仕事柄、美術展やスポーツの観戦チケットを譲り受けることが多いのですが、出光美術館で開催中の「躍動と回帰 - 桃山の美術展」のチケットを手に入れましたので行って参りました。日本美術はなかなか知識がないので楽しめるか不安でしたが、日本美術(陶器)特有の「負の要素を正のイメージに転換」する観念は非常に興味深かったです。
そして、意外と出光美術館への来訪は初!全体的に黒を基調としたモダンな雰囲気で、高級感溢れる館内でした。帝国劇場と同じ建物なので、ビル周辺にはマダムが多かったですね。そして、ここの地下にある「陳家私菜」という中華料理屋の麻婆豆腐が絶品なのでオススメです!
とまあ冒頭の挨拶はこの辺りにしておいて、早速本題の美術展の感想ですが、日本の美意識の思想が窺えて大変良かったです。というか、勉強になりました。全部で9章で構成されていた本展示会ですが、中でも大きく印象に残ったのは前半の狩野派の金屏風と、長谷川等伯の水墨画屏風の対比と、負の構成要素を美へ昇華させる日本陶磁器の美意識です。あとは後半で展示していた南蛮屏風や蒔絵螺鈿を用いた洋式箪笥が煌びやかで素敵でしたね。
長谷川等伯の水墨画
屏風絵と言えば、狩野派や琳派を始めとする金箔が背景を覆う様式のものが真っ先に想起されますが、雪舟や中国水墨画に学んだ長谷川等伯も負けず劣らずの人気を博しました。狩野派が貴族的なのに対し、町人の人気を獲得していった長谷川等伯。その力強い墨の使い方は眼を引くものがあります。
長谷川等伯《竹鶴図屏風 - 右隻》
今回の展示で最も印象深かったのはこの《竹鶴図屏風》という作品。力強い竹とところどころで色を濃くする竹の葉、朝靄に包まれた竹林で鶴が静かに葉を踏みしめる音が聞こえてきそうな静寂感が表現されています。この墨の濃淡による静寂の表現は本当に見事だと思います。自身も竹林に足を踏み入れたかのような臨場感は、流石の等伯といったところでしょうか。
日本陶器の美意識
桃山時代の陶器には独特な美意識があります。それが、「歪み」や「染み」「割れ」など、一般的な美術品としては致命的とも言える「負の要素」を美的に肯定するという美意識です。
欠陥に対する美意識、それは非常に人間的なもののように思います。完全無欠なものが神的であるということは、それがそのまま欠陥性に人間的なものが宿ることになるからです。事実、陶器のわざと残した凹みには、その先に作り手という人間の圧倒的存在が感じられるということもあります。欠陥があれば、それは必ずその作品に手を加えた「負の制作者」が存在しているわけで、そこに人間性を感じることは何ら矛盾が無いのではないでしょうか。
作者不詳《伊賀耳付水指》
では、こうした美意識の想定する完璧なものとは何なのでしょう、という疑問がわいてきます。不完全性に人間的美を見出す桃山美術の意識の中で、完全性とは何を意味していたのか…これは完全に私見になりますが、完全なるものとは自然だろうなと思いいたるわけです。アートの語源はラテン語のアルス(技術)からきているように、芸術の前提には「人の手によるものである」ということが万国共通にあります。それは、現代のコンセプチュアルアートも然り、桃山時代の陶器も然り。逆に言えば、芸術・技術とは、不完全な人間が完全なるものを求める営みとも言えるかもしれません。
完全性(=歪みも染みもない)は自然的であるという考え方は、自然が実に科学的な正確性を持っていることと関係します。こうした自然の緻密性に関しては、例えば雪の結晶であったり、蜜蜂の巣作りあったり、プロペラの最適形状であったりと、日常のいたるところで散見されるものです。これらは自然の規則性(これを科学的法則と言ってしまうのもあれですが)に従った結果なので欠陥、つまり無駄が無い。自然法則には潔癖的とまで言って良いほどに、人間的情緒の一切の捨象が行われるわけです。
マルセル・デュシャンが力学的に最適なプロペラの形状に美的価値を発見したように、自然の法則の孕む完全性は実に非人間的なものなのです。そして、そうした非人間的なものを求めてしまうのが技術・芸術の根幹であり、その完全性への欲求という根源的な本能とは逆行する桃山時代の不完全性への希求とは、実に理性的で人間的な美意識のように感じられるのでした。
ダメンズにはまる女性や悪女にひっかかる男性も、そういう人間臭さに魅力を感じるのでしょうか…などと現代の男女関係と桃山美術に共通性を見るシルバーウィークの初日なのでした。
そして、意外と出光美術館への来訪は初!全体的に黒を基調としたモダンな雰囲気で、高級感溢れる館内でした。帝国劇場と同じ建物なので、ビル周辺にはマダムが多かったですね。そして、ここの地下にある「陳家私菜」という中華料理屋の麻婆豆腐が絶品なのでオススメです!
