K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

国境病と天国病

2012年11月07日 | 文学
久しぶりに文学についての更新です~。
漫画は読むけどな、小説は全然読まないんだぜ・・・!

安部公房について少し書きたいと思います。
まあ、卒論で書けってとこなんですけど、今回は多分関係ない部分なので・・・
ブログで発散します笑

安部の、これは文学というよりは思想に近いかなぁ、と思うんですが。
「国境病」と「天国病」という概念がありまして。

「国境病」とは、いわゆるエスノセントリズムの考え方で。
「天国病」というのは、いわゆるユートピア思想と置き換えることができると思います。

あまり知られていないかもしれませんが。
安部は人の政治にかなりコミットしていた作家の一人でもありまして。
特に共産党に傾いていたという事実があります。

実際共産党の党員で、共産党の平和運動や反原水爆大会に参加するなど。
非常に反米精神に満ちあふれた人であったような気がします。

そうした中で、「国境病」「天国病」という考え方が提唱された背景としては。
安部が、チェコスロヴァキア作家大会に出席した際、東欧で見聞したことが関係しています。

ジプシー民族の存在やドイツ人に対するチェコ人の偏見など、欧州における民族主義の強さを安部は生身で感じたわけです。

そうした欧州の民族主義を国境病と名状し、日本の民族主義概念と比較します。
島国である日本は、欧州の諸民族と比較して、国境というものに触れた経験が圧倒的に乏しかったということが言えます。
とりわけ、東欧の諸民族は近代に入るまでは四大帝国(ドイツ、ロシア、ハプスブルク、トルコ)に包含されており、「国境」と「民族」の微妙な関係に恒常的にさらされてきたという史実もあります。
それに比べて日本の民族主義の自覚のなさといえば・・・

そういう落胆が安部にはあったのかもしれません。
しかし、安部は戦後の日本でのアメリカ占領軍が設置した、基地の鉄条網が、日本の民族主義に有効な「国境」となるのではないか、と期待します。
他国を意識することによって、インターナショナリズムが育成され、他国における社会主義にも眼がいくのではないかと考えたわけです。
反米精神から社会主義国家への歩みを見せるのではないか、という淡い期待もあったのかもしれません。

ここで、出てくるのが「天国病」という揶揄ですね。
当時の共産党の主張は簡単に言うと「社会主義めっちゃいいよ。社会主義になったら問題全部解決するよ。」
というような、理想的なもので、具体的なビジョンに欠けていたということがあります。

「もし大衆に真の社会主義を知らそうと思うなら、社会主義を天国のように描いてみせることではなく、むしろこの世には(むろんあの世にも)天国などは存在せず、あるのはたださまざまな矛盾であり、ここ資本主義にはマイナスの矛盾が満ちあふれているが、べつな社会ではプラスの矛盾が支配的になるのだということを示すことによって、その閉ざされた意識を解放することが必要だったのである。」(安部公房「日本共産党は世界の孤児だ」1956年)

日本民族が「国境病」にかかることで、他国に対する関心が芽生え、社会主義でもうまくいっていない現状というものを把握しなければならない、と安部は考えたわけです。
そこから、自分たちの国、日本はどうなるべきであろうか、と捉えること、自国の在り方に自覚的になることが大事であると、そういう考えですね。
そうした矛盾のある社会主義を認識しつつも、その矛盾がプラス(前進)のエネルギーになる、というのが、安部の中での共産主義だったのです。

現実に眼を向けない日本共産党は世界の孤児であると、皮肉たっぷりの文章ですね。

当時、スポルタージュについて取り組む〈現在の会〉に所属していた安部は、こうした東欧のルポを書くことで、現実との齟齬を自覚していくことになります。
それは、外部と内部のずれ、という感覚に到達し、最終的な安部のルポルタージュの姿勢へと結実していくことになったのでした。


そして、外部と内部のずれ、からの止揚というものは、私が現在卒論で取り組んでいる〈記録芸術の会〉の大事な理念となっていきますので。
そろそろ卒論に戻りたいと思います笑

それではみなさんご一緒に~
\あうふへーべん/


hona-☆

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