K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

『ジプシーのとき』

2016年03月26日 | 映画
最近疲労の蓄積でしんどいただけーまです。全然運動できていません。

今回も映画の更新です。エミール・クストリッツァ監督の作品を初鑑賞。全然知らない監督だったんですが、先月恵比寿で「ウンザ!ウンザ!クストリッツァ!」という特集をやっていたので、代表作の『ジプシーのとき』と『アンダーグラウンド』を観ました。今回は『ジプシーのとき』で更新です。



<Story>
旧ユーゴのジプシー村。粗末な祖母の家で足の悪い妹と放蕩者の叔父メルジャンと暮らすベルハンは、美しい娘アズラに恋したが、貧しい彼との結婚に彼女の母は猛反対。ある日、アーメドを頭とするジーダ兄弟が村に帰ってきた。村一番の金持ちの彼らは悪事をして稼いでいた。メルジャンもカモにされ借金を背負う。祖母の魔術がアーメドの息子を急病から救ったことで、彼は妹の足を治すことを約束するが……。(Yahoo!映画より)


軽妙なジプシー音楽を背景に展開される青年ベルハンの物語。地元のゴロツキアーメイドに騙され続け人を信じられなくなったベルハンが、幼馴染の妻を失うことで「人を信じられなければ神罰がくだる」という祖母の言葉に立ち戻っていきます。疑いは疑いを呼び、アズラとの息子さえ自分の息子だと信じられなくなるベルハン。最後ベルハンは復讐の道を選び命を落としてしまうのですが、この善人が悪に立ち向かい損をする歯痒さはアンドレイ・ズギャビンツェフ監督の『裁かれるは善人のみ』にも通じるものがありますね。


ベルハンとアズラの結婚式

純粋な人ほど感化されやすい
ベルハンは終始田舎の純朴な青年として描写されます。中2男子のような無邪気さを持つ彼は、足の悪い妹の世話をする心優しい青年。しかし、純粋すぎるがゆえに人を信じやすく、悪に染まりやすく、また騙されやすいという性格も併せ持っている青年です。それゆえに騙されていたことに対する憎しみも純粋なもので、憎悪を飲むこむことなく復讐という路に堕ちてしまう。
純粋であるがゆえに悪に感化されてしまうというのは割と現代でも通じるテーマで、「ハンター×ハンター」の主人公ゴンや「プラチナエンド」の天使ナッセなども純粋であるがゆえの危うさが描写されます。
「どうせみんな悪口言ってるんでしょ…」と常に思ってるぼくのような捻くれた性格の方が、案外平穏なのかもしれません。心の保険ですよ!心の保険!

祖母のりんご飴
要所に登場するのが祖母の作るりんご飴です。家族の長である祖母を象徴しているのもそうですが、同時にりんご飴は人を信じることのアイコンにもなっています。 祖母の「人を信じられなければ神罰がくだる」という言葉がりんご飴に閉じ込められているのです。
ベルハンはアーメイドの許で悪事を働く直前に大量のりんご飴を地面に落とすのですが、これは「信頼」という行為が卑劣に利用されることを暗示しています。
また、ベルハンの死後は遺体の傍にこれまた大量のりんご飴が積まれているのですが、これは一族の中に戻ってきたということを暗示するとともに、ベルハンに欠けてしまった「信頼」を補っているようでもあります。


祭を眺めるベルハンの祖母

箱男と帰属意識
印象的なのがところどころで現れる箱を被って歩く人々(まさに安部公房の箱男)です。特に物語の結末でベルハンの息子が箱を被って走り出すシーンが非常に印象的でした。
箱男の効果と言えば、見られないという匿名性や観測/被観測による自己意識ですが、果たしてこの映画でその解釈が通じるのか否か。

箱に入るという比喩は帰属意識と深く結びついています。自身は一体何の組織に所属するのか、これは旧ユーゴ出身のクストリッツァならではの問題でしょう。母国のなくなったクストリッツァは、帰属する公的な国を持たないジプシー民族とどこか通じるところがあり、そう考えると箱男という表現は帰属意識という問題を提示しているのでしょう。

ベルハンとアズラの無邪気な恋人関係や、ベルハンの妹を守ろうとする姿勢。帰属意識とは国境によって生成されるものではなく、血族(人間関係)にこそその本質がある、とこの作品は訴えかけているようです。


イチャつくベルハンとアズラ

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