こんばんは。会社の夏休みを終え頭がぽーっとしているただけーまです。
夏休みは友人の男と2人で伊豆大島に行ってきました。三原山周辺の原始的な景色が最高!やはり大自然は心が洗われますね。飯も美味しくて意外と近いしなかなかの穴場でした。小笠原の時みたいにまとめて旅行記書こうかな~(これは書かないやつ)
さて、そんな夏休みの一環として三菱一号館美術館で開催中の『冷たい炎の画家 ヴァロットン展』に行って参りました。
バルテュス同様、こんな画家知らねえよ族の一員ではありましたが、世紀末に流行したナビ派を代表する画家の1人ということで、想定より新しい感覚は少なかったかなというのが全体的な印象です。
ナビ派はセザンヌやゴーギャンなど後期印象派の画家たちが活躍した後、世紀末に流行した「絵画の装飾性」を重視した流派になります。代表的な画家としてはモーリス・ドニ、ポール・セリュジエ、ボナール等が挙げられますが、彼らの作品に対する個人的な印象は「ちょっと……あんまり……」って感じ。それもそのはずで、彼らは私の苦手とするセザンヌ様を一種の範としていた集団なのです。
とまあ、ここまでは知っていたんですが、実のところナビ派の細かい成立の背景なんかは全然知りませんでした。「セザンヌ様のおっかけ集団」という恥ずかしい認識しかもっていなかったのですが、その実は印象派の外光派的な描画手法を否定していたり、発端がゴーギャンの斬新な色遣いにあったり、調べてみると色々奥が深い集団でした。単純にセザンヌ万歳!という集団ではなかったのですね(当たり前だ)
「絵画作品とは、裸婦とか、戦場の馬とか、その他何らかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である。」
モーリス・ドニは上記のような理論を語っており、彼らが追求していた絵画が印象派的な外の世界の描写(心象風景ではあれ)ではなく、それに絵画そのものが先立つと考えていたわけです。つまり、対象物よりも優先されるのは、絵画を構成する色面や線、形態ということになります。対象を如何に正確に描くかというアカデミスムを真っ向から否定するだけでなく、「対象を描画する」という根本的な前提から「描画する」ことに焦点を移す絵画理論になっているわけです。
発端のきっかけとなったゴーギャンの「赤みがかって見えたならそれが一般的に青と言われていようと赤で塗れ」という塗り方は、実に色彩の解放を導いたフォーヴィズムの感覚に近いんだろうか、と思ってたらマティスっぽい絵がありましたもんです。
フェリックス・ヴァロットン《肘掛椅子に座る裸婦》
アンリ・マティス《赤い部屋》
この一色で塗りたくって奥行きが喪失されている感覚。マティスの代表作『赤い部屋』を想起させるには十分です。時代は異なりますが、どちらかと言えば理論派のナビ派と本能的なフォーヴィズムの絵画が似通ってくるのは興味深いことですね。(ヴァロットンが「外国人のナビ」と称された由縁かもしれません)
1.平坦な色面
さてさて、そんな彼ですが、画壇デビュー当初はなんとアングル大先生に傾倒していたとのこと。
アングルと言えばバリバリのアカデミスム。印象派の登場でアンチアカデミスムの流れが強くなっていたにも関わらず、彼の圧倒的な絵画の前では印象派すらも霞んでしまいます。
感覚としては、みんな卍解しまくってるのに始解でもめちゃめちゃ強い更木剣八みたいな感じですね。(BLEACH知らない人はすいません。NARUTOで言うと体術だけでめっちゃ強いガイ先生みたいなもんです。※NARUTO知らない人はもう良いです笑)
フェリックス・ヴァロットン《トルコ風呂》
ドミニク・アングル《トルコ風呂》
フェリックス・ヴァロットン《赤い絨毯に横たわる裸婦》
ドミニク・アングル《オダリスク》
非常にリスペクトしているのは伝わりますが、やっぱり全然違いますね。アングルのハイパーリアリズムにも通じる圧倒的描写力に比べて、ヴァロットンの作品は平坦な色面が多く散見されます。絵画を形と色と線に分解せよというセザンヌ様の考え方に影響を受けているのかもしれません。
