K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

アマンダ・シェーネル『サーミ・ブラッド』

2017年10月06日 | 映画
おはようございます。徐々に肌寒さが増してきましたね。秋物を着られる期間は短いので嬉しいです。

今回は公開されたばかりの映画、アマンダ・シェーネル監督の『サーミ・ブラッド』の鑑賞録です。実は昨年の東京国際映画祭で観たのですが、あまりにも素晴らしすぎて暫く余韻が取れなかったほどです!
今回漸く一般公開となったのでまた観てきました。パンフレットの装丁がなんともオシャレ……








《Story》
1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族、サーミ人は差別的な扱いを受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通う少女エレ・マリャは成績も良く進学を望んだが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げる。

そんなある日、エレはスウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。トナカイを飼いテントで暮らす生活から何とか抜け出したいと思っていたエレは、彼を頼って街に出た――。


ラップランドのサーミ人という特異な人種にフォーカスを当てた話ですが、その本質は「故郷を捨てて果たして幸せになれるのか」ということです。



冒頭、クリスティーナと呼ばれる老婆が、息子と孫娘とともに、妹の葬儀に参列するシーンから始まります。葬儀に出ても「言葉(サーミ語)が理解できない」と言って旧交の人々と交流せず、すぐに立ち去ろうとするクリスティーナ。彼女はスウェーデン人として、少数派のサーミ人を軽蔑していたのです。
早々にホテルに戻るクリスティーナ。左側の頭髪を撫で、しつこく顔を扱き洗う姿に少し違和感を覚えますが、それは彼女の過去に起きたトラウマで生じた癖でした。

クリスティーナは、実はエレ・マリャという名前のサーミ人で、幼い頃に当時国際的に隆盛であった少数派への「同化政策」で、寄宿学校でスウェーデンの言語や歴史を学ぶ少女でした。
そんな中、裸にされたり、臭いと罵られたり(身体を洗う癖)、トナカイのように耳に傷をつけられたり(頭髪で傷を隠そうとする癖)と、スウェーデン人からは劣等種として扱われ、次第にサーミ人としての自分を捨てたいと考えるようになります。
特に、耳に傷をつけられることは、家畜であるトナカイへのマーキングと同じで、非人間性を押し付けられる屈辱的な行為なのです。





そんな中、近くでやっていた夏祭りで都会ウプサラに住む青年ニクラスと出逢い恋に落ちる。ますます「スウェーデン」への憧れを抱くエレ・マリャは集落を出る決意をします。



授業料を得るために集落まで戻り、家族に別れを告げるシーンも素晴らしいです。親や祖父母世代には未練を感じない様子だが、唯一心に引っかかるのが妹ニェンナの存在でした。出て行く前日、ニェンナを雪解け水の上に浮かべて、まるで飛んでいるような気分になれると語ったシーンが個人的には最も心震えたシーンです。
エレ・マリャは妹が死ぬまでサーミ族の元には戻りませんでしたが、心のどこかで妹にだけは理解して欲しかったのだと思えるワンシーン。事実、葬儀で棺に入ったニェンナの遺体を見たエレ・マリャは、顔を近づけサーミ語で許してほしいと謝罪します。
そして、旅立つ翌朝、エレ・マリャは自分が相続したトナカイを殺害します。濃霧の中で繰り広げられる闘いは、過去の自分との困難な決別を表現しているようでした。未練を象徴するトナカイを殺害することで、彼女は強い決意を得るのです。



彼女が故郷を捨て得たものとはなんだったのか。ホテルでクラブのような雰囲気の集まりに交じり、彼女は物憂げに外を眺めます。故郷を捨て、自由に生きることを選んだ彼女が、決して幸せな様子でないことが本作のメッセージを示唆しているでしょう。
ラストシーン、年老いた彼女は嘗ての自分の住まいを辿るように山を登り、様子の変わった故郷を眺めながら物思いに耽ります。故郷への哀愁と自然の広大さが上手くマッチした素晴らしいシーンです。

素晴らしい映画と若々しい才能に出逢えて幸せです。ラップランドの壮大な大地と残存するサーミ族への差別というスウェーデン史の闇、そこで葛藤する少女、ヨイクの美しい旋律、すべてが噛み合って文句のつけようがない完璧な作品でした。



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