奏まで入ってますが。とりあえず第一変奏が終わる4分くらいまで聞いてもらえれば。
このくっそ遅いアリアも一つの到達点だと思いますが。(てかグールド死にそうww)
それより注目すべきは第1変奏の最初の音。
低音がずーんっと重く響く弾き方、これはグールドの1981年の録音ぐらいなんですよね。
ここまで、あからさまに弾いてるのは。
あらゆる音源を網羅してるわけでは決してないので、もしこれに似ている音源があったら教えてほしいんですが。
とにかく、この第1変奏は非常に革命的な演奏である、ということをわかっていただければ。
ここまで違うということを意識してもらえるならそれで大丈夫です。
そして、次に見てほしいのはこちらの2枚の絵です。
まずは、「みんな大好きフェルメール!」でおなじみのフェルメールの絵です。
フェルメール「レースを編む女」
かわいいです。
かわいい幼女(?)がレースを編んでおります。
かなり有名な作品なので、フェルメールブームが起きた日本では見たことある人が多いんじゃないでしょうかね?
まあ、普通の目で見るとこんな感じでかわいく映るわけですが。
シュルレアリスムの先鋒、ダリの目を通して見ると・・・
こ う な る !
ダリ「フェルメールの〈レースを編む女〉に関する偏執狂的=批判的習作」
なんかもう・・・ワロタ・・・
って感じに崩壊してますが。
ダリはこの「レースを編む女」という作品について、針の先から宇宙が広がる、と表現しました。
放射状に広がる様々な物体ですが、その放射の中心に針の先が来るようにこの絵は描かれてるんですね。
つまり、この針先から放射状に宇宙が広がる、と。
そういう習作なんです。
宇宙()が何を意味するかはわかりませんが、見えない現実とでも言えばいいのでしょうか。
見えない現実を可視化する、というシュルレアリスティックな理念を体現してるのならそうなるのでしょうが。
ここでの宇宙()が何であるかはどうでもよくて。
この「針先から広がる宇宙」がグールドの「ゴルドベルク変奏曲」の解釈にも当てはまるのではないかと。
そういう、個人的な印象の話、です。
グールドもダリも、残された楽譜・絵画から真意を推測するしかなかった。
そして、自己の内部で導きだした結論を表現したわけですが。
その醸成されたものの類似たるや。
同じ芸術体験のように、ハッと気付いたわけです。
そして、それを頑なに信じて、第1変奏がどのように弾かれるか。
ダリ的宇宙の広がりは感じられるのか、に注意して最近は耳を傾けます。
戦中・戦後世代の芸術家は、非常に戦争体験というものが自己形成の大事な部分になってる人が多いんですが。
ダダを代表とする、破壊的なアート。
従来の既成概念を否定する、革命的な力をもったアート、というものが当時は求められていた時代で。
もっと新しいものを新しいものを、というアヴァンギャルディズムの精神が蔓延していたというのは事実です。
現実を切り開く、という点に着目すれば。
この2人の爆発的な過去の名作の再解釈というものは、既成概念の否定、ひいては革命的なアートとして存在しえたようにも思えます。
この2つは同じ歴史的背景をもっているのかもしれないですね。
前衛の精神、というものに求められていたのかも、とか。
そんな妄想。
でした。
タイトルは正しくは、
『ダリの「レースを編む女」解釈とグールドの「ゴルドベルク変奏曲」解釈の類似性』
ですね。
長々と読んでいただいた方、ありがとうございましたんたんたぬき。
hona-☆
今日はショッピングして大学内のジムで筋トレして、何やら充実した一日のように見えて卒論が一文字も進んでないただけーまです。
今日は、完全なる独断と偏見による、芸術観念を述べたいと思います。
めちゃめちゃ独断と偏見です。
まあ、私的な意見の一つだとでも思ってくれると嬉しいです。
そして、同意していただけた方には是非コメントを・・・!!
