K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

不滅の女

2020年05月04日 | 映画

では、随時アラン・ロブ=グリエ監督の作品個別感想をアップしていきます。

年代順と言うことで、まずは初の映画監督作品『不滅の女(原題『L'imortelle』)』から。Youtubeにトレーラーが上がっていたのでまずは雰囲気だけでもご覧ください。

《Story》イスタンブールに休暇でやってきた男は、白い車を乗り回す謎の美女と出会う。“夢の国”トルコでのアバンチュールを楽しむが…。従来の「劇映画」の概念を大きく逸脱した過激な語り口が世の驚愕と憤怒を同時に招来した、いまだ「新しさ」に満ちた記念すべき監督デビュー作。(「Filmarks」より引用)

舞台はイスタンブール、同地で働いていた私としては当時の様子を映像で知ることができる良い映像資料です。

テオドシウス城塞に始まりテオドシウス城塞に終わる、ボスフォラス海峡含め実にイスタンブールらしい風景が多く、特に水の張った地下宮殿をボートで進むシーンは素晴らしい!

テオドシウス城塞(恐らくイエディクレ周辺のものと思われる)

去年撮影したテオドシウス城塞(エディルネカプ周辺)

 

異邦人

フランス人の男がイスタンブールという「未知との遭遇」を経験します。案内役であるラーレという女と出逢い、惹かれ、男は三度イスタンブールを旅――女と一緒に巡る旅、消息を絶った女を探す旅、亡くなった女を辿る旅――することになります。

トルコにとって完全に部外者である男は、その異邦人としての立場に固辞するように頑なにフランス語しか使いません。「フランス語は話せるか?」と問う異邦人としてのスタンスは最後までぶれず、それが理由でトルコ人から冷遇されてしまいます。

女を捜索する中での冷たい態度はもちろんのこと、四方からジッと見つめられるシーンなど疎外感が殊更強調されています。それもあってか、フランス語を話せる女に対し執拗な執着を見せるのかもしれません。

因みに、アラン・ロブ=グリエ監督は、『嘘をつく男』でも「異邦人」を描いているように感じました。これはまた後日。

「異邦人」と言えばカミュが思い出されますね。カミュの描く「異邦人」は他人に対して無関心であるのに対し、本作はどちらかというと異邦人に興味津々なトルコ人と相反するアプローチのような気もします。

因みに、カミュ的「異邦人」を描いた作品も観たことがあって、カザフスタンのアディルハン・イェルジャノフ監督作『世界の優しき無関心』は、まさに他人に無関心であるがゆえに引き起こされる悲劇を描いています。2年前のTIFF上映作品。良ければ私の感想文読んでみてください。

アディルハン・イェルジャノフ『世界の優しき無関心』 - K馬日記

少し時間が空いてしまいましたが、TIFF作品紹介第2弾です。今回はカザフスタン出身のアディルハン・イェルジャノフ監督の『世界の優しき無関心』...

アディルハン・イェルジャノフ『世界の優しき無関心』 - K馬日記

 

今コロナの流行でカミュの『ペスト』が読まれているようですね。流行りに乗って読んでみようかしら。

 

イスラーム教における女性像

そして語るに外せないのは、当然ながら案内役を務める女ラーレ(偽名)。彼女はトルコ語・ギリシア語・フランス語を操る妖艶な女性で、男はこの垣根を越えて言語を操る彼女に徐々に惹かれ、やがて恋愛関係へと発展していきます。

因みに、ラーレはトルコ語でチューリップ(トルコ発祥の花)を意味します。ラーレはアッラーのスペルとアナグラムが可能なイスラーム教で重視されている花であり、トルコには数多くのチューリップのモチーフがあります。

そんな彼女が憂いているのは、イスラーム教における女性の在り方。「この国(イスラーム教)では女は劣っている」「女性は性の道具として見られる(ベリーダンサーが象徴的なアイコン)」と嘆く姿にはどこか影も見えます。

そして何よりベリーダンサーをじっと見つめる男たちの視線の気味悪いこと!このシーンからも性の対象としての女性像が強調されているようです。

そんな男性優位性を象徴するのが二匹の黒い犬を連れたサングラスをかけた男です。最後まで女の近親者であること以外正体は明かされないものの、犬をして女と男の事故死を誘わせしめます。

イスラーム教にもフーリーと呼ばれる処女信仰あり、女性の貞操に関しては厳しい考えがあります。異邦人と男女の仲となってしまった女への憤りと誘った男(異邦人=外部思想)を排除したいという狙いが裏にあったのかもしれません。最後のモノローグで、テオドシウス城塞(欧州とイスタンブールの境界を象徴)の再建を仄めかしているのも、相容れない思想としてのイスラーム教を示唆しているようです。

先述の女の発言も鑑みると(家父長制的な)男性優位の当時のトルコの風土を批判しているようにも捉えられます。そう考えると、フェミニズム映画としても重要な作品かもしれません。

何より、ベッドに横たわる女の顔と事故死した瞬間の女の顔が意図的に寄せられており、性として消費されている今の状況は死んでいるのと大差ないと伝えているようでもあります。

イスラーム教における女性像、という意味ではデニズ・ガムゼ・エルギュヴェン監督(トルコ人)の『裸足の季節』という作品がが参考になると思います。宜しければこちらも併せてご覧ください。(※因みに本作の主人公の名前もラーレ)

デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン『裸足の季節』 - K馬日記

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デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン『裸足の季節』 - K馬日記

 

それにしてもフランス映画が1960年代に、トルコ映画が2010年代に、トルコにおけるフェミニズムを提示してきた点も実に興味深いですね。



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