こんばんは。先日生誕10000日を迎えたただけーまです。
今回は、ウルリヒ・ザイドル監督の『サファリ』で更新です。
《作品解説》
アフリカの草原。インパラ、シマウマ、ヌー、様々な野生動物が群れている。一方では、白人のハンターたちがジープを走らせ、ブッシュを越え、待機し、ライフルを構える。そして嬉々として獲物を撃つ。人間の根源的な愚かさを鬼才ウルリヒ・ザイドル監督が冷徹に暴き出す、戦慄のドキュメンタリーである。監督によれば、興味を惹かれたのは上流階級の贅沢な趣味としての狩りではなく、一般人のハンターであった。「西側諸国では、一般市民にもアフリカでの狩りが手に届く。何故、彼らは狩りに惹かれ、熱中してしまうのか。やがて殺戮そのものについての映画になっていった。愉悦のために殺すこと。殺戮行為が、まるで感情の解放であるかのようだ」。
(「第29回東京国際映画祭公式サイト」より)
「狩猟」と聞くと、どうしても「人間」による自然の侵略という側面が強くなってしまいがちですが、本作では現代における趣味としての狩猟を通じて、「白人」の傲慢さを訴えるような内容になっています。
サバンナの自然を悪びれもなく蹂躙する白人。そして白人の仕留めた獲物を解体する黒人。それはまさに労使関係における白人と黒人の関係をそのまま表現しているようです。
そして、白人は嗜好品としての毛皮を獲得し、黒人は余った動物の屍肉を日常の食料として消費するという対比構造もまた、白人と黒人との生活水準の差を印象づけています。
そして何より強烈なのが、各カットにおける動物の剥製の眼差しです。趣味で動物を狩にきた白人の客が剥製の前で語るシーンが頻繁に登場するのですが、そこで写される剥製の姿は痛烈に人間を批難しているように映ります。
それは、人種差別や支配構造とは無縁な「自然」という絶対的な視点で、遥かな高みから我々を見下ろしているようではないでしょうか。同種内で序列づける、人類という生物を否定的に見つめる視座です。
監督が着目したのは「一般人のハンター」で、曰く「殺戮行為が、まるで感情の解放であるかのようだ」ということですが、それは普段の生活で抑圧されている鬱憤をアフリカで晴らすという愚行でしょう。
普段凡夫である人々が、狩る側・発注側に回ることで優越感を得るという、どうにもならない人間の矜持なのです。
ホルン(horn=角)四重奏で締められるラストシーンもまたニクい演出です。吹奏しているのは無論全員白人で、ファンファーレのような音楽はそのまま白人の傲慢さにほかなりません。
今回は、ウルリヒ・ザイドル監督の『サファリ』で更新です。
《作品解説》
アフリカの草原。インパラ、シマウマ、ヌー、様々な野生動物が群れている。一方では、白人のハンターたちがジープを走らせ、ブッシュを越え、待機し、ライフルを構える。そして嬉々として獲物を撃つ。人間の根源的な愚かさを鬼才ウルリヒ・ザイドル監督が冷徹に暴き出す、戦慄のドキュメンタリーである。監督によれば、興味を惹かれたのは上流階級の贅沢な趣味としての狩りではなく、一般人のハンターであった。「西側諸国では、一般市民にもアフリカでの狩りが手に届く。何故、彼らは狩りに惹かれ、熱中してしまうのか。やがて殺戮そのものについての映画になっていった。愉悦のために殺すこと。殺戮行為が、まるで感情の解放であるかのようだ」。
(「第29回東京国際映画祭公式サイト」より)
「狩猟」と聞くと、どうしても「人間」による自然の侵略という側面が強くなってしまいがちですが、本作では現代における趣味としての狩猟を通じて、「白人」の傲慢さを訴えるような内容になっています。
サバンナの自然を悪びれもなく蹂躙する白人。そして白人の仕留めた獲物を解体する黒人。それはまさに労使関係における白人と黒人の関係をそのまま表現しているようです。
そして、白人は嗜好品としての毛皮を獲得し、黒人は余った動物の屍肉を日常の食料として消費するという対比構造もまた、白人と黒人との生活水準の差を印象づけています。
そして何より強烈なのが、各カットにおける動物の剥製の眼差しです。趣味で動物を狩にきた白人の客が剥製の前で語るシーンが頻繁に登場するのですが、そこで写される剥製の姿は痛烈に人間を批難しているように映ります。
それは、人種差別や支配構造とは無縁な「自然」という絶対的な視点で、遥かな高みから我々を見下ろしているようではないでしょうか。同種内で序列づける、人類という生物を否定的に見つめる視座です。
監督が着目したのは「一般人のハンター」で、曰く「殺戮行為が、まるで感情の解放であるかのようだ」ということですが、それは普段の生活で抑圧されている鬱憤をアフリカで晴らすという愚行でしょう。
普段凡夫である人々が、狩る側・発注側に回ることで優越感を得るという、どうにもならない人間の矜持なのです。
ホルン(horn=角)四重奏で締められるラストシーンもまたニクい演出です。吹奏しているのは無論全員白人で、ファンファーレのような音楽はそのまま白人の傲慢さにほかなりません。
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