また、これもナビ派独特の手法ですが、ヴァロットンの作品は対象が線で囲まれているのが見えるでしょうか。アングルが図地の違いを奥行きで表現したのに対し、ヴァロットンは線で区切っている。ちょっとくっきり見えていないのが少々残念ですが、こうした線(クロワゾン)で区切って描写する手法をクロワゾニスムと言います。これはナビ派に特徴的な描画方法になります。
モーリス・ドニ《ミューズたち》
ポール・ゴーギャン《説教のあとの幻想》
2.黒い版画
そして、今回の展示で油彩画と並んでもう1つの柱となっていたのが木版画です。先述の通り、彼の平坦な色面は木版画でも大いに発揮されています。ブリューゲルやデューラー等、従来の伝統的な版画が線メインであったのに対し、彼の版画は面が前面に押し出された作品になっています。
フェリックス・ヴァロットン《勝利(連作「アンティミテⅡ」)》
フェリックス・ヴァロットン《お金(連作「アンティミテⅤ」)》
フェリックス・ヴァロットン《怠惰》
そう、版画で面を中心に据えると、残るのは圧倒的な黒い色面になります。この版画の大胆な黒の使い方には、ゴヤの黒い絵の放つ悲痛さというよりは、ピエール・スーラージュの吸いこまれそうな黒に類似性を感じますが、タデ・ナタンソンという当時の文化人は「黒い染みが生む悲痛な激しさ」と表現しています。
ただ、下にある《夕食、ランプの光》という作品は家族に対するヴァロットンの暗い気持が前面に押し出された作品で、まさにゴヤ的な悲痛の黒の表現に通じるものがありますね。(確か彼の娘は血が繋がっていない妻の連れ子だったはず?)
フェリックス・ヴァロットン《夕食、ランプの光》
フランシスコ・デ・ゴヤ《魔女の宴(連作「黒い絵」》
また、黒を使用することで有名なフランツ・クラインという作家もいます。彼の絵画は日本の書道の影響を受け、荒々しく力強い黒のイメージを打ちだすことに成功しており、スーラージュの吸いこまれそうな黒やゴヤの心の闇を映し出すような黒とはまた違っていて、非常に興味深いです。
ピエール・スーラージュの作品における黒
※彼は黒より先の表現を追求し「黒の外(ウートル・ノワール)」と名付けた。
フランツ・クライン《チーフ》
「黒」という色1つ取ってみてもこれだけの可能性が満ちているのは、鑑賞者としては鑑賞の仕方に幅が広がってとても良いです。赤や緑であればマティス、青であればピカソ、黄色であればゴッホと、色による画家のイメージをもっと蓄積できれば、鑑賞がもっと面白いものになるような気がしますね。
さてさて、この所感もそろそろ終えようと思いますが。最後に今回の展示のメイン作品のご紹介です。ナビ派に苦手意識のあった私でも十分鑑賞に堪えれた由縁は何か……それはナビ派には申し訳ないことこの上ありませんが、彼が「外国人のナビ」と称された程にナビ的でなかったということが挙げられましょう。
絵画は無論装飾性がすべてではありませんし、美しさに正解というものもないです。理論的・理性的な絵画が美の終点であるということは決してなく、理不尽さや非合理的な構図にさえ美が生じてしまう。芸術とはそういう世界なのです。
2つの視点を1つの構図に凝縮した本展示のメイン作品である《ボール》は、そういった美における正否のスケールの無さを如実に示しています。そこに表現された歪んだ世界の構図は、芸術の世界において美の快感へと正しくつながっているのです。
フェリックス・ヴァロットン《ボール》
もっと色々な芸術に対する造形を深めていきたいですね。最近は大学院でもっと勉強したかったという思いが再燃しつつありますが、幸い芸術理論の分野は知識を広げることは今でも十分できるので、コツコツと知識を蓄えていこうと思います。
次は弟に勧められた近代美術館の「現代美術のハードコアは実は世界の宝である展」にでも行ってみますかね~!やっぱり美術展は東京が1番豪華ですじゃ!
