こんばんはー。
今日は割とバイトから早めに帰ってこれましたよー^^
というわけで日記書く!
久しぶりだねー^^
本当は毎日書きたいんだけどね・・・
てか一言で良いなら書けるんだが、
どうしてもいざ書こう!ってなると、中身のあるものを書きたくなってしまう・・・
つまり時間かけたいということですな。
てか読んでくれる人がいる以上、面白い話がしたいんだけど、
いかんせん自分の趣味には偏っちゃうし、
自分の偏見たっぷりの考えを露呈するだけだし、
なかなか難しいよね。
時事ネタとか出すか笑
無知を曝しそうだがwww
まあ、ええわ。
実際無知だし;;
というわけで、今回は編曲云々について興味があるので、
少し考察をしてみたいと思います!
まあ、なんでこの問題に関心が出てきたのかと言うと。
今授業でべとべんの第九の授業を受けてるんですが、
そこで、第九には多様な解釈があると知りまして、
まず要因としては、楽譜のオリジナルが損失しているという点。
実はベートーベンが直接書いた第九は演奏されていなくって、
不確実な写しの譜面しかないわけですね。
それを元にして色々な版が出版されたわけですが、
19世紀にブライトコプフ版というものが流行りまして、
それが一応スタンダードなものとして受容されていました。
今では主に、より系譜上オリジナルに近いベーレンライター版、新ブライトコプフ版というものがあるようです。
音程とか音量とかの指示が異なっていたり、メロディーの楽器が違ったりします。
更に指揮者の好みも加わって、今となっては何千もの第九の録音があり、その多様性は類をみないほどです。
世俗性が高く、明確なテーマであるため、演奏される回数が多いというのも原因の1つでしょう。
実際に、ベルリンの壁崩壊時はバーンスタインがベルリンで指揮を振りました(その際、合唱部分で「歓喜」を「自由」に変えたとか)し、
今回の大震災に際しても、第九によるチャリティーコンサートがあったみたいですね。
そして、「第九」の持つテーマではなく、そのシンボル性にも注目する点があります。
学生で第九とか、下町で第九、といったように、現在では、ある集団でなす目的としての「第九」という側面もあるようです。
あまりにも有名すぎる故の、曲の音楽以外の力ですね。
つまり、第九の受容の仕方として、音楽という側面以外に、メッセージ性(しばしば政治性)やシンボル性という側面もあったようです。
ちなみに、日本における第九ですが、初演は実は面白いところで行われています。
第1次世界大戦時のドイツ人俘虜によるものと言われています。
音大とかじゃないんですよね笑
でも、こうした面も日本における世俗化にはつながってるんですかね?
よくわからないんですが。
そして、第九を演奏する際に問題になったのは、
その楽器の問題。この時代になかった楽器で第九を演奏するのはどうなんだろうと。
古楽器(リコーダーとか)を使用した第九の演奏も試みられたようです。
もちろん楽器も改良していきますから、
この時代のこの楽器ではこの音はこうだったし、
この指示はこうだったし、こうした奏法はこう吹いていたはずだし・・・
といったようなことがなされるわけです。
この運動が音楽の商業化と連動しているのがまた興味深いところでもあります。
結局耳新しいものを求めて色々やってただけなんじゃないの。とか。
つまり、古楽をモダン楽器で演奏していたというということが言えますね。
バッハのチェンバロ協奏曲をピアノで弾くのと同じ現象だと思います。
そして、それは非常に広く受け入れられているわけです。
それが今となってはスタンダードであり、
モダン楽器は今となってはモダンではなくなってしまったということです。
あー・・・いらんことばっかり書いてもうた。
この後は、じゃあ、今のモダン楽器ってなんだろう。
・・・サックスじゃん!!!
ということで、サックスというモダン楽器によって、
サックスが存在しなかった時代の音楽(サックスに対する古楽)を演奏する意味を考えてみたいと思います。
というわけで、また次回ノシ
hona-☆
今日は割とバイトから早めに帰ってこれましたよー^^
というわけで日記書く!
