こんばんは。
とうとう卒論提出まで1カ月を切りました。
さっき、最後のバイトを終えて帰宅したので、残りは卒論と練習をするだけです!
さて、ちょっと今回は個人的に取り組んでいる卒論にまつわる記事を書きたいと思います。
ぼくは大学で美学芸術学という学問を専攻しているのですが、卒業論文で〈記録芸術の会〉という芸術家集団について調べています。
同会に所属していた勅使河原宏という映画監督を中心に当時の記録概念を調べてるんですが。
勅使河原宏が無名すぎて若い人には誰にも伝わりません!笑
なので、彼の作品がいかに芸術性にあふれているかを力説したいがための記事です。
まずは、このPVをごらんください。
"Tanin no kao" ("The Face Of Another") - Teshigahara Hiroshi [1966] - Trailer
当時のトレーラーが現代人の感覚と離れすぎて(文字の入れ方とか)少し苦笑してしまいますが。
ぼくはこの映画を契機として芸術に傾倒していったので、結構思い入れのある作品です。
自分の中での芸術の原風景がこの映画なんですね。
脚本を安部公房、音楽が武満徹、という日本屈指の芸術家の協働がなされた作品です。
そして、二人に比べるとあまり知られていませんが、勅使河原宏という監督ももっと注目されるべき監督なんですよ~
東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業してますし、華道草月流の家元でもあった彼は、潜在的に高い芸術性を兼ね備えていた人物なんです。
自身の表現ツールを、日本画、油画、映画というように変えていった人物で、多様な経験が彼の芸術活動に活きています。
勅使河原の芸術活動の根幹にあるのが原爆体験によるカタストロフィーで。
多くの作品で原爆についての言及がされています。
この映画では、ケロイドの娘(原爆乙女)の日常にスポットを当ててますね。
本編とは全く違う形で原爆乙女を登場させてしまうあたり、型にはまらない勅使河原らしい製作方法です。
絵コンテも用意しないみたいですしね。
師は記録映画作家として有名な亀井文夫で、勅使河原も記録的手法をとっています。
日常性にスポットを当て、一般認識とは少しずらすことで、真の現実性を獲得しようとする彼の手法は実にピカソの多面的視点を思わせます。
実際、彼が日本画から油画に転向した主な理由が西欧のアヴァンギャルドでしたからね。
このトレーラーの台詞からもわかるように、非常に社会的なシナリオですよね。
ものっすごい安部公房らしい言い回しです。特に二つ目。
「文明の条件は、夜でも灯りを絶やさないことだそうだね。しかし、顔のない人間が自由になれるのは、闇が世界を支配したときだけだ。」
「仮面がなじんでいくにつれて、貴方は他人になる。完全に未登録な誰でも無い人間になる。いわば心理的な透明人間になる。」
安部文学は本当にメタファーの塊というか、何かを暗示している文章が多いですね。
そして、この他人になるというのも、意味深な変身。
キリスト教的「隣人」とは違う「他人」になるということは一体どういうことなのか。
安部の変身譚は色々語られていて面白いトピックなので、また後で扱えたらいいなぁ・・・
ちなみに最近発見された「天使」という小説も変身譚らしいですね。
早く読んでみたいですわ~。
そして、映画音楽を担当した武満徹!
「ノヴェンバー・ステップス」よりは前の作品ですね。
ですが、この「他人の顔」の音楽は武満の映画音楽としては珍しく単体の作品としても通用するものなんです。
武満の「三つの映画音楽」という作品に採用されてるぐらいですからね。
トレーラーの前半部分は、実に当時の映画音楽らしい音響ですが。
ぼくがものすごく好きなのが、後半で流れるワルツ!
劇的というか、なんというか。一気に映画に引き込まれるような旋律ですね。
よくクルト・ヴァイル(作曲家)が書いたようなドイツ風ワルツとか言われてるみたいです。
勅使河原の作品って総合芸術としての映画の高みにある気がするんですよねー。
まあ、最初の「芸術」体験がこれだったのでひいき目に観てるかもしれないですけど笑
〈記録芸術の会〉って様々なジャンルの芸術家が集って、協働を企てていた集団で、実にうちの学科らしいテーマだなぁと最近思います。
あと一カ月ないですが、提出できるように頑張ります・・・
hona-☆
とうとう卒論提出まで1カ月を切りました。
さっき、最後のバイトを終えて帰宅したので、残りは卒論と練習をするだけです!
