K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

『Leviathan』

2014年09月02日 | 映画
おひさしぶりです。また1か月空いてしまいました……
お盆に9連休もお休みを頂いてしまい呆け気味のただけーまです。
実家で悠々自適とすごしておりましたが、せっかくだからちょっと遠出したかったかな~。
念願の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『ニュー・シネマ・パラダイス』を観れたのでよかったですけど!
(まだ観てなかったんかい!というツッコミが聞こえる……)

前置きはさておき。

今回は各所で波紋を呼んでいるドキュメンタリー映画『リヴァイアサン』を観てきました。

舞台は伝説の港ニューベッド・フォードから出港する漁船です。映画の宣伝文によれば、世界文学の最高峰としても名高いメドヴィルの小説「白鯨」もこの港に影響を受けているのだとかなんだとか。ですが、映画自体は絶海に漂う漁船上のみで展開され、もはや設定などはほとんど意味をなしません。ただ、唯一象徴的であったのは、絶海という「自然」の中で営まれる漁という「労働」が延々と映写される本作が、自然と人のアウフヘーベンでベトベン第九でわっしょいしょい!的な暴走的解釈を可能にしたという点でしょうか。(要は「自然」と「人」の二項対立を突き詰めているなあという印象)

本作には一切の台詞やBGMというようなものも無く、ただただ圧倒的な現実の映像が、金属の音や巻き取られる網の音、瀕死の魚の跳ねる音、猛るカモメの泣き声、魚を削ぐ刃物の音などとともに、延々と90分流れていくだけの映画です。設定も不要、ストーリー性も皆無、ただ映像のみによって語られる映画……ウォール・ストリート・ジャーナルの「度肝を抜かれた」という表現が最もしっくりくる、余りにも衝撃的な映画でした。従来のドキュメンタリー映画を一新するような圧倒的な映像の力。従来のドキュメンタリー映画が如何にシナリオやストーリー、ドラマ性に依拠していたのかを痛感します。

ここまで力のある映像も珍しいですが、驚くべきは映像だけで作品を完結させてしまうその映像の撮り方。船員の手足や額、船の網、ロープ、果ては魚の死骸にまで取り付けられたミニカメラで撮られた映像は、ある特定の対象が視点によって化け物(リヴァイアサン)じみた何かに変容することを証明しています。

例えば、夜に網を引き揚げる漁船を包括的に捉えた映像があった場合、それは社会教育的なドキュメンタリー映像として、某公共放送で流されるような資料映像であるに留まります。しかし、これらの映像が船員の足や船の設備にに取り付けられたミニカメラで撮影されたものだったとしたらどうでしょうか?その「漁」という対象は全く別の側面を見せ、資料映像からメディアアート・映画へと変貌するのです。船の揺れに合わせて船上を往来する水揚げされた大量の魚は洪水のように我々に襲い掛かり、カメラをじっと見る切り落とされた魚の頭は人間に対する恨み言を言っているかのようにも映ります。

視点を変えれば対象が変容する、というのはキュビスムの時代から唱えられてきたことではありますが、この映像体験は従来のどの映画とも異なるエポックメイキング的な作品だと思わずにはいられません。如何に十人並みのドキュメンタリー映画が退屈であったか、という衝撃をこの作品からは感じます。

それは何故か――この作品が人間の視点ではなく、魚や鳥の視点から撮られているからではないでしょうか。
脱人間中心主義的な撮り型こそがこの作品の醍醐味だとも言える気がします。視点は海を泳ぎ、空を飛び、それ故に嘗て経験したことの無いような視覚体験を観る人は獲得することができます。漁船から捨てられる魚の死骸やヒトデ、海に飛び込んでくるカモメ、遠くから迫りくる漁船、引き上げられる網、降ろされる鎖、それらは船上から包括的に捉えればなんてことのない映像でしょう。しかし、これらを水中や空中から、魚や鳥の視点で捉えるだけで、悍ましいほどの恐怖を与える映像に変質するのです。


私はこの映画を観なければ、ここまで「漁」に恐怖を覚えることは死ぬまでなかったでしょう。



水揚げされる魚の視点

ここで映されている漁の光景はまるで地獄のように思われました。四方を暗く冷たい海で覆われたその漁船は、赤く錆付いており、どこか時代錯誤的で、まるで時の止まった亡霊船のようにも感じられます。その船上では漁の営みの一環として、魚の頭や鰭等食べられない部分をそぎ落とすシーンが黙々と繰り広げられるのですが、船員は黒やヴィヴィッドな赤のレインコートと長靴に身を包み、さながら死神の如く個性が隠された形で魚の頭を切り落とし続けます。

魚の死骸から飛び散る血潮と漁船の赤錆、そして黙々と魚を殺し続ける死神のような船員のイメージが合わさり、私の眼にはまるで地獄の殺戮劇場が大洋上に浮かんでいるかのように映りました。(しかも鎖や筐体など金属の擦れる音やぶつかる音、そして揺蕩う波の音が何事も無いかのように無機的に響き渡り、その地獄然とした光景の恐怖はより一層強くなるのです!)

暗く静かな、死すら感じさせるような大洋の中心で次々と殺戮が繰り返される煌々と赤く輝く漁船……不吉を知らせるかのように漁船にはりつく夥しい量のカモメ……この地獄のような光景がなんの偽りも無い現実だという事実……漁という行為を地獄の営みに変質させてしまう映像とモンタージュ……色々なことが頭を駆け巡ります。


夥しい数のカモメ

しかも、これは単に漁という営みを違う視点から捉えた映像のみに留まりません。船上で洗われる魚たちとシャワーを浴びる船員のイメージは折り重なり、魚も人間も大きい大自然といううねりの中では、等しくちっぽけな存在だということが実感されます。

また、ブリューゲルの「大きい魚は小さい魚を食う」ではありませんが、作中に水揚げされた魚達の中には、口の中に一回り小さい魚がぴったり納まっている大きい魚が散見されました。小さい魚を食った大きい魚が、次は人間の食卓に並ぶ……アイロニカルな食物連鎖を感じざるを得ませんが、その大きい魚を食べた人間でさえ、結局は更に巨大な誰かの肥やしになっているのではないかと勘ぐってしまいます。

そう、巨大なリヴァイアサンという怪物の。



ピーテル・ブリューゲル《大きな魚は小さな魚を食う》

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