性欲と異性愛は表裏一体で不可分でしょうか。異性愛あるところに性欲があり、性欲があるところに異性愛がある。それでは純粋な異性愛や純粋な性欲は実現し得ないのでしょうか。
そんな疑問を投げかけてくれるのが、デカダン文学を代表する川端康成の「眠れる美女」です。決して目覚めない若い裸の女性と眠る場を提供するある館と、その館にのめりこんでいく江口老人というエロジジイの話です。
三島由紀夫をして「形式的完成美を保ちつつ、熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品」と言わしめた本作、決して目覚めない若い女たちの姿に嘗て抱いた女性を重ね、遠くから迫る死を見つめる江口老人。作品内は重ったるく鬱積した空気が蔓延し、最後は死を死とも思わないドロドロで衝撃的な結末を迎えます。(そして、悪を悪とも思わない「この家には、悪はありません。」という女おかみの言葉が共鳴して退廃的な読後感を飾り立てます)
当初の疑問「純粋な異性愛や純粋な性欲の有無」に立ち戻ると、この設定そのものが純粋性欲を体現していると三島は述べます。
決して目覚めない裸の女、それに対して湧く感情こそが純粋性欲。それは、女性の精神的な個性を孕まない、物体的な身体美に対する肉欲であり、相互干渉を前提とする愛情の入り込む余地をすっかり埋めることが可能になるのです。
では純粋な異性愛とは果たして存在し得るのか。この小説では表現されませんが、三島の言う通り愛情が相互干渉を前提とするものであるとするのなら、純粋な異性愛とは存在し得ないのではないかと思い至るわけです。一方向的な干渉で性欲が生じてしまうというのであれば、純粋な異性愛とは相互不干渉のベクトルを向けなければならない、ということはつまり、純粋な異性愛とは空集合になってしまう…
純粋な異性愛を求めることは自分を見失う自家撞着、或いは異性装を求めるナルシズムかはたまた肉体の干渉から免れた夢の世界でか……夢の中と言えば。老人に純粋性欲を向けられた、眠れる美女たちは夢の中で一体どのような世界を彷徨っていたのでしょうか。ここで、ふいに飛び出した眠り子の一言が思い出されます。
「ああ、あたしどこへゆくの。」
彼女らは夢の中で何を求めていたのでしょうか。
そんな疑問を投げかけてくれるのが、デカダン文学を代表する川端康成の「眠れる美女」です。決して目覚めない若い裸の女性と眠る場を提供するある館と、その館にのめりこんでいく江口老人というエロジジイの話です。
三島由紀夫をして「形式的完成美を保ちつつ、熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品」と言わしめた本作、決して目覚めない若い女たちの姿に嘗て抱いた女性を重ね、遠くから迫る死を見つめる江口老人。作品内は重ったるく鬱積した空気が蔓延し、最後は死を死とも思わないドロドロで衝撃的な結末を迎えます。(そして、悪を悪とも思わない「この家には、悪はありません。」という女おかみの言葉が共鳴して退廃的な読後感を飾り立てます)
当初の疑問「純粋な異性愛や純粋な性欲の有無」に立ち戻ると、この設定そのものが純粋性欲を体現していると三島は述べます。
決して目覚めない裸の女、それに対して湧く感情こそが純粋性欲。それは、女性の精神的な個性を孕まない、物体的な身体美に対する肉欲であり、相互干渉を前提とする愛情の入り込む余地をすっかり埋めることが可能になるのです。
では純粋な異性愛とは果たして存在し得るのか。この小説では表現されませんが、三島の言う通り愛情が相互干渉を前提とするものであるとするのなら、純粋な異性愛とは存在し得ないのではないかと思い至るわけです。一方向的な干渉で性欲が生じてしまうというのであれば、純粋な異性愛とは相互不干渉のベクトルを向けなければならない、ということはつまり、純粋な異性愛とは空集合になってしまう…
純粋な異性愛を求めることは自分を見失う自家撞着、或いは異性装を求めるナルシズムかはたまた肉体の干渉から免れた夢の世界でか……夢の中と言えば。老人に純粋性欲を向けられた、眠れる美女たちは夢の中で一体どのような世界を彷徨っていたのでしょうか。ここで、ふいに飛び出した眠り子の一言が思い出されます。
「ああ、あたしどこへゆくの。」
彼女らは夢の中で何を求めていたのでしょうか。
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