久しぶりだねー^^
本当は毎日書きたいんだけどね・・・
てか一言で良いなら書けるんだが、
どうしてもいざ書こう!ってなると、中身のあるものを書きたくなってしまう・・・
つまり時間かけたいということですな。
てか読んでくれる人がいる以上、面白い話がしたいんだけど、
いかんせん自分の趣味には偏っちゃうし、
自分の偏見たっぷりの考えを露呈するだけだし、
なかなか難しいよね。
時事ネタとか出すか笑
無知を曝しそうだがwww
まあ、ええわ。
実際無知だし;;
というわけで、今回は編曲云々について興味があるので、
少し考察をしてみたいと思います!
まあ、なんでこの問題に関心が出てきたのかと言うと。
今授業でべとべんの第九の授業を受けてるんですが、
そこで、第九には多様な解釈があると知りまして、
まず要因としては、楽譜のオリジナルが損失しているという点。
実はベートーベンが直接書いた第九は演奏されていなくって、
不確実な写しの譜面しかないわけですね。
それを元にして色々な版が出版されたわけですが、
19世紀にブライトコプフ版というものが流行りまして、
それが一応スタンダードなものとして受容されていました。
今では主に、より系譜上オリジナルに近いベーレンライター版、新ブライトコプフ版というものがあるようです。
音程とか音量とかの指示が異なっていたり、メロディーの楽器が違ったりします。
更に指揮者の好みも加わって、今となっては何千もの第九の録音があり、その多様性は類をみないほどです。
世俗性が高く、明確なテーマであるため、演奏される回数が多いというのも原因の1つでしょう。
実際に、ベルリンの壁崩壊時はバーンスタインがベルリンで指揮を振りました(その際、合唱部分で「歓喜」を「自由」に変えたとか)し、
今回の大震災に際しても、第九によるチャリティーコンサートがあったみたいですね。
そして、「第九」の持つテーマではなく、そのシンボル性にも注目する点があります。
学生で第九とか、下町で第九、といったように、現在では、ある集団でなす目的としての「第九」という側面もあるようです。
あまりにも有名すぎる故の、曲の音楽以外の力ですね。
つまり、第九の受容の仕方として、音楽という側面以外に、メッセージ性(しばしば政治性)やシンボル性という側面もあったようです。
ちなみに、日本における第九ですが、初演は実は面白いところで行われています。
第1次世界大戦時のドイツ人俘虜によるものと言われています。
音大とかじゃないんですよね笑
でも、こうした面も日本における世俗化にはつながってるんですかね?
よくわからないんですが。
そして、第九を演奏する際に問題になったのは、
その楽器の問題。この時代になかった楽器で第九を演奏するのはどうなんだろうと。
古楽器(リコーダーとか)を使用した第九の演奏も試みられたようです。
もちろん楽器も改良していきますから、
この時代のこの楽器ではこの音はこうだったし、
この指示はこうだったし、こうした奏法はこう吹いていたはずだし・・・
といったようなことがなされるわけです。
この運動が音楽の商業化と連動しているのがまた興味深いところでもあります。
結局耳新しいものを求めて色々やってただけなんじゃないの。とか。
つまり、古楽をモダン楽器で演奏していたというということが言えますね。
バッハのチェンバロ協奏曲をピアノで弾くのと同じ現象だと思います。
そして、それは非常に広く受け入れられているわけです。
それが今となってはスタンダードであり、
モダン楽器は今となってはモダンではなくなってしまったということです。
あー・・・いらんことばっかり書いてもうた。
この後は、じゃあ、今のモダン楽器ってなんだろう。
・・・サックスじゃん!!!
ということで、サックスというモダン楽器によって、
サックスが存在しなかった時代の音楽(サックスに対する古楽)を演奏する意味を考えてみたいと思います。
というわけで、また次回ノシ
hona-☆
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