とまあ冒頭の挨拶はこの辺りにしておいて、早速本題の美術展の感想ですが、日本の美意識の思想が窺えて大変良かったです。というか、勉強になりました。全部で9章で構成されていた本展示会ですが、中でも大きく印象に残ったのは前半の狩野派の金屏風と、長谷川等伯の水墨画屏風の対比と、負の構成要素を美へ昇華させる日本陶磁器の美意識です。あとは後半で展示していた南蛮屏風や蒔絵螺鈿を用いた洋式箪笥が煌びやかで素敵でしたね。
長谷川等伯の水墨画
屏風絵と言えば、狩野派や琳派を始めとする金箔が背景を覆う様式のものが真っ先に想起されますが、雪舟や中国水墨画に学んだ長谷川等伯も負けず劣らずの人気を博しました。狩野派が貴族的なのに対し、町人の人気を獲得していった長谷川等伯。その力強い墨の使い方は眼を引くものがあります。
長谷川等伯《竹鶴図屏風 - 右隻》
今回の展示で最も印象深かったのはこの《竹鶴図屏風》という作品。力強い竹とところどころで色を濃くする竹の葉、朝靄に包まれた竹林で鶴が静かに葉を踏みしめる音が聞こえてきそうな静寂感が表現されています。この墨の濃淡による静寂の表現は本当に見事だと思います。自身も竹林に足を踏み入れたかのような臨場感は、流石の等伯といったところでしょうか。
日本陶器の美意識
桃山時代の陶器には独特な美意識があります。それが、「歪み」や「染み」「割れ」など、一般的な美術品としては致命的とも言える「負の要素」を美的に肯定するという美意識です。
欠陥に対する美意識、それは非常に人間的なもののように思います。完全無欠なものが神的であるということは、それがそのまま欠陥性に人間的なものが宿ることになるからです。事実、陶器のわざと残した凹みには、その先に作り手という人間の圧倒的存在が感じられるということもあります。欠陥があれば、それは必ずその作品に手を加えた「負の制作者」が存在しているわけで、そこに人間性を感じることは何ら矛盾が無いのではないでしょうか。
作者不詳《伊賀耳付水指》
では、こうした美意識の想定する完璧なものとは何なのでしょう、という疑問がわいてきます。不完全性に人間的美を見出す桃山美術の意識の中で、完全性とは何を意味していたのか…これは完全に私見になりますが、完全なるものとは自然だろうなと思いいたるわけです。アートの語源はラテン語のアルス(技術)からきているように、芸術の前提には「人の手によるものである」ということが万国共通にあります。それは、現代のコンセプチュアルアートも然り、桃山時代の陶器も然り。逆に言えば、芸術・技術とは、不完全な人間が完全なるものを求める営みとも言えるかもしれません。
完全性(=歪みも染みもない)は自然的であるという考え方は、自然が実に科学的な正確性を持っていることと関係します。こうした自然の緻密性に関しては、例えば雪の結晶であったり、蜜蜂の巣作りあったり、プロペラの最適形状であったりと、日常のいたるところで散見されるものです。これらは自然の規則性(これを科学的法則と言ってしまうのもあれですが)に従った結果なので欠陥、つまり無駄が無い。自然法則には潔癖的とまで言って良いほどに、人間的情緒の一切の捨象が行われるわけです。
マルセル・デュシャンが力学的に最適なプロペラの形状に美的価値を発見したように、自然の法則の孕む完全性は実に非人間的なものなのです。そして、そうした非人間的なものを求めてしまうのが技術・芸術の根幹であり、その完全性への欲求という根源的な本能とは逆行する桃山時代の不完全性への希求とは、実に理性的で人間的な美意識のように感じられるのでした。
ダメンズにはまる女性や悪女にひっかかる男性も、そういう人間臭さに魅力を感じるのでしょうか…などと現代の男女関係と桃山美術に共通性を見るシルバーウィークの初日なのでした。
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