hona-☆
夏休みは友人の男と2人で伊豆大島に行ってきました。三原山周辺の原始的な景色が最高!やはり大自然は心が洗われますね。飯も美味しくて意外と近いしなかなかの穴場でした。小笠原の時みたいにまとめて旅行記書こうかな~(これは書かないやつ)
さて、そんな夏休みの一環として三菱一号館美術館で開催中の『冷たい炎の画家 ヴァロットン展』に行って参りました。
バルテュス同様、こんな画家知らねえよ族の一員ではありましたが、世紀末に流行したナビ派を代表する画家の1人ということで、想定より新しい感覚は少なかったかなというのが全体的な印象です。
ナビ派はセザンヌやゴーギャンなど後期印象派の画家たちが活躍した後、世紀末に流行した「絵画の装飾性」を重視した流派になります。代表的な画家としてはモーリス・ドニ、ポール・セリュジエ、ボナール等が挙げられますが、彼らの作品に対する個人的な印象は「ちょっと……あんまり……」って感じ。それもそのはずで、彼らは私の苦手とするセザンヌ様を一種の範としていた集団なのです。
とまあ、ここまでは知っていたんですが、実のところナビ派の細かい成立の背景なんかは全然知りませんでした。「セザンヌ様のおっかけ集団」という恥ずかしい認識しかもっていなかったのですが、その実は印象派の外光派的な描画手法を否定していたり、発端がゴーギャンの斬新な色遣いにあったり、調べてみると色々奥が深い集団でした。単純にセザンヌ万歳!という集団ではなかったのですね(当たり前だ)
「絵画作品とは、裸婦とか、戦場の馬とか、その他何らかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である。」
モーリス・ドニは上記のような理論を語っており、彼らが追求していた絵画が印象派的な外の世界の描写(心象風景ではあれ)ではなく、それに絵画そのものが先立つと考えていたわけです。つまり、対象物よりも優先されるのは、絵画を構成する色面や線、形態ということになります。対象を如何に正確に描くかというアカデミスムを真っ向から否定するだけでなく、「対象を描画する」という根本的な前提から「描画する」ことに焦点を移す絵画理論になっているわけです。
発端のきっかけとなったゴーギャンの「赤みがかって見えたならそれが一般的に青と言われていようと赤で塗れ」という塗り方は、実に色彩の解放を導いたフォーヴィズムの感覚に近いんだろうか、と思ってたらマティスっぽい絵がありましたもんです。
フェリックス・ヴァロットン《肘掛椅子に座る裸婦》
アンリ・マティス《赤い部屋》
この一色で塗りたくって奥行きが喪失されている感覚。マティスの代表作『赤い部屋』を想起させるには十分です。時代は異なりますが、どちらかと言えば理論派のナビ派と本能的なフォーヴィズムの絵画が似通ってくるのは興味深いことですね。(ヴァロットンが「外国人のナビ」と称された由縁かもしれません)
1.平坦な色面
さてさて、そんな彼ですが、画壇デビュー当初はなんとアングル大先生に傾倒していたとのこと。
アングルと言えばバリバリのアカデミスム。印象派の登場でアンチアカデミスムの流れが強くなっていたにも関わらず、彼の圧倒的な絵画の前では印象派すらも霞んでしまいます。
感覚としては、みんな卍解しまくってるのに始解でもめちゃめちゃ強い更木剣八みたいな感じですね。(BLEACH知らない人はすいません。NARUTOで言うと体術だけでめっちゃ強いガイ先生みたいなもんです。※NARUTO知らない人はもう良いです笑)
フェリックス・ヴァロットン《トルコ風呂》
ドミニク・アングル《トルコ風呂》
フェリックス・ヴァロットン《赤い絨毯に横たわる裸婦》
ドミニク・アングル《オダリスク》
非常にリスペクトしているのは伝わりますが、やっぱり全然違いますね。アングルのハイパーリアリズムにも通じる圧倒的描写力に比べて、ヴァロットンの作品は平坦な色面が多く散見されます。絵画を形と色と線に分解せよというセザンヌ様の考え方に影響を受けているのかもしれません。