さて、ちょっと今回は個人的に取り組んでいる卒論にまつわる記事を書きたいと思います。
ぼくは大学で美学芸術学という学問を専攻しているのですが、卒業論文で〈記録芸術の会〉という芸術家集団について調べています。
同会に所属していた勅使河原宏という映画監督を中心に当時の記録概念を調べてるんですが。
勅使河原宏が無名すぎて若い人には誰にも伝わりません!笑
なので、彼の作品がいかに芸術性にあふれているかを力説したいがための記事です。
まずは、このPVをごらんください。
"Tanin no kao" ("The Face Of Another") - Teshigahara Hiroshi [1966] - Trailer
当時のトレーラーが現代人の感覚と離れすぎて(文字の入れ方とか)少し苦笑してしまいますが。
ぼくはこの映画を契機として芸術に傾倒していったので、結構思い入れのある作品です。
自分の中での芸術の原風景がこの映画なんですね。
脚本を安部公房、音楽が武満徹、という日本屈指の芸術家の協働がなされた作品です。
そして、二人に比べるとあまり知られていませんが、勅使河原宏という監督ももっと注目されるべき監督なんですよ~
東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業してますし、華道草月流の家元でもあった彼は、潜在的に高い芸術性を兼ね備えていた人物なんです。
自身の表現ツールを、日本画、油画、映画というように変えていった人物で、多様な経験が彼の芸術活動に活きています。
勅使河原の芸術活動の根幹にあるのが原爆体験によるカタストロフィーで。
多くの作品で原爆についての言及がされています。
この映画では、ケロイドの娘(原爆乙女)の日常にスポットを当ててますね。
本編とは全く違う形で原爆乙女を登場させてしまうあたり、型にはまらない勅使河原らしい製作方法です。
絵コンテも用意しないみたいですしね。
師は記録映画作家として有名な亀井文夫で、勅使河原も記録的手法をとっています。
日常性にスポットを当て、一般認識とは少しずらすことで、真の現実性を獲得しようとする彼の手法は実にピカソの多面的視点を思わせます。
実際、彼が日本画から油画に転向した主な理由が西欧のアヴァンギャルドでしたからね。
このトレーラーの台詞からもわかるように、非常に社会的なシナリオですよね。
ものっすごい安部公房らしい言い回しです。特に二つ目。
「文明の条件は、夜でも灯りを絶やさないことだそうだね。しかし、顔のない人間が自由になれるのは、闇が世界を支配したときだけだ。」
「仮面がなじんでいくにつれて、貴方は他人になる。完全に未登録な誰でも無い人間になる。いわば心理的な透明人間になる。」
安部文学は本当にメタファーの塊というか、何かを暗示している文章が多いですね。
そして、この他人になるというのも、意味深な変身。
キリスト教的「隣人」とは違う「他人」になるということは一体どういうことなのか。
安部の変身譚は色々語られていて面白いトピックなので、また後で扱えたらいいなぁ・・・
ちなみに最近発見された「天使」という小説も変身譚らしいですね。
早く読んでみたいですわ~。
そして、映画音楽を担当した武満徹!
「ノヴェンバー・ステップス」よりは前の作品ですね。
ですが、この「他人の顔」の音楽は武満の映画音楽としては珍しく単体の作品としても通用するものなんです。
武満の「三つの映画音楽」という作品に採用されてるぐらいですからね。
トレーラーの前半部分は、実に当時の映画音楽らしい音響ですが。
ぼくがものすごく好きなのが、後半で流れるワルツ!
劇的というか、なんというか。一気に映画に引き込まれるような旋律ですね。
よくクルト・ヴァイル(作曲家)が書いたようなドイツ風ワルツとか言われてるみたいです。
勅使河原の作品って総合芸術としての映画の高みにある気がするんですよねー。
まあ、最初の「芸術」体験がこれだったのでひいき目に観てるかもしれないですけど笑
〈記録芸術の会〉って様々なジャンルの芸術家が集って、協働を企てていた集団で、実にうちの学科らしいテーマだなぁと最近思います。
あと一カ月ないですが、提出できるように頑張ります・・・
hona-☆
まだ読んでくれてたんだね!うれしみ^^
おお、最近小説読まなくなってしまってそれ両方とも読んでない・・・
「天使」は早く読んで、安部の変身譚の記事にして書きたい!
でもソツロンが・・・笑