K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

『裁かれるは善人のみ』

2015年11月08日 | 映画
アンドレイ・ズギャビンツェフ監督の『裁かれるは善人のみ』を先日新宿武蔵野館で観てきました。原題は『Leviathan』、アメリカのキルドーザー事件(内側から溶接したブルドーザーで街を破壊し犯人は中で自決)をモチーフにしているようですが、撮影はロシアで行われています。リヴァイアサンと言えば、『白鯨』の舞台となったアメリカのニューベッドフォードが自然と思い出されてしまいますが、本作の舞台はロシア北部のバレンツ海。新しいリヴァイアサンの誕生です。



<Story>
入り江のある小さな町。自動車修理工場を営むコーリャは、若い妻リリア、そして亡妻との間に生まれた息子ロマと共に、住み慣れた家で暮らしている。1年後に選挙を控えた強欲な市長のヴァディムは、とある計画のため権力に物をいわせ、彼らの土地を買収しようと画策する。自分の人生のすべてともいえる場所を失うことが耐えられないコーリャは、強硬策に抗うべく、友人の弁護士ディーマを頼ってモスクワから呼び寄せる。そして漸く市長の悪事の一端を掴み、明るみに出そうとするのだが……。(オフィシャルサイトより)



このモチーフとなった事件自体、行政と市民の対立構造が浮き彫りしたものですが、それは舞台がロシアになったことでより強調されているかのようです。悪事の根源である市長の部屋にはプーチンの写真が掲示され、腐敗した行政を演出するには良い舞台だったのではないでしょうか。

先にひとつ言っておくとすれば、この映画には救いはありません。タイトルに入っている「裁かれる」という文言通り、キリスト正教(というか宗教全般)の在り方を問うような作品にもなっていますが、結局主人公のコーリャは何も救われないまま物語は終幕してしまいます。「正直に生きる矮小な人間に、神は味方をするのだろうか──。」という問いかけの答えは酷く残酷なものでした。

善人の代表格は主人公のコーリャではあるのですが、彼には信仰心というものが全くありませんでした。逆に、信仰心は持ち合わせていた市長のヴァディムが終始悪人のアイコンとして存在します。正義のアイコンは弁護士のディーマ(コーリャの奥さんを寝取るけれども!)になるでしょうが、事実を信奉する彼もまた信仰心は持ち合わせていません。


市長ヴァディム役を演じたロマン・マディアノフ

「善悪の指標は時代によって異なる」という神父の言葉が印象深くもありすが、物語の結末としては善人であるコーリャが裁かれ、悪人のヴァディムは寧ろ裁く側に回ります。正義のアイコンであるディーマも、良いところまでヴァディムを追い詰めるものの、最終的には暴力に屈してしまいます。
信仰心のある悪人が旨い汁を吸い、信仰心のない善人が辛酸を舐める、非常に皮肉のきいた構造でありながら、そこからは宗教的指標と善悪は全く関係がないということも伺えるでしょう。ヴァディムが新しい教会の建設を目論む一方で、ロマら不良グループが古い教会にたむろしている構造からも、善悪の指標の変動性(時代によって異なる)が読み取れます。

徳治・法治いずれにおいても、強大な権力に人間は逆らえない、残酷でありながらも厳然とした事実をこの映画では思い知らされます。結局、善行を積んでも悪行を犯しても、権力が強いものが勝つ、そうした人間社会における弱肉強食の構造を真っ直ぐに表現した本作品は、間違いなく一級品と言えるでしょう。

権力と相対した際の人間の卑小さ、これはロマが鯨骨の前で座り込むメインビジュアルで如実に、そして端的に示されています。



圧倒的な自然の前で人間が非力なように、圧倒的な権力の前でもまた人間は非力なのです。バレンツ海周辺の絶景が見事に私たちを映像だけで圧倒します。その存在感はまさに国家同様「リヴァイアサン」と呼ぶに相応しいのではないでしょうか。

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