また、これもナビ派独特の手法ですが、ヴァロットンの作品は対象が線で囲まれているのが見えるでしょうか。アングルが図地の違いを奥行きで表現したのに対し、ヴァロットンは線で区切っている。ちょっとくっきり見えていないのが少々残念ですが、こうした線(クロワゾン)で区切って描写する手法をクロワゾニスムと言います。これはナビ派に特徴的な描画方法になります。
モーリス・ドニ《ミューズたち》
ポール・ゴーギャン《説教のあとの幻想》
2.黒い版画
そして、今回の展示で油彩画と並んでもう1つの柱となっていたのが木版画です。先述の通り、彼の平坦な色面は木版画でも大いに発揮されています。ブリューゲルやデューラー等、従来の伝統的な版画が線メインであったのに対し、彼の版画は面が前面に押し出された作品になっています。
フェリックス・ヴァロットン《勝利(連作「アンティミテⅡ」)》
フェリックス・ヴァロットン《お金(連作「アンティミテⅤ」)》
フェリックス・ヴァロットン《怠惰》
そう、版画で面を中心に据えると、残るのは圧倒的な黒い色面になります。この版画の大胆な黒の使い方には、ゴヤの黒い絵の放つ悲痛さというよりは、ピエール・スーラージュの吸いこまれそうな黒に類似性を感じますが、タデ・ナタンソンという当時の文化人は「黒い染みが生む悲痛な激しさ」と表現しています。
ただ、下にある《夕食、ランプの光》という作品は家族に対するヴァロットンの暗い気持が前面に押し出された作品で、まさにゴヤ的な悲痛の黒の表現に通じるものがありますね。(確か彼の娘は血が繋がっていない妻の連れ子だったはず?)
フェリックス・ヴァロットン《夕食、ランプの光》
フランシスコ・デ・ゴヤ《魔女の宴(連作「黒い絵」》
また、黒を使用することで有名なフランツ・クラインという作家もいます。彼の絵画は日本の書道の影響を受け、荒々しく力強い黒のイメージを打ちだすことに成功しており、スーラージュの吸いこまれそうな黒やゴヤの心の闇を映し出すような黒とはまた違っていて、非常に興味深いです。
ピエール・スーラージュの作品における黒
※彼は黒より先の表現を追求し「黒の外(ウートル・ノワール)」と名付けた。
フランツ・クライン《チーフ》
「黒」という色1つ取ってみてもこれだけの可能性が満ちているのは、鑑賞者としては鑑賞の仕方に幅が広がってとても良いです。赤や緑であればマティス、青であればピカソ、黄色であればゴッホと、色による画家のイメージをもっと蓄積できれば、鑑賞がもっと面白いものになるような気がしますね。
さてさて、この所感もそろそろ終えようと思いますが。最後に今回の展示のメイン作品のご紹介です。ナビ派に苦手意識のあった私でも十分鑑賞に堪えれた由縁は何か……それはナビ派には申し訳ないことこの上ありませんが、彼が「外国人のナビ」と称された程にナビ的でなかったということが挙げられましょう。
絵画は無論装飾性がすべてではありませんし、美しさに正解というものもないです。理論的・理性的な絵画が美の終点であるということは決してなく、理不尽さや非合理的な構図にさえ美が生じてしまう。芸術とはそういう世界なのです。
2つの視点を1つの構図に凝縮した本展示のメイン作品である《ボール》は、そういった美における正否のスケールの無さを如実に示しています。そこに表現された歪んだ世界の構図は、芸術の世界において美の快感へと正しくつながっているのです。
フェリックス・ヴァロットン《ボール》
もっと色々な芸術に対する造形を深めていきたいですね。最近は大学院でもっと勉強したかったという思いが再燃しつつありますが、幸い芸術理論の分野は知識を広げることは今でも十分できるので、コツコツと知識を蓄えていこうと思います。
次は弟に勧められた近代美術館の「現代美術のハードコアは実は世界の宝である展」にでも行ってみますかね~!やっぱり美術展は東京が1番豪華ですじゃ!
hona-☆
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