こんにちは。お久しぶりです。ただけーまです。もう年も暮れると思うとやる瀬ない感情に陥りますね。2014年も本当にあっという間で、社会に出てからの圧倒的時間の流れの早さにしみじみ感じ入っております。(本当に今の学生諸君は楽しんでおきなさい!)
というわけで(?)珍しくも文学の連続更新になるわけですが、前回の第150回芥川賞受賞作『穴』に続き、今回は最新の第151回芥川賞受賞作である『春の庭』の書評(仮)の更新です。
個人的に内容が面白かったのは『穴』なんですが『春の庭』は前者よりも文学的に難解な印象がありました。『穴』が「穴」というキーワードを軸にして個人と血族・土地の関係を描写するという分かりやすい構造だったのに対し、『春の庭』は一読しただけではなかなか解りづらい構造の小説だった気がします。
ただ、今思い返しながら頭の中で整理してみると、『穴』と『春の庭』は実はテーマが真逆に設定されているのでは!とか思ったりしています。
両作とも主人公が無個性的で平凡な人物でありながら、『穴』は土地(血族)に取り込まれるという「人の変化」にまつわる暗澹とした人間の普遍的な負の感情を描写していたのに対し、『春の庭』はあるアパートから住居者がどんどん外へ移転していき、寂れていく「土地の変化」が主題になっているように私には読めました(無理やり構造主義的な読み方に当てはめるのであるとすればですが)
まあ、こんな話をしていても一向に本編の感想は書けませんので、ざっくりあらすじを下記します。
本作は嘗て有名人が住んでいた一戸建ての建物にやたらと執着する隣人の西さんと主人公の太郎の2人が物語の中心的な登場人物になります。平凡に暮らしていた太郎(この名前も主人公の平凡さを強調しているよう)が、ある日隣の建物を描写している西さんに気づき、そこから平凡な主人公と変態な隣人との(同じアパートの少ない隣人の内の1人だから仕方ない、といったような)腐れ縁のような付き合いが始まります。
太郎が無意識に変人である西さんを眼で追ってしまう中で、彼女の執着する建物に関わる奇妙な出来事に巻き込まれていき、最後はその舞台となった建物から登場人物が(引越しを通して)離れ、移民的な人の慌ただしさとどんな人にも平等に寂しく構える邸宅が対比的に描写されて終わる話です。
この小説で特筆すべき点はやはり「土地・居住」というキーワードのような気がします。
主人公と西さんの住むアパートと嘗て有名人が住んでいた邸宅という2つの場所が舞台としては設定されるものの、その舞台から最終的に登場人物達はどんどん離れていってしまいます。奇妙な出来事の中で細々しくやり取りを重ねる登場人物達に対し、舞台となっている建物は工事もされず静かに佇んでおり、渡り鳥のように居住を変えていく人と入れ替わる人に合わせざるを得ない土地・居住という2つの要素の対比が強調されるように描写されています。
静かに佇む鷹揚とした建物を巡る主人公達の細々とした一連の出来事は、最終的に主人公が手にしていた父の遺骨を邸宅の庭に埋めるという「移ろう存在である人」を土地に根付かせる行為によって幕を閉じます(対立していたものが最後埋葬によって収斂するのは小説の構造としてはとても綺麗だと思いました)
そうした綺麗な構造で終わった~、かと思いきや。最後にひと癖ある段を作者は加えております。そしてこの最後の段において、この小説の構造が入れ子構造になっていることが明かされます。
本編の大部分を占める太郎の物語において、姉の存在はしばしば言及されていましたが、最後の段の語り手がなんと太郎の姉なのです(!)そしてここがまた面白いところなのですが、最終章の語り手「わたし」は主人公の姉として出てくる中、この最終章に至るまで地の文における一人称「わたし」は一切登場してこず、地の文ではかならず主体を「太郎」や「西」といった固有名を出して表現していました。所謂「神の視点」的な語り手が前段の物語を誘導していたのです。
そこにきて最後「わたし」が登場し最終章を締めくくることになるのですから、読者としては確実に「私小説」ではないとして読み進めてきた読感を(良い意味でか悪い意味でか)裏切る形になるわけです。
つまり、元々この小説は「私小説」であり、物語の大部分を占める奇妙な出来事一連は総て太郎の姉の回想録であったことが最終段で明示されるわけです。そして「わたし」という単語が文章中に出てきた瞬間に小説内の現在時間がスタートし、ちょっと読み進めたところで太郎の姉の「私小説」として終わる、という構成になっているのです。