訪問者の割にコメントが少ないのが最近寂しくなってきました。
まあ、読んでいただけてるだけで感無量なのですが。
さて、では早速本題に入って行きたいと思います。
ここからはかなり観念的な、感覚的な話になってくるので。
正直、理詰めとかくそくらえ、って感じで理論が破たんしているというか、理論なんてない観念ですが。
最後までお付き合いいただけたら・・・
まず最初に2種類の演奏を聞き比べてほしいと思います。
ここでめんどくさがらずに聞いてくれると嬉しいです。
正直、聞いてほしいのはバッハ作曲の「ゴルドベルク変奏曲」第1変奏なんですが。
まずは、通常の演奏。
J.S. Bach, Goldberg Variations, Variation 1, Kimiko Ishizaka
この人、今さっき知ったんですが。
オーソドックスな弾き方でものすごく上手ですね~。
正統派のゴルドベルクという感じ。
まあ、第1変奏だけなんですが。
この第1変奏は冒頭のアリアの後に来る楽章なんですね。
つまり最初の変奏という非常に重要な楽章になっています。
オーソドックスな第一変奏を聞いていただいた(よね?笑)ところで。
問題の、グールドの第1変奏を聞いてみましょう。
Goldberg Variations BWV 988 (Glenn Gould, 1981) - 2/7
第7変奏まで入ってますが。とりあえず第一変奏が終わる4分くらいまで聞いてもらえれば。
このくっそ遅いアリアも一つの到達点だと思いますが。(てかグールド死にそうww)
それより注目すべきは第1変奏の最初の音。
低音がずーんっと重く響く弾き方、これはグールドの1981年の録音ぐらいなんですよね。
ここまで、あからさまに弾いてるのは。
あらゆる音源を網羅してるわけでは決してないので、もしこれに似ている音源があったら教えてほしいんですが。
とにかく、この第1変奏は非常に革命的な演奏である、ということをわかっていただければ。
ここまで違うということを意識してもらえるならそれで大丈夫です。
そして、次に見てほしいのはこちらの2枚の絵です。
まずは、「みんな大好きフェルメール!」でおなじみのフェルメールの絵です。
フェルメール「レースを編む女」
かわいいです。
かわいい幼女(?)がレースを編んでおります。
かなり有名な作品なので、フェルメールブームが起きた日本では見たことある人が多いんじゃないでしょうかね?
まあ、普通の目で見るとこんな感じでかわいく映るわけですが。
シュルレアリスムの先鋒、ダリの目を通して見ると・・・
こ う な る !
ダリ「フェルメールの〈レースを編む女〉に関する偏執狂的=批判的習作」
なんかもう・・・ワロタ・・・
って感じに崩壊してますが。
ダリはこの「レースを編む女」という作品について、針の先から宇宙が広がる、と表現しました。
放射状に広がる様々な物体ですが、その放射の中心に針の先が来るようにこの絵は描かれてるんですね。
つまり、この針先から放射状に宇宙が広がる、と。
そういう習作なんです。
宇宙()が何を意味するかはわかりませんが、見えない現実とでも言えばいいのでしょうか。
見えない現実を可視化する、というシュルレアリスティックな理念を体現してるのならそうなるのでしょうが。
ここでの宇宙()が何であるかはどうでもよくて。
この「針先から広がる宇宙」がグールドの「ゴルドベルク変奏曲」の解釈にも当てはまるのではないかと。
そういう、個人的な印象の話、です。
グールドもダリも、残された楽譜・絵画から真意を推測するしかなかった。
そして、自己の内部で導きだした結論を表現したわけですが。
その醸成されたものの類似たるや。
同じ芸術体験のように、ハッと気付いたわけです。
そして、それを頑なに信じて、第1変奏がどのように弾かれるか。
ダリ的宇宙の広がりは感じられるのか、に注意して最近は耳を傾けます。
戦中・戦後世代の芸術家は、非常に戦争体験というものが自己形成の大事な部分になってる人が多いんですが。
ダダを代表とする、破壊的なアート。
従来の既成概念を否定する、革命的な力をもったアート、というものが当時は求められていた時代で。
もっと新しいものを新しいものを、というアヴァンギャルディズムの精神が蔓延していたというのは事実です。
現実を切り開く、という点に着目すれば。
この2人の爆発的な過去の名作の再解釈というものは、既成概念の否定、ひいては革命的なアートとして存在しえたようにも思えます。
この2つは同じ歴史的背景をもっているのかもしれないですね。
前衛の精神、というものに求められていたのかも、とか。
そんな妄想。
でした。
タイトルは正しくは、
『ダリの「レースを編む女」解釈とグールドの「ゴルドベルク変奏曲」解釈の類似性』
ですね。
長々と読んでいただいた方、ありがとうございましたんたんたぬき。
hona-☆
I will here her playing the Goldberg variations.
Her expression is very classical, and matching Bach or baroque.