むー……人称のからくりが最後に非常に巧みな小説でした。
hona-☆
というわけで(?)珍しくも文学の連続更新になるわけですが、前回の第150回芥川賞受賞作『穴』に続き、今回は最新の第151回芥川賞受賞作である『春の庭』の書評(仮)の更新です。
個人的に内容が面白かったのは『穴』なんですが『春の庭』は前者よりも文学的に難解な印象がありました。『穴』が「穴」というキーワードを軸にして個人と血族・土地の関係を描写するという分かりやすい構造だったのに対し、『春の庭』は一読しただけではなかなか解りづらい構造の小説だった気がします。
ただ、今思い返しながら頭の中で整理してみると、『穴』と『春の庭』は実はテーマが真逆に設定されているのでは!とか思ったりしています。
両作とも主人公が無個性的で平凡な人物でありながら、『穴』は土地(血族)に取り込まれるという「人の変化」にまつわる暗澹とした人間の普遍的な負の感情を描写していたのに対し、『春の庭』はあるアパートから住居者がどんどん外へ移転していき、寂れていく「土地の変化」が主題になっているように私には読めました(無理やり構造主義的な読み方に当てはめるのであるとすればですが)
まあ、こんな話をしていても一向に本編の感想は書けませんので、ざっくりあらすじを下記します。
本作は嘗て有名人が住んでいた一戸建ての建物にやたらと執着する隣人の西さんと主人公の太郎の2人が物語の中心的な登場人物になります。平凡に暮らしていた太郎(この名前も主人公の平凡さを強調しているよう)が、ある日隣の建物を描写している西さんに気づき、そこから平凡な主人公と変態な隣人との(同じアパートの少ない隣人の内の1人だから仕方ない、といったような)腐れ縁のような付き合いが始まります。
太郎が無意識に変人である西さんを眼で追ってしまう中で、彼女の執着する建物に関わる奇妙な出来事に巻き込まれていき、最後はその舞台となった建物から登場人物が(引越しを通して)離れ、移民的な人の慌ただしさとどんな人にも平等に寂しく構える邸宅が対比的に描写されて終わる話です。
この小説で特筆すべき点はやはり「土地・居住」というキーワードのような気がします。
主人公と西さんの住むアパートと嘗て有名人が住んでいた邸宅という2つの場所が舞台としては設定されるものの、その舞台から最終的に登場人物達はどんどん離れていってしまいます。奇妙な出来事の中で細々しくやり取りを重ねる登場人物達に対し、舞台となっている建物は工事もされず静かに佇んでおり、渡り鳥のように居住を変えていく人と入れ替わる人に合わせざるを得ない土地・居住という2つの要素の対比が強調されるように描写されています。
静かに佇む鷹揚とした建物を巡る主人公達の細々とした一連の出来事は、最終的に主人公が手にしていた父の遺骨を邸宅の庭に埋めるという「移ろう存在である人」を土地に根付かせる行為によって幕を閉じます(対立していたものが最後埋葬によって収斂するのは小説の構造としてはとても綺麗だと思いました)
そうした綺麗な構造で終わった~、かと思いきや。最後にひと癖ある段を作者は加えております。そしてこの最後の段において、この小説の構造が入れ子構造になっていることが明かされます。
本編の大部分を占める太郎の物語において、姉の存在はしばしば言及されていましたが、最後の段の語り手がなんと太郎の姉なのです(!)そしてここがまた面白いところなのですが、最終章の語り手「わたし」は主人公の姉として出てくる中、この最終章に至るまで地の文における一人称「わたし」は一切登場してこず、地の文ではかならず主体を「太郎」や「西」といった固有名を出して表現していました。所謂「神の視点」的な語り手が前段の物語を誘導していたのです。
そこにきて最後「わたし」が登場し最終章を締めくくることになるのですから、読者としては確実に「私小説」ではないとして読み進めてきた読感を(良い意味でか悪い意味でか)裏切る形になるわけです。
つまり、元々この小説は「私小説」であり、物語の大部分を占める奇妙な出来事一連は総て太郎の姉の回想録であったことが最終段で明示されるわけです。そして「わたし」という単語が文章中に出てきた瞬間に小説内の現在時間がスタートし、ちょっと読み進めたところで太郎の姉の「私小説」として終わる、という構成になっているのです。
むー……人称のからくりが最後に非常に巧みな小説でした。
hona-☆
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